加藤楸邨 かとう・しゅうそん(1905—1993)


 

本名=加藤健雄(かとう・たけお)
明治38年5月26日—平成5年7月3日 
享年88歳(智楸院達谷宙遊居士)❖楸邨忌 
東京都世田谷区奥沢7丁目41–3 浄真寺(浄土宗)



俳人。東京府生。東京文理科大学(後の東京教育大学、現・筑波大学)卒。秋櫻子に師事する。中村草田男らと共に「人間探求派」と呼ばれた。昭和15年『寒雷』を創刊・主宰。芭蕉の研究で『芭蕉秀句』がある。句集『まぼろしの鹿』で蛇笏賞受賞。句集に『穂高』『野哭』『まぼろしの鹿』『雪起し』などがある。






 

鰯雲人に告ぐべきことならず 

その冬木誰もみつめては去りぬ

寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃    

長き長き春暁の貨車なつかしき 

露の中万相うごく子の寝息       

死ねば野分生きてゐしかば争へり

雉子の眸のかうかうとして売られけり  

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ  

落葉松はいつめざめても雪降りをり   

百代の過客しんがりに猫の子も   

 


 

 昭和14年『俳句研究』でおこなわれた中村草田男、石田波郷、加藤楸邨、篠原梵の「新しい俳句の課題」という座談会で、司会の山本健吉の問いに楸邨は〈俳句における人間の探求〉が四人共通の傾向であると答えた。その時以後、楸邨らは「人間探求派」と呼ばれ、「人間的存在の真実」の表現を追求していった。
 44年に波郷が逝き、56年に師・水原秋櫻子が、58年には草田男も逝った。61年に妻知世子を亡くしてからは衰えが目立ちはじめ、平成5年、浮腫の為の入院中におこした心不全は車いすで散歩できるまでに回復したのであったが、6月27日、突然意識不明になり意識が戻らないまま7月3日に永眠した。



 

 色という色のそげ落ちた冬の朝。九品仏浄真寺墓地の奥隅に〈冬の樹木はわたしのもっとも好きなものの一つだが、あのおとせるものは一切落としきってしまった姿が何とも清潔で好もしいのである〉と断じた楸邨の眠る「加藤家之墓」が蕭々としてあった。
 傍らには〈落葉松はいつめざめても雪降りをり 楸邨〉、〈紅の花枯れし赤さはもうかれず 知世子〉と刻まれた夫婦の句碑が建っている。その背後には、大きく枝を広げた桜木が今か今かと春の陽を待ちわびているようだったが、あと2か月もすれば枯れ落ちた枝々には薄桃色の花弁が今は盛りと咲き誇り、寒々として凍りついたようなこの碑面にもひらひらと鮮やかに舞い降りくることだろう。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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