本名=金子テル(かねこ・てる)
明治36年4月11日—昭和5年3月10日
享年26歳(釈妙春信尼)
山口県長門市仙崎今浦町1776 遍照寺(浄土真宗)
童謡詩人。山口県生。大津高等女学校(現・大津緑洋高等学校)卒。大正末期から昭和初期にかけての童謡詩人。512編もの詩を綴り、西條八十からは若き童謡詩人の中の巨星と賞賛されもしたのだが、夭折後、作品は散逸してしまった。のちに矢崎節夫の努力によって遺稿集が発見され、昭和54年『金子みすゞ全集』が刊行された。

私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
(私と小鳥と鈴と)
放埒な女性関係に加えてあろうことか性病を感染させられるなどしたうえに、詩人仲間との文通や詩誌への投稿まで禁じる夫に絶望したみすゞは、昭和5年2月、ついに離婚することになる。しかし離婚の話し合いがすすむうちに子供の親権を巡っての苦境から自殺を決意。死の前日に写真館で写真をとり、その夜、数通の遺書を書いた。
〈今夜の月のように私の心も静かです〉。3月12日、『防長新聞』に小さな記事が載った。
〈下関西南部町上山書籍店同居人大津郡仙崎町生れ金子てる(二十八)は十日午後一時頃カルチモンを飲み自殺を遂げた。てるは同店員宮本某と内縁を結んでゐたが捨てられたのをひかんしたためである。〉事実ではなかったが、時代の生んだ記事ではあった。
昭和3年秋、三冊の手帳に清書された遺稿集、正、副二部の詩集は、西條八十とみすゞの実弟で劇団若草の創始者上山雅輔に送られた。雅輔の手元にあったものが、50余年を経て矢崎節夫氏に渡り、キラキラと蘇ることになったのだが、その雅輔は平成元年4月11日、みすゞの誕生日に胸腔内出血のため急死した。
——風の強い雨上がりのある日、山間の線路道を走る電車を乗り継ぐと、やがて美しい港のある町に着いた。仙崎という小駅の前をまっすぐにのびる道。右左にみすゞの詩碑がはめ込まれているこの道を辿ると、遍照寺がある。「先祖累代納骨墓」、側面に金子テル子、上山正祐(雅輔の本名)の名が刻まれた斑模様の石の前に、白い百合の花と瑞々しいしきびが静かに光っていた。
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