心に残る友との思い出
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心に残る友との思い出

2021.02.18. 修復

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目次
はじめに
1.ヤマ   親しくなった時:1946年 10歳 小学4年
2.イヌ   親しくなった時:1948年 12歳 小学6年   没:2016年
3.イナ   親しくなった時:1948年 12歳 小学6年   没:1998年
4.ミナ   親しくなった時:1948年 17歳 高校2年   没:2019年
5.ミヤ   親しくなった時:1953年 17歳 高校2年 
6.タケ   親しくなった時:1955年 19歳 大学1年   没:2017年
7.ハト   親しくなった時:1955年 19歳 大学1年 
8.ノダ   親しくなった時:1955年 19歳 大学1年   没:1991年
9.ノナ   親しくなった時:1955年 19歳 大学1年   没:1971年
10.ハマ 親しくなった時:1955年 19歳 大学1年   没:2019年
11.ハマ 親しくなった時:1962年 26歳 医師1年目
12.モリ 親しくなった時:1962年 26歳 医師1年目  没:2003年
13.マツ 親しくなった時:1995年 59歳 開業23年目
14.アカ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目
15.イケ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目
16.イノ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目
17.ゴダ 親しくなった時:2010年 74歳 退職5年目  没:2011年
おわりに

はじめに

昨年二人の旧友がこの世を去った。生あるもののさだめとは言え寂しい。同い年の親友のほとんどがこの世に居ない。保存してきた郵便物を整理していると、懐かしい文面に惹かれ、友との思い出を書き残して置きたくなった。

目標とする読者は誰かと言えば、誰のために記録するのかに書いたように、まず「自分のため」、次いで「妻のため」「家族のため」、最後が「他人のため」である。

思い出を書き残してどのような意味があるのかと問われても、未来に於いて役立つことがあるかも知れないと言う程度しか言えない。記録に残すというのは人間の性、宿命ではないかと言う気がする。

心に残る友との思い出を紹介する順序は、その人と親しくなった時の私の年齢順とし、友の名前は略称名とした。

略称名は、整理番号に姓のカタカナの前2字を付けたものを考案した。

思い出として、交わした手紙やメールの転記、私のサイトに掲載している記事の転載、写真などを用いた。ただし、1.ヤマ と 15.イケ の2件を除いて名前を実名でなく略称名に変えた。


1.ヤマ 親しくなった時:1946年 10歳

太平洋戦争敗戦の翌年、彼と私は小学校の同級生で、家が近く、食事と寝るとき以外は常に一緒に行動して遊ぶ友だちだった。

10歳のころの遊び

1.はじめに

現在4歳の孫娘を、誕生から観察してきて一番驚いたことは、こどもが「遊ぶ」エネルギーのすさまじさであった。昨春、幼稚園に入園してからは、私ども祖父母のところへ来る回数は週1回程度に減ったが、5時間、8時間、10時間とぶっ通しで遊び続け、休むことをしない。遊び疲れて眠ってしまうこともない。まこと、昨年の大河ドラマ「平清盛」のテーマ曲「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ」である。

そこから、自分の幼児のころの遊びを思ってみたが、もちろん分かるはずがない。しかし、小学4年生の1年間は、ひたすら遊んだことを覚えている。その時に受け持っていただいた恩師とクラスメートの話からも、それは間違っていないようだ。

孫とは遊びの種類は違うが、私にも遊びに没頭した時期があった。それを記録に残しておこうと思う。

2.遊びに明け暮れた10歳

小学4年庄野学級

1945年(昭和20年)3月から神戸に空襲が始まり、私たち小国民は田舎へ疎開し、そこで8月15日の敗戦の日を迎えた。私が神戸に戻ったのは翌年である。

昭和21年の正月に、両親や妹弟のいる神戸に帰ってきた。神戸はほとんどが焼け跡で、その中にバラックが点在し、闇市がにぎわい、浮浪者や浮浪児が満ちあふれていた。進駐軍におびえ、パンパンに嫌悪感を抱き、雨上がりの夜、焼け跡の片隅で青い火の燃えるのが恐ろしく、逃げだしたことを覚えている。あれは、死体から出た燐が光っているのだと聞かされていた。

世の中は、そのような荒れ果てた状態だったが、親元に戻れた嬉しさは、何にも勝る思いで、喜々として毎日が過ぎて行った。ラジオから流れてくる音楽は、戦時中の軍歌とは違って、甘く、心をひきつけるものが一杯で、これをむさぼるように聞いた。

(以上、「歌と思い出」から抜粋)

3年生まで国民学校だったのが、4年から小学校に名前が変わった。4年は男子組、女子組、男女組の3クラスがあり、私は男女組で、担任は庄野千鶴子先生だった。あとから分かったのだが、私たちのクラスは男女共学のテストケースだった。阪神間の小学校の先生がたくさん授業見学に来られることが多かったのは、そのせいだったようだ。

山下哲男君といつも一緒

この小学4年の1年間、学校と食事と寝るほかは、ひたすら遊んでいた。そのときは、必ずと言ってよいほど、山下哲男君という相棒と一緒で、そのことを受け持ちの庄野先生や当時のクラスメートが覚えているのをクラス会で知った。庄野学級のクラス会は、小学4年より56年目の2002年から毎年行われ、10名以上が参加している。

彼とは、家がどちらも同じ兵庫県の公舎で、通学途中はもちろん、放課後も、家に帰ってからも、常に一緒に行動(遊び)をしていた。食事と寝るときを除いて、いつも一緒にいたような気がする。

彼はクラスで背が一番高くスポーツ万能だった。私はその頃から生意気だったので、6年生によくいじめられたが、彼はかばってくれたり、助けてもくれた。彼自身は、「気は優しくて力持ち」の温厚な性格だった。私はその頃から、何度も喧嘩をしてきたが、彼とは一度もしていない。

高校が別だったせいもあり、高校に入った頃から疎遠になってしまった。しかし、何かのきっかけで思い出すと、つい名前が出てしまうので、会ったこともない妻も、彼の名前を良く知っている。2002年に、55年ぶりでクラス会を持つことになったとき、一番会いたいと思ったのが彼、山下哲ちゃんだった。

そのクラス会で、クラスメートから、山下哲ちゃんといえば私、私と言えば山下哲ちゃんを思い出すと言われた。また、「哲ちゃん、野村さんに会えて恋人に会ったくらい嬉しいでしょう?」と尋ねられたりもした。それに対して、哲ちゃんは「恋人以上や」と即答していたが、私もそれに近い気持だった。

先生に赤鬼青鬼のあだ名をつけられていた!

庄野先生に、「あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼」とあだ名をつけておられたそうだ。その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していたと、ニコニコ笑って話される。「鬼」にされていたとは知らなかったが、愉快だった。

どんな悪いことをしていたのかというと、横山学級という男子だけのクラスを相手に、よく喧嘩をしていたらしい。そう言えば、そのクラス全員と喧嘩した記憶がある。馬場君は、私が横山学級の誰かの頭に、チューインガムを塗りつけたと言えば、先生は、悪いことをするくせに、叱られるとポロポロ涙を流す「鬼」さんだったと、笑われるのだった。

(以上、小学4年庄野学級より抜粋)

第1回のクラス会で、庄野先生は当時山下哲ちゃんと私に「赤鬼青鬼」と言うあだ名をつけていたと話された。そして、この赤鬼と青鬼は鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動して、いたずらをくりかえしていたとも言われた。確かに私たち二人は仲良しで、いたずらや喧嘩をよくしていたのは覚えているが、鬼にされていたと知らなかった。

第3回のクラス会で、先生からこの「赤鬼青鬼」について、もう少し詳しい説明をいただいた。先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、その中に出てくる「赤ノッポ青ノッポ」という小学生の鬼たちに、私たちがとても良く似ていたらしい。そこで「赤ノッポ青ノッポ」から「赤鬼青鬼」というあだ名をつけられたということだった。また、赤鬼(赤ノッポ)は私、青鬼(青ノッポ)は哲ちゃんだということも教わった。

赤鬼青鬼と言われて、やっぱり昔から悪餓鬼だったのかと苦笑していたのだが、それが先生お気に入りの絵本のキャラクターだと知って、なんだか出世した気分になった。

「赤ノッポ青ノッポ」はどんな絵本かをWeb検索してみると、それは、かなり有名な絵本のようだった。1934年に東京・大阪朝日新聞に連載された絵物語がまとめられ、鈴木仁成堂から単行本として出版されたもので、童画作家武井武雄という人の作品である。(図1)


図1.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 表紙

あらすじは、桃太郎の121代目の今野桃太郎から、その昔桃太郎に征服された鬼が島の村長のところへ招待の手紙が届いたので、2匹の鬼が日本にやって来て、小学校に入学して、珍騒動をくり返す生活風景を、ユーモラスに描いている。物語は4コマ単位の積み重ねによって構成されている。(図2)


図2.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 第1ページ

(以上、現役最後のクラス会より抜粋)

クラス会でお会いする度に、庄野先生は「あなた達は、ほんとに仲が良かったね、二人で悪いことばかりするので、青鬼赤鬼とあだ名を付けていたのよ。知らなかったでしょう。この鬼は「青ノッポ赤ノッポ」という絵本に出てくるの。」と、これまで、毎回お聞きしたことを話される。二人を見ると、条件反射的に連想されるのだろう。ただ、ちょっと良いことも言って下さった。「あなた達は、いたずらはするけど、正義感があって、弱いものいじめはしなかったね」

そこで、二人は口を揃えて、「そうです、弱いものいじめをしたことはありません。家に帰っても上級生とばかり喧嘩をしていました」と得意になって答えたものだ。

おまけに、「横山学級全部を相手によく喧嘩をしたけれど、あれは男女共学で仲良くしている私たちを嫉んで、いろいろチョッカイを出して来たのだと思います」とまで付け足した。

そうしたら、先生は素直にそれを認められ、私もそう思う、と話されるのだ。ここが庄野先生の素晴らしいところ、60年前も、常に自分の生徒を信じて下さるので、私たち悪餓鬼は、くすぐったい思いを何度か経験したのを思い出した。

(以上、庄野学級古希のクラス会より抜粋)


図3.左端:青鬼(山下)、右端:赤鬼(野村) 1946年の集合写真より

普通の遊び

私たち二人の遊びはもちろんいたずらだけではない。ほかのクラスメートなどと、いわゆる「かくれんぼ」「鬼ごっこ」「缶蹴り」、「駆逐水雷」などの戦争ごっこ、「ベッタン(メンコ)」や「ラムネ(ビー玉)」など、当時のこどものすることはほとんどしていた。

あの時期だけ流行った遊びに、「自転車のリム転がし」がある。焼跡から自転車のリム(タイヤやスポークのない金属の輪っか)を拾ってきて、その溝に棒を当て転がしていく遊びだ。また、どこかで手に入れたベアリングを、木の板に取り付け、それに乗って遊ぶ「スケートボードの原型」のようなものでもよく遊んだ。

危険な遊び

しかし、危ない遊びはそれ以上に私たちを引きつけた。その中で一番簡単なのは「石やり」で、一般にはパチンコと呼ばれているらしい。Yの形の木の枝を切取り、その上端に2本のアメゴムを張り、アメゴムのもう一方を皮の帯に結び、この帯に石を入れて挟んで弓のように引っ張って離すと、石が飛び出す仕掛けである。

石では威力が少ないので、鉛玉を使うことが多かった。この鉛玉は、焼跡にある鉛の水道管を切取って、それを缶詰のブリキ缶に入れ、たき火で鉛を溶かし、それを内径5〜8ミリ程度の細竹の中に流し込んで鉛棒とし、これをペンチで5〜8ミリ程度に切断して作るのだった。

鉛の水道管は焼跡でいくらでも見つかるが、この一部を切取ったあと、水が吹き出さないようにするにはちょっとした技術が要る。溶かした鉛を細竹の中に注ぐ場合も、注意をしなければ、時に中の水分と反応して吹き出して火傷をする危険がある。その作業を庭さきで喜々として行った。

「石やり」よりも危険だが、それよりもはるかに魅力的だったのは「空気銃」だった。哲ちゃんの家には、お父さんの空気銃があり、家の人の目を盗んで、これに触らせてもらったり、鉛の銃弾を込めて撃たせてもらったりした。それは、スリルのあるゾクゾクする快感だった。

「石やり」や「空気銃」の標的として、雀などはなかなか命中しないので、街灯の裸電球や、御影の大きなお屋敷の門灯などを狙ったこともあった。今なら非行児童として指導される行為だが、敗戦1年目の日本は、誰もが生きることに精一杯で、こどもに目が向かう余裕はなかったのだろう。一度も見つからず、発覚することもなかった。もちろん、親たちも、庄野先生もこのことはご存じあるまい。それは二人だけの秘密だった。

ただ、これらの飛び道具を人に向けることだけは絶対にしなかった。それは卑怯者のすることだという意識が戦争中から染みこんでいたのだと思う。とにかく、卑怯は恥ずべきことだった。

危険と言えば、阪急電車に石を轢かせたり、釘を轢かせてペシャンコにし、それを研いでナイフを作ったり、道路の上を通る阪急電車の陸橋にぶら下がって、きも試しをしたこともあった。

喧嘩も遊び?

そのほか、遊びとは言えないかもしれないが、喧嘩をよくした。それも、同じ年齢の者とすることは少なく、ほとんどが5〜6年生や中学生たちが相手だった。私たち二人は、常に行動を共にしていて、それが上級生には生意気に映ったのかもしれない。大きな箱の中にふたりが放り込まれ、その箱をゴロゴロ転がされるということをよくされた。それでも、決して許しを請うことをしないのだから、可愛げのない嫌な二人組だったのだろうと思う。

私ひとりでもよく喧嘩をした。相手はほとんどが5〜6年生で、生意気な下級生に見えたのだろう。喧嘩は殴り合いよりは取っ組み合いが多かったと思う。口喧嘩は一度もしたことがない。

このときの私の喧嘩の仕方は、皮を切らせて肉を切れ、肉を切らせて骨を切れだった。こちらが被害を受けるのは承知で、できれば、それ以上の打撃を与えてやろう、それがだめなら相討ち、それも駄目なら、少しでもダメージを与えてやろうというつもりで闘うのだから、相手はたじたじになる。お互いの服はぼろぼろに破れ、ボタンは全部吹っ飛んでしまっていることもよくあった。

今ごろ、このような喧嘩をすれば殺されるかもしれないが、当時は、刃物などの武器を使うとか卑怯な真似をすることは、恥ずべきことだとする暗黙の了解があった。

これを書いていて、傷んだ服を弁償してくれと持って来た上級生がいたことを思い出した。彼は母親に叱られたのだろう。しかし、私は母からきつく叱られた記憶がない。この喧嘩好きは中学2年まで続いた。

3.あの頃の遊びは何だったのか?

孫娘3歳までの成長を記録し、孫の遊びを第10章:遊びで、そのまとめを行い、孫の遊びとホモ・ルーデンスの中で「こどもにとって遊びは価値があり、本質的なものであることが良く理解できる」と書いた。

10万年前にアフリカに生まれた人間は、地球上の各地に移動し、広がり、他の生物とはまったく異なる繁栄を遂げた。その進化の過程で不要な部分は淘汰され、必要な部分が残り、遺伝子に記憶されている。

こどもがこれほど遊びに没頭することは、この人類の進化の過程で遊びが淘汰されなかったことを示している。進化と言えば、環境に適応するための合理的な変化と直感的に思うが、遊びは進化の対象でなく、人間という種が持っている固有の特徴で、これがあるため、他の生物と異なる進化ができたと考えることもできよう。

遊びの本質は「面白さ」「楽しさ」にあることに異論はあるまい。単に生きるだけでなく、それを思う存分に楽しみたいという気持ちを人間は最初から持っていた。この「ホモ・ルーデンス」が、進化に適応できた一つの理由ではないかと思う。

もう一つの理由は、人間が物を作る(工作する)という特徴を持っていたことで、これは「ホモ・ファーベル」に対応する。他にも「考える」とか「記録をして伝承する」なども挙げることができる。私の10歳のころの遊びも、人間の固有の特徴を発揮する機会があったということであろう。

発達心理学では小学校の中学年、9歳〜10歳をギャング・エイジと呼ぶようだ。ギャングとは暴力団のギャングではなく、徒党、仲間の意味で、この年齢の友人関係は、他の世代を寄せ付けず、また同じ世代であっても、特に認めた相手だけを友人とする特徴があるという。

哲ちゃんと私の関係は、まさにギャングエイジそのものであった。これをたっぷり経験したことも意味があったと思う。

私には、もう1度遊びに耽った時期があった。それは1955年から1956年までの2年間で、大学に入ってすぐ二つの男声合唱団と一つの混声合唱団に入部し、講義にはほとんど出席せず、大学は歌を歌うだけに通った。それが許される時代に生きることができた幸運に感謝している。この経験も意味があったと思っている。

4.まとめ

孫娘の「遊び」に圧倒され、自分のこどものころの遊びをふり返り、まとめてみた。それによって、「遊び」が人間にとって本質的なものであるのではないかという思いが一層強くなった。

「遊び」には他に、「遊興」「ゆとり」などの意味もあるが、ここで取り上げたのは、普通に使われる「遊び楽しむ」である。


2.イヌ 親しくなった時:1948年 12歳  没:2016年

2.イヌと言えば、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を読むようにと私に手渡されて困ったと言っていた話とか、「ノンさんは、何でもすぐに一般化する」と彼に指摘されたことなどを思い出す。

ノンさん」というのは小中学校時代の私のあだ名で、当時人気のあった童話「ノンちゃん雲に乗る」からつけられたと思っている。当時は悪ガキだったので「ちゃん」が「さん」になったのだろう。その頃の友人からは、大人になってそう呼ばれると懐かしい。

ハーバード大学留学中に好きになった米国人女性が、日本人より大和撫子的な性格で、結婚したいと相談されたとき、ためらわずに賛成した。

二人はカトリック六甲教会で結婚式を挙げ、私も参列した。私たちの結婚披露宴に出席して頂いた。


3.イナ 親しくなった時:1948年 12歳   没:1998年

3.イナと私は、中学2年次の放課後に行われるクラブ活動の文化サークルとして、創作部を選んだ。創作部では原稿用紙をもらいながら、雑談ばかりしていた。

彼の兄と私の父は、どちらも心理学を専攻したのに、人の気持ちが分からないんだと笑い話を弾ませたが、部長の鈴木義文先生は、そばでその話を聞かれて「学問と実際は違うんだね」と笑顔でコメントされた。

この先生は数学が専門なのに、文学好きで、授業時間外にナポレオン・ボナパルトの話をして下さるのだ。それが面白くて楽しく、ねだって、何度も何度も続きを聞かせて頂いた。



創作部部長 鈴木義文先生


3.イナからの葉書:1955年6月

神戸のお便り有難う。小学校以来の親友の君(こう呼ぶ事は君には迷惑な事かもしれないが)から、全く懐かしいお便りを戴き僕は非常に感激しています。お手紙によると君も元気にお過ごしの由、僕も嬉しく思っています。

この頃の僕は学校時代程の元気もなく、毎日を唯、時間に追われるままに過ごしている次第ですが、体の方は相変わらず頑強で、又、盲腸もその後順調に恢復致しましたから御安心下さい。

浪人の常として僕も毎日肩身のせまい思いで予備校通いをしています。そんな僕の姿を君が見られたら、アワレを感じられるかも知れませんね。

所で、君のお便りにあった嵐山の事、あれは僕にも非常に深い印象となって刻みこまれています。あの時の僕の慌てた様を君もきっと思い出されている事でしょう。あんな所で、僕の内部の本当の姿を君に見せた事を、こうしてお便りしている今も恥ずかしく思い返しています。「赤と黒」の話をした時は、水が非常に美しかった様に覚えています。僕はひょっとしたら、ジュリアン・ソレル氏より破廉恥な人間かも知れないなんて思う時もあります。何にしても、嵐山での事は僕にとっては君という人とともに、僕の心に強く焼きついている思い出です。そして、もう一度、君と嵐山でボートに乗る日のある事を期待して居ります。

鈴木先生の御転勤を僕は初めて知りました。中学時代に文集を作ろうとの御相談を受けたのに、僕が実行力の無かった為、結局出来なかった事や、高校に入ってからも、先生から何か書いたものを出すようにと云われたのに、何も書かずに、又、中学卒業以後一度もお会いする事無く、今日まで至った事等、僕は実際、先生に合わす顔もない程ですが、姫路におかわりになったのなら、一度お便り致したく思います。君の方でお所の分かる事があれば、知らせて戴ければと思っています。実際、僕達をよく知って下さる師を失うことは淋しいですね。

いろいろと、お話したいのですが、行がありませんからこれまで。御父母上にもよろしく。葉書で失礼。



私と3.イナ 嵐山にて

私の3.イナへの手紙 1994年5月

前略 今日は約四十年振りで貴兄にお逢いできて懐かしく、お話をしている間に五時間も過ぎていたことを知り、驚きました。四十年の歳月は、やはり感じましたが、それ以上に、少年の頃、あるいは青年前期の頃の貴兄の面影、話し振りを感じました。中でも他人の才能、能力を評価される素直な心は、私に欠けているものだと痛切に感じました。

小学生時代に貴兄も恋愛感情のようなものを持たれたことを知り、愉快でした。

私は節目々を大事に思う人間で、五十歳の誕生日にそれまで投稿した雑文をまとめて記念にしました。その前年からパソコンを始めていたので、いわゆるDTPもどきのものでした。昨夏開業二十周年を記念して二十年史をまとめました。時代の進歩でパソコンの能力も向上し、漸く本格的DTPに近づけたかと思っています。お暇な折にお目を通していただければ嬉しく存じます。

貴兄のご健勝とご発展を祈念致しております。本日はありがとうございました。早々


3.イナの兄からの手紙 1998年

ご鄭重なお手紙とお供えありがとうございます。
本来ならば弟の訃報をいち早くお知らせしなけれならないはずでしたし、全く失念していたわけでもありませんでした。夫婦で野村さんと飯田さんにお知らせしなければと言いながら、心の余裕をなくしていましたので申し訳ございません。

飯田さんからお聞きくださったことと思いますが、昨年六月十七日に入院、七月八日午前九時三十分から午後五時にかけて手術が行われました。胃は一部を残して切除、肝臓はポートを埋め込んで抗がん剤を直接肝臓に注入する方法がとられました。八月十六日に退院し、通院治療を後期授業はがんばった行っていました。例年のように、十二月三十日には西宮の私たちのところへ帰ってきて、正月のお祝いも一緒にしましたし、親戚の人達が大勢集まって来ましたが、今までと変わりなく談笑していました。

それが三月二日自分から入院すると言いましたので早速手続きをしました。それからは一喜一憂の毎日でしたが、亡くなる二日前に「われは生涯を終えり」言う意味のフランス語を言い残し、三月三十日午後十一時十五分に、わたしたち夫婦と主治医大垣先生に見守られながら、安らかに永遠の眠りにつきました。鎮痛剤投与のおかげと思いますが、激痛に苦しむことがなかったのがせめてもの慰めでした。

弟は勤務校の京都精華大学の民主的な学風が気に入り、学者としてよりも大学教師としての責任を最期まで果たそうと文字通り必死の努力をしました。

大垣ドクターは3.イナ先生のような超人には、めったに出会ったことがありませんと、最期の診とりをして下さった直後に、敬意をこめて言って下さいました。今の世の中では早世過ぎますし、兄の私より十七歳も若くはありましたが、弟なりの人生を全うしました。

とくに視覚障害のある学生に点字のフランス語教科書をパソコンで自作していました。ドクターに急かされながら入院を引き伸ばしていたのも、一人の学生のために点字のプリントを作るためでした。これを自己犠牲というと弟は嫌がると思います。今これをやり遂げるのが自分の仕事なのだという達成努力、弟の人生はこれだったと思います。告別式の弔辞の中で、学長先生が3.イナさんは頑固だったと申されましたが、これはまさに最高の賛辞として参列者の皆様は同意されたと思います。

私の小学生の孫が葬儀の時に涙を流しているところを見られた大学の同僚の先生が、あのような小さい子供にも慕われていたのですねと感動されました。多くの友人や学生の皆さんに親しまれ慕われ、本人もこころを開いて付き合える素晴らしい友人に恵まれて、一生を送ることが出来ました。とくに野村さんのことは折りにふれて尊敬の念をこめて話してくれました。ありがとうございました。

交野市で開業しておいでとのこと。わたしは大学教師になるまでは大阪府中央児童相談所に勤めていましたので、所管区域のご当地はなじみの深い地域でした。やんちゃな中学生ばかりを集めたキャンプに参加した交野の連中が交野自慢を威勢よくやっていたのを思い出しました。地域医療の拠点としての野村医院の益々のご活躍をご期待申し上げます。

最後にもう一度、弟の死を悼んで下さってありがとうございます。いつまでも覚えてやって下さい。


4.ミナ 親しくなった時:1953年 17歳 高校2年 没 2019年

4.ミナへの私の手紙
お手紙ありがとうございました。差出人の貴兄の筆の跡をとても懐かしく思いました。昔の貴兄の文字がすぐ思い出されます。お礼のお返事が大変遅くなり申し訳ございません。

先日の同窓会で一番嬉しかったことは貴兄にお会いできたことです。もう三十年近くも会っていない貴兄が、前回の神戸の会に出席されていたことを知り、参加できず残念に思っていました。お目にかかって再確認した、昔と変わらぬ大人風の物腰、ユーモアのある話し振りに、青春の頃を思い出しています。

お読みいただいたので、もうご存じと思いますが、歌に関する思い出を、年代順に書いていきたいという願いを持っています。ここに自分史を残したいという思いから、昭和三十年前半くらいまではすでに書いてきました。その中の4曲に貴兄が出てきます。

[昭和28年] 1953 高校2年
ハイヌーン
C&Wの魅力を教えてくれたもう一つの曲がこれだったと覚えている。「タン トト タン トト タトタト タン トト」とバックで刻まれるリズムも新鮮だった。友人の4.ミナ君はこのリズムが気にいってギターを始めたように記憶している。

[昭和29年] 1954 高校3年
茶色の小瓶
映画「グレンミラー物語」を観たのは神戸の聚楽館だった。初めて観るジャズに興奮し感激して夢中だった。サッチモやジーン・クルーパー、ライオネル・ハンプトンなども出演している。ストーリーも良かったし、妻を演じたジューン・アリスンが素敵だった。親しかった4.ミナ君などは「彼女のような女性と結婚したい」と言い出すほど熱を上げていた。

[昭和32年] 1957 大学専門1年
バイ・バイ・ラブ
4.ミナ君が好んでよく歌っていた、彼の家でギターを弾きながら歌っていた光景が目に浮ぶ。あの時彼は失恋したのだろう。

ヤングラブ
これも4.ミナ君が好んで弾き歌いしていた曲である。

来年、拙宅をご訪問下さる由、ブラボー!です。土曜の午後か日曜日であれば、ありがたい、こちらでは診療が午前と午後に分かれて2回行い、夜は7時30分まで診療しているからです。一緒に昔の歌を歌いましょう。「人間大好き」に同感と書かれた貴兄と、飲んで歌えれば、これは至福です。今から楽しみにしています。

赤本の赤は「赤」が好きなこともありますが、還暦に着る「ちゃんちゃんこ」の赤に因んだので、貴兄の納得は半分正解でした。

お越しいただける日を心待ちいたしております。お元気で。


ロン・パリやぶにらみ道中記に対する感想メール 4.ミナ 2000年9月14日

オフィスにおける徒然に、何か新しい書き込みがあるのではないかとBOWさんのHPにアクセスしたところ、お盆のパリ、ロンドンへのご旅行についての記事を見つけ、一気に読ませて戴きました。いつものことながら、お忙しいのによくこんなにうまく書き下ろせるものだなあと感心しました。

小生の印象に残ったポイントは、
■旅行に出るときに遺書を書くというくだり
小生も旅行とは関係なく書いておきたいと思ってはいます。

■空いていたグリーン車のくだり
セーブできるところはセーブなさるのだなと感心

■迷子になった人はホテルへ戻るだろうとの正しい予測
BOWさんの思った通りの帰結に感心

■ヴェルサイユ宮殿がロックフェラー財団の援助で修復
こんなこと知りませんでした。私は一度だけパリに出張し、週末にこの宮殿へ行きました。1978年だったと思いますが土曜日に出かけたその翌日に爆弾が破裂するという事件がありました。幸い、疑惑が私にかかってきたなんてことは起りませんでした。

■最初のデートでタクシーにさきに乗り込む人だから
ここ面白い。因みに私はいつも家内を窓側に座らせています。

■モンサンミシェルのオムレツ
覚えておいて機会があっても食べないようにします。

■旅の移動中にビデオを再生できるとは
電池のパワーが心配ですが、最近の機械類はうまく作られているのですね。

■シャンゼリゼは道幅124メートルとは驚きです。
私も歩いた筈ですが、そんなに広いとは感じなかったのは立派な街路樹で視界を惑わされたのでしょう。

■モンテニュー大通り、ジャンゼリゼ大通り、ジョルジュサンク大通りでできた正三角形がブランド商品街
プラダもここにあるとのお話そこから来ているのでしょうか、あのプラダのマーク(逆おむすび型にPRADAとある)は?

■アナウンスがフランス側では仏英の順、英国側では英仏の順
これはモントリオールからトロントへ行く飛行機で経験しました。モントリオール発やモントリオール着のときはフランス語、英語圏であるトロントを離着陸するときは英語が前でした。

無理を申しますが、こうした旅行記のなかにスナップ写真を挿入することは難しいでしょうか?ちょっと、BOWさんご夫妻が楽しく旅されている一部分だけでも見たいなという気がします。HPに海外スナップのようなスクリーンを作られては?

ともかく、楽しい読み物でした。ありがとう。

注:4.ミナ君は高校時代の友人で、昭和28年29年30年31年頃の「歌と思い出」によく登場します。


4.ミナ奥様への私の手紙

4.ミナ奥様
喪中お見舞い申し上げます。4.ミナさまがこの世を旅立たれ、貴方様のお寂しいお気持ちをお察しすると、生きとし生きる者のさだめとはいえ、切なくなります。

私がご主人さまと親しくお付き合いさせて頂くようになったのは、高校2年で同じクラスになってからのことです。以来大学2年ころまでは、一番親しく、心に残る思い出がたくさんあります。

昨年の賀状で「少なくとも10月にはお会いできますね」とお書きいただきながら、昨年の神戸高校八足会に出席できなかったことが、悔しく、また申し訳なく思っております。

実は、昨年2月に大腸がんの手術を受け、ステージ3で体調の回復が遅いため、昨年のクラス会を欠席いたしました。それよりも強い欠席の理由は、数年前から聴力の低下が著しく、補聴器を使っても隣同士の席の人以外とは会話が難しく、人望の高いご主人さまを私が独占してしまうことは申し訳ないと考えたからです。

この年になると親しかった友人はほとんどがこの世を去っています。その中で一番楽しい思い出が多いのはご主人さまです。心から感謝いたしております。

どうか奥様お元気でお過ごしください。


5.ミヤ  親しくなった時:1953年 17歳 高校2年

初めて出会ったのが高校2年、モーツアルトが好きでSPレコードを愛聴し、また大相撲の熱心なファンだった。大学も同じ阪大医学部。ご尊父は京都府立医科大学教授の三宅廉医師で、パルモア診療所を開設し、パルモア病院を開院した人。彼はここの病院長を継承した。私たち夫婦の結婚披露宴に出席頂いた。


5.ミヤからのハガキ 2018年

前略 ご無沙汰しております。
先日は阪大三六会同窓会に出席して旧交を温める機会を持ったのですが、その席で○○氏から貴兄が”極度の難聴を発症”と聞かされ、大きな衝撃を受けております。多芸多趣味、中でも音楽の才能は、合唱曲のアレンジや独唱力のすばらしさを若い頃から知っているだけに、音のない世界がどんなに辛いか、想像を絶するものがあります。

実は私の両親も、世を去る数年前から酷い難聴でした。近々自分もそうなる覚悟はしているものの、私の今一番の楽しみは、CDやICレコーダーで交響曲などの楽譜をトレースしながら、天才たちのオーケストレーションの絶妙さに耽溺することです。お互い残り少ない日々を、残された身体機能で生き抜きましょう。時節柄ご自愛を祈ります。早々


私から5.ミヤへの手紙 2018年

天災、人災が多い年でした。世の中も大きく変化をし続けていて、それを実感しながら、この世を去ることになりますね。

一昨年の三六会同窓会でお目にかかってからご無沙汰いたしております。この度、私の難聴につき、ご心配くださり、お心のこもったおことばを頂戴し、感謝にたえません。

貴兄は、聴力に衰えがなく、クラシック音楽を存分に享受されていらっしゃるご様子、大慶に存じます。

私は今年の2月に、上行結腸がんの切除術を受けました。その後の経過はほぼ順調ですが、下肢がやせ衰え、脚力の低下が著しく、その回復に努めております。

視力はそれほど低下していないので、パソコンを部下として、まとめの仕事に注力しております。

ありがとうございました。どうか、お元気で


6.タケ 親しくなった時:1955年 19歳 大学1年 没:2017年

6.タケと私は、大阪大学に入学して、阪大男声合唱団、阪大北校男声合唱団、阪大北校混声合唱団に入団した。彼はは第1テナー、私はバリトンのパートを歌った。

彼は工学部出身で、卒業後交流は無かったが、1983年に再会し、二人で27年ぶりに歌い、以来日曜に歌う会を作って親交を深めてきた。

2005年9月、私達が医業を息子夫婦に引継ぎ大阪市内へ転居した時に、彼は脳卒中で倒れ、右半身不随となり、リハビリの効果なく車椅子生活を送り、2017年に亡くなった。


7.ハト  親しくなった時:1955年 19歳 大学1年

No7.ハトNo6.タケと同じで、大学入学してすぐに3つの合唱団に入団し、バスのパートを歌った。彼は法学部出身、日曜に歌う会には1992年から参加。交流を続けている。


7.ハト6.タケ、私


7.ハト、私、6.タケ


ロン・パリやぶにらみ道中記(改訂版)への感想メール

<感想メール その1>7.ハト様 2000年9月7日

Dear BOW

ロン・パリ やぶにらみ道中記、拝誦しました。初めから終わりまでの野村節は誠に楽しく、何か旅行にご一緒した気分になりました。そこで以下読後感 :

8月16日
エスカルゴは思ったよりまずいものですね。昭和34年、入社早々神戸でフランス料理をご馳走になり、エスカルゴがでました。期待が大きかったせいか、なんだ という記憶があります。さざえ の方がうまい。同感同感。

大兄がツアーの最年長でしたか。お医者さんがいる と言ってメンバーが喜んだと思いますよ。

8月17日
モン・サン・ミッシェルは最初目に入った時はっとするでしょうね。ここは是非行ってみたいです。

小生のはっとしたのは二度。はじめはローマ。市内観光でバスがトレビの泉にドンと出た時。二度目はJFK空港からマンハッタンに向かう途中、ミッドタウントンネルの手前の丘にタクシーが登り切り、マンハッタンの摩天楼群が一度に目に入った時です。

8月18日
凱旋門から見たパリの中心は壮観だったでしょうね。シャンゼリゼー大通りが、御堂筋の約三倍の幅員とは知りませんでした。

パリの街としての美しさは、何でしょうかねえ。違う建物が夫々自分を主張しながらも全体としてえもいわれぬ調和を保っているのは事実ですし、それ以前の素晴らしい都市計画でしょうか。小生若かりしころはプラス何とも小粋な女性が歩いていました。今はどうですか。

買物にエネルギーを割かれている様子がよく判ります。さては大兄買物はあまりお好きじゃないのですか。実際外国での買物は疲れますね。

コンコルド広場は、全く何の変哲もないコンクリートの広場ですね。しかし、オベリスクを針にして日時計を作るとは洒落ています。この発想は凄いですよ。

旅行には必ず正式な催しがあります。大兄がジャケットとタイを持参なさったのは全く正しい。こんな時日本の餓鬼は決まって、Tシャツとジーンズで何が悪い と居直ります。まあ粋がらせておけばよろしい。誰も相手にしませんから。

8月19日
ロンドンへ列車で、それもユーロスターとは、羨ましい。イギリスでの入国審査。本当に頭に来ます。外はがらがらのに Others は長蛇の列。このシステムを絶対に変えようとしない所にイギリス人の底意地の悪さがあります。この国の飯はなんともまずいですねえ。ソーホーで中華料理食っている方がよほど無難です。

8月20日
大兄が訪問されたロンドン郊外の街にイギリスの中流以上の生活があるのでしょうね。しっかりと人の手が入っているのもよく判ります。まあイギリスは行けども行けども山に野に、人の手が入っていますね。その点我が国は結構放りっぱなしの所があります。

8月21日
イギリスの日本料理は高くてまずいですね。魚の流通機構がまったくないところで、刺し身を食わせてはいけません。まずいか、あぶないかです。

機中、食っちゃ寝、呑んじゃ寝ができると旅行は疲れませんね。でも関空で、熱風を浴びた時はどう感じられました?

ではこの辺で MIKE



私がサイトに載せたロシア旅行記に、モスクワで10年間過ごされたことのある7.ハト君が、この旅行記の感想や、関連する情報をメールで送って下さった。彼ほどロシアに精通している日本人は少ないのではないかと思う。

そこで、彼の許可を得て、関連する情報を追加することにした。以下、追加 HM のマークがある記事は、彼から頂いたコメントである。

モスクワ

モスクワはロシア連邦の首都。人口は約1150万人、ヨーロッパで最も人口の多い都市である。市の中心をモスクワ川が蛇行しながら流れている。

1812年にナポレオン軍のモスクワ侵攻を受けた際、ロシアの司令官は住民を脱出させた後、建物に火を放ち、木造住宅ばかりであったモスクワは全焼した。これによってナポレオン軍は住居も食料も失い、留まること叶わず、退却を余儀なくされ、それをロシア軍が追跡したと現地ガイドから聞いた。

また、モスクワは砂地で石がなく、当時は木造住宅ばかりであったこと、それ以後の石造の建物はフィンランドから輸入された石を使っているそうだ。

追加 HM

ナポレオンを迎え撃ったロシア軍の焦土作戦については、たしかにガイドの案内が通説で、ソ連時代から言われ続けていますが、異説をご披露します。

ナポレオン戦争のロシア側の主要人物はアレクサンドル一世とクトゥーゾフ将軍です。クトゥーゾフは退役していたのを引張り出されますがこの時すでに67歳。ナポレオン軍との戦争を避けて逃げ回り、為にロシア軍の士気はどん底に落ちます。

モスクワ郊外120kmボロジノ村で初めて衝突となりますが、ここでは防ぎきれず、ナポレオン軍をモスクワに入れてしまいます。

ここでロシア軍が焦土作戦に出たと言うのですが、実際は、民家に入ったフランス軍の炊事の火の不始末で方々で火事が起こり、消防がいないまま燃え放題になったといいます。

アレクサンドル一世とクトゥーゾフは仲が悪く、モスクワを起源にするロマノフ王朝の末裔がモスクワに火をかける作戦を許可したとは考えられないと言われます。

冬将軍以上にフランス軍を苦しめたのが病気です。発疹チフスだそうです。モスクワの家には南京虫はじめ蚤、虱が住み着き、伝染病を媒介しても不思議ではありません。



図1-2.モスクワ地図 モスクワ大学、宿泊ホテル、クレムリンとその周辺、トレチャコフ美術館


●モスクワ大学とその周辺

モスクワ大学は、モスクワ川南岸の丘陵地 雀が丘に建ち、スターリン様式と呼ばれる重厚な高層建築で作られている。雀が丘はモスクワ市街が一望できる絶好のポイントとされている。



図2.スターリンゴシック様式で建てられたモスクワ大学 夏季休暇中で人影なし



図3.モスクワ大学をバックにツーショット



図4.アプローチもシンプルで美しい

追加 HM

モスクワ大学のツーショットの場所は定番の場所です。私もここでよく写真を撮りました。


図5.モスクワ大学のある雀が丘からモスクワ市内を一望 オリンピックスタジアムの左後方にホテルが見える

追加 HM

ここ雀が丘は、燃えるモスクワをナポレオンが眺めた場所です。スターリンゴッシクのモスクワ大学は、私のいた頃には理系だけが入っていました。文系はクレムリンの外、ホテル「ナチオナール」(ナショナル)の近くにありました。


図6.ノボデヴィッチ修道院 貴婦人たちをかくまったことで有名 チャイコフスキーはここで白鳥の湖の想を得たと聞く



図7.ノボデヴィッチ修道院をバックにツーショット

追加 HM

ノヴォデヴィッチ寺院。元々女子修道院ですが実際は要塞であり、牢屋でもありました。ピョートル大帝の姉ソフィアが謀反の罪で幽閉されたのはここです。トレチャコフ美術館にその絵がありました。

墓場もあります。チェホフ、シャリアピン、ゴーゴリを始め、有名人の墓が沢山あります。その他、フルシチョフ、エイゼンシュタイン、ショスタコービッチも。

フルシチョフが死んだあと、墓参りに行って、待ち構えていたKGBに写真を撮られました。クレムリンの壁に入れられなかった人がここに埋葬されるそうです。

ノヴォデヴィチ女子修道院には鐘楼がありまして、晩6時頃になると鳴り始めます。西欧の教会のごーん、ごーんという鐘ではなくて、大小色んな鐘がチンタラ・チンタラと賑やかにメロディーを奏でます。

チャイコフスキーの1812年やラフマニノフのピアノ協奏曲2番にも出てきます。チャイコフスキー自身、ロシア正教会の鐘を何曲か作曲したと言われています。

日本では函館のロシア正教会、一名ガンガン寺は鐘の音をあらわしたものでしょうし、ニコライ堂も賑やかに鐘を鳴らします。鐘は両手の指に小さい鐘につながった綱で、大きい鐘は足で操作するそうです。きっちり叩けるまでには何年もかかるそうで、後継者不足から、スピーカーで流しているお寺が多いようです。

ロシア正教会では礼拝堂に椅子がありません。立ったままの礼拝です。礼拝は歌で進みます。神品(カトリックの神父、プロテスタントの牧師に当たる。)がワーッと歌い始めると、信者が各パートに分かれて歌います。本当に上手です。4部合唱以上に分かれていると思います。しわくちゃのばあ様が、何ともなまめかしい声で歌うのに驚きました。

ロシア正教会では、どうもクリスマスより復活祭の方が重要視されているように見えます。ロシアの気候を考えると、真冬の凍えるクリスマスより、春がそこまで来ている復活祭の方がお祭り気分になるのでしょうね。

また、クリスマスは勿論おめでたいですが、キリストの復活こそキリスト教の教義そのものという人もいます。ある意味で正しいと思います。

正教会の教会のたたずまいはどうも好きになれません。化け者寺かと思われるようなおどろおどろしい雰囲気です。カトリックも五十歩百歩ですが、改装後の上智大学イグナチオ教会は十字架にかかるキリスト像を無くしました。随分とすっきりしました。しかし礼拝堂正面に字架一本だけのプロテスタントが最もすっきりでしょうね。

ソ連崩壊後、老若男女がどっと教会へ押し寄せました。世界中で信者が増えている珍しい例だそうです。ソ連時代にも、お寺の前を通る人達が立ち止まって十字を切るのを何度も見ました。日本人が手を合わせるのと同じでしょうか。


●クレムリンの周辺

クレムリンは「城塞」を意味するが、日本で「クレムリン」と言った場合はモスクワのクレムリンを指すことが多い。

クレムリンの北東に赤の広場があり、赤の広場を取り囲んで、南東に聖ワシリー寺院、北東にグム百貨店、北西に国立歴史博物館がある。



図8.クレムリンとその周辺 by Google Map



図9.モスクワ川の向う岸にクレムリンが見える



図10.聖ワシリー寺院(南側) 1990年にユネスコの世界遺産に登録 



図11.聖ワシリー寺院(北西側) いかにもロシア的な建物だ

追加 HM

聖ワシリー寺院。最もロシアらしいお寺ですね。図11のミーニンとポジャルスキーの銅像の前にステンカ・ラージンの処刑台があります。


図12.ここから赤の広場が始まる(南東部分)図8 参照



図13.工事で占拠されているため、平時の赤の広場を表示 正面は歴史博物館、右はグム百貨店 Wikipediaより

追加 HM

赤の広場を隔てて反対側からパレードが入って来てここへ抜けて行きます。赤の広場は思ったより小さく狭いですね。

ソ連時代はメーデーの軍事パレードをよく見に行きました。面白いのは戦車です。入り口側の広場に行進に参加しない戦車が何台もいるのです。何故?と聞いたら行進に参加する戦車が故障したら代わりに出て行くのだとか。そんなに頻繁に故障するのと聞くと、しょっちゅう動かなくなるとの答えでした。笑ってしまいました。


図14.グム百貨店 グム(GUM)とはロシア語で「総合百貨店」を意味する略称、200店舗が営業



図15.赤の広場に設けられた仮設観覧席 左側は国立歴史博物館、右側はグム百貨店



図16.「赤の広場」はロシア語で「美しい広場」を意味する。共産党の赤ではない!



図17.赤の広場に設けられた野外コンサートのための大観覧席



図18.赤の広場の北西端にある国立歴史博物館



図19.国立歴史博物館を通り過ぎて少し歩くと、バレエ・オペラの殿堂 ボリショイ劇場が現れる

追加 HM

さて図19ボリショイ劇場です。ここは大変お世話になった所です。一階の土間にハードカレンシーで切符を買った外人専用の座席がありまして、よく利用しました。

何しろ邦貨約千円で、音楽ではリヒター、ギレリス、オイストラッフ、コーガン、バレーはプリセツカヤ、ストゥルチコーワ、ワシリエフ等々が鑑賞できるのですから愉快です。1960年代、モスクワに自動車がまだ少ない頃、ボリショイ劇場の玄関に車を置いて観劇したものでした。

正面に8本の円柱があります。デートの約束に右から或いは左から9本目の所で会いましょう、と言われたら振られたことになる、と聞かされました。

屋根に馬車を駆る御者の像がありますね。年末ともなれば、モスクワの運転手は殆どが酒を喰らっています。「正気なのは、ボリショイの屋根に居る御者位でさー」とタクシーの運転手に言われたとか。怖い話ですね。


●クレムリンの内部

クレムリンの城壁は総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代様式の宮殿や大聖堂が林立している。図8 参照

代表的なものとして、大クレムリン宮殿、ウスペンスキー大聖堂、アルハンゲルスキー聖堂、ブラゴヴェシチェンスキー聖堂、大統領府、ロシア大統領官邸として使われている元老院などがある。

大クレムリン宮殿はモスクワ川から望見できる。



図20.ここからはクレムリンの中に入る。歴代皇帝の戴冠式の舞台となったウスペンスキー大聖堂



図21.アルハンゲルスキー聖堂 軍の守護聖人を祀って建てられた教会



図22.ブラゴヴェシチェンスキー聖堂 ロシア正教会の大聖堂



図23.クレムリン内にある巨大な鐘「鐘の皇帝」、一部が欠損しているが、その原因に諸説あり



図24.クレムリン内にある「大砲の皇帝」 榴弾砲史上最大の口径、使用されたことは一度もなし



図25.クレムリン内にある大統領府



図26.クレムリン内にある元老院 ロシア大統領官邸として使われている


図27.クレムリン内にあるクレムリン大会宮殿 6000席のホールで、コンサートなどに使用されている

追加 HM

クレムリン内部。 何と言っても大会宮殿でしょう。ここで1956年、フルシチョフがスターリン批判をぶち上げました。これが契機になって、以後政権が変わっても前任者が殺されなくなりました。

スターリン時代の粛清は凄惨を極めました。もう手当たり次第です。私のモスクワ駐在時、秘書の女の子の父親はスターリンに粛清された元大臣の娘だったことがソ連崩壊後に分りました。

独ソ戦でソ連は2500万人の人命を失ったと公表しています。日本の統計学者から聞いた話では、あの規模の戦争なら死者は800万人止りで1700万人はスターリンに殺されたのだろうとのことでした。上には上があって、毛沢東は5〜6000万人殺したと言われます。


●地下鉄見学

市内には、図28のように、地下鉄が11の路線網を張り巡らしており、世界で最も利用客の多い地下鉄の一つとなっている。

きわめて深い場所に作られた豪華な装飾の駅と、地上と駅を結ぶ長い超高速エスカレーターは、モスクワ地下鉄の特徴である。トンネルの深さは市中心部で30.5〜39.6mとのことだ。



図28.モスクワ地下鉄路線図 市民は路線名を使わず、色名で呼ぶが、環状線だけは環状線と呼ぶそうだ



図29.地下鉄への入口



図30.地下鉄のホームは非常に深い地下にあるが芸術的な雰囲気



図31.通路にはこのような彫刻がある

追加 HM

モスクワの地下鉄は世界一と言われました。本当でしょうか。エスカレーターの傾斜と長さとスピード、それと音に最初尻込みしました。

良く見ればエスカレーターの踏面が木造です。怖いなあ、と思っていたら、1982年帰国する前の2月、事故が起きました。エスカレーターが分解したのです。何人か死者がでました。

どこの市か忘れましたが、交通局の人を地下鉄に案内したことがあります。モスクワ市自慢の地下鉄の事。お褒めの言葉が出るかと見ていたら、その人がぼそぼそ言うには、車輛、道床共に十分にメンテナンスされてなくて安全性に問題があるとのこと。

その後、彼が指摘した点を注意して見たら全くその通りで、時々事故が起きていました。

感心したのは本数の多さです。1960年代すでにラッシュ時には、今発車した車輛がトンネルに消えたと思ったらすぐに次の列車が入線していました。コンピュータ制御はまだで、運転はすべてアナログの時代です。なかなかやるわい、と思いました。

●トレチャコフ美術館

ロシアの古美術と18世紀以降の絵画を中心とするロシア美術最大の美術館。モスクワの商人トレチャコフ 兄弟が自邸に開いた美術ギャラリーから始まった。



図32.トレチャコフ美術館の外観



図33.トレチャコフ美術館の内部 ヴルーベリの間とパネル画「幻の王女」1896年



図34.キプレンスキー 1782〜1836年 「詩人 プーシキンの肖像」



図35.クラムスコイ 1837〜1887年 「忘れえぬ人」

追加 HM

トレチャコフ美術館。私はこの美術館が好きでよく行きました。ロシアの近現代の美術品を集めた美術館ですが、ロシア革命を境に革命前と後に分けられていました。

図35の「忘れえぬ人」という題は日本での展示会の時につけられたのではないでしょうか。原題は「見知らぬ女」です。現代のロシア人女性とは縁遠い雰囲気です。革命前のサンクトペテルブルグの貴族には案外居たかもしれません。この作者のキリストの像もいいですね。

革命前の絵にはいいものがありました。クラムスコイの外にアイバゾフスキーの一連の黒海ものとか、レーピンの「復活大祭」など。

革命後のコーナーはガラクタばかりです。大きなスペースが取ってありましたが、ロシア人は絵を眺めもせず小走りに出口へ向かっていました。

芸術をとっても革命の中身の貧弱さが際経ちます。1800万人もの命は何に支払われたのでしょう。単なる権力闘争だったら犠牲が大きすぎます。

●ラディソン・ロイヤル・モスクワ(旧名ホテル・ウクライナ)

私たちのツアーが3連泊したホテル。スターリン様式のクラシックな外観は、モスクワ大学のある雀が丘からも望見できた。「ホテル・ウクライナ」が3年かけて改修を行い、新しい名前で再オープンしたと聞く。

摩天楼をイメージさせるような外観は、夜にはライトアップされ、一層美しく見える。



図36.バスの車中から見たラディソン・ロイヤル・モスクワ ホテル スターリンゴシックの建物

追加 HM

図36 ラディソン・ロイヤル・モスクワ、旧ウクライナホテルですね。正面玄関前の道をはさんだ広場にウクライナの詩人シェフチェンコの大きな銅像がありましたが、今はどうでしょうか。

モスクワ川に架かる橋の道路がクトゥゾフスキー大通りで、この道を通ってナポレオンがパリをめざして退却したのだそうです。

道を隔ててホテルの反対側は、木造の小さい家が建ち並んで、みすぼらしい景色でしたが、すべて取り払われ、御覧のようなすっきりした通りになりました。


1964年、大きな商談が動きそうだから、商品が分る人間を送れとモスクワ事務所から依頼が舞い込みました。そして、私が送り込まれた訳ですが、以来このホテルに合計で4年近く住むことになります。

ウクライナホテルはロシア人の設計ですが、工事にはドイツの捕虜が駆り出されました。素材は石です。花崗岩のように固い石ではなくて柔らかそうです。どこから持ってきたのでしょう。

モスクワにはこの外に6つのスターリンゴシックがあります。雀が丘から全部見えたかな、定かでありません。

この様式の建物はワルシャワとリガで見ました。ポーランド人はこの建物を嫌って、ワルシャワで一番景色がよい所はどこか知っているか、と聞きます。答えはこの建物から見る市街で、理由はこの建物が見えないからだそうです。

リガにも同じ形の建物がありました。ドイツ騎士団が作ったこの街に何とも不似合いな建物でした。


自分の部屋も事務所もこのホテルにありました。当初、ロシア語は全く分らず、本当に不便でした。エレベータにはエレベータおばさんが居て、自分の行先の階を言わねばなりません。レストランでは欲しい料理を口頭で伝えねばなりません。いやあ困りました。

幸い仕事が暇だったので、家庭教師に来てもらってロシア語の勉強を始めました。半年もすると、相手が何を言ってるのかが分り初め、一年後には、自分からしゃべれるようになりました。この間、大きな商談をものにできて、お蔭で親元の決算が大黒字になりました。

ウクライナホテルに家族で住みました。最初はツイン二部屋に、後にデラックスをもらいました。ウクライナのデラックスは文字通りデラックスで、広い応接室を真中に、両側に寝室があり、それぞれにトイレとバスタブがありました。応接間にはピアノがありました。親子四人ここで暮らした次第です。

1975からNYで仕事をしていました。モスクワではこの頃日本商社の地位が認められて、居住ビザが各社に発給されていました。(それまでは駐在員がソ連の公団と交渉してビザを取得・延期していました)。人数に制限があり、営業部同士がビザ枠を社内で取合いのケンカをする事態になりました。

NYに元所属部から連絡があり、モスクワへ横滑りしてくれというのです。お前が行ってくれればケンカが収まると言われて、またもやモスクワです。

1979年四度目の駐在で出かけて見て驚きました。米ソ対立が激しいのです。1977年にソ連がオホーツク海からアメリカ東海岸に届くミサイルを開発したのが原因です。1979年末にソ連軍のアフガン侵攻。1980年モスクワオリンピックボイコット。外人専用の商店の駐車場に駐車中の、AP通信の車のフロントが目の前で割られ、私の家族にも、これ見よがしの尾行がつき始めます。時を追って尾行が激しくなり、身の危険を感ずるようになりました。


子どもはロシアの学校に通わせていました。感心したのは、先生も級友も全く変らない態度で子どもに接してくれたことです。それどころか、下の娘の参観日に行った時のことです。先生は娘がアメリカからやって来て、必死にロシア語と取り組み、今は優秀な成績を収めている、と他の父兄の前で誉めて下さいました。ロシア人のしたたかさを痛感すると同時に、子どもを守って下さる学校に感謝しました。

私には尾行がつかないのです。と言ったら、ちゃんとついているよ、と教えてくれた人がいました。尾行には見える尾行と見えない尾行があるのだそうです。KGBにしてみれば、米ソ対立が激しくなったとき、NYからふらりとやってきた日本人家族は、目の上のたんこぶでしょう。尾行は日本へ帰れ、というサインと解し、1982年、家族を先に帰国させました。

1979年赴任以来ソ連経済は悪化の一途です。後になって思えば、アメリカの挑発に乗って軍拡に引きずり込まれた結果です。

1964年最初の赴任時には颯爽としていたロシア人が、背を丸めて歩いているように見えました。貿易は売り買いともに大幅に落ち込み、手が付けられない状態です。いつもでかい顔をしている貿易公団も、元気がありません。

1982年帰国しました。この年ブレジネフが死にました。思えば1964年、私が始めてロシアに赴任した時、ブレジネフはフルシチョフを追い出して第一書記の座に付き、最後の勤めを終えて帰国した1982年に、ブレジネフは死にました。私は丁度ブレジネフ政権の時代にモスクワに出入りして働いたことになります。


ウクライナホテルの玄関を入るとポーターが沢山いまして、これが全部KGBです。当時爆弾テロはありませんでしたが、ウクライナは観光客の宿泊ホテルでしたので、KGBは外国人を見張っていたのです。今は金属探知機ですか。チェチェンやウクライナのテロを警戒しているのでしょう。

外国語の習得には読み書き話しの三つがあります。私の場合は秘書が居たので、とにかく話すことに集中しました。耳から聞いて頭を通さず、そのまま口にだす方法です。部屋にいる時は、ラジオをつけっぱなしにして、イントネーションを覚えました。

商談の外国語は話すテーマが決まっているので意外に易しいのです。日常会話は話題があちこち飛び回るのでずっと難しいですね。貿易公団とのレストランでの会食でよく出てくる一口ばなし、江戸小話のようなものが一番難しいですね。最後に落ちがあるのです。ウオッカを呑んで、したたかに酔っぱらっている状態で、聞き取るのは大変でした。

ロシア人は人間の原種のようなものと申し上げました。まあ子どもを想像してください。自分の利益になると思えば喜び、不利益にはふくれっ面で正直に反応します。日本人特有の思いやりは、ロシア人に大変有効です。一寸した贈り物がききます。


女性の芯の強さは相当なものです。娘を守ってくれた学校の校長、担任とも女性でした。チェルノブイリ事故の時、原子炉を覆う作業に兵隊が動員されました。強い放射能のため、作業は五分とか十分単位で交代です。

ロシアは徴兵制です。自分の子どもが作業に狩り出されていると知った母親が、徒党を組んで司令官の所へ怒鳴り込んだものでした。日本では考えられませんね。

軍隊内でのいじめでも、被害者の母親が最高責任者(司令官)に直接強烈な非難を浴びせます。司令官が当惑している写真を見たことがあります。

このように子どもの事になるとロシア女の本領が発揮されます。子どもを連れていれば、水戸黄門の印籠のようなものだと家内が言っていました。

最初は上が二歳、下が零歳でモスクワへやって来ました。ウクライナホテルのフロアーマネージャー(女)、鍵番のおばさん、掃除のおばさんの全員に可愛がられ、今でも家内はアメリカよりもソ連、特にウクライナホテルが面白かった、と言います。


●モスクワ・ディナークルーズ

ラディソン・ロイヤル・モスクワから発着するモスクワ・リバー・クルーズ。

大型レストランシップで、食事やアルコールを楽しみながら、ライトアップされた美しい景観を船上から楽しむことができた。



図37.モスクワ川のリバークルーズは、ラディソン・ロイヤル・モスクワから始まった



図38.クルーズ船が行き交う



図39.これはコロンブスの像?



図40.白亜の「救世主ハリストス大聖堂」 息をのむほど美しい



図41.遠くにクレムリンが見える



図42.クレムリンに近づいてきた



図43.「クレムリン大宮殿」の格調のある美しさに目を奪われる



図44.「クレムリン大宮殿」の右に「ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂」その隣に「アルハンゲルスキー大聖堂」



図45.宮殿と二つの聖堂が輝いている



図46.ライトアップされたクレムリンを守る城門のミドリが美しく愛らしい


追加 HM

ロシア民族について、歴史的には、ノルウェーから出て、キエフを通り拡散した民族です。西欧と違うところは、蒙古の侵略を受けている点です。いわゆる「タタールのくびき」が240年続いていますから、血が混ざらないはずがなく、紅毛碧眼が居るかと思えば、黒髪で何となくアジア風の人間もいます。

「砂の民族」とも言われます。強い力(圧政)で握っていなければ、ばらばらになります。ツァーリ(皇帝)から共産党まで、強い力で締め付けたのも、こういう民族性があるからでしょう。

協調が苦手な民族です。1914年、タンネンベルグの戦いは、協調性のなさの典型例でしょう。優勢なロシア軍が、数で劣るドイツ軍に殲滅させられた事例です。



8.ノダ 親しくなった時:1955年 19歳 大学1年 没:1991年

同じ高校だったが、親しくなったのは阪大医学部に入学した年から。教養課程を終えて専門課程に進むと一人の遺体を6人でする解剖実習があり、親しい友人ができる大きな環境だった。彼は大学卒業後1年間のインターンを経て、医師免許を取得し、1962年に阪大医学部第二外科に入局した。

1966年から、カリフォルニア大学ロスアンゼルス脳研究所に13年間勤務、1981年に米国東部のインディアナ大学視覚研究所の神経生理学主任教授として転任した。1991年に前立腺がんで亡くなった。




解剖実習


臨床実習 9.ノナ ノムラ 8.ノダ


臨床実習メンバー5名と卒業旅行

8.ノダからの手紙 1966年 ロスアンゼルスUCLA

もうそろそろX'mas気分で相当にぎわっている頃と思います。こちらは12月に入ってからは、あちこちにDecorationが見られ、X'masが来たなあという感じが町中にあふれています。しかし気候はまだ日本の10月初旬のそれで、まだ半袖で充分です。

私達も当地に参りましてはや4ヶ月になろうとしていますが、やっとこちらの生活に慣れ、研究の方も軌道に乗って参りました。こちらに参りましてDrivingを習いまして、約1ヶ月ほど前にChevroletの中古車を手に入れ、こちらの生活に不自由を感じなくなりました。しかし、こちらは道が良く、皆50マイル位のSpeedでとばしますので、まだその運転ペースにはついていけません。Los Angelesは非常にひろいため、どこへ行くにも自動車が必要で、1日平均150マイルは走ります。

車の売買は非常に簡単で、毎日の新聞広告の1/3は車の広告で、又、丁度日本の古本市のようなShopがあちことにあり、皆気軽に立ち寄っては Test drive をして買ったり、交換したりしています。価格も丁度日本でオートバイを買う位です。

私達のアパートにはガレージは1つしかありませんが、借家には車庫は必須条件で、高級アパートには2つ以上あり、駐車には困りません。

今私達の住んでいる所は大学の官舎のような形で、世界各国からの留学生が住んでいて、丁度1ブロック全体がまるで人種展のようで、ドイツ、メキシコ、南米、イタリー、オーストラリア、スイス、フランスなど、近所の人達は皆外国人です。

しかし、英語の勉強には都合が悪く、子供達もスペイン語を覚えたり、フランス語で話したりで、幼稚園に行っているひろ子だけが、まだ希望が持てますが、私も Wifeもおそらく英語が上達するところまでは行かないと思います。

私の大学での生活も、外国人が多く、M.D.だけを数えると、50%以上は外国からの留学生で、私のいる DrAdey の研究室でも、イギリス2、インド1、スエーデン1と10人近くの外国人がいて、皆勝手気ままな英語を話しますので、どれが正しい英語かわからなくなってしまいます。

私は今、小さいですが、自分一人で使える研究室を1つもらって日本の大学では教授並みの生活ですが、こちらでも、やはり部屋が少なく、外国人の中で独立した実験室をもらっているのは、私の他は3人しかいません。

こちらでも学位とPaper は必要で、先生が来られる時にも是非学位と英文のPaper を持って来られることをお勧めします。特に待遇の点で、Faculty であるか否かは大切で、仮に日本でであっても、留学奨学金で来た人は、こちらでは、日本の制度での研究生になってしまいます。その点、もし留学の話がありましたら、金の出る所とこちらでの身分を確かめてから決定されることが必要です。UCLAのBrain Research Institute にも現在7名の日本人留学生がいますが、同じPostoctrate でも、こんなに差があるかと思われる位に待遇が違うのに驚いています。

研究の点でこちらへきて特に良かったというのは、Tape(Recordする)やFilmが、不自由なく使えるのと、Computa(日本にはまだ一般化していない)を使える点だけで、特に精巧な機械があるわけではないし、学問的にも特に教えられる所はないと思います。特に私の研究している神経生理の領域では、日本もこちらも同じレベルにあり、先週も東大の伊藤先生の特別招待講演がありましたし、今週も東大脳研の島津先生の講義があるという風に、かえって日本から講師を招いている位です。

昨日5.ミヤの結婚通知がありました。君のは来春ですね。式の日取りなど、はっきりしましたら、なるべく早くお知らせ下さい。うっかりして、 10.ハマ君の事を忘れていましたが、もし彼の新居などわかりましたらお知らせ下さい。まだ彼からは何の連絡もありませんが、たしか10月に結婚なさったと思いますが、私も生活がまだ地についていませんでしたし、気分的にも余裕がございませんでしたので欠礼しました。 よいX'masとよいお正月をお迎え下さい。


8.ノダからの手紙 1969年 ロスアンゼルス

野村君 全く御無沙汰いたしました。昨年暮れ一外の松岡先生が Los Angeles に来られた際に貴君が第一外科の中堅として活躍されている様子をうかがいました。人工心肺 Group のLeaderとして大事な任務をはたされている有様目に浮かぶようです。また、その毎日の生活の忙しさもよく想像できます。

私の方は臨床からますます離れて、現在はどのようにして今の研究を臨床に役立つものに近づけるかと苦心しています。しかし、脳の生理学は誠に難しく、いまだに夜明け前という感じがいたします。UCLAの Brain Research Institute へ来て3年間、私も貴君に負けないくらい努力はいたしましたが、何分 background の不足と start の遅れは大きく、いつも私を悩まして来ました。主としてこちらでやった事は、数学のreview と compputer の生理学への応用でしたが、この領域ではまだ日本は遅れ、私の勉強したことが、いつ日本で役に立つかは、見込みすらたたない状態です。

今回、私は UCLA から離れ西ドイツのミュンヘンにあるマックス・プランク研究所の神経生理学に移ることになりました。計画している共同研究の都合でどのくらい滞在することになるかはまだ未定です。

私はこちらで離れ小島にいるようで、今、日本でどうなっているかも新聞で知る程度です。もし暇がおできになった時近況(貴兄個人の)をお知らせ下さい。10.ハマ君、11.ノナ君にも同様御無沙汰し、お詫びの申しようがないのですが、もしお会いになればよろしくお伝え下さい。


8.ノダからの手紙 1972年 ロスアンゼルス

野村君 お手紙ありがとう。私のように日本から離れていますと、親しい友からのたよりが何よりありがたく、殺風景な当地の生活に、一陣の温風が吹いた感じです。日本に居た一年間、互いに忙しくて、ついに落ち着いてお話する機会もなく、再度の渡米となってしまいました。

○○君から9.ノナ君が亡くなったとの通知を受け、信じがたいながらも、きっと交通事故だろうと思っていました。彼のように頑丈な男が病死とは考えられませんでしたし、まして発作的とは云え自殺とは。彼のような身近な友をなくすと、ふっと自分もどうなるかわかったものではないと、不安にかられます。

彼とは数回顔を合わせたのですが、ついにうちとけて話をする機会を逸してしまいました。丁度彼の学位論文が出来かけた頃でしたし、私の領野と関係のある仕事でしたので、岩間先生から私と話しをするように指示され、研究の内容を話題にしたためでしょうか、随分とへりくだって、以前の9.ノナ君とは別人のように感じました。

しかし、岩間先生の後援もあり、無事学位をとった後でもずっと距離を保っているようでしたので、一度君をまじえて一つ、彼の学位のお祝いをしようという話まで進んで、ついに互いに時間を見つけ得ないままになってしまいました。

全く残念です。あたら理由が何であれ、何故馬鹿な事をと腹立たしくさえあります。彼のようないいヤツがどうして早く世を去るのか ましてや家庭まで持った男が 本当に信じ難く、悪夢であればと思います。

君も相変わらず忙しく頑張っていられること○○君から聞きました。初志を貫く君がうらやましく思います。私自身も臨床を決してあきらめてしまったわけではなく、この次に帰国する時には君のように開業しようと考えています。小豆島にいる○○君とも話したのですが、私も故郷へ帰ることを夢見ています。

目下の所きびしいですが、研究が順調に進み、世界の学者達と歩調を合わせることができていますが、日本にいると仲々むつかしく、特にめぐまれた施設にいる数人にしか許されていないぜい沢をして、はじめて遅れずについて行けますが、それ以後の研究はかなりきつく、マラソンのように一歩遅れはじめると、もう駄目のように思えます。従ってその時がくれば、いさぎよく臨床に戻るつもりです。


8.ノダからのハガキ 1972年 ロスアンゼルス
野村君 がんばっていますか。もうすでに貴君の理想としていた病院の運営にのりだしていますか。私の方は相変わらず、研究所の一室で、ネコを相手に、何故ネコの目は見えるのだろうなどと一生懸命考えています。臨床とはもうすっかり遠くなってしまい、十年間も何のために勉強したかなど考えないこともありません。


8.ノダの1972年以降の消息
米国西部のカリフォルニア大学ロスアンゼルス脳研究所に13年間勤務の後、1981年に米国東部のインディアナ大学視覚研究所の神経生理学主任教授として転任し、1991年に前立腺がんで亡くなった。



9.ノナ 親しくなった時:1955年 19歳 大学1年 没 1971年

大阪大学医学部に入学以来9.ノナと親しくつきあった。彼は土佐のいごっそうらしく頑固なところがあり、国粋主義というか、日本主義というか、私と発想が違うところが面白く、よく議論を楽しんだ。

京都のピカソ展で、ピカソが子供のころに描いたたくさんのスケッチに圧倒された時、ゴッホ展で「アルルの跳ね橋」に魅せられ、そのレプリカを買った時、いずれも彼と一緒だった。

グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン主演、ワイラー監督の映画「大いなる西部」も、彼と観た。これはものすごいガンファイトの痛快西部劇だった。彼はディーン・マーチン扮するアル中の保安官助手に、妙に親近感を抱いたようだった。ディーン・マーティンが酒場の梁の上に潜む敵を、ビールのグラスに滴り落ちる血で悟り、振り向きざまにファンニングで打ち落とすシーンは、今も鮮やかに記憶に蘇る。

1961年に大学を卒業し、彼は実家のある高知市でインターン生活を送っていたが、京都府立医大の学生の弟さんが交通事故で亡くなった。

1962年の彼からの手紙には、「えらく遅い拝復になり恐縮です。過日1月21日、弟を京都で交通事故で亡くし、雑用にかまけました。日頃は気にも留めないのですが、居ないとなると大部参りました。一人になってみると、自分の責任の重いのに驚いています。一日も早く昔の楽しかった生活を取り戻したいと思っているのですが、自分の進路を大部変えないといけなくなりました。具体的なことは親の気持ちが落ち着いてから決めるつもりですが、国家試験が済んでからにしたいと思っています。」

思いもしない出来事に彼は強烈なショックを受けたことだろう。インターンを終え、国試に合格して医師となり、普通なら阪大のどこかの科に入局して医師生活を始めるところを、ご両親の気持ちが落ち着くまで、すぐ近くの徳島市民病院に就職した。翌年には結婚し、大阪に戻り、阪大第二内科に入局した。



徳島市民病院連の浴衣で阿波おどり


私の結婚披露宴で友人代表として祝辞

私の方は国試合格後、阪大第一外科に入局した。ここは学内一のハードトレーニングで有名で、そのハードの程度は、還暦を迎えた旧友あい集うに詳しく書いた。この入局の日から後は超多忙な毎日を過ごし、彼と話す機会も殆どなく無く時間が過ぎた。

1971年の年の暮れに、悲しい知らせが届いた。彼が、東京で学会発表をした後、自死をしたというのだ。その知らせを聞いた途端、 頭に浮んだのは、彼がその夏の暑中見舞いでくれた葉書の文面だっ た。

「暑中お見舞い申し上げます。御厚情感謝します。最近やっと自分が判りだしました。貴君の立派な態度を心からうらやましく思います。どうか宜しくお願いします。」

55年に大学に入って以来、彼とずっと親しく付き合ってきたが、このような弱気なところを見せたことはなかった。彼も大学紛争の中でいろいろ悩んでいたことは知っていたが、私が大学をさっさと辞めてしまったことが、彼を責めるように働いたのだとしたら、申し訳ないことをしたと思った。

それも、私はむしろ喜んで大学を辞め、次の目標に向けて、希望を持って歩み出している途中の訃報だったので、そのことを伝えられなかったことが残念で仕方がなかった。こうして私は、妹、母についで、また非常に親しい人を失ったのである。


10.ハマ 親しくなった時:1955年 19歳 大学1年 没 2019年

10.ハマ君とは入学当初から親しく、油絵の手ほどきをしてもらい、彼にはクラシック・ギターの手ほどきをした。私の油絵は続かなかったが、彼はクラシック・ギターの教則本を独学でマスターしたようだ。

絵を愛し、音楽を楽しむ彼は、学生時代からもの静かで、思慮深く、思いやりのある人だった。まじめで、悪ふざけなどとは無縁だった。



臨床実習 8.ノダ ノムラ 10.ハマ

私から10.ハマへの手紙 2004年

この度は貴兄の著された「小腸の造影診断」をご恵贈下さりありがとうございました。内視鏡、CT、MRI検査の及ばない領域の造影診断という重要な診断法について、長年のご経験をまとめられ、放射線科医はもちろん一般臨床医にも役立つテキストブックを出版されたことに感服いたしました。小生は間もなくリタイア致しますが、大切な蔵書にさせていただきます。

昨年の作品を拝見した時にも思いましたが、貴兄の描かれた水墨画はモダンで凛とした気品があると感じました。雅印の朱色を目にして、これが真紅であればまた違った感じがするかな、などと思いましたが、それは邪道なのでしょうね(笑)。

お会いした時に申上げましたが、来年のゴールデンウイークから中之島のマンションに転居します。その前に貴兄ご夫妻をお招きして、いろいろお話を伺いたく思っております。是非お越し下さい。

私のライフワーク的作品「歌と思い出」と「心に生きることば」を同封いたしますのでご笑納下さい。いずれも、ホームページに掲載してきたもので、これを書き終えた時には、死ぬ時の合格最低点60点は何とかクリアーできたと思いました。

「歌と思い出」の[昭和35年]の2で「再会」、昭和40年の7で「忘れな草をあなたに」で貴兄と奥様のことを書かせていただきました。

「心に生きることば」第4章:行動の◆19<逆境不運>で、「稀な事象とポアソン分布」、第6章:思考 ◆04<質と量>4で、「1は0と比べて無限大である」に貴兄のことを書かせていただきました。


私から10.ハマへの手紙 2010年

やっと秋らしくなって参りましたね。

ミュージカル「らくだのダンス」公演からちょうど1ヶ月が過ぎました。その節には、猛暑の中、ミュージカルにお越しいただきありがとうございました。

あの時の記録をまとめて、私のサイトに「ミュージカル物語」のタイトルで掲載いたしました。その印刷したものをお送りいたします。写真はWebで見るほうがきれいですが、印刷したものの方が読みやすいと思います。

また、出演した場面の写真に、会場での録音を加え、スライドショー形式のDVDを作りました。ご興味がおありでしたら、ご覧いただければ幸甚です。

このDVDについても、Webに記事を載せていますが、この録音のところどころに、1歳10ヶ月の孫娘の声が入っています。

主催者は、小さい子も一緒に楽しめるミュージカルを目標としていましたから、これは臨場感を高める効果音とお考えいただければありがたいです。人並み以上の爺バカで申し訳ありません。


2016年に開かれた彼の水墨画個展の鑑賞を終えて、お茶を飲みながら交わした会話から、面白いことを知った。高校の受験勉強時代に、彼は絵を描くことで息抜きをしていたという。私は、同じとき、昼休みになると校内の図書館に行き、平凡社の世界美術全集 全36巻を眺めることを日課にしていた。この全集は、図書館の本棚1列を全部占めるほどの大部だったのを覚えている。他に、エコールドパリの美術書も、この頃から眺めはじめた。

しかし、絵は鑑賞に留まり、描くという方向には進まなかった。音楽は鑑賞よりも、歌うことで、暗い高校の受験勉強時代を乗り越えた。それはシューベルトの歌曲集「冬の旅」だった。

受験勉強時代に、私たちにとって、絵画や音楽が助けになったというこの話は興味深かった。

生き方についても、似たところがあることに気が付いて面白いと思った。それは「アングルのバイオリン」的な生き方である。

フランスの新古典派と云われたアングルが、職業である画家としての評価よりも、趣味であるバイオリンで評価されることに、より重きを置いていたという話である。

私も、職業である医師として評価されるのは当然のことであり、いい加減な評価ではむしろ不快になるかも分からない。しかし、余技の上での評価(これはほとんど自己満足と同じ意味)を大切に思って来た。

10.ハマも放射線科専門医として名をなした人であるが、趣味の絵画(水墨画)を大切にして来た人だと分り、嬉しくなった。その集大成である今回の個展に招待されたことをありがたく思った。

医学部の専門課程に進むと、解剖学の実習がある。私たちの時代は、一人の献体を6名で解剖した。この解剖実習を通して、結びつきが強くなり、友情が生まれた。そのメンバーは、8.ノダ、9.ノナ、野村、10.ハマ、○○、○○である。この6名の内で、生存しているのは、私一人だけになってしまった。私も、まもなくこの世を去るだろう、悔いることなく。


11.ハマ 親しくなった時:1962年 26歳 医師1年目

11.ハマと親しくなったのは阪大第一外科に入局した1962年26歳時からである。彼は雄弁な熱血漢であるが、フルート演奏を趣味とし、音楽をこよなく愛する繊細優雅な神経の持ち主でもある。私たちの結婚披露宴ではグルックの『精霊の踊り』を演奏してくれた。



グルックの『精霊の踊り』

彼は2003年1月、診療中に突然脳卒中で倒れて救急担送され、奇跡的に一命をとりとめた。80歳を迎えたのを記念して、それまでに執筆、投稿した文章をまとめ、「折々の思い」という名前の書籍を出版した。その中から彼らしい一篇を転記する。


生きる 人間機関車転覆の記

”春は名のみの風の寒さや 庭のウグイス歌は思えど 時にあらずと声もたてず
 時にあらずと声もたてず”

懐かしい小学校の唱歌を今、口づさむとは思いもよらなかった。居間から庭先の紅梅をぼんやり眺めている私が、初老のウグイスになったようで、可笑しくてしょうがない。67年間、真一文字に走り続け、瞬時にしか目に映ることのなかった蕾、あの小さい紅い蕾がゆっくりと膨らんでいく様子がはっきりと判る。

突然高血圧と脳出血に倒れ、岸和田市民病院に搬送され、九死に一生を得、後遺症もほとんど残さない奇跡的な生還に、家族は勿論私自身も驚いている。そして日を重ねるにつれて喜びはますます募るばかりである。当日、混乱した状況の中で、冷静に対処してくれた私の診療所の職員ら、活躍下さった救急隊、市民病院の医師を始めパラメディカルの人達に心から感謝している。

平成15年1月24日午前8時半頃、私が診療を始めようと椅子から立ち上がった瞬間、体がぐらぐら揺れた。数名の看護婦に頭を打たないように支えられながら、診察台の上に倒れ込んだという。昏睡、全身の強直性痙攣、呼吸停止、チアノーゼなど一見して死の様相を呈していた。

一人は人工呼吸、一人は補液路の確保、一人は着衣の除去、そして軌道の確保など迅速適切な対応で間もなく呼吸は回復し、チアノーゼは消退した。短時間の呼吸停止が脳のダメージを極力少なくしてくれたのだと思う。痙攣の時、舌を噛まないように開咬器を挿入したため門歯が2本折れ、口唇の間から覗いて見える。酸素マスクを装着された私は、昏睡状態のまま乱れた現場をあとにして、妻とともに救急車で走り去った。

どれ位の時間意識が無かったのか定かでないが(妻は1時間半という)、淡い透き通った美しいピンク色、シクラメンの色に喩えられるのか、その空間に仰向けになって気持ち良くふわふわと遊泳しているのである。落下する恐怖心もなく、どこへ流れていくかという不安もなく、ただふわふわしているなと思っていると、急にパッと目が覚めた。

この桃源郷といえる世界は、フランス印象派の画家、クロード・モネの描く「印象日の出」を想像されたい。詩的魔術というのか、明るい太陽の光線に照らされた微妙に変化する自然の表情、モネ独特の光の賛歌のハーモニーと優雅な色彩がにじみでた爽やかな空間であった。

目の前に救急部の美人の女医さん、しばらくして駆けつけた息子夫婦、娘、母、妻、脳外科医の顔が見えた。この覚醒は極めて気持ちの良いもので、頭が軽く、頭痛、悪心、嘔吐、眩暈などの脳圧亢進症状もなかった。

医師『どこか分かりますか?』私『岸和田市民病院でしょう』どうして咄嗟にそう思ったのか不思議である。医師『はなせますか?』私すらすらと言葉がでる。医師『両手が動きますか?』私『この通り動きますよ』と手ぶり身ぶり、下肢から足先まで確かにしっかりと動かしながら得意そうに見せる。覗き込んでいた人達の顔に一瞬ホーッと安堵の様子。次の瞬間、言葉が出て麻痺もなく、脳圧亢進の無いことを悟った私は、飛び上がらんばかりの歓喜と亢奮に上気し、とめどもなく言葉が溢れ出る。まわりの人達があまり喋り続けるのでマスクをするぞと制された。

美人の女医さんと脳外科医は私に脳CTの写真を示しながら、『右後頭頭頂部の出血塊は急所を外れているので手術をしないで経過をみましょう』と。又、又、歓喜と亢奮が全身を走り抜けた。臨床医の立場から脳出血の病態と経過、後遺症など最高血圧240、最低血圧120では動脈が敗れるのは当然であり、その結果の軽さに思わず手を合わせた。

生来病気知らず、血圧など測ったことがないと自慢していた私が、忍び寄る歳の変化に足もとをすくわれた。ペルジピン、グリセオール、止血剤の点滴により血圧は正常値にコントロールされた。更にMRI検査で脳の血管に異常が確認されず、西3階脳外科病棟の患者となった。アムロジン、ブロプレス、デパケン等を服薬し症状が安定したので、2月3日退院した。

精神神経科医の兄が岸和田を訪れたので、事の成り行きを説明し、あの昏睡時に私が見たと思った桃源郷の世界(臨死体験?)を得々と話していたら、『あんたあれは幻覚だよ』と一笑された。しかし、あれ程美しい気持ちの良い体験は今もしっかりと記憶に残っている。そう言うと『幻覚には様々な種類があって、あんたの見た美しい気持ちの良いものから、恐ろしい不愉快な気分の悪くなるものまでいろいろだ。精神病者は後者の方、よくない方の幻覚だな。あんたのは良質の幻覚だよ、ハッハッハッ。麻薬中毒者はこの美しい気持ちの良い幻覚を追っかけて麻薬の虜になってしまうのだよ。』

後頭頭頂葉の視覚領域に病変や刺激が加わると幻覚が生まれるならば、あの印象波画家の絵は良質の幻覚が描画されたのではないかと考えるのは思い過ごしだろうか。

春の日のあたたかい陽射を浴びながら、感謝感謝の毎日である。

私が最も愛好するバッハのカンタータ「心と口と行いと生きざまは」(BWV147)のコラール《主よ、人の望みの喜びよ》が心に深く響いてくる。

幸いなるかな、われはイエスを得たり。
おおわれはイエスをいかに固く抱きしむるか、そはかれ、わが心を慰め活かしたもうゆえに、わが病みて悲しみおるときしも。

イエス、君をわれは得たり。

かれわれを愛し、おのが身をわが身代わりに与えたまえり、ああ、さればわれはイエスを離しまつらじ、よし、わが胸は破れ果つるとも。

私の前半人生は妻を後ろに従えて縦に突っ走てきた。これからの後半人生は手を組んでゆっくりと歩みたい。神のご加護がありますように!


折々の思い」に載せられた最後のことば

〜おわりに〜

ある医師仲間と顔を合わせると、いつも70歳を生きたら後の余生は”もうけけもの”と

いつの間にか80歳を迎え、あれから”もうけもの”の時を過ごしてきた。

一度この辺りで立ち止まりふり返ってみて、これからどのような”もうけもの”の人生を過ごそうかと胸おどらせている。


ある医師仲間というのは私のことに違いないが、私は「70歳を生きたら後の余生はもうけけもの」と言ったことも、書いたこともない。それに似たことばは、私のサイトに載せた死期を想定して生きるという記事の中で書いた「オマケの人生」がある。

いろいろの条件を勘案して、想定した死亡時期であるが、それを越えて命があるかもしれない。そうなれば、それからは「オマケの人生」、したいことをしても良し、しなくても良し、目標を決めても良し、決めなくとも良しである。

また、逆に想定死亡時期まで命が続かない場合もあり得る。その時は、それがさだめ、満足ではないが、後悔しないで死んでいく。

このオマケの人生は「死期を想定した生き方」に連動している。「オマケ」を期待するわけではないが、あれば嬉しいし、あるかもしれないと思うだけでも楽しくなる。

もうけもの」人生と「オマケ」の人生という言葉に、その人の生き方がよく表れていて面白い。


12.モリ 親しくなった時:1962年 26歳 医師1年目 没 2003年

12.モリと親しくなったのは、11.ハマと同じく阪大第一外科に入局した1962年26歳時からである。彼は毒舌家と言われていたが、根は優しく、思いやりのある男だった。彼とは気が合い、親しく付き合ってきた。私の結婚披露宴の司会を彼に頼み、彼の披露宴の司会は私が引き受けた仲である。司会を頼まれたとき、初老で結婚やなとからかったのを思い出す。



12.モリ邸にて

2003年5月1日に、院長を務めた近畿中央病院で最終講義をしている最中に倒れ、そのまま死亡した。死因は急性大動脈解離だった。訃報を知った日の翌日に息子の結婚式があり、私はイタリアのフィレンツェに居た。

その時の気持ちを私のサイトに載せた。それを転載する。


喜びと悲しみ

一方で、身近な者が喜びに浸っているときに、離れたところで、身近な者の悲しみが同時に進行しているようなことは、滅多にあるものでない。それは、私にとって、生まれてはじめての経験だった。

5月2日の午後、翌日の息子の結婚式のために、私たちはイタリアのフィレンツェにいた。そこへ、日本のJTBの担当者から、「12.モリ先生が急死されたので、留守宅に電話をするように」との電話が入った。耳を疑って義兄に電話をすると、「5月1日に、近畿中央病院で最終講義をしている最中に倒れ、そのまま死亡した。死因は急性大動脈解離のようだ。告別式は明日になっている」と言う。

その後、ミケランジェロのダビデ像を見るために、妻と息子の3人で、フィレンツェのアカデミー美術館に入ったが、私は「ピエタ」の像の前のベンチに座り込み、12.モリ君のことを思い出していた。後で聞くと、1時間以上もほとんど黙り込んで、考えごとをしていたと言う。

今年の1月に、一緒に入局した11.ハマ君が脳出血で倒れ、呼吸停止をするほどの重症だった。それが奇跡的に回復し、退院をしたとの知らせを受けたとき、同期入局の7名で作っているメーリングリストに、彼が書き込んだ文章を、その時真っ先に思い出した。

「人生50年とは野村君から教わった諦観で、いつも家族に言っていますが、同級生がそうなると、いささか寂しい思いです」

人生の短さを説いて来た私が未だ生存し、それを半ば冷やかして聞いていた12.モリ君が、突然死するとは、何と言う皮肉だろう。彼は国立近畿中央病院の院長を務め、昨春定年退職したばかり。ようやく、自分の人生を楽しむことができるようになった矢先の不幸である。その上、ご子息は未だ学生であり、さぞ、心残りだっただろうと思うと、痛ましかった。

彼に、私の結婚式の司会をしてもらい、彼の結婚式の司会を私がした仲だった。次々と、思い出が頭に浮かぶ。そして、どうすることもできない運命というものを、痛切に感じた。妻も息子も彼のことをよく知っている。黙りこくっている私の横に座って、二人はことば少なく話しかけてくる。息子は、自分の結婚式のために、私が友人の告別式に出席できないことを、なぜか、しきりに詫びるのだった。

詫びられる理由など何もない。息子もそれは分かっているが、何かを話さずにはいられなかったのだろう。その時、これは彼が最後にくれたプレゼントだという閃きが、突然私を襲った。幸せの絶頂にある息子たちに、「いつ死が訪れるか分からない。人の命は誰にも分からないものだ。だから、死ぬときに悔いがないように、思いっきり生きるんだよ!」と教えてくれた。そうに違いないと思ったら、少しほっとした。

私は若い頃から、命の短さを絶えず思って生きてきた。だから、息子や妻にそのことを何度も話してきたと思うが、二人はあまり気に留めていなかったかもしれない。しかし、身近な人の突然の死は、生と死について真剣に考える強い動機となりうる。彼の死は、息子やその配偶者となる人に、人生の出発点で一番大切なことを教えてくれたのだと感謝した。

翌日早朝、妻とドゥオーモ付属美術館を訪れた。ミケランジェロの「ピエタ」を見るためである。今回の旅行では、ミケランジェロの4つの「ピエタ」を全部見ることができた。「ピエタ」とは、死んだキリストを抱く母マリアの絵や彫刻である。それらの「ピエタ」像に感動しているところへ、No12.モリ君の訃報が届いたことに、運命的なつながりを感じてしまった。

11年前の最初のイタリア旅行で、非常に感動したものの一つが、サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの「ピエタ」だった。今回の二度目のイタリア旅行で、ヴァチカン博物館にあるこの「ピエタ」のレプリカを身近で見た。その後で、サン・ピエトロ大聖堂の入り口にある本物を見たが、前回ほど感動しなかった。


サン・ピエトロのピエタ  2003年撮影

次に、ミラノのスフォルツェスコ城にある「ロンダニーニのピエタ」を見た。ミケランジェロが死の間際まで、のみをふるい、手直しを続けたと伝えられている未完成の遺作で、サン・ピエトロ寺院の「ピエタ」の全く対極にある彫刻である。

この「ピエタ」を見たとき、心の深いところからこみ上げてくる感動を覚えた。それは、妻もまた同じだったようだ。25歳で制作した「サン・ピエトロのピエタ」は完璧であり、それを最初に見たときには、涙が出るほど感動した。それから11年後、完璧な「ピエタ」よりも、一見稚拙とも見えるこの未完成の彫刻に魅せられ、感動したのはなぜなのだろうか?

ミケランジェロが、死ぬ数日前まで彫り続けていた作品であるという予備知識だけで、この感動を説明することはできない。人は完全な美しいものに感動するが、必死で自分の望むものを創り上げようとしている、完成途上の作品に対して、より一層、胸を打たれるのかもしれない。あるいは、私たちが、もう人生の終わりに近づいているためかもしれない、などと考えたりもした。


ロンダニーニのピエタ  2003年撮影

そして、アカデミー美術館にある「パレストリーナのピエタ」を見ようとしている時に、森 隆君の急死の知らせを受けたのである。この「ピエタ」の像を前にして、ひたすら、彼のことを思い続けていた。


パレストリーナのピエタ  1992年撮影動画より切り出し

その翌日訪れたドゥオーモ美術館は、開館直後でほとんど人気はなく、「ピエタ」をじっくり鑑賞することができた。こちらも未完成の作品であるが、「ロンダニーニのピエタ」と違って完成度は高く、やはり感動した。「サン・ピエトロのピエタ」はマリア像が美しかったが、こちらは、キリストのおだやかな顔に魅かれた。ミケランジェロは晩年、死への思いを込めてこの「ピエタ」を作り、自らその下に埋葬されることを望んだという。


ドゥオーモのピエタ  2003年撮影

ミケランジェロが4つの「ピエタ」を制作した年齢まとめてみると、「サン・ピエトロのピエタ」は23歳で着手し、25歳で完成。「ドゥオーモのピエタ」は75歳で着手したが未完成。「パレストリーナのピエタ」は80歳で着手したが未完成。「ロンダニーニのピエタ」は84歳で着手し、89歳で亡くなる数日前まで、彫り続けて未完成に終った。

ヴェッキオ宮殿で息子たちが結婚式を行った翌朝、私たち夫婦はフィレンツェを発ち帰国した。帰宅してすぐに12.モリ君の家を妻と二人で弔問し、奥様とご子息にお目にかかった。家の中は予期しない不幸を表して痛々しく、お気の毒でたまらなかった。ご子息が、ご自分で書かれた告別式での挨拶文を、読ませていただいたが、突然の不幸にも関わらず、立派な文章であるのに感動した。遺影として、近畿中央病院の院長室に飾られていた写真が置かれていたが、知的で温和な彼らしい良い顔が微笑んでいた。それを見ながら、彼の冥福を祈った。



13.マツ 親しくなった時:1995年 59歳 開業23年目

No13.マツとは、開業医となって23年目、59歳から親しく交友を続けてきた。彼も同じ交野市医師会の会員で、3歳年下、お互いオールディーズの歌が好きで、気が合い、アルコールに強く、午前1時、2時まで飲んで歌っても、一度も酔いつぶれたことはなく、二日酔いも知らない。

彼と一緒に過ごした中で、一番生きている喜びを味わった夜のことを生きている喜びのタイトルで私のサイトに載せている。その記事をここに転載する。


生きている喜び

●サマリー

2013年2月中旬の週末の寒い夜、友人と飲み、食べ、語り、歌った。同じ経験をこれまで何度もしてきているのに、今回は生きている喜びを一番強く味わった。

●ストーリー

午後6時から、ホテルで天麩羅を肴に、ビールとワインを飲みながら、シェフも交えて会話を楽しみ、そのあと、ラウンジでコーヒーを飲み、白人女性歌手のジャズヴォーカルを聴いた。

8時過ぎから、ピアノとサックスの生演奏がある生オケのクラブに行き、オールディーズを2人で数曲歌った。友人は、「ロシアより愛をこめて(From Russia With Love)」を今回初めて歌って上機嫌、私は「想い出のサンフランシスコ (I Left My Heart In San Francisco)」や「モナ・リザ (Mona Lisa)」などを歌った。生演奏はカラオケにないムードがあり心地よい。

1時間ばかりでその店を出て、友人行きつけのクラブでカラオケを楽しんだ。ここのホステスは品が良く、歌好きで、歌や歌手を良く知っている。そして、ほめ方が上手い。これは友人の店を選ぶセンスが、関係しているのだと思う。

ここで、9時ごろから午前1時過ぎまでの4時間ばかり、シャンパンや水割りを飲みながら、二人で2〜30曲歌ったと思う。

私が覚えているのは、「スター・ダスト(Star Dust)」「トゥー・ヤング(Too Young)」「ハワイの結婚の歌(The Hawaiian Wedding Song)」「好きにならずにいられない(Can't Help Falling In Love)」「ラブミーテンダー(Love Me Tender)」で、あとの二つは、私の声がエルビスに似ているからとリクエストされたものだった。

日本語の歌は、布施明に声が似ていると言われて歌った「霧の摩周湖」と「シクラメンのかおり」、店を出る前に歌った「また逢う日まで」、私が頼んでデュエットした「浪花恋しぐれ」を覚えている。

帰宅して、妻に楽しかった一部始終を話し終えると直ぐに眠ってしまったようだ。翌朝8時過ぎに目が覚めた。二日酔いはなく、気持の良い余韻を味わいながら、お礼のメールを友人に送った。

●ヒストリー

この友人と、ミュージカルやコンサートを一緒に鑑賞したあと、飲んで食べて喋って歌うという交友が始まったのは、1995年からである。その交友は、私がリタイヤする2005年までの10年間では年5〜6回以上あった。

引退後も、年に2回は機会を作って誘ってくれるので、合せて18年になる。

ミュージカルやコンサートの鑑賞は2009年の「ウィキッド」で終わり、それからは、それらを省いた今回のパターンになった。

友人も私もアルコールには強く、午前1時、2時まで飲んで歌っているのに、一度も酔いつぶれたことはない。二日酔いも知らない。だから、この友人と出かけるときは、妻はあまり心配をしていないようだ。

●アナリシス

私たちのような交友関係は珍しいのではないかと思う。私には、このような交友はほかにはない。そこで、どうしてこのような交友が18年間も続いたのかを分析してみた。

1.生き方
私たち二人は、人生をエンジョイしようと生きている。どのようなことに、どのような仕方でエンジョイするかは、それぞれ違うところはあるが、生き方の根本にこれがあることは大きく関係しているだろう。

2.音楽
音楽好きはたくさんいる。しかし、1)英語の歌を歌うのが好きで、2)ミュージカル鑑賞が好き、3)好きな共通の歌手にトリオ・ロス・パンチョスがいるという条件が付くと滅多にいるものではない。英語の歌も50年代、60年代のいわゆるオールディーズが好きとなると、もっと少なくなるであろう。

暗譜で、二人とも2〜30曲は英語の歌を歌えるし、歌詞があればその倍以上歌えるはずだ。

もちろん、私たちそれぞれは、これら以外の好きな音楽を持っていて、その方がはるかに多いのだが、、、

3.非日常を楽しむ
「非日常」いわゆる(ハレ)では、思いっきり楽しもうとする志向がお互いにあり、高級な、場所や料理や雰囲気を好むところも似ている。

私の場合はハレよりも日常生活を楽しもうとする気持の方が強く、それは例えば、夕食時のしみじみとした幸せであったりなど、いろいろあるが、数少ない「非日常」では、目一杯楽しもうとする。

4.アルコールが強い
アルコールに強いもの同士でないと、このような交友はありえないのは当然であり、そのような身体に生んでくれた両親に感謝している。

5.信頼関係にある
私は友人として必須の条件は、「裏切られないという安心感」ではないかと思ってきた。私たちには強い信頼関係がある。友情とか敬愛というのは気恥ずかしいが、それに近い感情かもしれない。

友人は私より3歳年下であり、ことばづかいには、それ相応の気配りはある。しかし、それだけのことで、お互いの信頼感情は強い。

6.干渉しない
二人とも個性の強い人間であるが、お互いに干渉することはまったくないし、頼まれなければアドバイスもしない。

7.独自の趣味を持っている
二人は、それぞれ、他の人には真似のし難い独自の趣味を持っているが、それについてはほとんど話題としない。

8.相手を思いやる会話
これは私にはなく、友人の持つ優れた長所だが、例えば、食事をしながら、シェフや仲居さんと気軽に楽しい会話を弾ませ、温かい雰囲気にする。

9.相性が良い
なんだかんだと分析し、理屈をつけてはみたが、要するに相性が良いと言うことだろう。

10.家族の容認
本人同士が良くても、その家族の容認がなければ、このような交友関係は長続きはしない。幸い、両方の妻はこの交友に好意的だったし、今もそれは変わらない。

11.聴いてくれた人が良かった
1〜10の要素は、18年間続いた私たちの交友関係を説明するのに充分だろうと考える。しかし、今回、生きている喜びを一番強く味わった理由の説明は、それだけでは不充分で、それに加わったもう一つの要素が関係している。

それは、歌好きで、歌に詳しく、歌の上手な人からもらった感想だ。歌い終わると直ぐに心のこもった感想が返ってきた。

私は歌好きで、絶えず鼻歌か頭で歌い、時に発作的に大声を出し、自己陶酔的に歌うことはあるが、人に聴いてもらいたいと思ったことはほとんどない。だから、聴いてくれた人の感想も、あまり意識に残らないのだが、今回はいつもと違って、心の深いところにまで届いた。そして、生きている喜びを存分に味わった。

●まとめ

最近、生きている喜びを存分に味わう体験を持ったので、それに関して過去の資料なども参考にして、まとめを書いた。

「生きている喜び」という発想が出てくる大きな原因は、孫娘が遊びに熱中する姿から受ける感動ではないかという気がする。これぞ生きている喜びと心底から思ってしまうのだ。



14.アカ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目

14.アカとは開業医となって24年目の60歳から親しく交友を続けてきた。彼も同じ交野市医師会の会員で、1歳年下である。彼についての心に残る思い出は、2001年8月に、彼夫婦と私夫婦が一緒に旅行したエーゲ海クルーズ旅行で、旅行記をエーゲ海クルーズ 目次の順番で、私のサイトに掲載している。


その内の「アムステルダム」、「アテネ1」「アテネ2」を転載する。



エーゲ海クルーズ

アムステルダム

二組で旅行することになったわけ

14.アカ夫妻と私たち夫婦が、同じ時に、同じところへ行こうとしているのが分かったのは、4月14日のことだった。T某の講演会に動員されて梅田に出た帰り、JR北新地駅のエスカレータに乗っている時のことである。

「今年の夏はどこへ行かれますか」 『エーゲ海に行く予定です』 「そうですか、私たちもエーゲ海へ行くつもりです」 『おどろいた! それじゃ一緒に行きませんか?』 「行きましょう」 『楽しくなりそうですね(笑)』 「きっとハプニング続きになるでしょう(笑)」

かくして亭主たちは意気投合し、即座に、エーゲ海旅行を共にすることに決めた。帰宅してその話を聞いた奥方連は、どちらも一瞬悲鳴をあげた。気を使うからしんどいと言うのだ。しかし、少し時間が経つと、二組旅行も面白そうだと乗り気になってきた。やれやれ。

キャンセル待ち

5月の連休のハワイ旅行から帰ってJTBを訪れると、予定していたお盆休みのエーゲ海クルージングは既に満杯である。仕方なく、予定より1週間早い日の出発のツアーを予約し、キャンセル待ちをすることになった。14.アカ夫妻に旅行のことをまかされていながら、この始末では心が重く、キャンセルが出たとの知らせを受けた時には、思わず小躍りをしてしまった。

出発前にハプニング

出発の2週間前の日曜日、14.アカはテニスをしていて、右下腿筋の部分断裂で出血。みるみる脚は腫れあがり、受傷直後は全く歩けなかったそうである。さあ、大変、旅行をどうするのか? 一番下のお嬢様は絶好の機会とエーゲ海クルーズを狙われ、父娘でエーゲ海争奪戦を演じているようだと漏れ聞くと、私も気が気ではない。

口では「お嬢さんに替わってあげたら?」とは言ってみるものの、そうなれば、女性3人のお供をしなければならないわけで、苦労は目に見えている。美しいお嬢さんと一緒に旅行できるのは嬉しいが、それ以上にしんどい目をしなければならないのだから、14.アカの脚が治ることを切に願った。彼が出席予定の会合を欠席したのを知ると、脚の回復がはかばかしくないのではないかと心配になり、メールで回復状況を問い合わせたりもした。

彼が海外旅行の行く先として一番望んだのはエーゲ海だったらしく、それには若い頃に魅せられたソフィア・ローレン主演の映画「島の女」の舞台がここであったことも関係しているようだが、兎に角、何が何でもエーゲ海に行くのだと、外科医として必死で自己治療を行なったようだ。その甲斐あって娘に譲らなくて済ませることができたのは、まことご同慶の至りである。(ハプニング#1)

最初のドジは関空から始まった

出発の直前、忙しく空港の免税店の通りを往復する14.アカ夫妻の姿を目にしたが、この時14.アカは腰に巻いていた上着をどこかに落としたらしい。ハプニングだけでなく、最初のドジという名誉もまた14.アカが獲得することになったのである。賢明なる読者は、この旅がこれからどのような展開を見せるか予想できるだろう。その予想は裏切られないことをここで保証しておく。(ドジ#1)

アムステルダムは運河の街

日本からギリシャへ行くには、直航便がないため、ヨーロッパの何処かの国の空港で乗り継がなければならない。往きの飛行機はKLMで、オランダの首都アムステルダムのスキポール空港で降り、この地で一泊することになった。

オランダが海面下の国であることは知っていたが、アムステルダムにこれほど運河が多いとは全く知らず、たまげてしまった。何と165本の運河と1292の橋をもつ「水の都」なのだ。北のヴェニスと言われるのがよく理解できた。


アムステルダム中央駅周辺の地図 右下に飾り窓地区、左下にアンネ・フランクの家


1)運河の橋の上から見たアムステルダム中央駅 この駅が東京駅のモデルになった


2)市街の至るところにある運河 運河には水上生活者の船も見られる

オランダ人は巨人族?

アムステルダムの街を歩いて感じたのは2メートル近い大男、大女がたくさんいることで、思わずヘーシングの名前が頭に浮かんだ。もちろん、アムステルダムには200以上の人種が暮らしているので、背の高さはいろいろだが、とにかく、巨人が目立つのである。目的地ギリシャに着くと、ここでは人々の背の高さは日本人に近い。ラテン系の国の人たちはどこでも小柄だが、ゲルマン系の国の人たちは大柄で、特にオランダには巨人が多いという印象を持った。

飾り窓

今度の旅行でご一緒する、14.アカ夫人の○さまは画家である。今年の6月に、画家仲間とオランダへ旅行されているので、短時間で観光するのに適した場所を教えてもらうことにした。その最初が、彼の有名な「飾り窓」だった。添乗員や現地ガイドに話してみると、あそこは危険だから行かない方が良いと言う。しかし、14.アカ夫人は、前回の旅行で男性たちが「飾り窓」を見に行ったが、それほど危なくはなかったと聞いていたので、この機会に4人で行ってみようということになった。

明るいうちに行くようにと、現地ガイドからアドバイスを受け、ホテルまでタクシーを呼んでもらい、行く先もガイドに説明をしてもらって「飾り窓」を目指した。乗り込んだタクシーは右のサイドミラーのガラスが無い何ともスゴイ車である。14.アカが、私のBMWも同じ姿になったことがあると指さすと、自転車が飛び出してきてぶつかったのだと運転手は言った。オランダもドイツと同じように自転車天国で、しかもこの自転車には、手動のブレーキがついていないらしい。自転車にはくれぐれも気をつけるようにと、現地ガイドに注意されたのを思い出した。

「飾り窓」のある地区は、東京駅のモデルになったというアムステルダム中央駅の直ぐ近くの、運河沿いの一角にあった。最初に目にした「飾り窓」(ショー・ウインドウ)は、ガラス窓の中にビキニ・スタイル風の下着をつけた女が、マネキン人形のように立ち、通る人に微笑みかけていた。ブロンドの若い女の子で、妻が「きれい!可愛い」というくらいだから、不潔な感じはしなかった。しかし、そのあとは、やはりどこか崩れた感じの女が多く、白人以外にも黒人、東南アジア、中東アジアなどのいろいろな人種が混じっていた。

普通なら、この「飾り窓」を見ることは一生なかったに違いないが、いろいろなチャンスが重なり、思いがけずも得がたい経験をさせてもらった。

この地区のはずれで記念撮影をしようと、14.アカが私たちにデジカメを向けた途端、遠くで数名の女の怒声がわき起こり、私たちは慌てて逃げるようにその場を離れた。この地区での撮影は厳禁だったのだ。この危険な場所で、この時もしもフラッシュを光らせていたら、その後どうなっていたかと考えると今でも背筋が寒くなる。(ドジ#2)

アンネ・フランクの家

14.アカ夫人は前回のオランダ旅行でアンネ・フランクの家を見損ねたので、次はそちらへ行くことにした。地図を見ると、ここから西の方へ運河4個渡って2kmばかり行くとアンネの家に到達できるようなので、見物を兼ねて歩いて行った。ここにたどり着いたら、入館を待つ人が長蛇の列で45分待ってようやく中に入れた。


3)アンネ・フランクの家の前の14.アカ夫人と野村経子


4)アンネ・フランク博物館の入り口には長蛇の列


ここは、「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクとその家族が、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるために隠れ住んだ家で、中は当時の雰囲気をそのままにした博物館となっている。

この建物は「前の家」と「後ろの家」に別れていて「前の家」はオットー・フランク商会が入り(ここで働いていた人たちは、アンネ達の存在を知らされていなかった)、隠れ家の住人たちは、「後ろの家」の上部の階で暮らしていた。隠れ家の入り口を隠すために「回転式書棚」が設けられ、その本棚の向こうに、隠れ家へ通じるドアと階段がある。階段は狭く傾斜は非常に急だ。アンネは2年余りをここで暮らし、密告により強制収容所に移送され、チフスと栄養失調のため15歳でこの世を去ることになる。

この二つの建物全部を使って資料の展示、ビデオ放映などが行われていた。この博物館を一巡する間、心は次第に重くなり、何とも言えない陰鬱な気分に襲われた。地下の出口から表に出ると7時を回り、半袖の身には風が冷たく感じられた。

ただし、私には「アンネの日記」を感動して読んだという記憶はない。この英訳本と独訳本の二つを持っていたが、それは二つを平行して読んでドイツ語の勉強をしようと実利的に考えたためだった。しかし、結局それは計画倒れに終ってしまった。

ホテルでディナー

私たちの泊まるホテルの料理は美味いとガイドが教えてくれたので、このレストランで9時半から11時過ぎまで、4人でのんびりとオランダの夜を楽しんだ。ビールはハイネッケン。知らなかったがハイネッケンは世界のビールのシェアの第2位だということだ。アムステルダム泊まりに変更となったお陰で、オランダの「運河」、「飾り窓」、「アンネ・フランクの家」を見ることができたので、何か大きなおまけをもらった気持になっている。

翌日は雨だった

翌朝早くホテルを出て、スキポール空港に向かう道中は雨だった。オランダは雨の多い国だと添乗員の説明が入ると、昨日アムステルダム市内、特に「飾り窓」地区を散策できた幸運を感謝した。幸先良し!我々はついてるぞ!


エーゲ海クルーズ

アテネ1

荷物が届かない

アムステルダムのホテルを早朝に発ち、スキポール空港から約3時間半の飛行で、午後2時過ぎに、アテネのエレフテリオス・ヴェニスゼロス国際空港に到着した。ここはアテネの東27kmにあり、2001年春からの開港である。新しいだけに、清潔で機能的な感じがして、好感が持てた。

ところが、ここで思わぬハプニングがあった。荷物が4個届いていないのだ。海外旅行7回目にして、はじめて経験する「航空機寄託手荷物遅延」である。その内の2個は新婚さんのものだというから気の毒に思った。この時、添乗員は動揺を見せることなく極めて冷静に、しかし的確に対処した。彼女の行動を注目しながら、緊急事態発生時に医師に求められるものと、彼女の対応が同じであることを知った。これがプロフェッショナルなのだ。ただ、彼女の目が、それまでとは違って、充血しているのには気がついていた。

荷物は午後10時過ぎに2個、午前2時には新婚さんの2個がホテルに届けられたということだ。後で新婚さんとそのことで話をしたところ、海外旅行の最初から手荷物が行方不明で、帰国して3日目に荷物が届いた友人を知っているので、それほど驚かなかったと聞き、そんなものかと感心した。(ハプニング#2)

アクロポリス

空港から専用バスでアテネ市街に向かい、ホテルに荷物を降ろすと、すぐアテネ市内観光に出発した。アクロポリスのふもとでバスを降り、パルテノン神殿のあるアクロポリスへ向かう。アクロポリスとは、「とがった丘」を意味する。標高は165mで、アテネ市内では、アクロポリスを視界からさえぎる高さの建築は規制されているため、市街のどこからでもアクロポリスを望むことができる。


5)ふもとの駐車場から見たパルテノン神殿
  ここでバスを降り、パルテノンのあるアクロポリスへ登った

<プロピライア>
アクロポリスの唯一の入り口であるプロピライアの列柱を抜け、アクロポリスの丘に出るとパルテノン神殿が目の前に堂々と姿を現す。


6)プロピライアはアクロポリスへ登る前門

<パルテノン神殿>
プロピライアからアクロポリスに入ると、正面ではなく、斜めにパルテノンを眺めることになる。そのため、アクロポリスに入った者に、もっとも美しく見える角度でこの神殿は建てられているそうだ。B.C.432年に15年の歳月をかけて完成したアクロポリス最大の神殿で、ドリス式建築の最高傑作とされている。B.C.460年からの30年間はギリシア史上「ペリクレス時代」または「黄金時代」と呼ばれるが、アクロポリスとパルテノン神殿はまさにこの時代の象徴と言えよう。

17世紀に入って、ヨーロッパ諸国とトルコの争いの中で、パルテノンは弾薬庫として使用された。そしてアクロポリスを包囲したヴェネツィア軍が放った砲弾が命中して大爆発し、パルテノンは瓦礫の山となった。2000年以上も美しい姿を保ったパルテノンは、ギリシア文化の継承者を自認するヨーロッパ人の砲弾によって破壊され、現在のような姿となったのである。


 7)パルテノン神殿をバックに4人で記念撮影 サングラスなしでも大丈夫(本当は持っていない)


8)堂々たるパルテノン神殿 近くに寄るとその堂々たる姿に圧倒され、感動した

<エレクティオン神殿>
先へ進むと、アテネを守る6人の女身柱で有名なエレクティオン神殿がある。イオニア様式の完成された姿といわれ、優美な姿をいまも残している。


9)エレクティオン神殿の南側柱廊
6人の女身柱が屋根を支える南側柱廊「乙女の露台

アクロポリスの広々とした丘の上は、いたるところが展望台で、アテネの町が一望できる。

<イロド・アッティコス音楽堂>
アクロポリスの入り口プロピライアの少し手前の右手にある。アーチが多用されていることからも、ローマ時代に改築されたことが分かるらしい。6000の客席が修復され、夏にはアテネ・フェスティバルの会場として、コンサートやオペラの公演が行われる。現地ガイドは、今年の切符を購入できなかったと残念がっていた。


10)上から見下ろしたイロド・アッティコス音楽堂

<リカビトスの丘>
アクロポリスの北東には、アテネで一番高い丘、標高277mのリカビトスの丘が見える。遠くにそれを眺めた時、昨年フランスで眺めたモンサンミッシェルを思い出した。その丘のすそ野にアテネ市街が広がり美しい。


11)北にリカビトスの丘とアテネ市街
特異な形をしたリカビトスの丘とその下に広がるアテネ市街

<フィロパポスの丘>
アクロポリスの南西にはフィロパポスの丘が見える。アクロポリスを降りると、私たち4人はこの丘に登ってアクロポリスの丘とパルテノン神殿を遠望した。しかし、ツアーの他の人たちは暑さのためにギブアップしたようだ。それにしても、14.アカの脚はどうなっているのだろう。旅行前の負傷は、私たちを心配させるためのたくらみではなかったかと思わせるほど動き回っていた。もちろん、それは良いことなのだが、、、


12)南向かいに見えるフィロパポスの丘
アクロポリスから眺めたフィロパポスの丘、頂上に記念碑


13)フィロパポスの丘から見たアクロポリスの丘 左下に音楽堂


なんと気温は45度Cだった

翌日現地ガイドの話から、この日の気温は45度C、日陰でも39度Cだったことを知ったときは正直たまげてしまった。その気温の中で、ほとんど水も飲まずに、二つの丘を登ったのだから、もう呆れるというか信じられないほどだ。これは湿度が低いから耐えられたのだろう。関空に帰って、JRの切符を買うまでの間、首に生あったかい空気がまとわりついた感じがして耐えられなくなり、冷房車に逃げ込んだのを思い出す。湿度がどれほど不快度を高めるかについて、この経験からよく理解できるようになった。


オリンピック・スタジアム

1896年の第1回近代オリンピックが開催された競技場で、スタンドはすべて大理石で造られ、約5万人が入場可能という。トラックは現代のものと違って馬蹄型をしている。


14)馬蹄型のオリンピック・スタジアム 立っているのは同じツアーの母と息子


15)入り口にオリンピック開催地の碑
開催地の碑には「1964 TOKYO」も刻まれていた

この旅行の直前に14.アカの右脚負傷というハプニングがあったことを前に書いたが、このツアー参加者にはもっとすごいアクシデントの経験者がいたのだ。オリンピック・スタジアムで両手に松葉杖をついている女性がその人である。彼女は旅行の2ヶ月前に車にはねられ、ボンネットを越えて10mばかり飛ばされ、10時間ほど意識がなかったそうだ。その際の打撲で歩行困難になり、旅行の1ヶ月前にようやく松葉杖で歩けるようになったと言う。

そのような状態なので、何度か旅行をキャンセルしようかと思ったそうだが、一人息子がこの春大学に入学し、家族でエーゲ海クルージングをするのを楽しみにしてきたので、思い切ってリハビリも兼ね、参加したのだと話してくれた。(ハプニング#3)


夕食はロブスター料理

アテネ最初の夜は、アテネの南西約10kmにあるギリシャ第1の港ピレウスで、海鮮料理を中心とした夕食だった。ツアーのメンバー一同が顔を合わせて食事をするこれが最初なので、自己紹介が行われた。その席で14.アカ非常に若いと評判になり、彼は現代風のお医者さん、私は昔風のお医者さんと大方の評価が決まった。14.アカは上機嫌、私は不機嫌。あちらが現代風というのは分からないでもないが、何で私は昔風やねん、これでもハイカラのつもりなんやけど。

向かいに座ったのが、例の手荷物延着の新婚さん。なれそめはと聞くと、ホノルル・マラソンで一緒に走ったのが縁だとのこと。彼は東京人、彼女は純粋の浪花女。嫁さんにひかれて彼は大阪に来たらしい。これぞ現代風の結婚ではないか? 二人とも無理をするところがなく、自然で感じが良かった。

ロブスターは大して美味くはなかったが、「ウゾ」というギリシャの酒は、松やにの匂いのする変わった味で美味かった。この酒は透明だが、水とか氷を混ぜると白く濁るのが珍しく、45度くらいでかなり強い。この酒「ウゾ」と言うのは「ウソ」でしょう、なんて何時も通り、14.アカが駄洒落を飛ばしていたのはご想像通り。


16)ヨットハーバーでロブスター料理


16-b)新婦が撮影(右端は新郎)


ライトアップされたパルテノン

ホテルに戻ってから4人で外に出て、夜のライトアップされたパルテノンを眺めた。照明の色が効果的で、昼間見たパルテノンとは違った美しさがある。パルテノンが良く見えるレストランでアイス・コーヒを飲みながら、アテネの夜を楽しんだ。夜景の撮り方もこのときにマスターすることができた。


17)ライトアップされて美しいパルテノン神殿

早朝のパルテノン

14.アカ夫妻は翌朝早くホテルを出て、朝の散歩とスケッチをされたようだ。私たちも海外旅行に行くと、たいてい早起きしてホテル周辺を散歩するのだが、この夜は疲れ果て、バタン・キューで眠ってしまい、散歩など思いもよらなかった。14.アカ夫人のスケッチを14.アカにデジカメで撮影してもらい、皆さまにご披露したく思っている。乞うご期待!


18)パルテノンをバックにハイ、ポーズ


スケッチ1)パルテノンとアクロポリス




エーゲ海クルーズ

アテネ2

ハドリアヌス門とオリンポス・ゼウス神殿

ピレウス港からアテネのホテルに戻る途中でバスを降り、ハドリアヌス門を見た。門の内側から見ると、門のアーチの中にちょうどおさまる形で、アクロポリスの丘が見える。この門はAD2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスのために建てられた。この門は当時、旧市街とハドリアヌスが作った新市街との境界となっていた。

ハドリアヌス門のすぐ南にゼウス神殿がある。 ここは広い平地に柱が15本立っているだけだが、かっては104本の柱が並ぶ壮大な神殿だったと言う。


157)東側から眺めた早朝のパルテノン神殿


158)ハドリアヌス門の内側で記念撮影


158b)新婚さんのカメラで全員の記念撮影


159)ゼウス神殿 残っているのは15本の柱のみ


160)完成当時は104本の柱があった

アテネ国立考古学博物館

国立考古学博物館には、クレタ島を除くギリシャ各地の遺跡からの出土品が収めれている。ミロのヴィーナスがルーブル美術館へ、パルテノン神殿の破風彫刻などギリシャの大事な遺物の多くが大英博物館に持ち去られているのを昨年パリ、ロンドンを旅行した時に知った。しかし、それでもこの博物館を訪れ、ギリシャ最古の文明であるキクラデス文明、クレタ文明の後のミケーネ文明の遺物を含めて、優れたギリシャ文明の歴史を知ることができたのは、私にとって大きな収穫だった。

そのわけは、ギリシャ文明が頂点に達したパルテノン時代(古典時代)やその後のヘレニズム時代のことはいくらか知っていたが、それよりはるかに古い今から5000年前にキクラデス文明、3500年前にクレタ(ミノア)文明、その後に続くミケーネ文明などがあったことをこの旅行ではじめて知ったからだ。

また、ギリシャ神話やホメロスの叙事詩に書かれていた世界が実在したことを、考古学者のシュリーマンが1873年のトロイ遺跡、1876年のミケーネ遺跡の発掘、1906年にエヴァンスがクレタ島のクノッソス宮殿遺跡の発掘、1967年にマリナトスがサントリーニ島のキクラデス遺跡の発掘で証明したことに感動を覚える。男のロマンというのはこう言う場合に使う言葉だろう。



161)国立考古学博物館の外観


162)国立考古学博物館入り口の柱の傍で


163)「竪琴を弾く男」 キクラデス文明の遺物


164)「竪琴を弾く男」を撮影中


165)「黄金のマスク」 ミケーネ文明の遺物


166)涙を流しているように見える顔


167)アルテシミオンで発見された「ポセイドン」像 


168)背後からの「ポセイドン」像、クラシック期遺物


169)「馬に乗る少年」像


妻の新しい帽子

ロードス島で私が帽子を海に落とした時、あんな古い帽子は捨てておいたら良いのにと妻に言われた話を前に書いたが、妻はこの博物館を出たあと、新しい帽子をどこかに置き忘れてきたようだ。私のデジカメ、14.アカの上着はどちらも手元に戻ってきたが、この帽子だけは失われたままである。これはペアルックの帽子を粗末にした罰だと考えることもできるのだが、、、(ドジ#14)

スニオン岬とポセイドン神殿

午後からは自由行動の時間である。私たちは迷うことなくスニオン岬観光のオプショナル・ツアーを選んだ。スニオン岬はアテネの南東約70km、アッティカ半島の先端にあり、ここには海の守護神ポセイドンの神殿がある。天候が良ければ、ここから7つの島が見えると言われる。また、ここから見る夕日の美しさも有名だ。

アテネからスニオン岬までの海岸線はアポロ・コーストと呼ばれ、旧国際空港(エリニコン空港)を過ぎると、美しいビーチがいくつも続き、ここがギリシャ有数の海水浴場であることを教えてくれる。

 スニオン岬の位置

ポセイドン神殿はBC440年、アテネのパルテノンとほぼ同時期に作られた。奥行き30m、幅13mの神殿には34本の柱が立っていたが、現在残っているのは北側の6本と南側の9本だけである。この神殿はギリシャのほかの神殿と違って、人々がこの神殿に常駐していた。それは、この地がギリシャ本土を守る最前線の重要拠点でもあったからであると、現地ガイドが教えてくれた。

実際にこの岬に立つとエーゲ海が一望でき、また60mあるという切り立った断崖から下を見ると、高所恐怖症の私には耐えられないほどだった。エーゲ海を渡る古代の船乗りたちが、海神ポセイドンを祭ったこの神殿と岬を「聖なる岬」「柱の岬」と呼んで崇めたのが分かる気がする。ギリシャの神々の中で人々が一番恐れたのはポセイドンだった。それは、この海の神を怒らせて海が荒れることを何よりも恐れたからだと言う。

夕日を浴びたポセイドン神殿はシンプルで厳かな美しさがあった。パルテノンと比べてもそれは明らかだった。14.アカはメールに「神殿の夕暮れの画像は、今回の画像の中では、最も気に入ってます」と書いてきたが、私たち夫婦もこの神殿に魅せられてしまった。

英国の詩人バイロンもこの神殿に魅せられた者の一人だ。彼は21歳のときに初めてギリシャを訪れ、アテネの下宿先の娘に恋をして書いた詩「Maid of Athens, ere we part 」が出版されるや、一夜にして詩人として有名になった。その彼はここを「列柱の岬」と称賛し、この神殿の柱にサインを彫っている。


170)遠い彼方にスニオン岬とポセイドン神殿


171)左手の西部劇に出てくる風景にビックリ!


172)はるか丘の上にポセイドン神殿が見える


173)北側から見たポセイドン神殿


174)南側から見たポセイドン神殿は素晴らしい!


175)神殿の南からエーゲ海が一望可


176)夕暮れのポセイドン神殿 


ギリシャ最後の夜は赤ワインで

スニオン岬で二人だけになった時、14.アカは「今夜はワインを飲んでギリシャ最後の夜を楽しみませんか」と耳もとでささやいた。もちろん、OKだ。すると「部屋は先生のところにしたいんだけど」と笑いながら続けてくる。こんどの旅行で私の妻の性格がよく分かった。私たちの部屋でワインを飲むとなると、妻は人目を気にするから、きれいに自分の部屋を片付けるに違いないと言うのだ。単純な妻の性格はとっくに見破られているのを知って苦笑しながら、こちらもOK。

ワインは乗船前にピレウス港の免税店で仕入れて、航海中ずっと部屋の氷の中に漬けてきたものを、今は部屋の冷蔵庫の中で冷やしてあると言う。話は脱線するが、14.アカ夫妻は私たち夫婦と違って買い物好きで、絶えず何か買われているようだった。そのことは、この旅行の1月後にあった医師会旅行でも確かめられた。楽しいご夫婦である。

サントリーニ島のイアの町から夕日が沈むのを見ると、エーゲ海はブドウ色に輝くと聞く。その鮮やかな色あいの赤ワインを飲みながら、いろいろ話をした。二組の夫婦で海外旅行をするのはどちらも初めてだったが、奥方たちも始めの緊張はすぐにとれ、一緒に旅行できたことを喜んでいた。亭主どもは、もうお互いに慣れ過ぎているくらいだから、ドジやハプニングを倍増させての愉快な旅だった。

アテネ出発前のドタバタ

帰国はウイーンとチューリッヒ経由で、ホテルを午前7時15分に出発するため慌しい。全員がバスに乗りいざ出発という段になった時、14.アカは突然バスを飛び降り、脱兎のごとくホテルに飛び込んで行った。忘れ物か、それともひどい腹痛かと思っていたら、ほどなく戻ってきた。

あとで聞いたところでは、シャワールームの扉の裏のフックに掛けたショートパンツに全財産を入れて居たのを思い出したのが事の真相らしい。日頃の行いが良いとお金は無くならないということだろうか?(ドジ#15)


関空へ帰国

19日(日)の午前9時に関空に着いたが、荷物がなかなか出てこない。最後まで待って、結局私たちツアー全員の荷物が不着であることが分かった。スイス航空と提携している日航の社員が荷物不着に対する手続きに来る。荷物の滞留先がアテネ、ウイーン、チューリッヒのどの空港か分からない。また、荷物がいつ届くのかも分からない、2〜3日はかかるかもしれないと言うのだ。そういう訳でゴタゴタして1時間は無駄に時間が過ぎた。ドジ、ハプニング続きだったこの旅行は、最後までツキ通しである。(ハプニング#10)

関空を出てJRの切符発売コーナーに行くと、生あったかい空気が首の周りにベットリまとわりつき、たまらなく不快だ。ギリシャで45度でも平気だったのは、湿度が低かったせいだということがよく分かった。大急ぎで待っていた列車に飛び乗ると、冷房が効いていて車内は快適だった。


177)関空に無事帰り着いて嬉しい!

やっぱり和食は最高だ!

正午を少し過ぎて帰宅した。やはり、我が家は良い。くつろぐ。すぐに食事をして、風呂に入るとバタンーキューで眠ってしまい、目が覚めたら午後5時を廻っていた。もうすっかり元気で、夕食に好きなものを食べたくてしかたがない。その夕食がどれほど美味かったかを食べた直後に興奮して掲示板に書き込んだのでご紹介する。


夕食は、暖めた丼に、讃岐風の腰のしっかりしたうどんを入れ、その上にかき揚げ天ぷらを載せ、たっぷりのきざみねぎを加え、熱い出し汁をかけ、一面に、一味唐辛子をふりかけ、もう待ちきれずに、ガツガツと食べながら、うまい美味いを連発して、5分もかからずに平らげた。

一息ついたところで、スーパー・ドライを開け、次は水茄子の漬物に、味の素とたっぷりの醤油をかけ、それを、アツアツのご飯に載せ、これまた、ガツガツと、しかし、この時になるとビールを飲む余裕も出て、ウマイ美味いと食べながら、私にとって、日本の食事以上に美味いものはないと思った。冷たくした冷奴が、これまた、たまらなくうまくて、本当に幸せだ!!

恐らく計れば、これで15分はかかっていないと思う。普段の晩飯とは違う、飢えたような食べ方、飲み方で、物理的に胃に入らなくなったところで、満ち足りた気持一杯になり、ようやく落ち着いた。

今夜も家内に言った、貴方は料理の天才だと。外国に魅せられるところは多いけれど、食事はやっぱり和食、それも私の好きな和食が最高!


翌日の夜に荷物は到着し、一件落着

不着だった荷物が翌日の午後8時頃、空港から宅配便で届いた。出発前に関空で落とした14.アカの上着も届いたとのことだ。これを以って、楽しかったエーゲ海クルーズの全行程は終了した。



15.イケ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目

15.イケは私より2歳年下の女性で、ご夫君は交野市医師会会員の開業医師であった。1996年夏、腸管出血性大腸菌O157による堺市学童集団下痢症が発生した際、情報取得の手段としてインターネットが最強力であることを知った交野市医師会はパソコン同好会を作り、私はその世話役を任された。

同好会の会員は交野市医師会会員で、15.イケは会員の妻として、夫ともにパソコンの使い方、インターネットに関する知識の習得に注力し、翌1997年5月23日に、自分のサイト寅baba のパソコン部屋からを開設した。

同好会会員の中で、自力でサイト(ホームページ)を作り上げた者は他には居ない。優れた内容の記事を、カテゴリーと時系列配列を組み合わせた巧みな構成で表示し、検索しやすく利用者にとってありがたいサイトである。

ユニークなカテゴリーとして、■季節の一皿でお話を ■料理とワインのノート ■花の記録 など女性らしい記事がスマートに配列され、美しい写真が嬉しい。

自分のWebサイトを持ち、書きたい記事を表示し、それを世界に発信することができることは、人生で得た最高にありがたい手技だと私は思っているが、15.イケさんも同じではないだろうか?

15.イケご夫妻が2006年に浜松の地に造られた終の棲家に、私たち夫婦が招待された時の訪問記を、私のサイトに掲載しているが、それをここに転載する。


浜松池田邸


池田先生ご夫妻が40年間の診療をお辞めになり、浜松の地に終の棲家を造られ、そこに転居されることを知ったとき、大阪生まれで大阪育ちの池田先生がなぜ浜松?と思ったのは私だけではないでしょう。この度ご夫妻からお招きをいただいたとき、新居を見せていただく喜びだけではなく、その疑問も解くことができるかもしれないという期待もありました。

前日は快晴だったというのに、当日大阪はあいにく雨。奥様がいつも自分は「雨女」だと書かれていた文章が頭に浮かび、天気予報を調べると雨は東へ移動しています。まあ、しょうがないなあとあきらめ、傘をめったに持たない私たちが、携帯型2本を持つことにしたのでした。

ところが、名古屋を越えたあたりから、雨は止みはじめ、新幹線が雨雲を追い越したことを知りました。浜松駅に降りると、池田先生が遠くで大きく手を振って合図をして下さっているのが分かり、大喜び。駅前は駐車が難しいからと奥様が助手席に乗って居られ、先生の運転する車で、雨の降らない間に浜名湖周辺を案内していただきました。

道は広く一直線に延び、弾丸道路のようで、どこまでも続きます。車の数は少なく、車好きのご夫妻には、うってつけの土地であることが分かりました。2004年春から秋にかけて開催された「浜名湖花博」のために造られた道路だそうで、大阪万博のために造られた新御堂筋のように、大規模なイベントが残した遺産が有効に活用されています。

花博用駐車場の跡地が分譲され、大新興住宅の街へと変貌しつつある状況をつぶさに見ながら、入り組んだ変化に富む不思議な浜名湖の景観、北海道を思わせる広い大地、野菜が新鮮で美味しく、魚介類もとれたてとお聞きしていると、とびっきりグルメでいらっしゃるご夫妻が、この地を選ばれた理由が少し分かりかけてきます。

そしていよいよ新居へ到着です。ここからは下手な説明よりも、写真の方がよほど明瞭かつ正確に状況を知らせてくれます。到着するなり、まず写真を撮ったのは正解でした。それから間もなく雨が降り始めました。


浜松はどのあたりか?

浜松はどのあたりか、知っているようで、よく覚えていないものなので、地図を調べました。これで大まかな見当がつきますね。

浜名湖との関係などのもう少し詳しい地図が知りたい。


瀟洒な池田邸に到着

到着しました。左手が西面、右手が南面の玄関側です。

南面にある玄関です。オシャレでしょう!

もっと近づいて撮影。妻はもうすっかり魅せられています。

黒門市場までも、これで買い物に行かれた先生の例の単車。今も現役活躍中だとか!

建物の西面です。中央の凹部は中庭です。贅沢なハイセンス。


1階の左側(北西)がダイニング、右側(南西)がリビングです。中庭にある4月に植樹されたシンボルツリーは、もうすっかり自分の場所を支配しています。


近づいて見ると、シンボルツリーはライトアップできるようになっていて、その後には、美しい花のたくさん入った花器が置かれています。

こちらは、建物の北西面です。車庫の奥に勝手口があります。

玄関に入ると正面のこの花が迎えてくれます。照明がきれいでしょう!

玄関のすぐ左手がリビングルームです。日当たりの良い南西にあります。

リビングルームに入ると、すぐ右手に、ダイニングルームのカウンターが見えています。

リビングルームのソファーに座って、お二人でハイビジョンなどを楽しんでいらっしゃるのでしょう!

私の大好きな赤いバラ! アップで撮っておきました。

リビングルームから中庭越しに見たダイニングルームです。ステキでしょう!

ダイニングルームに移りました。ここから見たリビングルームです。オシャレですね!


キッチン側の壁の左側に設けられたアルコーブは、スペインなどでよく見かけましたが、発想が素晴らしい! そこに置かれた花がとてもシックに見えます。ここで次々と美味しい料理を頂き、シャンペンやワインを飲みながら、楽しい会話を8時間くらい続けていた時に、ハプニングが起りました。いや、正確には、私が起してしまったのです。

ワインの瓶を見て、それが「DERICADO」であることを知った途端、50年前にヒットした「デリカード」という曲と同じ名前であることに気が付きました。この曲は私の高校三年を象徴する曲の一つで大好きだったのです。イタリア映画「高校三年」の主題歌で、ラルフ・フラナガンと彼のオーケストラが演奏するバイヨンでした。「ソソソミー,ソソソミー,ソソ#ファファミー」という軽快なリズムが突然頭に浮かび口ずさみました。

このワインはイタリアから移民してきた人がカリフォルニアで作ったワインで、これが3代目とお聞きすると、私の大好きな曲「デリカード」英語で言えば「DELICATE」と同じ名前のこのワインが猛烈に好きになり、それに遭遇できた運命に感謝し、嬉しくなってしまいました。私には嬉しくなるとアルコールを飲むスピードが速くなる習性があることを、一緒に飲まれた方は、皆さんよくご存知です。もちろん、今回も嬉しく楽しくて、2本目のこのワインも、ビール飲みをしてしまっていました。

今までビールで失敗したことはありませんが、冷酒とワインのビール飲みで失敗した経験があり、いつもはしてはいけないことと自覚しています。しかし、あまりに嬉しく楽しく幸せで、その戒めを忘れてしまっていました。心配しいの妻はハラハラしていたようですが、こんなに喜んでいるのを止めることはできなかったようです。

最後にスパゲッティを頂いたところで嘔吐し、お邪魔してから一度もトイレに行っていなかったので、トイレに行って戻ってくるなり、洪水のような嘔吐を美しいリビングルームでしてしまったのです。ああ、なんという粗相無作法! 生涯で一番恥ずかしい思いをしましたし、何とお詫びしたら良いのか、ただ申し訳ない気持ちで一杯でした。

池田先生が、近くの浜名湖ロイヤルホテルに予約をとって下さり、そこまで運転して送って下さいました。1時間ばかり眠ったら、酔いはすぐに覚め、入浴を妻が許さないので、池田先生の奥様に携帯でお礼とお詫びのメールを送信しました。

22:50
今日は本当に楽しかったのですが、最後にご迷惑をおかけしてしまい、生涯最大の恥ずかしい思いを致しました。それを寛大なお心でお許し下さいまして、心よりお礼申し上げます。もうすっかり元気で家内にうるさがられている始末です。どうかお許し下さい。野村望

間髪を入れず、返信がありました。

22:51
よかったです!もう忘れましたので、ご安心下さい。お洋服が心配ですが、お洗濯をたのまれたらと思っています。どうかゆっくりお休み下さい。池田寿子

9時過ぎに寝たので、目が早く覚め、入浴をまだ妻が許さないので、早々に帰ることにしました。「明日お迎えに上がりますから」と池田先生が仰って下さっていたので、この上ご迷惑をお掛けすることなど到底できず、浜松から乗車したところで、電話でお知らせしました。先生ご夫妻は晴天なので、「フラワーパーク」へ案内して下さるお積りだったと知りましたが、恥ずかしくて申し訳なく、甘えることのできないことでした。しかし、考えてみると、いつも何かドジをしてしまうのが私の宿命、恥じても仕方がありません。同じ失敗をしないように気をつけようと思っています。


浜名湖ロイヤルホテルで一泊

ここは宿泊した浜名湖ロイヤルホテルです

ホテルの窓越しに眺めた浜名湖の一部です

これも同じく、ホテルの窓越しに眺めた浜名湖の一部です

ホテルの庭から眺めた浜名湖の一部です

ホテル周辺の景色

ホテルの庭にあるウエディングのためのチャペルです

航空写真


この航空写真は中日新聞が掲載したもので、池田先生の奥様のホームページに掲載されていたものです。この写真の中に池田邸は写っていますが、それがどれかはもうお分かりですね(笑)。ヒントを一つだけ、画面の左側にあります。浜松転居が池田ご夫妻にとって正解であったことは、もうこれで充分納得されたことと思います。おめでとうございます。



16.イノ 親しくなった時:1996年 60歳 開業24年目

16.イノは私の13歳年下で、彼との付き合いは、ボージョレヌーボ解禁日に飲む会に参加した日に始まった。この会は16.イノが発案し主催したもので、以来毎年、ボージョレヌーボ解禁日の夜に、決まった飲み仲間とワインを楽しむ習慣ができ、20年間続いた。 その経緯を私のサイトにボージョレヌーボ解禁日に飲む会のタイトルで掲載しているが、それをここに転載する。


ボージョレヌーボ解禁日に飲む会


はじめに

私は1985年49歳からパソコンを使い始め、1988年52歳からパソコン通信の世界に入り、国内大手のパソコン通信局である NIFTY SERVE に加入した。

当時インターネットは存在せず(世界初のサイトは1991年、日本初は1992年)、ここでの情報収集、交換、発信は有用で貴重だった。

その NIFTY のパソコン通信で飛び交う話題から、ボージョレヌーボを知った。未だマスコミでは大きく取り上げられていなかった頃である。

1996年60歳から、パソコンをDOS機からWindows機に変更し、インターネットの世界に入り、Webサイトを開設した。(Yahoo! JAPAN が4月、野村医院が8月

この年のボージョレヌーボ解禁日(11月の第3木曜日)の夜、初めてボージョレヌーボを5人で飲み交わした。メンバーは16.イノと彼の知人二人に、私と家内を合わせて5名だった。これが「ボージョレヌーボ解禁日に飲む会」の始まりだった。

この飲み会は16.イノの発案で、今年まで幹事役、世話役をして下さり、私は何のお手伝いもせず、喜んで参加し、飲んでしゃべりあう会だった。

以来毎年、ボージョレヌーボ解禁日の夜に、決まった飲み仲間とワインを楽しむ習慣ができ、今年まで20年間続いた。

私は酒が飲める体質で、飲んで騒ぐのが好きな性格なので、それまでも外で飲むことはあったが、毎年決まった日に、アルコールを飲むことが20年間も続いたのは、異例である。

最初のころは、その時に飲むワインはボージョレヌーボと決めていたが、そのうち、他のワインやアルコールが中心となるように変わって行った。


ボージョレヌーボ解禁日に飲む会 初回

1996年11月21日(木)午後6時から、10時近くまで、枚方の割烹「千鳥」という店で、ボージョレ・ヌーボを飲み、和食を賞味しながら、おしゃべりを楽しんだ。

メンバーは、16.イノ、○、○、野村望、野村経子の5名。私たち夫婦は招待客だった。

この飲み会の趣旨は、私が還暦までに書いた文書をまとめて出版した「還暦まで」の出版祝いと、私の還暦祝いを兼ねて企画して下さったのだと記憶している。

16.イノと交わした手紙によると、私はナット・キング・コールのセプテンバー・ソングやインターネットについて熱弁を奮ったようだが、酩酊してしまい、しゃべったことがまったく記憶に残っていなかった。記憶がないほどの酩酊は生涯で数回しかなく、よほど嬉しくて痛飲したのだろう。


主催

この飲み会の発案者、主催者、幹事、世話役は16.イノである。彼なくして、この会が20年も続くことはなかった。

私は1973年に開業したが、そのころ周りには酒の飲める医師が少なく、一緒に飲んでも、酔いつぶれてお宅まで送り届けることを何度か経験した。これでは、酒の楽しさは消えてしまう。

誰か、酒に弱くない人と飲みたいものだと愚痴っていると、妻が「16.イノさんなら飲めるのではないか、彼の従兄が津田で酒屋を営んでいるから」と教えてくれた。津田というのは妻の実家のある地区である。

そのようなわけで、16.イノとはこの飲み会以前から飲み仲間になっていた。

彼は1998年5月10日から、インターネットのEメールを使えるようになり、それ以来、飲み会の連絡・案内も手紙やFAXからメールに変わった。彼からの受信メールは今日までの18年間で354通、彼への送信メールは235通ある。

私は古くから手紙の整理保存Eメールの整理保存を行ってきた。このまとめでも、手紙とEメールを活用したが、整理されたメールは整理された手紙より、情報の量も質も、見つけやすさも、利用しやすさも、比較にならぬほど優れていることを痛感した。


メンバー

メンバーは毎回4〜5名で、20回皆勤は幹事の16.イノと私の二人、精勤は14.アカ、そのほかは6回以下で、いずれも幹事や私が親しい人である。ここ数年は女性が加わるようになった。いずれも孫持ちで、平均年齢は70歳前半ではないかと思う。

14.アカは今年79歳。1996年8月の医師会の理事会で、パソコン同好会を作り、その世話役を私に務めさせるという緊急動議を提出し、医師会員の間にパソコンフィーバーを吹き込んだ人である。

また、2001年に14.アカ・野村両夫婦が10日間のエーゲ海クルーズをともにしたことがあり、お互いに気心がしれている。


会場

会場は、16.イノ行きつけの割烹「千鳥」が2004年まで選ばれた。ここは京阪電車枚方市駅の近くで、参加者の交通の便が良かった。それ以降、イタリア料理店と中華料理店も一度選ばれたが、和食料理店に落ち着いた。

昨年、今年と、和食レストラン「美濃吉」天満橋店が選ばれた。ここは京阪電車天満橋駅に直結していて、交通の便が良く、特に私のマンションからは駅一つの距離にあるので、ありがたい。


会費

会費は8,000円または9,000円で、女性は7,000円または8,000円に設定されているようだ。一度だけ、10,000円の時があったが、特殊な農園料理だった。

追加を徴収されたことがなく、最年長者として心苦しいが、それも、この会が長く続いたことの理由の一つかもしれない。


時間

メンバーが男性ばかりのときは、午後6時開始、終了は10時頃、二次会があって、帰宅は午前ということもあった。

女性が参加するときは、開始が午後5時30分、終了は9時過ぎで、4時間近くになることが多かった。


呼称

「ボージョレヌーボ解禁日に飲む会」というのが正式な呼称であるが、こんな長ったらしい名前は嫌われ、いろいろな呼称が使われた。

面白いので、長いものから挙げていく。順序はこの通りではなく、滅茶苦茶であるのは、ご想像通り。

「ボージョレヌーボに飲む会」 これはまともな略し方だ。

「ボージョレヌーボの会」 これもまだ許せる。

「ボージョレの会」「ヌーボーの会」 これは何だ!

「ヌーボー」 わけが分らん!

「11月○○日」 見当はつく。

「収穫祭」 万国共通の人間の気持ちが理解できる。

「飲み会」 単刀直入、よく分る。


ボージョレヌーボ解禁日に飲む会 最終回

2016年11月17日(木)午後5時30分から9時過ぎまで、京阪シティーモール8階の美濃吉で、ワインやビールを飲み、京懐石を賞味しながら、楽しい会話が続いた。

メンバーは、16.イノ、野村望、14.アカ、○○、○○の5名。

話題は、昔話、孫のこと、消息、マンウォッチング、不眠、今後のことなどだったと覚えている。私は自分の聴力低下が最近著しいことも話した。和気あいあいの中、時間は急速に過ぎて行った。

お開きの前に、9年間続けてきたコーラスを半年前に退団したこと、コーラスの親睦旅行に参加する条件で、退団を認めてもらったので、先日それに参加したが、退団したときよりも大幅に聴力が落ちていて、話が聴き取りにくく辛かったことを話し、来年はもっと情けない状態になると予想されるので、この飲み会への私の参加は、今年を最後にさせて欲しいとお願いした。

皆は、突然の話に驚かれたようだったが、私の気持ちを察して認めてくださり、ありがたかった。



図1.ボージョレヌーボ解禁日に飲む会の最終回のメンバー


まとめ

・20年間続いた「ボージョレヌーボ解禁日に飲む会」に参加できたことを幸せに思う。

16.イノの誠実な人柄がこの飲む会を成功に導いた。

・会話を和ませる名人14.アカの参加は、この会に笑いを常在させた。

・女性の参加は、泥酔を減らし、話題の範囲を広げた。

・私の聴力低下という個人的な理由で終了することになったのは申し訳ないが、
 なにごとにも終わりはある。幸せな気持ちの内に終えることができたことをありがたく思う。

・楽しく過ごした時間の記憶は、喜んで生きた記憶である。この飲む会はその一つである。

・2016年は、サイト開設20周年傘寿この会の最終回という節目の年となった。



17.ゴダ 親しくなった時:2010年 70歳 退職5年目

はじめに

2011年3月7日、五代文悟(新森友幸)先生は満63歳で亡くなられた。奥様は、私がコーラスのレッスンを受けている新森美加先生である。五代先生は、2010年9月公演の「ミュージカルらくだのダンス」の原作「らくだのダンス」の著者であり、このミュージカルの作詞・作曲をされた。また、2009年には、小説「万太郎」を文芸社より出版された。

このミュージカルに、私はたまたま出演させていただいたが、そのことがきっかけで、先生とは「メル友ゴダイ」「メル友BOW」の間柄となった。最初の40通ほどのメール交換は、譜面、稽古日、そのほか事務的なことばかりで、これだけで終われば、「メル友」になることはなかった。

メル友となるきっかけとなったメールから、亡くなられるまでに交わしたメール21通を、時系列順にまとめ、それらにコメントを付け、11歳年下のメル友を偲ぶよすがとしたい。


交換したメール

●10/09/02

ゴダイ
お疲れさまです。ご無理のないようお願いいたします。マイクで歌った印象はどうでしたですか? 私はより聞いている人たちに、届いているように感じました。自信をもって歌って下さい。明日のスケジュールですが、入りは16時です。ステージは18時から21時までです。

BOW
マイクで歌った印象ですが、自分の声が聴こえるように思いました。だから、いつもよりこの歌に対する思いが、出し易かったような気がします。お言葉をいただき、自信をもって歌わせていただきます。

コメント
ミュージカル公演前々日。初めて生バンド演奏をバックに、ハンドマイクを使って歌った。このメールは、私の歌に対する五代先生から頂いた最初の感想である。

●10/09/03

ゴダイ
10時に会場入りをお願い致します。10時頃に先生の音出しが出来るだろうと言うことです。明日の本番頑張って下さい。楽しみにしています。

BOW
今日、ワイヤレスマイクが使えなかったので、大丈夫なのかと心配していました。明日10時に会場へ参ります。明日の本番、気張らず、あるがままに歌おうと思っています。ご配慮ありがとうございました。

コメント
公演前日。ワイヤレスマイクの装着だけはできたが、リハーサルが私の出番まで進むことができず、ワイヤレスマイクを試すことができなかった。

●10/09/04

ゴダイ
お疲れさまです。若輩者の私が申し上げるのはとても失礼なことですが、先生は何重ものプレッシャーにも関わらず、精神力の強さに頭が下がります。私の今後の人生にとって、とても貴重な財産になると確信致しました。ありがとうございます。

明日の朝ですが、10時入りでお願い致します。今晩は、私もうまいビールを頂きます。明日の晩はもっと美味しいビールになると確信致しました。では、明日お会いすることを楽しみにしています。

BOW
先生に、精神力の強さと言っていただいて、自分では意識していないことなので、少し気恥ずかしい気持ちです。明日の10時入り承知しました。お知らせありがとうございます。

私は連日350ml、3缶は続けています。気分は4〜5缶ですが、妻が心配して許してくれません。いつか、先生と心いくまで、ビールを飲みながらお話をしたく思っております。私も神戸っ子です。神戸っ子であることを誇りに思っている者の一人です。

コメント
初日。夜第1回公演があった。前日のリハーサルが私の出番まで回らなかったことを気遣って、この日は10時頃に私の音出しができるだろうとのメールを頂いた。しかし、それも延びて、通しのリハーサルは午後の本番直前になってしまった。メールにある「何重もプレッシャー」の一つが、本番直前までワイヤレスマイクを使ったリハーサルができなかったことを言われているのだろう。

確かに、その時はイライラしたかもしれないが、直ぐ「しゃーないことはしゃーない、あるがまま、なるがまま」という気持ちに切り替わっていた。そして、出番に遅れないことと、待ち時間で体力を消耗しないことだけを心がけた。

●10/09/06

ゴダイ
3回の本番、本当にお疲れ様でした。先生に出演して頂いたお陰で、全てに締があったと思います。今後とも長い付き合いをお願い致します。メールで失礼ですが、ご挨拶とさせていただきます。

BOW
99.999%の確率で体験できないと考えられる、ミュージカル出演の機会を、思いがけず与えていただき感謝いたしております。ミュージカルが完成されていく過程を、実際に詳しく知ることができて、非常に有意義でした。先生とも、最近では他の誰よりも、頻繁にメール交換ができ、いろいろご教示いただき喜んでおります。こちらこそ、これからも長くお付き合いいただけますようお願い申し上げます。

今回のミュージカル出演を、体験記にまとめて、Webに掲載するつもりでいます。その際はお知らせいたしますので、お読みいただければ幸甚です。

コメント
前日、昼夜2回公演があった。その後打ち上げがあったが、私は3回の公演を全部見てくれた孫と一緒に帰りたくて、これには参加しなかった。

ゴダイ
ご苦労さまでした。お疲れではないですか。

昨夜、打ち上げをしましたが、50歳以上の私とハートリーと勇さんは早めに退散しました(それでも午前1時でした)。ゲストさん達も含め若者たちは、5時まで楽しんだようです。なかには、始発の環状線に乗り、寝込んでしまって4周もしたそうです。私も若い頃はそんなことをしたなあと、とてもなつかしく若さの素晴らしさを感じた次第です。

ゲストの役者さんたちにとっては、規模だとかメジャー性を肌で感じた、何よりもやりがいある企画であったようです。彼らから感謝の言葉を頂いたのは、私たちにとって何よりもの喜びでした。普段わかっていたつもりでいたことが、現実の場面に遭遇して納得することばかりでした。私たちにとって、本当にありがたいことです。何よりも個性のある人たちが出してくれました本心こそが、この公演を支えてくれた一因だと思います。

先生のご感想をお聞かせ下さい。

BOW
私の出演するミュージカルを一番観て欲しかったのが、孫娘で、2番目は65年前に小学4年を共に過ごしたクラスメートでした。神戸に住んでいる者に案内したら、7名が来てくれました。希望が叶って幸せです。

今回ミュージカルに出演させていただき、多くのことを見聞きし、体験することができました。ずぶの素人が、あのような大舞台で、思う存分歌わせていただけたということは、信じられないようなことです。

「美しき国・美しき人」には共感することばが、たくさんあり、素直にその気持を歌うことができました。特に「幾年を越えて 重ねた知恵幾つ 訪ね来る若き力に 微笑みで応えたい」のところは、60歳を過ぎた頃からの私の心境と同じです。良い役で、良い歌を歌わせていただきました。初めての舞台なのに、自分でも不思議なほど、3回とも平静でした。歌で、いつもの80%が出せれば良いという気持で臨みましたが、99%くらい出せたのではないかと、思っています。

練習の過程で、たくさんの方から暖かい配慮をいただきました。その中でも、立花さゆりさんと藤田剛充君のお二人は、心に染みこむように歌を歌える方たちですが、その歌と同じように、老人の私に優しい気配りをしてくれました。橋本祐輔君の、人懐っこい優しい顔と、タイガーを演じたときのあの恐い顔、それと、あのすごいブレイクダンスが一緒になって、瞼に浮かびます。レッスンに参加した最初の日の帰りのエレベーターの中で、私の歌い方をほめてくれたのが、若林優稀子さんでした。すっかり嬉しくなって、帰宅するなり妻に話したことも懐かしく思い出します。素晴らしい若者たちです。

一つのミュージカルが完成していく過程を、実体験できたことが、今回の最大の収穫です。私は何かを作る、構築するということが、こどもの頃から好きでした。少し落ち着いたら、今回の体験を「私のミュージカル物語」というタイトルでまとめてWebに掲載し、それを印刷して、お越しいただいた方々に謹呈しようと思っております。私をお選びくださり、自由に歌わせて下さった五代先生、美加先生に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

コメント
この時の五代先生のメールの件名は「メル友ゴダイ」、その返信のメールの件名が「メル友BOWの感想」である。ここにメル友関係が成立した。

「ハートリー」とは、新森美加先生のことで、「勇さん」というのは、ミュージカルで「ラベンツの男」を演じた川本勇さんである。

「私のミュージカル物語」は2010年9月23日に、ここ「中之島のBOW」に掲載した。

●10/09/07

ゴダイ
先生のご心情がこもったメールに、心が温かくなりました。ありがとうございます。

本番時の写真が届いています。メールでお送りしようかと思ったのですが、3500枚分の写真につき、重量が重くてとても送れそうにありません。ハートリーに聞きますと、11日の土曜日に守口で練習があるとのことですので、そのときにお渡しするということで宜しいでしょうか。

BOW
本番時の写真をいただけるのですか! ブラボーです。ありがとうございます。11日のコーラスの練習日で結構です。よろしくお願い申し上げます。

メル友BOWの感想に大切なことを一つ抜かしていました。それは「美しき国・美しき人」を気持良く歌うことができたもう一つの理由です。伴奏がシンプルで美しく、そして、私のテンポに合わせてくださったことです。だから、安心して思う存分に歌えました。西浦先生にどうかよろしくお伝えください。

ゴダイ
承知いたしました。西浦先生にお伝え致します。近いうちにCD用の録音をしたいと思っています。ただいま準備中です。しばらくお待ち下さい。もうひとつ追加ですが、あと2曲ぐらいは新曲をと思っています。

コメント
受け取った2枚のDVD-Rに、3500枚の写真が収納されていたが、タイムスタンプは9月4日12:12〜16:08だった。ということは、公演初日の本番直前の部分練習とリハーサルの写真である。開演50分前のリハーサルは、本番とまったく同じ状態であり、観客に左右されず撮影できるので、本番以上の良い写真となっている。

西浦先生とは、ミュージカル らくだのダンスの編曲、生バンドの指揮、キーボード演奏をされた西浦誠司先生である。

五代先生は、CD用の録音をこの時から予定されていたようだ。

●10/09/11

ゴダイ
今、10月発売を目標に、ビデオの編集が行われています。販売価格などは未定ですが、これに関しましては、著作権の関係で、JASRACと契約の準備に係っているところです。楽しみにお待ち下さい。

コメント
このビデオの制作は公演前から公表されていたが、機械の故障とか諸々の不調で完成が難航し、五代先生が亡くなられる直前に、先生にお見せすることができたと聞いている。

●10/09/25

ゴダイ
『ミュージカル物語』受け取りました。こんなにも心の通った御本をいただき、感謝に堪えません。大切にしまっておきます。

BOW
今日のコーラスのレッスンで、先生と美加先生、それとピータムに、この「ミュージカル物語」を印刷したものを差し上げたくて、昨日は頑張りました。先生や美加先生にお喜びいただき、本当に嬉しいです。私の感謝の気持です。これからも、どうかご厚誼くださいますようお願い申し上げます。

コメント
メールにある「心の通った御本」というのは、9月23日、サイト「中之島のBOW」に掲載した『ミュージカル物語』を印刷し、簡易製本してA4版47ページでまとめたもので、その中で使った写真は10/09/07に頂いたリハーサル写真である。


ミュージカル物語
ミュージカル物語

●10/10/05

ゴダイ
今日、先生が編集されたらくだのダンスのDVDが届きました。ありがとうございます。今回のミュージカルを公演したことをこんなにも喜んで頂いていると、先生の行動を拝見していて何度も思うこと然りです。その度に先生に歌って頂いてよかったとハートリーとも、いつも言っています。

コメント
「らくだのダンスのDVD」というのは、リハーサル写真と、客席で息子が録音したライブ音声とを組み合わせて、私が出演した場面をDVDにしたものである。公式ビデオの制作が遅れているので、つなぎの意味で、とりあえず制作した。


ミュージカルらくだのダンス
ミュージカルらくだのダンス

●10/10/06

BOW
ただ今、「私にとっての歌」というタイトルで、記事をUPしました。今回のミュージカルに関連したいろいろのことに関する私の気持です。これで、このことから離れ、自分の生活に戻ろうと思っています。

コメント
私は歌が好きで、聴くのも歌うのも好きだが、歌うのを人に聴いてもらうのは好きではない。たまたま、ミュージカルで歌うことになったが、これからはこれまで通り、自分の好きな時に好きなように歌う生活に戻りたい。人に聴いてもらうための練習をする暇があれば、他のしたいことをする方を選ぶ。そのことを一度書いておきたかった。 記事は2010年10月6日に掲載した。

●10/10/08

ゴダイ
「私にとっての歌」を拝読しました。読んでいる途中で、何度もどうしてだろうと思うことがありました。それは先生の記憶力の素晴らしさと、人生を計画通りに歩んでいらっしゃるという偉大さだと思います。

その先生にお願いがあります。私が今まで何作か書きためている小説の感想とか、評価やアドバイスをいただきたいのですが、いかがでしょうか。これらの作品は出版社に送っていますが、評価はどれも平均以上なのですが、私もなにかあとひと味、足りないように思います。それが何かを確かめたくて、先生に感想とか評価をお願いしようと思ったのです。作品を一作添付します。宜しくお願い致します。

BOW
「私にとっての歌」について過分のご感想をいただき、恐縮いたしております。音楽が好き、歌が好きというのは他の人と変わらないかもしれないけれど、私にとって、歌は、ほかの人と違う本能的なもの、狂気、とも受け取られかねない自己陶酔であることを一度書いておきたかったのです。

コメント
「私にとっての歌」を読んでいただいたことから、今度は、私が五代先生の小説原稿を読んで、感想とか評価をしなければならなくなった。批評感想は一番の苦手であり、これまでしたことはなかったが、今回はお引き受けした。

●10/10/09

BOW
「追憶の階段」の感想です。ご期待に添えていなければ、申し訳ありません。

1.おことわり
本は子供のころから好きで、今も本屋めぐりは楽しみですが、小説は最近はほとんど読んでいません。最後に読んだのは、宮城谷昌光氏の「太公望」ですが、平成10年刊となっており、12年間は小説を読んでいないことが分かりました。

また、読後感を書いたのも、中学・高校のころの宿題以来無いように思います。批評・評論などは苦手で、その暇があれば、自分のしたいことをするという生き方できました。そのような私が、先生のご依頼に応じたのは、メル友からのお話であることと、小説というものを一度ゆっくり読んでみたいという気持になったという理由からです。とにかく、昔から流し読みが専門で、じっくり読むということは滅多にしません。

2.おおまかな感想
この小説は、武弥という若者につながる人間群の過去の出来事を追想する物語ですね。その中心は、成功した中年男性と若い美しい女性との運命的な出会いと結婚、男同士の友情、若くして親兄弟を失ったこどもの生き方が混じりあった作品だと思いました。

3.少しこまかな感想
ストーリーが面白くて、一気に読みました。男のロマンというか憧れというものがよく表現されています。頬が幾度か緩みました。いかにも中年男性が書いた小説ですね。しかし、女性には、甘いと受け取られる気がします。出会いの場面は、違ったカップルで、これほどうまく偶然が働く可能性は少ないと思いました。

武弥とあけのの会話は、ありそうな話で、テンポが良くて気持ちよく読めました。成長中小企業の経営者、呉服、建築、交通事故、野球などにお詳しいのに驚きまた。よくご存知なのか、よく研究されているのですね。晃太郎、珠代、忠臣、志乃、忠臣、惣一、荘司、広太、宇宙など登場人物の名前に、こだわりをお持ちのように感じました。

4.時代考証で一つ疑問
私は55年に大学に入りました。うたごえ運動はその頃から盛んでしたが、歌声喫茶が流行だしたのは60年頃からだったと思います。少なくとも阪神間ではそうでした。7ページで忠臣が珠代に会うのが30歳前とすると、55年より前となるので、歌声喫茶はなかったか、あってもあまり知られていなかったと思います。

5.前に使った文章が、後で紛れ込んでいる?
1)4ページの「その中の一軒に、−−−店がある。」は、98ページにもあります。
2)31ページ「君、あけのって言うの、−−−誰が見ても美しい。は似た文章が80ページにもあります。

6.漢字変換の誤り?
1)P.3、P.8、「感」は「勘」?
2)P.42「高名」は「光明」?
3)P.87「返る」は「帰る」?

7.平仮名の方が?
1)P.34、P.36、P.76「勿論」は、漢字にこだわりがあるのでなければ「もちろん」の方が良い?
2)出来ない→できない これは漢字にする理由はなさそうですが?

8.抜けていることば?
1)P.39 進行しなよ→進行しないよ
2)P.41 申し込みではない今はね。→申し込みではない。今はね。
3)P.49 見ましたでも→見ました。でも
4)P.54 よかったら来るあの子も→よかったら来る。あの子も
5)P.55 分からないだろう母親が→分からないだろう。母親が
6)P.56 いいのに→いいのに」
7)P.56 ないからね→ないからね」
8)P.61 違いはない父→違いはない。父
9)P.76 会っているだが→会っているのだが
10)P.84 起こるよこの世ってやつは→起こるよ、この世ってやつは
11)P.87 消してくれ木村さん→消してくれる木村さん

9.送り仮名の間違い?
1)P.75 挑おう→挑もう

10.私は20歳の時に一度だけ小説を書きました。
大学2年目に入ったところで、背伸びをして投稿しました。
「ある高校3年生」です。

コメント
この小説は頭で考えたもので、熟れていないと感じた。そして、私が20歳で書いた最初で最後の小説と似た雰囲気があると思った。そこで、忌憚ない感想を書いて送ってしまった。

●10/10/10

ゴダイ
早速お読み頂きまして、ありがとうございます。的確な指摘を頂き、とても感謝しています。先生が言われたこと全てが当たっていて、恥ずかしい限りです。私は音楽が専門で、2005年に、ハートリーに言われまして小説らしきもの『らくだのダンス』を書きました。あれが処女作です。この5年で30作は書いています。

作詞をする時も同じですが、発想がさきに出てしまい、それをあとでまとめて行く方式ですから、どうしても、誤字脱字をカバーできるところまでいかないのが実情です。そして、読み返すことをあまり得意としていないのが原因だと思います。

それと、ご指摘がありました名前ですが、これは考えて創っていないのです。とても不思議ですが、その場面場面で勝手に出てきます。職業に関してですが、半分以上は想像の世界です。つまり、経験2割で創作8割というところです。

あと、先生と私の大きな違いを言いますと、先生は記憶力が抜群に素晴らしいということです。ひとつお教え頂きたいのですが、日記か何か日常生活を書き残しておられるのですか? 私はこの歳になっても前に進もう進もうとしか考えていなくて、昨日のことは忘れていくタイプです。そういう意味では、創作者として向いているかなあとは思っています。

誠にあつかましいお願いですが、あと一作だけお読み頂けますでしょうか。「追憶の階段』とは全くちがうタイプの作品です。勝手なことを言ってすみません。よろしくお願い致します。

コメント
かなり厳しい感想だと思っていたが、先生はそれを率直に認められた。そして、私の記憶力が良い、日記などをつけているのか?と尋ねられ、もう一作読んでほしいと依頼された。

●10/10/11

BOW
「エンジェル・マーサ」の感想を申し上げます。 「追憶の階段」とまったく違って、「エンジェル・マーサ」は、水を得た魚とは、このようなときに使うことばだと思いました。主な登場者名を見たとき、これは大変なことになるかもしれないと思いましたが、一度も、この登場者名一覧を利用する必要がなかったのです。

ストーリーが面白く、展開が素直で無理がないので、一気に読んでしまいました。「らくだのダンス」に似た機器、歌のフレーズ、理想を追い求めることばなどに出会うと、あのミュージカルを懐かしく思い出しました。このような小説は先生に合っていて、他の人には真似のできない分野だろうと思います。

「 読み返すことをあまり得意としていない」のは私も同じで、推敲は苦手です。だから、誤字脱字は私も得意技です(笑)。今回は、感想を書かなければならず、いつもと違って、ゆっくり読んだので目に付いただけです。ただし、句読点については、私は気にしないではおれない性分のようです。今回の小説でも、句読点では気になるところが多々ありました。しかし、これは先生の文体かもしれないと思い、読み飛ばしました。

身体では聴力が、頭では記憶力が非常に衰えた他は、74歳になった今も、自分では若いときと左程変わらないように思っています。しかし、記憶は駄目です。新しいことは片っ端から忘れていきます。これに対しては、致し方ない加齢現象と考え、「幾年を越えて重ねた知恵」(笑)を使って、それをカバーしています。

その内でも、一番効果のあるのは、大事な記録をWebサイトに掲載しておくことです。ここでは、他人が読んでも分かるように書きます。自分だけが分かるメモでは、時間が経つと、書いた本人も分からない記事になってしまうことを何度も経験したからです。

私のサイト「中之島のBOW」は96年に開設しましたが、今日までに514件のタイトルを載せてきました。下記の「更新暦」をご覧いただければ、お分かりいただけます。
「更新暦」

それらの記事を、必要なときに、即座に見つけ出さなければなりませんが、それには3段階程度の階層構造を持ったサイトマップを付けることで解決するようにしています。下記の「サイトマップ」をご覧いただければお分かりいただけます。
「サイトマップ」

同じことは、パソコンのデータ保存でも行っています。20年間のPCデータの整理保存に、その詳細を書いています。
「20年間のPCデータの整理保存」

パソコンに保存データの内、メールデータは特別に大事にしています。今使っているメールソフトでは、2001年1月からの分が2階層分類で保存してあります。例えば、先生にお送したメールは57通あります。これは、たいていなら、検索しなくても時間でソートすれば、目的のメールが得られます。

パソコンに保存データで、以上の方法で見つからないときは、Googleのデスクトップで検索します。

「日記か何か日常生活を書き残しておられるのですか?」
日記は続けることができない性格なので、子供の時から付けたことはありません。しかし、カレンダーに書き込んだ予定表は、パソコンのカレンダーソフトにまとめて転記してきました。これはメモ書きですが、役に立ちます。1997年からのデータが瞬時に表示できます。

98年から、書.txtというテキストファイルに、下書きや、メモなど何でも書き込み、調べたデータをコピーする雑記帖をデスクトップに置いています。今年の分のファイル名は書2010.txtです。

これは日付を付けて、その下に記事をのせるので、いつでも最新記事がトップにきます。例えば、今日の時点では以下のようです。

◆10/10/10
○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○

◆10/10/07
○○○○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○○○○

これから記事を見つけるには、そのまま順に見るか、「◆」で検索して月日を早く出すか、Googleのデスクトップで検索します。

そのほか、手紙とか大事な資料は大まかな分類で保存しています。
その保存の仕方は
「私の(超々)整理法」 に書いています。

このような風にして、記憶力低下という加齢現象に対応しているので、「先生は記憶力が抜群に素晴らしい」というのは、まったく違うのです。

そのことをお知らせしようとしている内に、記憶力低下対応法ということに集中してしまい、長い文章になってしまいました。

追伸 「先生は記憶力が抜群に素晴らしい」はまったく違うということに関して、もう一つ追加します。

私の1歳から60歳までの大事な出来事を、その年に流行った歌と関連付けて「歌と思い出」というタイトルで記事にしています。記憶ではなく、これを利用していることがかなりあります。
「歌と思い出」

コメント
今度の小説は素晴らしく、ためらうことなく感想を書くことができた。

私の記憶力については「記憶力が抜群に素晴らしい」の正反対で、悲惨なほど低下しているが、それを補うための対策を行っていると申し上げ、その対応策を具体的に書いた。これを下敷きにして、「記憶力低下対処法」をまとめ、サイト「中之島のBOW」に掲載した。

●10/10/11

ゴダイ
自己中心のお願いをしたにも関わらず、なんとも早い対応を頂きまして感謝感激です。先生の勉強好きな性格を垣間見た気がいたします。私も勉強好きな方だと思っていましたが、私など先生の何万分の一程度だと再確認しています。

「エンジェル・マーサ」の感想を頂き、私が今後書いて行くテーマに間違いがなかったことを確信しています。将来を背負って行くこどもたちに、私たちが残しておくことの出来るもの、それが歌であり物語であると思っています。ミュージカル『らくだのダンス』は日本全国の人たちに、そして世界に向かって発信した第一号です。

そう云う意味でも、今が、私の人生にとって最も充実しているときだと思っています。幸い、多くの仲間や先輩、後輩に恵まれ、得たあのミュージカルの感激を忘れることなく、もっともっと実りのある作品を作りたいと思っています。

今後も先生には何かと無理なお願いをすると思いますが、何卒メル友として長いおつきあいをお願い致します。貴重なアドバイス、大切な資料の知恵ストックの仕方などお教え頂きありがとうございました。

コメント
「今が、私の人生にとって最も充実しているときだと思っています。」
それなのに、何と運命は残酷なのか!

●10/12/13

ゴダイ
先日はご招待頂きまして有り難うございました。とても楽しい時間を頂きました。そして、皆様方は歌を歌っておられるから、あんなにお若く、何事にも積極的なのだと感心致しました。

コメント
ホテル日航の「レ・セレブリテ」で行われた、私たちのコーラスの忘年会にご出席くださり、楽しい夕べを過ごすことができた。平均年齢が私と同じか、それ以上のメンバーなので、その割に皆が若いのに驚かれたのだろう。散会のあと、新森美加先生とご一緒に心斎橋に出かけられた。そして、これが五大先生にお目にかかった最後となった。

●10/12/14

ゴダイ
昨日は大変貴重な映像をいただきました。有り難うございます。ご家族の温かさがズーンと伝わってきました。2歳の彼女があんなにも私の曲を歌っていただいているのを拝見しまして、まことに作曲家冥利に尽きます。今後、アーティストとしての彼女に期待したくなりました。

BOW
さっそく孫のビデオをご覧いただき、ありがたいご感想を頂戴し、感謝いたしております。らくだのダンスに出演させていただくことになった時、孫に見せたいというのが一番の願いでした。思っていた以上に、孫が喜んでくれたのが何よりも嬉しく、爺馬鹿なビデオを作ってしまいました。

週に1回以上孫と会っています。孫と過ごす時間の3分の2が楽しく、3分の1が知的好奇心を刺激され、感動しています。あとには疲労感が残りますが、それも心地良いものです。

コメント
忘年会の帰り際に、孫がミュージカルらくだのダンスの公演を喜んで見ている様子や、そのあとも、このミュージカルの歌をいくつか楽しそうに歌っているハイビジョンビデオを、ブルーレイ(BD)に収めて差し上げた。

孫娘のイベント
孫娘のイベント

●11/01/29

ゴダイ
私達がいま残しておきたいもののひとつに『美しき国〜』の歌の録音があります。きっといい作品に仕上がると思います。先生の空き時間をお知らせ頂き調整をしたく、お返事をお持ち致します。

●11/02/01

ゴダイ
録音日の予定が出ました。先生のご都合に変更がなければ、2/28のPM1:00からフックラックで行います。

コメント
五大先生は、2月中旬呼吸困難で救急担送され、2月22日より入院されたため、録音は延期となった。

●11/02/23

BOW
この度のご病気を、コーラスの中島様からのメールで知り、ご心配申し上げておりました。メル友としてお付き合いいただき、ありがたく思っておりますので、早速お見舞いを差し上げたい気持ちでした。しかし、22日に病院で結果説明があるとお聞きし、今日まで控えておりました。

最初、搬送されたとお聞きしたとき、心筋梗塞か脳卒中でないことを祈りました。それ以外の病気なら、自分の人生の整理をする時間があるからです。搬送された時、血中酸素濃度が70%近くにまで落ちていたとのこと、さぞお苦しかったことと思います。私は30歳〜40歳までは、喘息発作を度々経験しましたので、呼吸困難の苦しさが分かる気がします。

また、私は、50歳のころから、自分の死亡時期を70歳と想定し、それまでに、したいことの60%くらいは、しておきたいと考えて生きてきました。それを何とか果たすことができて、今はオマケの人生にいます。先生もご自分の人生について、思って来られたことがおありのことと存じます。この度のご病気で、そのことをより真剣にお思いになっていらっしゃるかもしれないとも思っております。

もし、私の考えてきたことを知りたいとお思いでしたら、私のホームページに載せている、

私の死生観
私の死生観その2

をご覧ください。

もちろん、他人が考えたことなど知りたくないとお思いでしたら、どうぞご放念ください。私自身が、他人の考えなど知りたくない人間だから、矛盾していますね。先生の何かのお役に立ちたいと思う気持ちから、余計なご負担をおかけしたのでは、何をしているの分かりません。本末転倒です。私がお役に立つことがあれば、どうか、ご遠慮なくお申し付け下さい。

「美しき国〜」の録音の件ですが、延期、中止、いずれでも私は結構です。先生のご指示に従います。どうか、お大事に

コメント
2月22日にコーラスで新森美加先生からご容態を伺い、メールを差し上げた。

●11/02/25

新森美加先生
主人が昨日、野村先生にメールをいただいた。もうすぐ落ち着いたら、返信をさせていただくので、よろしく伝えて欲しいと…

コメント
2月23日に差し上げたメールをお読みいただけたようだ。

●11/02/28

新森美加先生
肺炎による呼吸困難がかなりの体力、生命力をうばっているようです。今日の録音も楽しみにしておりましたが 戻る事が出来ません。延期してもらって…と申しております。

BOW
メール拝読しました。今日の録音の延期、了解しました。中島様から先生のメールを転送していただき、五代先生のご容態が快方に向かわれていないことを知り、案じ申し上げておりました。メル友のお付き合いをして頂くようになり、先生も生きる意味を真剣に考えて来られたことを知りました。「美しき国・美しき人」は、それを表している一つだと思っています。早く回復されることを心からお祈り申し上げます。新森先生が倒れられないこともお祈り致しております。

コメント
3月7日夜、五代先生は亡くなられた。美加先生から電話を頂いた時、五大先生の入院先の病院をWebで調べ、地図を印刷したところだった。タクシーで病院に駆けつけると、ミュージカルらくだのダンスの主役を演じた藤田剛充くんが先生の傍にいた。らくだのピータム、その祖父で、らくだ王国の長老オージタが、ご家族とともに先生の死に顔を注視した。おだやかで安らかなお顔だった。少しお痩せになったが、苦しまれた跡は微塵も残っていなかった。疾風のごとく、この世を去られ、残念だ。


まとめ

享年63歳は早すぎる。そして、70歳で死ぬと想定して生きてきた私が、4年もオマケをもらっている。運命は不公平だ。しかし、自然の摂理には従わざるを得ない。

五代先生は死の覚悟ができていたと思う。若くして急性肝炎に罹患され、慢性肝炎→肝硬変→肝がんと進行する過程を熟知されていたはずだ。3年前から検査を受けることを拒絶されたと聞く。検査や治療によって残された時間が費やされ、したいことをできなくなることが耐えられなかったのだろう。そして、残された命が長くないことを悟り、懸命に、しておきたいことをされたのだと思う。

五代先生には悔い少なき人生だったと思う。10/10/11のメールで「今が、私の人生にとって最も充実しているときだと思っています」と書かれている。あのミュージカル らくだのダンスを成功させ、さらなる目標を掲げる中での逝去だ。与えられた人生の中で精一杯生きた、まこと、見事な生き方である。そして、生きた立派な証を残された。

したいことをすると言っても、自分ひとりでできることは限られている。ミュージカルなどは、多くの人の協力がなければ、到底成功するものではない。先生は多くの仲間や先輩、後輩に恵まれ、あのミュージカルを成功させた。それは先生の人徳によるところが大きいと思う。春風駘蕩、のどかでおおらか、好々爺の風貌から、らくだ王国の長老が思い浮かぶ。

五代先生の人生一番の幸せは、奥様美加先生との結婚ではないかと思う。ミュージカル らくだのダンスの成功に最も貢献したのは奥様であることを、関係者なら誰も認めることだろう。

おわりに

友と過ごした時間を懐かしく思い浮かべることがある。人という生き物は、一緒に楽しんで過ごす友の存在が必要なのかも知れない。

心に残る思い出がある友を、その人と出会った時の私の年齢順に数え上げると17名となった。その内の12名が私と同い年で、クラスメートである。残り5名は年下だが、心に残る懐かしい思い出がある。

同い年の友12名のうち10名がもうこの世にいない。

心に残る友との思い出は、それぞれが異なっていて、どれも個性的で、面白い。思い出を書かせて頂いた17名の友に対して、親しくお付き合い頂いたことを感謝申し上げる。ありがとうございました。

<2021.2.18.>修復


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