本名=金子雄太郎(かねこ・ゆうたろう)
明治9年11月30日—昭和26年3月30日
享年74歳
東京都台東区谷中5丁目4–2 明王院(新義真言宗)
歌人。東京府生。東京府立尋常中学校(現・日比谷高等学校)中退。明治6年落合直文の浅香社に入り、和歌革新運動に参加。一時自由律短歌も試みた。30年『新声』の和歌選者となり薫園と号した。36年『白菊会』を結成。歌集に『片われ月』『叙景詩』『わがおもひ』『覚めたる歌』などがある。

あけがたのそゞろありきにうぐひすのはつ音きゝたり藪かげの道
わが世をばおもひわづらふ柴の戸に梅が香さむき片われの月
母のため植ゑし小萩もをれふして御墓のまがき秋くれむとす
ひとむらの芙蓉のはなにかぜ見えててらのあさ庭ひよ鳥のこゑ
花ちる夜ふと目とづれば美しき群よ遠よりよらむとすらし
冬の土わがこゝろはたそこばくの荒びをのこし一月に入る
あゝかくて生くべき今日の日に入りぬ、眩しかる陽に耳鳴りのする
神田淡路町に江戸っ子として生まれた金子薫園だが、幼時から体が弱く学齢に達しても通学が叶わなかったほどであった。
終始、落合直文に倣った平淡な温雅さを滲ませた詠風であったが、昭和5年には自由律短歌に走り、一部の人たちから非難もされた。北村透谷から始まった恋愛至上主義に反発して自然詠を主としたり、自然主義運動や新興短歌運動の影響を受けたりとそれぞれの時代、時流に変化を見せながらも人生の哀歓、都市の叙景を好んで歌い、和歌の普及に貢献した。
書画骨董にも造詣が深く、小川芋銭や川合玉堂、竹村栖鳳らの画家たちも集ったが、晩年は離れて閑居、昭和26年3月30日、74歳で没した。
東京谷中は寺町である。
寛永寺の子院があったうえに明暦の大火で焼失した寺院が移転してきた。谷中霊園から団子坂下に下っていくさんさき坂近辺にも詩人立原道造の墓所多宝院、山岡鉄舟や三遊亭円朝、詩人菅原克己の墓所全生庵、戯作者仮名垣魯文の墓所永久寺など大小様々な寺が点在する。
金子薫園の墓所、明王院はその中のひとつである。新しい大師堂は新しい朝の清冽な陽差しに輝いていたが、本堂裏に区画も判然としない暗灰色に染まった墓域があった。戦災にあったかのように煤けた碑面に「金子累代之墓」の文字刻がかろうじて読めるが、薫園の名はどこにも見当たらない。目の前には葉をなくした銀杏の木幹が、暗さを突き破るように淡緑青色の空に伸びていた。
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