本名=河上 肇(かわかみ・はじめ)
明治12年10月20日—昭和21年1月30日
享年66歳(天心院精進日肇居士)
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30 法然院(浄土宗)
経済学者。山口県生。東京帝国大学卒。大正2年ヨーロッパに留学。帰国後京都帝国大学教授。5年大阪朝日新聞に『貧乏物語』を連載。その後マルクス主義に立ち、個人雑誌『社会問題研究』を発行。経済学者として多くの著作を発表。昭和8年検挙され、12年まで獄中生活。『資本論入門』『自叙伝』などがある。

牢を出たらどうして暮すつもりぞと もし人の問ふあらば
私はこの世のどこかの隅で もう何程もない余生をぱ
どうか人類の邪魔にならぬやう 静かに過ごさして貫ふつもりだと答ふべし
そを聞きて地獄の悪魔たちは 何といふ生き甲斐のなき話だと
ののしり合ひて唾を吐かむも 久方の雲居にありては
天便うちつどひて静かに花をまきつつ あはれつゝましきこゝろかな
いとかたき道をこそ選みたるものかなと 声をそろへてほめたたふべし
さもあらぱあれかげろふの 消えてあとなき身にしあれど
今もなほわれは依然として かのフローレンスの古への
偉大なる詩人の格言を守る 汝の道を歩め
そして人々をその言ふに任せよ
いまはたゞ世の妨げとなるまじと祈りて暮さむ身とはなりぬる
苔清水あるかなきかに世を経むとよみいでし人のいのちしのばゆ
(獄中書簡より)
大阪朝日新聞に連載した貧困をテーマに経済学を論じた『貧乏物語』は、大正デモクラシーの風潮の中にあってベストセラーになり、河上肇の名を一躍有名にした。しかし、また一方では「現実的ではない」という痛烈な批判も浴びたのだった。
最後まで学問的信念を貫き、家族とともに戦った河上肇は経済学者であり、思想家であった。そして何よりも先ず詩人であった。
共産党員として投獄され、出獄後まもなく太平洋戦争が始まった。戦争に反対し心を痛めた彼の体は、戦後の食料不足と老いのためすでに余力を残してはいなかった。終戦5か月後の年明け、昭和21年1月30日、栄養失調と肺炎のため清廉潔白、類い希な66年の生涯を終えた。
東山・銀閣寺にも近い、疎水沿いの小径は、河上肇や「京都学派」の西田幾多郎、田辺元らが思索に耽りながら散策したという話から地元住民の運動で「哲学の道」と名付けられ親しまれている。
——疎水沿いの物情静かなこの地に屍を埋めたいとの河上肇の願いも、貧乏な自分にはとても無理なことだとあきらめていたのだったが、門下生たちの必死の奔走によってどうにか叶えることができた。また、法然院には河上肇の墓があると誇りにし、谷崎潤一郎が望んだというこの墓地の阿育王塔裏、赤松のもとに、道祖神の趣にも似た和らかな墓碑が土苔の上にふんわりと乗っかっていた。
——〈すべての学者は文学者なり。大なる学理は詩の如し〉。
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