川端康成 かわばた・やすなり(1899—1972)


 

本名=川端康成(かわばた・やすなり)
明治32年6月14日—昭和47年4月16日
享年72歳(大通院秀誉文華康成居士)❖康成忌 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園5区0側82号



小説家。大阪府生。東京帝国大学卒。大正10年発表の『招魂祭一景』で菊池寛に評価された。13年横光利一らと『文藝時代』を創刊、新感覚派の作家として注目された。15年『伊豆の踊り子』を発表。その後、『浅草紅団』『雪国』『千羽鶴』『山の音』などを発表。昭和43年ノーベル文学賞を受賞した。






 

 梶井基次郎氏が死んでから既に三年、明後日は古賀春江氏の四七日であるが、私は二人についてまだ書けない。それゆゑに悪い友だとは、夢思はぬ。芥川氏も「或旧友へ送る手紙」に、「僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。」と書いてゐるが、死についてつくづく考へめぐらせば、結局病死が最もよいといふところに落ちつくであらうと、想像される。いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い。梶井氏も吉賀氏も隠遁的な世渡り方ながら、実は激しい野心に燃えてゐたらうし、無類の好人物と見ながら、二人とも、なかんづく梶井氏は、或は悪魔にもつかれてゐたらうけれども、いちじるしく東洋、または日本じみてゐた彼等は、その死後に私の追憶記など期待してゐなかつたであらう。吉賀氏も自殺を思ふこと、年久しいものがあつたらしい。死にまさる藝術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のやうだつたさうだが、これは西洋風な死の讃美ではなくて、寺院に生れ、宗教学校出身の彼に、深くしみこんでゐる佛教思想の現れだと、私は解くのである。
                                                               
  (末期の眼)

 


 

 満1歳で父が死んだ。2歳で母が死んだ。祖母と姉は6歳の時、祖父は14歳の時に死んだ。康成は、いやおうなく天涯の孤独感を味わうことになった。あっけなく滅んで行く血族を目の当たりにして、追えば追うほど逃げていく永遠を考えることは捨てた。冷徹なその「末期の眼」は康成の死の瞬間まで、人の世の生と死の深淵を突き刺していく。
 日本人で初めてのノーベル文学賞を受賞した4年後の昭和47年4月16日、散歩に行くといって自宅を出た。仕事場にしていた逗子小坪のマンションの一室でガス管をくわえて自殺しているのが発見された。なぜ死ななければならなかったのか、死後色々な因が取り沙汰されたが、答えはいまだもってない。



 

 幼くして次々と血縁を失ってきた川端康成はまた、数多くの友人知人の追悼文を書いてきた。終戦2日後に死んだ島木健作の追悼にはこう書いた。
 〈私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終ったと、今は感じられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとはおもはない〉。
 古都鎌倉・朝比奈峠の丘陵地帯にあるこの大霊園の最上段の台地、おびただしい墓石群が谷底からせりあがってくる。この山の空は色を失った梅雨時期独特の厚い雲にぴったりと塞がれていた。川端家墓所の五輪塔、東山魁夷画伯の筆になる「川端家之墓」、墓誌、石灯籠、すべてがうら寂しい。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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