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ロン・パリやぶにらみ道中記(改訂版)

 2000.8.15〜8.23.


2000.09.06. 掲載
2009.09.01. 改訂
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目次
   1.  改訂版の説明
   2.  出発前の準備
   3.  8月15日(火)往路
   4.  8月16日(水)パリ周辺
   5.  8月17日(木)モン・サン・ミッシェル
   6.  8月18日(金)パリ中心部
   7.  8月19日(土)ロンドン 大英博物館 ロンドン塔
   8.  8月20日(日)コッツウォルズ地方
   9.  8月21日(月)ロンドン市内観光
  10. 8月22日(火)ロンドン市内観光その2
  11. 8月23日(水)帰路
  12. 友人からの感想メール
     12-1.その1 服部道彦様から
     12-2.その2 南 正敏様から


改訂版の説明

2000年にロンドン・パリを旅行した際に、映像記録はほとんどビデオで行い、そのまま手をつけずにいた。今回9年ぶりにビデオから静止画像を取り出し、旅行記に載せた。文章にはほとんど手を加えていないが、まったく画像がなかったものに、77枚の写真を加えたので、改訂版とした。

デジカメとは違って、動画から適当な画像を取り出すのは、かなり面倒である。その割に画質はあまり良くないが、それでも画像があると、やはり説得力があると思う。


出発前の準備

夫婦で海外旅行は今度が4回目、前回から2年ブランクがある。一昨年は、義母が脳梗塞に倒れ、妻の手術があり、昨夏は、尼子医師会長が生死のはざまで病魔と戦闘中、海外に出かけられる状況ではなかった。この夏も、脳梗塞の義母のことが気になり、旅行を決めたのは7月の半ばだった。

場所の選択

3年前に私の海外旅行エンジョイ法で、場所の選択について書いたが、今回は充分検討する時間がない。そこで、あまり考えることもなく、妻が以前から行きたいと言っていたパリとロンドンに決めた。

下調べとツアーの決定

急に旅行をすることに決めたので、下調べをする余裕はなく、パリとロンドンの旅行案内を1冊づつ買っただけで、それを読んだのも往きの機中だった。

ツアーの旅行社はJTBと3年前から決めていた。なぜかと言えば、ドイツ・オーストリア旅行の際に、現地で実力を持っていることが分ったこと、添乗員が良かったこと、その後の国内で、白浜、北海道に旅行したときの印象も良かったからである。

申し込みが遅かったので、お盆を挟んだ行程はすでに満杯、しかたなく、8月15日発の「パリ・ロンドン9日間の旅」に決まった。

旅の準備

ツアーが決まると、まず遺書を書く。これも4回目なので、前回分の小変更で済む。デジタル・データだから、作業は簡単だ。この時期を利用して、死んだ時のためのまとめを更新するのは、私にとって、心理的にも実際的にも良い効果がある。

旅行に持って行く物の中で、私にとって一番大事なのは、ビデオカメラとその関連用品である。前回まではHi8だったが、その直ぐ後でDVに変えた。最初の2回の海外旅行にはEOSという大きなスチル・カメラを一緒に携行し、その次はデジタル・スチル・カメラを持って行った。

しかし、ビデオを撮り、写真を撮るのでは忙しすぎる。幸い、デジタル・ビデオでは、これからスチル画像も取り出すことができるので、今回はビデオだけを持って行くことにした。ところがである、妻から猛烈な反対が入った。やはり写真が欲しい、使い捨てカメラで自分が撮るというのだ。メカ音痴でカメラを使ったことがなかったのに、前回の旅行ではじめて使い捨てカメラを使って、自信がついたのだろう。

それなら、同じ程度に小さく簡単で、そのくせ性能は格段に優れている「IXY」を持たせることとし、出発3日前に購入した。結果的に、これは大成功だった。旅行から帰って出来上がった写真を見た彼女は、「私にもちゃんと写せた、これからはジャンジャン撮るからね」と、鼻息が荒い。私もこの可愛いメカ・ボックスがすっかり気に入った。サービスサイズに伸ばすのなら、これで充分過ぎるくらいの性能である。

出発2日前には、旅行かばんを受け取りに宅配便が来る。その準備で妻はバタバタしていた。といっても、下着類は例の古着だから問題はない。要するに、どの服を持って行こうかと悩むわけで、その内に時間が来て、余分に詰め込むことで、自然解決となった。この宅配を利用することで、海外旅行が非常に楽になり、とてもありがたい。

前置きが長くなったが、いよいよ道中記に入る。出発の15日から、帰着の23日までの記録である。


8月15日(火)往路

1.出発直前の混乱

我が家では、出発間際になって大騒ぎをすることが良くある。今回は妻が、「JTBバッチ」が見つからないと騒ぎ出した。あっちを探し、こちらを確かめるが出てこない。そのうちにタクシーが来てしまった。そのお陰で、私はi-mode携帯を持ち出すのを忘れ、尼子先生が出発前に送信して下さったメールを読み損ねてしまった。

2.関空特急

JRを乗り継いで、天王寺から関空特急「はるか」に乗り込んだ。座席について辺りを見回すと誰も乗っていない。「ねぇ、こんなガラガラでやって行けるんやろか?」と妻、「そら、行けるんやろ」と私。間もなく車掌が切符検札にやってきて、ニコニコ笑いながら、「ここはグリーン車ですが、追加料金を払っていただいたら、そのままお座りいただけます。自由席には、もう相席はないですよ」と言うのだ。

彼の態度からは、どうかグリーン車に乗って下さいと頼んでいるように思えたので、私はその気になったが、それもつかの間、妻に追い立てられて、6号車から1、2号車へと移動し、1号車の最先端に二人用の座席を見つけて、腰を落ち着けたのである。あとで、検札に来た車掌と顔を合わせ、互いにニヤリとしたものだ。

3.関空発

正午に、全日空機で関空を飛び立った。これまでの海外旅行はすべて外国機だったので、ちょっと様子が違う。心なしか、座席もゆったり、スチュワーデスもより親切に感じられる。離陸して間もなく、昼食になった。私たちはどちらも洋食を頼んだが、配られてくる食膳が違う。「これ、洋食ですね?」と尋ねると、そうだと言う。妻はおかしいと頑張るが「男と女で、洋食も違うんやろ」と様子を見ていたら、間もなく配膳を取替えに来た。

4.飛行機内で予習

食事も済んで、落ち着いた頃、妻はバッグから薬を取り出して点検を始めた。頭痛薬や安定剤、下剤など、自分の常備薬のチェックだと思っていたら「これ、パパの薬」と言って笑っている。滅多に薬を飲まない私に、何の薬かといぶかると、「はい、ニトロール」

私が死ぬ時は心筋梗塞だろうと日頃言っているし、循環器内科医となった息子も、その意見に同調するので、妻はそう信じ込んでいるようだ。また、飛行機の中でアルコールを取り過ぎて、脳梗塞や心筋梗塞で倒れる人が多いと患者さんに説明しているのを聞いて、心配していたらしい。そこで、胸を痛がれば二トロール、これさえあれば大丈夫、ニコニコの由来はこう言うことだったのだ。

ロンドンまでの道のりは12時間30分もあるので、この時間を利用して、パリとロンドンの勉強をした。過去の海外旅行では、出発までにかなり予習もしたが、今回はこの機上での勉強が最初だった。そして、着陸空港、宿泊ホテル、観光予定場所、セーヌ河、テームズ川など目印を含めた概略図を頭に叩き込んだ。

5.ロンドン・ヒースロー空港到着

最初の到着地であるロンドンのヒースロー空港に着いた時のハプニング。私たちのツアーのご夫婦一組が居ないので探していたら、別のツアーのグループの方へついて行っていた。添乗員の顔が似ていて間違えたというので、良く見ると確かに姉妹のような顔だ。この時、とっさに頭に浮んだのは、池田先生ご夫妻の沖縄で取られた行動で、頬がゆるんだ。先生、奥様ごめんなさい!

ロンドンからパリまでは、英国ミッドランド航空に乗り換えるのだが、これが4時間待ち。時間つぶしに飽いたので、Cクラス用ラウンジでしばらくくつろいだ。そこまでは良かったのだが、そこを出たら元に戻る通路が一方通行になっていて入れない。仕方なく他の通路を通ると、空港の外に出るロビーに来てしまった。慌てて搭乗券を見せまわり、もう一度手荷物チェック、ボディー・チェックを受けて、やっと集合場所にたどりついた。やれやれ。

6.パリ・シャルル・ドゴール空港到着

ロンドンから、ボーイング737に2時間乗ったところで、パリのシャルル・ドゴール空港に到着、現地時間で午後10時20分、モンパルナスにあるホテルの自室に入ったのは午前零時を過ぎていた。


8月16日(水)パリ周辺

1.ノートルダム寺院

パリ最初の観光は、セーヌ河の中洲にあるノートルダム寺院から始まった。この中洲はシテ島と呼ばれるが、ちょうど大阪の中之島と同じような感じで、シーザーがこの島を征服した時、ここに暮らしていた住民をパリシィ(Parisii)と呼んだことが、パリの名称の由来だと聞く。

ノートルダム寺院は、このシテ島の南東部にあり、フランス・カトリックの総本山で、中世ゴシックの傑作といわれる名建築である。正面入り口の門には最後の審判、右は聖アンナ、左は聖母マリアをテーマにした彫刻がある。ノートル・ダムは「我らの・貴婦人」を意味し、聖母マリアに捧げられた教会とのことだ。

内部に入るとフラッシュは駄目だが、ビデオ撮影は許されている。バラ窓と呼ばれる3つのステンド・グラスが素晴らしい。正面(東)には聖母子、北面は聖母マリアと旧約聖書の人物、南のバラ窓にはキリストと聖人たちが描かれている。

ノートルダム寺院の外に出て、左の入り口の上を見ると、そこには首から上がなく、胸のあたりに頭を持っている人物の彫像がある。この人はローマ兵に首を落とされたキリスト教信者で、落とされた自分の頭を持ってモンマルトルの丘に逃れ、そこで身を横たえところ奇跡が起こり、一面に草が茂ってローマ兵の追跡をさえぎったと言い伝えられている。モンマルトルのモンは山あるいは丘、マルトルは殉教者が語源だと、ガイドさんが話してくれた。


図1.ノートルダム寺院左入口の彫刻 2000年撮影の動画より切り出し

2.モンマルトルの丘

ノートルダム寺院の次は、北に向かい、オペラ座の北北西約2kmにあるモンマルトルの丘に登った。小高い丘だが、ケーブル・カー(Funiculaire)がある。乗車時間はわずか5分くらい、別にこれに乗らなくても簡単に登れる。頂上に着くと、真っ白なサクレ・クール寺院が目に飛び込んできた。1914年に完成され、ロマネスク・ビザンチン様式の丸い聖堂が特徴のエキゾチックな建物で、新しいだけに、ノートルダム寺院やその他の建造物に見られるようなうす汚れたところがなく、非常に美しい。


図2.サクレ・クール寺院 2000年撮影の動画より切り出し

このモンマルトルの丘から、パリ市内が一望でき、この寺院の下にある広場では、ハープを巧みに演奏している大道芸人に聞き惚れている群集がいた。

サクレ・クール寺院から西に向かうと、テルトル広場に出る。昔の「芸術家村」の面影を今でも残す一角で、この広場の中央は、自分で描いた絵を売る絵描きと似顔絵描きと観光客で賑わっている。中には、日本人画家の顔も見えた。自由時間が制限されていたので、似顔絵を描いてもらえなかったのは残念だった。いつもの海外旅行と同じように、妻に手を振りながら歩いてくるように指示をしてビデオ撮影をしていると、すれ違った外人のご婦人連も陽気に手を振ってくる。楽しい人たちだ。


図3.すれ違った外人のご婦人連も陽気に手を振ってくる 2000年撮影の動画より切り出し

この広場から、もと来た方向に少し戻ると、サン・ピエール教会がある。ここはパリ最古の歴史を持ち、建物の完成は12世紀末と言われている。ユトリロが「白の時代」に描いたモンマルトルの教会が、そのまま目の前に現れた感じだ。

この教会の前の小さな広場で、手回しオルガンを弾きながら、シャンソンを唄う陽気なパリジェンヌがいた。エディット・ピアフばりで、なかなかうまい。その内に、聞き惚れている群集に向かって、コインを放り込めと身振りで合図をし始めた。それにつられた我が妻は、私から20フランをとりあげ、容器に入れた。しかし、ただでは済ませないのが河内女。しっかり、その様子をビデオに撮らせ、唄っている彼女と並んでポーズをとるのだった。


図4.シャンソンを唄う陽気なパリジェンヌの横で 2000年撮影の動画より切り出し

このあとハプニングがあった。集合時間になって人数が合わない、2人足りない。私はそれが誰であるかはすぐ分った。70歳くらいの頭頂部頭髪が80%は失せている好々爺と、しっかり者の美人の奥さんである。添乗員もガイドさんも大慌てで走り回り、携帯をかけ続け、1時間近くが過ぎてしまった。しかし、見つからない。

次のスケジュールがあるので、昼食を予約してあるレストランに向かった。このような場合、私ならどうするかと考えると、タクシーでホテルに帰る。この人たちもそうするだろう、しかし、午後からのヴェルサイユ宮殿の観光は無理かもしれない、お気の毒に!

3.昼食はエスカルゴ

昼食は名物「エスカルゴ」だが、あまり美味くない。「さざえ」の方がよほど美味いと思う。ガイドさんは、昼食中も携帯をあちこちにかけ続けていた。皆がほぼ食べ終わりかけた頃、ホテルに戻っていると連絡がついた。そのまま、こちらへ向かうとのこと。良かった、良かった、歓声が上がる。

4.ヴェルサイユ宮殿

午後から、パリの西方20km郊外にあるヴェルサイユ宮殿を訪れた。ここはルイ14世が造り、フランスの首都として全ヨーロッパに君臨する時代を築いたが、1789年のフランス革命の際に、民衆に包囲され、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、それから4年ののち、ギロチンで処刑された。革命後、この宮殿は荒れ放題だったが、ロックフェラー財団の援助で修復され、かっての華やかさを取り戻したと聞く。


図5.ヴェルサイユ宮殿正門から入ったところ 2000年撮影の動画より切り出し

この宮殿の巨大さには、圧倒されると同時に、ここにはドイツやオーストリアの宮殿の繊細さ、華麗さがないと感じた。過ぎたるは及ばざるが如しの感なきにしもあらず。このようなところで、王侯貴族が日夜贅沢三昧に耽れば、フランス革命が起きるのも無理はないとか、この宮殿の代名詞ともいえる「鏡の回廊(Galarie de Glaces)」の鏡は、1枚1枚が小さくて汚く、天井や壁も薄汚れていて、現在の建物として見ると魅力がない、などと思ってしまった。

ヴェルサイユ宮殿への往復のバスの窓から見える景色は、大都会であるパリとは対照的な、豊かな田園風景が広がり、パリとは異なるフランスの魅力を知ることができた。そのバスに乗っていて、ちょっと驚いたことがある。このツアーは夫婦組が大半だが、窓側に座るのは全部奥様で、私たちだけが例外だった。大発見をしたつもりで、妻にそのことを話すと、「いつも、そうよ、飛行機でも、スカイ・ラウンジでも、景色のよく見えるところに必ずあなたは座る」と手厳しい。「なにしろ、最初のデートで、タクシーに先に乗り込む人だから...」と、30年以上前のことまで持ち出され、やぶ蛇となってしまった。

迷子になった老夫婦が、このヴェルサイユ宮殿観光に参加できた分だけ、時間は大幅に遅れてしまった。そのため、パリに戻るバスはスピードを上げていた。パリは盆地にあるので、坂をどんどん下って行く。まもなくパリ市内に入ると思われたころ、バスは急停車した。何ごとかと思って窓の外をみると、若い男性と添乗員が走り出て、近くの建物に向かって疾走している。

この男性は27歳、一人でこのツアーに参加していたが、トイレ休憩のところで、飲料水ボトルを沢山買い込み、それを飲み過ぎて、「自然の招き」に抗し切れなくなったらしい。可哀想に、彼はそのことをものすごく恥じて、それから旅行の最後まで、まるで「神経性頻尿」のように、トイレ探しに明け暮れていた。

5.エッフェル塔

迷子騒動がなければ、エッフェル塔を見終ってから昼食の予定だった。時間が大幅に遅れてしまったが、エッフェル塔に立ち寄らないのでは、パリを見たことにならないというわけで、ホテルへ戻る前に、ここへ停めてくれた。この塔は、フランス革命から100年経った1889年に、パリで開かれた万国博覧会を記念して建造された、パリのシンボルの一つで、鉄骨橋梁の設計技師エッフェルが設計した。当時は、パリの美観を損ねると反対が強く、30年後に取り壊す約束で造られたそうだ。その解体が延び延びとなり、今ではパリになくてはならぬ建物となっている。


図6.エッフェル塔をバックに記念撮影 (スキャナで取り込み)

6.私はツアー参加の最高齢者

夕食の席で、私たちは迷子夫婦と向かい合って座った。迷子になった時の行動を尋ねると、想像していた通り、直ぐにタクシーでホテルに帰ったと言う。年齢を尋ねると、70歳くらいと思っていたこのご主人が、何と61歳とのことで仰天してしまった。奥様も妻と同じ57歳だが、60歳くらいに見える。64歳の私がこのツアーで一番年長だったのだ。このようにして、ハプニング続きのパリの第1日目は終わった。


8月17日(木)モン・サン・ミッシェル

1.モン・サン・ミッシェル

フランスでの観光第2日目は、パリの西方約300kmにあるモン・サン・ミッシェルの観光である。ここは、フランスの北西部、英仏海峡に沿って開けたノルマンディ地方にあり、モン・サン・ミッシェルは、海岸線から1キロほど沖に突き出た岩山の島で、フランスで、もっとも有名な巡礼地である。8世紀のはじめ、この小さな島に、ベネディクト派の僧院として設立され、13世紀にはゴシック建築の傑作とされる僧院が増築され、フランスの歴史的記念建造物に指定されている。

モン・サン・ミッシェル(MONT SAINT-MICHEL)は、英語で書けばマウント・セイント・ミカエル(MOUNT SAINT MICHAEL Mt.St.Michael)、聖ミカエルの山という意味であり、夢に聖ミカエルが現れて、この海の中の小島に僧院を建てるよう、お告げがあって建立された、とガイドさんが話していた。

大天使聖ミカエルは、サタンとその使い達を打ち負かす天軍の総帥とされ、世界中の多くの国や団体から、保護者として仰がれている。フランス語でミッシェルと発音する。


図7.モン・サン・ミッシェル (IXYで撮った写真からスキャン)

満潮時には、この僧院が海の中に浮び、おとぎ話に出てくるような幻想的な美しさがある。目の前にこのモン・サン・ミッシェルが現れた瞬間、スペインのトレドを思い出した。どちらも、はっと息を呑んだが、こちらの方がはるかに小さい分だけ可愛らしい。ここは絶えず観光客で賑わっているので、車の渋滞が慢性的に続いているとのことだ。僧院の内部から見下ろす景色も優れているが、モン・サン・ミッシェルは、外から眺めるのが一番美しい。


図8.モン・サン・ミッシェルから見下ろす景色 2000年撮影の動画より切り出し

このモン・サン・ミッシェルは、確かに一見する価値はあるが、これ一つを見るために、まる一日を費やすほどのことはない。しかし、パリからここまでの道中で車窓から眺めた風景は、フランスという国にこれまで抱いてきたイメージを、全く変えてしまう効果があった。パリを離れて西へ300km余りの行程は、美しい大平野が絶えることなく、この国が大農業国であることを、はっきり教えてくれた。そういう意味で、このツアーにモン・サン・ミッシェル観光が含まれていたことは、私にとって非常に有意義であった。

昼食にモン・サン・ミッシェルの名物というオムレツを食べたが、すかすかして、名物に美味いものなしの見本のような代物だった。ノルマンディ地方はブドウが育たず、代わりにリンゴを植えている。バスの車窓から小さなリンゴの実をつけた木が見えていた。このリンゴから醸造したシードルや、蒸留したカルヴァドスを飲んだが、こちらはフルーティーで美味かった。カマンベールチーズがこの地方の特産品であることも、このモン・サン・ミッシェルへの旅で知ったが、もちろん本場ものは格別美味かった。

長い帰りのバスの道中で、これまで撮影してきたビデオを再生して妻と楽しんだ。そのことが、この部分の映像欠落につながることになったことを帰国してから知った。ビデオを最後まで見たのなら問題はないのだが、途中で中断し、エンド・サーチ・ボタンを押さずに、次の撮影を行ったので、上書きしてしまったのである。IXYで撮った写真が少しはあるが、ビデオは完全に欠落してしまっている。残念だ!


8月18日(金)パリ中心部

1.ルーブル美術館

3日目は、ルーブル美術館から始まった。ここはパリの中心部、ノートルダム寺院の北西のセーヌ河の右岸に沿って威容を誇っている。ミッテラン大統領提唱のルーブル美術館大改造計画(グラン・ルーブル)で、展示スペースがこれまでの2倍になり、ガラスのピラミッドが設けられ、名実ともに世界一の美術館であることが実感できた。ここに所蔵されている30万点を見ようと思えば、1週間は滞在する必要があると言われているので、実物のサワリだけ見ておくことになることは初めから承知していた。

この世界一の美術館は、非常にモダンで、採光が良く、ゆったりしたスペースがとられている。フラッシュは駄目だが、写真やビデオ撮影は許されていて、監視人も目障りではない。フィレンツェのウフィッチ美術館やマドリードのプラド美術館とは、そのいずれの点でもまったく違うのだ。まさにグラン・ルーブルである。生きている間に、必ずもう一度来るぞ、という気持にさせてくれる。

鑑賞した作品のうちで、心に残る1点を挙げるなら、彫刻は「ミロのヴィーナス」、絵画はアングルの「グラン・オダリスク」となる。ダヴィンチの「モナリザ」は、瞼にある黄色腫を見つけることに専ら関心が向いたが、結局よく分らなかった。


図9.スフィンクス 2000年撮影の動画より切り出し


図10.サモトラケのニケ 2000年撮影の動画より切り出し


図11.ミロのヴィーナス 2000年撮影の動画より切り出し


図12.ミロのヴィーナス 2000年撮影の動画より切り出し


図13.ダ・ヴィンチ モナ・リザ 2000年撮影の動画より切り出し


図14.ダ・ヴィンチ モナリザ 2000年撮影の動画より切り出し


図15.ドラクロア 民衆を導く自由の女神 2000年撮影の動画より切り出し


図16.ドラクロア アルジェの女たち 2000年撮影の動画より切り出し


図17.アングル グランド・オダリスク 2000年撮影の動画より切り出し

2.オペラ座

午後から、今回のツアーでは初めての自由行動の時間である。ルーブル美術館から、オペラ通りを北に進むとオペラ座に突き当たる。そこでまず、オペラ座(オペラ・ガルニエ)に行った。ロンドン・ミュージカルの傑作「オペラ座の怪人」は、ここを舞台とした物語である。大理石とブロンズを用いた豪華な劇場で、文字どおりオペラの殿堂として親しまれてきた。

これは19世紀パリの記念碑的な建物で、昨年まで黒ずんでいたが、ミレニアムということで、昨年外壁が洗浄されたため、真っ白となり外観も非常に美しい。中に入ると、豪華な大階段、ロビーに圧倒される。

昔の黒っぽいオペラ座を知っている友人は、ピカピカのオペラ座など話にならないという。また「オペラ座の怪人」の舞台としては、美しくなり過ぎて暗闇陰影が失われて、ちょっと場違いになった感はたしかにある。しかし、それは郷愁というもの、オペラ座が誕生したときの姿を知ることができるのは、それ以上に良いことだと私は思う。

システィンの壁画が洗浄され、ミケランジェロの描いた色がこのように鮮やかだったことを知った時と同じ気持だ。固定観念が覆るのは、私にとって愉快であり、過去にこだわることは私の性に合わない。


図18.オペラ座 2000年撮影の動画より切り出し

3.凱旋門

オペラ座からは「シャンゼリゼ大通り」「コンコルド広場」などへ歩いて行けるが、まずタクシーで凱旋門へ行った。シャンゼリゼ大通りの、凱旋門に向かって右側の歩道の最後に、凱旋門に通じる地下道の入り口がある。


図19.凱旋門 2000年撮影の動画より切り出し

凱旋門の屋上展望台に登るには、ラセン階段しか見あたらず、誰もがそこを登るので、私たちもついて行った。うす暗く、人一人しか通れないラセン階段を272段、高さにして約50m、休むことなく一気に登ることはかなり苦痛で、ここではじめて年齢を感じた。踊り場がなく、後から追い上げてくる人がいるので、休息がとれないのだ。

このように登るのには苦労をしたが、屋上に出ると、そこには経験したことのない素晴らしい景色が待っていた。私たち夫婦は、「馬鹿となんとかは高いところへ上る」を地で行って、海外旅行では必ず高い塔に登り、市街を360度に亘って見下ろして来ている。イタリアやスペインでは、大寺院を中心に放射線状に道路が集まるところが多い。

この凱旋門の上から見下ろすと、ここにも放射線状に道路が集まってきているが、それがまったく違うのだ。それは、1)凱旋門のある広場(シャルル・ド・ゴール広場)は直径240mの分度器で描いたような正円形の広場で、2)ここへ向かって、12本の大きな道路が、ほぼ30度の間隔で、放射線状に集中し、3)その道路が全て一直線で屈曲がなく、4)どの道路も幅広く、そして美しく整備されている。その中で一番道路幅の広いシャンゼリゼ大通りは、幅124mもある。他の11本の道路も、シャンゼリゼ大通りの半分以上の幅がある。5)この屋上から見回すと、周囲には高層ビルがなく、エッフェル塔や、ノートルダム寺院の塔が目立つほかは、目障りな建物がなくて美しい。以上のような幾何学的に統一された美しさに私は感動した。

この凱旋門の上から眺めた景色に、今回の旅行で私は一番インパクトを受けた。このような街を造ることができる人間を素晴らしいと思った。もちろん、パリのような街だけを良いと思うわけはなく、摩天楼の聳え立つ街も、無秩序で猥雑な日本の街でさえ、私は好きである。しかし、パリのような歴史と文化が渾然と融合した高度に知的な美しい街は、他にないのではなかろうか?

凱旋門と、それに向かってまるでスター(エトワール)のように集中する道路、これらのパリの街並みと比べると、ヴェルサイユ宮殿は驕りと、愚鈍の象徴のように思えた。


図20.シャンゼリゼ大通りから、時計回りで約60度の方向にある通り 2000年撮影の動画より切り出し


図21.彼方にエッフェル塔が見える 2000年撮影の動画より切り出し


図22.シャンゼリゼ大通りに天井なしの観光バスが見える 2000年撮影の動画より切り出し


図23.シャンゼリゼ大通りの始まりの部分、左上には先の観光バスが見える 2000年撮影の動画より切り出し


図24.シャンゼリゼ大通り 2000年撮影の動画より切り出し


図25.彼方にコンコルド広場の大観覧車やルーブル美術館が見える 2000年撮影の動画より切り出し


図26.シャンゼリゼ大通りから反時計回りで約45度の方向 2000年撮影の動画より切り出し


図27.モンマルトルの丘サクレ・クール寺院が見える 2000年撮影の動画より切り出し

4.シャンゼリゼ大通り

凱旋門から地面に降り、地下道を抜けると、そこはシャンゼリゼ大通り。「オー・シャンゼリゼ!」と鼻歌が出てくる。南側の歩道を、ルイ・ヴィトンのある角で斜め右に折れると、ジョルジュ・サンク大通りが始まる。ここをセーヌ河に向かって進む。エルメスがあり、ケンゾーも見える。セーヌ河の手前のロータリーで、60度斜め左に折れ、シャンゼリゼ大通りに向かうと、そこはモンテニュー大通り。目当てのプラダもこの通りにある。


図28.ルイ・ヴィトン 2000年撮影の動画より切り出し

シャンゼリゼ大通り、ジョルジュ・サンク大通り、モンテニュー大通りの三つの通りが正三角形を作っている。この三角地帯はフランスのトップ・ブランドの本店が軒を連ね、パリ一番のショッピング街である。

5.プラダでショッピング 2000年撮影の動画より切り出し

プラダに入ると、日本人がひしめき合い、熱気がムンムン、買った品物を受け取るのに順番待ちをしている。どうして、こんなに人気があるのだろうか? ここへ来たのは、息子から新製品のカバンを頼まれたからであるが、店の中には陳列されていない。

そこで、忙しくしている店員の一人に、雑誌の切り抜きを見せると、それを手にした彼女は階段を登っていった。10分くらい経った頃、カバンを持って降りてきて、にっこり笑って新製品だと言う。色が切り抜きと少し違うので、そのことを尋ねると、新製品でこれ一種類だけだと答える。そのあと、受け取るまで更に10分はかかった。お目当ての品物が買えたので、ホッとして、二人はルンルン気分。


図29.プラダ 2000年撮影の動画より切り出し

6.エルメス本店へ

プラダを出て、モンテニュー大通りを歩き、シャンゼリゼ大通りまで出ると、そこはロン・ポアン。ここのタクシー乗り場でタクシーを待つが、凱旋門の方から来る車は全部客が乗っていて止まらない。しばらくすると、ちょっと恐そうな顔をした中年のパリジャンが、そばに来てなにやら喋りだした。が、もちろん何を言っているのか分らない、しかし、身体言語で話してくれると、「ここではタクシーは捕まえ難いから、通りの向こうのタクシー乗り場に行きなさい」と言っているのが分った。「メルシー!」と笑顔でお礼を言って、言われる通りにしたら、すぐタクシーに乗ることができた。

行く先はエルメス本店である。お目当ての品が、ここのエルメスにはなかったので、本店の方へ行ってみたいと妻ががんばるからだ。エルメスの本店は、コンコルド広場の近くのフォーブル・サントノレ通りにある。最初の予定では、ここの次はコンコルド広場に行くことにしていたので、ちょっと寄り道も仕方がないかと、付き合うことにした。しかし、ここでも思っていた品物はなく、結局この旅行を通じて私たち夫婦は、自分の物を何一つ買うことがなかった。

7.コンコルド広場

エルメス本店を出ると、歩いてコンコルド広場に行った。ここは最初が「ルイ15世広場」、フランス革命の頃は「大革命広場」、そして現在の「コンコルド(調和)広場」に改称されてきた歴史的な広場である。大革命広場の頃は、ここにギロチン台が置かれ、1343名もの命がこの断頭台の露と消えたが、その中には王妃マリー・アントワネット、ルイ16世、ロベスピエールも含まれている。この美しいパリの街を作った人間が、同時にここまで残酷になれることに強い興味があったので、是非この目で確かめてみたいと思ってきた場所である。

実際に、この地に立ってみると、84000平方メートルの広大な広場は、中央にオベリスクと、その周りに車の通る環状道路、東端に大観覧車があるだけで、荒涼としたコンクリート砂漠の感じがして、大革命広場への感傷は吹き飛んでしまった。


図30.コンコルド広場 大観覧車とオベリスクが目立つ 2000年撮影の動画より切り出し

8.大観覧車

コンコルド広場に建設された高さ60mの大観覧車に乗ってみた。これはミレニアム記念イベントの一つとして、昨年9月から稼働しているそうだ。4人乗りで、相席になった向かいの外人アベックは、私と同じSONYのビデオ・カメラを持っていて、自分たち二人を撮影してくれと頼んできた。この観覧車は驚くほどの速さで3回グルグル回る。高所恐怖症の私も、窓外の景色の撮影に夢中で、そのことをすっかり忘れてしまっていた。観覧車が最高点にくると、オベリスクの尖塔、シャンゼリゼ、凱旋門が一直線に並ぶ瞬間がある。この国の人は一直線がよほど好きなのだろう。

帰国して分ったことだが、「世界最大の日時計」が、これもミレニアム記念でコンコルド広場に実現していたのだった。中央に立つオベリスクが日影棒となり、天気のよい日なら、長く延びる影が広場に書かれた時刻を指し示すのを見ることができる。絶好の観察ポイントは、広場に設置された大観覧車ということだ。このことを知らなかったので、もちろん観察はしていない。


図31.コンコルド広場の大観覧車の中から見たシャンゼリゼ大通り 2000年撮影の動画より切り出し


図32.オベリスクとシャンゼリゼ大通りと凱旋門が一直線上に並んでいる 2000年撮影の動画より切り出し


図33.彼方に凱旋門が見える 2000年撮影の動画より切り出し

9.セーヌ河ディナー・クルーズ

観覧車から降り、ホテルに帰って衣服を着替え、セーヌ河に停泊中のクルーズ船に乗り込んだ。と、その途端、私だけ呼び止められ、奥へ進めない。ネクタイをつけていないから、駄目だというのだ。そして、数十本のネクタイが入ったボール箱を持ってきて、この中から選んで着けるように指示された。

海外旅行では、いつも上着とネクタイを持って行く。今回ももちろん持ってきたが、ネクタイで首を締めるのはもともと好きではなく、クルーズなら着けなくてもとがめられないだろうと予想したのが間違いだった。妻や、ツアーで一緒の人たちの冷たい視線を感じながら、鏡も見ないで結んでみたが、後で写真を見ると、結構さまになっていた。

このクルーズ船は予想していたよりもずっと大きく、8人掛けのテーブルが船の両側に並び、船の中央のフロアーでは、楽団演奏があり、ダンスもできる。午後7時30分に出航して、3時間30分をかけてセーヌ河をクルージングするのだ。あいにく雨がかなり激しく降って来て、窓にしずくが付くのが惜しかったが、この船は両側から煌々と多数の強力なライトを照らして、セーヌ河沿岸の建物を、まるでその建物自体がライトアップしているような明るさで浮び上がらせていた。

シテ島に浮かぶノートルダム、ルーブル美術館、オルセー美術館、コンコルド広場、大観覧車、エッフェル塔などがライトアップされて、昼間見たのとはまったく違う素晴らしい光景である。

ディナーもシャンペンの乾杯で始まり、本格的なフランス料理で、アコーデオンを弾きながら歌の上手な小父さんが、陽気にシャンソンを唄ってくれた。モン・サン・ミッシェルの近くにシェルブールがあったことを思い出した相席のご夫婦が、「シェルブールの雨傘」をリクエストしたら、気をよくしたこの小父さんは、私たちのそばを離れない。私も一緒にラララと負けずに、この小父さんに合わせ、愉快愉快。ホテルに戻ると、12時近くになっていた。パリ最後の夜はこのようにして終った。


図34.アコーデオンを弾きながらシャンソンを唄う小父さん 2000年撮影の動画より切り出し


図35.ルーブル美術館 2000年撮影の動画より切り出し


図36.ノートルダム寺院 2000年撮影の動画より切り出し


図37.エッフェル塔 2000年撮影の動画より切り出し


図38.コンコルド広場の大観覧車 2000年撮影の動画より切り出し


図39.停泊中のボート 2000年撮影の動画より切り出し


8月19日(土)ロンドン 大英博物館 ロンドン塔

1.ユーロスター

オペラ座の北西約2kmにある北駅から、TGVの北ヨーロッパ線で、ユーロトンネルを通って、ロンドンに出発する日である。この北駅にバスで到着し、駅の構内で時間待ちをしている時に、またまたハプニングが起きた。このツアーに参加していた新婚さんが、バスの中にカメラを忘れてきたことに気づいたのである。バスはとっくに帰ってしまっている。列車に乗り込むまで時間はあまり残っていない。二人の顔は悲壮だ。

それを知った添乗員とガイドの行動はすばやかった。携帯でバス会社に連絡をとり、走行中のバスに連絡をつけた。20分くらい経ったころ、バスの運転手がカメラを届けてくれた。拍手が起こる。新婚さんは、足ばやに去って行く大男の後姿を、放心したように見送っている。「チップ!、チップ!」の声が一斉に起きた。我に返った小柄な新郎が慌てて追いかけて行く。成功したようだ。後で尋ねたら、フランの有り金全部渡してきたと言う。カメラを忘れたのに気づいた時、二人はすっかり諦めていたらしい。良かった!良かった!

カメラが戻るまでの間に、駅の構内で起きたささやかなできごとも書いておこう。私たちツアーの群れの一人に外人が近づき、何かを話しかけてきた。それを見ていた者は、物を売りに来たのかと思ったそうだ。話しかけられた者がキョトンとしていると、彼は何かを差し出した。ボタンだった。それを見た瞬間、破顔一笑「メルシー」が彼女の口から出た。上着のボタンが落ちたのを目ざとく見つけ、それを渡してくれたのだった。

よほどそのボタンが大事だったのだろう。彼女は、追いかけて行って、もう一度礼を言ったそうだ。彼女の夫は、そばにいながら、後でその話を聞くまで、このことにまったく気づかなかった。パリジャンとは違い、妻のことに無関心なこの夫とは、何を隠そうこの私なのである。

フランスの誇る新幹線TGV(Train Grande Vitesse)は、現在3路線が運行されている。このユーロスターは、一番新しい路線で、パリの北駅を出て、ドーヴァー海峡の海底をユーロトンネルで通過し、ロンドンのウォータールー駅に到る。その間3時間、トンネル通過時間は20分である。

このユーロトンネルは、1994年に開通した。川崎重工の掘削機がこのトンネル建設で大活躍したのを以前テレビで見た記憶がある。ここを通過できるのは、ユーロスターと、車輸送専用列車のラ・シャトルの二種類である。自動車専用の道路はないが、フェリーで90分を要するのが、20分で済むため、大幅な時間の短縮になる。

このトンネルに入る前に、ドーヴァー海峡が見えるかもしれないと期待していたが、かなり手前から地中に潜り、望みは叶えられなかった。面白いことに、このトンネルを過ぎると、車内のアナウンスはフランス語、英語の順番が、英語、フランス語に変わる。また、イギリスに入ると在来線を利用しているため、スピードがかなり遅くなり、新幹線とは思われないほどだ。車両も日本の新幹線の方が優れている。

2.ロンドン着

ウォータールー駅に到着すると、入国手続きが待っている。この入国管理カウンターは、英連邦諸国用、EU諸国用、その他の国用の3つに分かれている。最初の2つのカウンターはガラガラで、私たちの方は長蛇の列だ。おまけに、入国目的、滞在場所、滞在期間まで口頭で尋ねられるというので、遅々として進まない。EUの人たちの入国はごく簡単で、パスポートもチラッと見せるだけで良いようである。このようにEU間の出入国は非常に簡単で、国境の検問も簡単だと聞くが、昨年から導入された欧州共通通貨単位のユーロ(EURO)は、フランスやイギリスではまったく使われていなかった。

3.昼食はロンドン名物中華料理

ロンドンのウォータールー駅に到着したのが12時30分、入国手続きを済ませて、迎えのバスに乗り込んだ時には、午後1時をかなり過ぎていた。さすがに腹が空く。それを察したのか、ロンドン担当のガイドさんが、昼食はロンドン名物中華料理ですよと言って、ピカデリー・サーカスの近くの店に案内してくれた。「ロンドン名物? まさかー!」と誰も思ったが、食べてみると案外美味い。フランス料理には飽いてきていたせいだろう、今考えると大したものではないのに、皆はかなりガツガツ食べていたようだ。帰国して調べてみたら、この辺りは中華街(China Town)で、かなり有名なところらしい。「ロンドン名物中華料理」も、あながちウソとは言えないのかもしれない。

4.大英博物館

ピカデリー・サーカスの北約1kmに大英博物館がある。昼食を終えると真っ直ぐここを訪れた。入場無料、写真撮影もフラッシュがなければOKなのに驚く。館内に入ってもそれほど見物客は多くはない。昨年末にこの大英博物館のエジプト展が神戸で開催されたが、その時の10分の1〜20分の1くらいの人数で、ゆっくり鑑賞することができる。

この中で一番惹かれたのは「ラムセス2世の胸像」だった。美しい、素晴らしい、スゴイ!と魅せられ、ビデオを撮りまくった。美術品を見て、これほど興奮したのは生まれてはじめてではないかと思う。ラムセス2世は、紀元前13世紀頃古代エジプト新王国時代に君臨したファラオである。やはり、エジプト文明はスゴイ!

もう一つ、私が面白く思ったのは、アッシリアの国王アッシュールバニパルのライオン狩りを描いた石板(オルトスタット)で、人間、馬、ライオンの写実的で躍動感あふれる浮き彫りにたまげてしまった。これを見て「まるで闘牛やな」と私がつぶやくと、ガイドさんは「まさに、そうですね」と答えた。このアッシュールバニパルは紀元前668年〜627年頃の王で百獣の王であるライオンを組み敷くことで、自分の権力を誇示したのだと言う。

ギリシャ・ローマのコーナーでは、「ポートランドの壷」に目が釘付けとなった。黒に近いコバルト・ブルーの地に、乳白色で人物や草木が浮き彫りにされている。どこかで見たことがあると思った瞬間、妻は「ウエッジウッド」に似ているとつぶやいた。それを聞いたガイドさんは、即座に「そうなんです。これを見て、ウエッジウッドが真似をしたのです」と答えた。これはローマ美術の至宝で、紀元前1世紀頃の作品と言われているそうだ。

ルーブルでも少しは思ったことだが、ここに来て強く意識したのは、これは他国からの略奪品であることだった。「大英博物館」でなく「エジプト博物館」と名前を変えるべきではないか! パルテノンの神殿の破風彫刻を全部持ってきている。「ギリシャ博物館」が本当だろう! 言葉悪く書けば「海賊分捕り品陳列会場」なのだ!

もちろん、このような詰問は多くのところから浴びせられたようで、それに対して英国は「自分たちがこのように保存してきたから、膨大な世界の文化遺産を守ることができたのだ」と反論するそうだ。「盗人にも3分の理」とは、このことを言うのだろう。しかしまあ、無料で、誰にも開放していて、保存と展示が行き届いているということで、目をつぶるとしようか?


図40.ファラオ 2000年撮影の動画より切り出し


図41.ラムセス2世の胸像 2000年撮影の動画より切り出し


図42.エジプト壁画 2000年撮影の動画より切り出し


図43.アッシリアのレリーフ 2000年撮影の動画より切り出し


図44.パルテノンの神殿の破風彫刻群 2000年撮影の動画より切り出し


図45.馬の頭像 2000年撮影の動画より切り出し


図46.ポートランドの壷 2000年撮影の動画より切り出し

5.ロンドン塔

次の観光先はロンドン塔である。そこに行くまでに、ロンドンの金融街である「ザ・シティ」を通過した。世界の経済を動かす拠点の一つであるこのシティーは、どんなところなのかと、バスの窓外に目を凝らしたが、古ぼけたビル街が目に映るだけだった。

漱石の「倫敦塔」や、昨年の映画「エリザベス」から、このロンドン塔には陰惨な歴史が秘められているという印象があり、興味があった。このロンドン塔の地に立ってテムズ川を眺めると、跳ね橋で有名なタワー・ブリッジが見える。ロンドン塔は、塔というよりも城のようで、城内に入ると、ジュエル・ハウスでは、歴代の王や女王の戴冠式の時に使われた宝物が展示されていた。その中での皆の一番のお目当ては、世界最大530カラットのダイヤのついた玉杖だったようだ。しかし「ブタに真珠」、「BOWにダイヤ」で、私にはまったく感慨はなかった。妻も同じような感想なので、私たち夫婦は宝石と縁がないのかもしれない。

このロンドン塔の陰惨な部分は、結局目にすることができなかった。ここを見終わって思ったことは、イギリスという国が、歴代の戴冠式の三種の神器などを、惜しげもなく誰にでも公開し、警備も驚くほど簡単なことである。懐が深いというか、おおらかというか、これには感心した。日本では考えられないことだ。

帰国して、ビデオを見て、このロンドン塔の部分も完全に欠落しているのを知った。モン・サン・ミッシェルと同じことをしたのだ。これは、ホテルで大英博物館の部分のビデオを見たまま、エンド・サーチ・ボタンを押さなかったので、ここから上書きをしてしまったと考えられる。ビーフィーターと呼ばれる、チューダー朝の衣装をつけた守衛さんと一緒に写した妻の映像が永久に消えてしまった。しかし、あんなものはどうでも良い! どうせ酸っぱいブドウだ! 大英博物館の映像が無事だったことを思えば、これでも幸せというものだ!


図47.タワー・ブリッジ(IXYで撮った写真からスキャン)

6.夕食はインド料理

午後の観光が終わり、はじめてホテルに着いた。ケンジントンにあるケンジントン・ヒルトンである。服を着替えてから、エスニック料理のレストランへバスで行き、インド料理を食べた。昼は中華、夜はインド、一体イギリス料理はどうなっているのだ?

しかし、ここのインド料理も予想外に美味かった。大阪で2軒ばかりインド料理を食べたことがあるが、それよりもずっと美味い。ナンがこんなに食べ易いとは思わなかった。この頃になると、ツアーのメンバーもそれぞれ仲良くなり、全員の自己紹介などをして、盛り上がっている。私も気分がよくて、ビールを4杯お代わりをしたが、これに気を良くしたボーイさん、私に料理を一皿サービスしてくれた。最年長者が一番たくさん飲み、食べたということになる。

7.ロンドンのパソコンには日本語が入っていない

ホテルに帰るとビジネス・ルームを見つけた。フロントで尋ねると、使用OK、入室した時から時間を数えるので、退室の時に知らせるようにとのこと。喜んで、パソコンを見ると、すでにインターネットに接続されていて、どこかのWebサイトが表示されている。日本を出る時にメモをしてきた私のHotMailのURL( http://lw10fd.law10.hotmail.msn.com/cgi-bin/HoTMaiL?n=2817&fti=yes )を慎重に打ち込み、パスワードを入力すると、一発で私のHotMailの受信トレイ画面が現れた。

POPメールをクリックすると、asahi-net に届いた私宛のメールをここに転送させることができる。やった!これでメールが読めるし、メールも送れる! ブラボー!

ところがそうは問屋が卸さない! ここへ転送させて受信したメールは、送信者の名前がアルファベットのもの以外は全部文字化けをしているのだ。Takaaki Amako が2通、Akira Kaji が1通来ているのは分るが、その他の11個は知らない名前のアルファベット、そして文字化けした名前が12個である。メールの中身はどうかと開いてみると、こちらも完全に文字化けしていた。

MSIMEが入っていないので、日本語で文章を書くのは駄目かも知れないが、Webは日本語で見ることができるかもしれないと考えて、インターネット・エクスプローラーの言語を見ると、哀れ! 英語以外はフランス語とロシア語しか入っていない。仕方がないので、ローマ字か英語でメールを書こうかとも考えたが、文字化け追求で時間がかなり過ぎ、疲れてイライラしてきたので、いさぎよく諦めることにした。i-mode が世界中で使えれば、こんなことはいとも簡単なことなのに、残念だ!


8月20日(日)コッツウォルズ地方

1.オクッスフォード

この日は、バスでオックスフォードに行った。ここはロンドンの北西約100km、テムズ川上流にある英国最古の学園都市で、35のカレッジで構成されている。まず最初に、ここの最大のカレッジであるクライスト・チャーチ・カレッジに立ち寄った。芝生の緑と蜂蜜色の建物とのコントラストが美しい。その後、クライスト・チャーチ大聖堂、皇太子殿下が学んだマートン・カレッジ、雅子妃殿下が学んだベリオル・カレッジ、街並み、本屋などを見て回った。オックスフォードは、古い石畳のある予想以上に小さな街だった。


図48.クライスト・チャーチ・カレッジ 2000年撮影の動画より切り出し

2.コッツウォルズ地方

オックスフォードを観光した後、さらに50kmばかり西にあるコッツウォルズ地方を訪れた。ここはイングランド中部近くに広がる丘陵地帯で、昔のままの風景と蜂蜜色の家並みが残り、英国カントリー・サイドの素晴らしさを満喫することができる。

「コッツウォルズ」というのは、旧英語で「羊小屋のある丘」という意味で、この地方の羊毛産業全盛期の16世紀頃、この地方に街や村ができたそうだ。ここで採れる石灰岩はライム・ストーンと呼ばれ、これで作られた建物は、光が当ると蜂蜜色に輝いて見える。ここは、シェークスピアの故郷でもある。

<ストウ・オン・ザ・ウォルド>
標高80m、コッツウォルズ丘陵で一番高いところにあり、中世の羊毛産業の中心だったらしい。村の中心にはかなり広い広場があり、周囲にはアンティークの店が多かった。ここで食べた昼食はマトンだったが、これがマトン?と言うほど、柔らかく、臭みもなく美味かった。ガラスの天井、ブドウの棚の下での食事は、なかなか風情があって良いものだった。

<ボートン・オン・ザ・ウォーター>
ストウ・オン・ザ・ウォルドの少し西に、ボートン・オン・ザ・ウォーターがある。ここは、リトゥル・ベニスと呼ばれるそうで、街の中を流れる川は非常に浅く、そこを、とても美しく澄んだ水が流れている。水面は、雨が降ったら溢れてしまいそうなうなほど地面すれすれだ。


図49.ライム・ストーンで作られた蜂蜜色の壁と花の飾りが美しいホテル 2000年撮影の動画より切り出し

この川の上流に自動車博物館があり、車関係の工具類やクラシック・カーが並んでいる。このクラシック・カーは英国車だが、ロールス・ロイス、ベントレー、ジャガー、オースティン、ロータス、MGなど20台ばかりが無造作に置かれていた。別棟の2階には、子供用の車関係の乗り物や玩具がところ狭しと並んでいる。この建物を管理しているのは、土産物売店の20歳前後の若者が一人いるだけ。クラシックカーに乗るのもまったく自由である。

ここに新婚さん夫婦と私たちだけが入った。そして、この老若2カップルは、はしゃぎ回って、これらのクラシックカーに触れたり、乗ってみたり、写真やビデオを気の済むまで撮り続けた。このようなことは日本ではとうていできない。ここでも英国人のおおらかさに感じ入ったのである。


図50.自動車博物館で 2000年撮影の動画より切り出し


図51.自動車博物館で 2000年撮影の動画より切り出し

博物館を出ると、川のほとりの道を川下へと散歩した。川幅は約10m、深さ20cmくらい、どこまで行っても同じ深さのように見える。水は澄み切って、川底がはっきり見えている。川の両側に5mほどの鮮やかな緑の芝生が連なり、たくさんの家族連れが、思い思いに、ひなたぼっこをしている。川の中には、水遊びをしている2歳くらいから10歳くらいの子どもたちがいて、たまらないほど可愛い。子犬が仲間に入っている場所もあった。なんと美しく、のどかで平和な光景だろう。私は夢中になって、この景色をビデオに収めた。そして、英国の良さは、うす汚れたロンドンにではなく、ここにあると思った。


図52.ボートン・オン・ザ・ウォーター 2000年撮影の動画より切り出し

集合場所に戻る途中で、何台ものクラシックカーが爆音を立てて通り過ぎて行った。バスのクラシックカーも道路に止まって客を乗せている。今日は日曜日、そのため人出も多く、クラシックカーのオンパレードもあるのだろう。空は快晴、この幸運に遭遇したことを感謝するばかり。良かったな!良かったな!を私たち二人は連発していた。


図53.クラシックカーのパレード 2000年撮影の動画より切り出し


図54.クラシックカーのパレード 2000年撮影の動画より切り出し


図55.バスのクラシックカー 2000年撮影の動画より切り出し

フランスでは、モン・サン・ミッシェルに行ったことの価値を書いたと思うが、英国で、オクスフォードを経て、コッツウォルズ地方を巡ることができたことは、私にとってそれ以上に有意義なことだった。フランスの、どこまでも続く大平原と比べて、イギリスの田園風景は、なだらかな丘陵が途切れることなく続いていた。珍しさ、稀有性、宗教性がモン・サン・ミッシェル観光の特質であるとすれば、コッツウォルズ地方のそれは反対で、普遍性、人間性、しみじみとした幸福をもたらしてくれるところだと思った。

3.ツアー4回目のハプニング

バスを緊急停車させたツアー単独参加の27歳の男性の話をフランス篇で書いたが、覚えておられるだろうか? この人が何やら落ち着かない。VISAでキャッシングしたらどうなるだろうとか、訳の分らないことを私に尋ねる。他の人にも尋ねまわっているようだ。何かおかしい!

そうこうしている内に、彼が心配しているわけが分ってきた。どうやら、彼は昨夜自室の湯船の中で滑って、バスの横についている石鹸受けを壊してしまったようだ。その弁償をするために、どうしようかと心を悩ませているらしい。一体どのようにして、石鹸受けなどを壊したのか不思議に思って、ホテルに帰り風呂に入った時によく観察してみた。

この英国のホテルの湯船は、とにかく馬鹿でかい。私が浸かると頭の部分に50cmくらいの隙間が空く。なまじ、どこも持たずに浸かろうとすれば、溺れかけてしまう。恐らく彼は、そのような状態になり、慌てて掴んだのが石鹸受けだったのだろう。その途端、これが壁から剥がれて、バス内に落ち込み、壊れてしまったのだろう! 気の毒なこととは思ったが、笑いがこみ上げてきた。

翌日彼に会うと、さっぱりした顔をしている。どうやら、弁償しなくて済んだらしい。本当に愉快な、愛すべき男である。


8月21日(月)ロンドン市内観光

1.早朝のホテル周辺散歩

旅に出ると、朝早くホテルのまわりを散歩することが多い。早朝の風景が、昼間や夕方とはまったく違うことを知るのは楽しいことである。今回は時間が詰まっていたためか、早朝の散歩をすることができたのはこの日だけだった。

ホテルはロンドンの西のはずれ、ケンジントン地区にある。近くには、ホーランド・パーク、少し離れてケンジントン・ガーデンズとハイド・パークがある。イギリスの民家の建物は余り大きくなく、門や庭も貧弱だったが、ロンドンで一番素晴らしいと感じたのは、美しく整えられた想像もできないほど広いグリーンに、多くの市民が憩っている風景だった。英国の魅力はここにあると思う。

ホテルから市内の中心部に行くバスやタクシーは、これらの公園の横を通るが、行けども行けどもグリーンは途切れることがない。2km以上も続くのだ。

散歩の途中で交通事故を目撃した。二人乗りの単車に乗用車が衝突したらしい。単車が倒れ、パトカーが来て、警官が事情聴取をしているが、のんびりしていて緊迫感がない。


図56.交通事故現場 2000年撮影の動画より切り出し


図57.外科医の表札のかかった家があった 2000年撮影の動画より切り出し


図58.外科医 オランダ公園 73番地 と住所が書かれている 2000年撮影の動画より切り出し

2.ウエストミンスター・ブリッジ

ロンドン第3日目は、午前中市内観光である。ウエストミンスター・ブリッジでバスを降り、テムズ川の川岸から対岸の国会議事堂とビッグベンの全景を眺めた。国会議事堂の正式名称はウエストミンスター宮殿、ビッグベンは国会議事堂の時計塔のことで、テムズ川に沿って建っている。この裏にはウエストミンスター寺院がある。折から、ビッグベンの鐘が鳴り出した。「ドミレ_ソ、_ソレミド...」聞き覚えのあるメロディーであるが、実際に聞くとやはり重厚な感じがする。

ここで撮影をしていると、妻が日本人の女性に呼び止められ話をしている。セーヌ河ディナー・クルーズで一緒だった人らしい。この人はロンドンに駐在している銀行員の妻で、両親を呼び寄せてパリ見物をしてから、今度はロンドンを案内しているとのことだった。偶然の再会にお互いが驚いていた。


図59.国会議事堂とビッグベン 2000年撮影の動画より切り出し


図60.ビッグベン 2000年撮影の動画より切り出し


図61.ビッグベンの時計部分 2000年撮影の動画より切り出し

3.ウエストミンスター寺院

国会議事堂とビッグベンを見終えてから、その横を通って、ウエストミンスター寺院に入った。ここは、歴代国王の載冠式が行われる英国で最も格式高い寺院で、寺院内には、チョーサーやディケンズをはじめ、歴史上の人物の墓石がズラリと並んでいる。最近では埋める場所が少なくなって来たので、遺体ではなく、遺骨を納める場合もあるようだと、ガイドさんが話してくれた。

エリザベス2世の戴冠式の情景が思い浮かぶ。また、パリの自動車事故で波乱の生涯を終えたダイアナ元皇太子妃の葬儀がここで営まれ、彼女を追悼してエルトン・ジョンが「英国のバラよ、さようなら」を歌った場面も目に浮んだ。

4.バッキンガム宮殿

ウエストミンスター寺院の西約1kmのところに、バッキンガム宮殿がある。ここは歴代の王室の宮殿で、現在はエリザベス2世女王が住まわれている。それに対して、ウインザー城は王室の離宮である。ここでの見どころは、毎日午前11時30分頃より行われる衛兵交替式だが、ガイドさんが衛兵交替式を見るのに一番良い場所をここで教えてくれた。


図62.バッキンガム宮殿 2000年撮影の動画より切り出し

5.昼食は日本料理

バッキンガム宮殿を外から眺めた後、昼食は日本料理ということで、ガイドさんに引率されて、その店まで歩いて行った。途中道路のそばの店を何気なく見ていると「JONES」という名前が目に飛び込んできた。ショーウインドウには靴が並んでいる。思わず「ここや!」と叫んで妻を呼び止めた。息子から、ロンドンに行ったら買ってきて欲しいと頼まれた靴があり、その店の名前が「JONES」だったのだ。

喜び勇んで店に入り、その靴の載っている雑誌の切り抜きを見せたが、置いていないという。なおもねばると、店の住所を見て、JONESはJONESでも another company だと言うのだ。ガクッ! まあしかし、これで見つかれば余りにも調子が良すぎる、しかたあるまい...

実は、この店の住所が観光案内の地図に載っていないので、ガイドさんに尋ねると、ホテルで英語の地図( LONDON MAP 2000 )をもらって教えてくれたのだった。その場所は、こことはまったく違うところであるのに、自分の都合の良いように解釈するのが私の特技。またもや、ハヤトチリをしてしまった。

久しぶりに食べる日本料理には、刺身、天婦羅などもついていたが、あまり美味いとも、懐かしいとも思わなかった。しかし、熱いお茶だけは美味くて、懐かしかった。

6.ウインザー城

午後からは自由行動になっているので、オプショナル・ツアーで、ウインザー城に行った。ここはロンドンから西へ約30km、テムズ川のほとりにある城で、900年以上の歴史がある王室の離宮である。この塔の頂上に、「女王旗」が立っていると、女王がいらっしゃるらしい。ただし、どの場所におられるかは警備上秘密にされているとのことだ。

この城の内部に入り、調度品や美術品を眺め、セント・ジョージズ礼拝堂を見学し、最後は広場で行われていた衛兵交代の場面にも遭遇することができた。またまた、食べ物のことになるが、ウインザー城を離れる前に食べたアイスクリームは、格別美味かった。日本で食べるものの2倍以上の量だが、妻の分まで半分横取りしてしまうほどだった。


図63.ウインザー城 2000年撮影の動画より切り出し


図64.ウインザー城 2000年撮影の動画より切り出し


図65.衛兵の交代 2000年撮影の動画より切り出し

7.オペラ座の怪人

ウインザー城からの帰りのバスを、ハロッズのあるナイツブリッジで停めてもらい、私たち夫婦はそこからタクシーでホテルに戻った。午後7時30分開演の「オペラ座の怪人」を鑑賞するため、身づくろいをしなければならないからである。風呂に入って、汗と汚れを落とし、服を着替えてピカデリー・サーカスの近くにあるハー・マジェスティー・シアターへ向かった。

ここでは、1986年の初演以来「オペラ座の怪人」を上演している。今回の旅行を申し込んだ時に、このロンドン・ミュージカルのチケット購入を添乗員に頼んでおいたが、このミュージカルは一番人気があるので、取れるかどうかは現地にいかなければ分らないと聞かされていた。それが入手できて、しかも2階のD席だから、かなり良い場所である。ブラボー!

劇場の前で写真を撮ろうとしていると、「お撮りしましょうか?」と大学生くらいの日本の女の子二人が声をかけてくれたので、喜んでお願いをした。そうしたら、次は自分たちも撮って欲しいとカメラを差し出してくる。それが同じ「IXY」なので、ためらうことなく引き受けた。聞けば、名古屋から来ていると言う。今朝、ホテルでキャンセル待ちをしてチケットを入手したら、それが1階の非常に良い席だったと大喜びしている。

日本を出る前にコピーしておいたこのミュージカルのストーリーを読んでいるので、妻も良く理解できたようだった。とにかく、素晴らしかった。ミュージカルが、まるでオペラのように聞こえた。これだけでも、ロンドンに来た値打ちがあると思った。

8.JONESを探して

劇場を出たのは午後10時半過ぎだったと思う。それから、歩いて「JONES」という店を探すことにした。もちろん、もう閉店してはいるだろうが、明日のために場所を確認しておこうと考えたのである。地図で見ると、その店はこの劇場からそれほど遠くはない。歩いていけるだろう。そこで、地図を片手に、二人で歩いて行ったが、だんだん人ごみがひどくなり、大道芸人がいたり、怪しげな店が並び、いろいろな音が鳴り響いている。黒人や人相の良くない人もどんどん増えてくる。少々うすきみ悪くなって来た。妻は恐くて私にしがみついている。

暗くて道路標識も良く見えないため、自分たちのいる場所が分らなかったが、そのうちに地下鉄のレスター・スクエア駅が現れた。もう少し歩けばその店に行けるだろうと思った時、こらえきれなくなった妻はもう帰ろうと言い張った。ホテルに戻ると間もなく午前零時となった。


8月22日(火)ロンドン市内観光その2

1.ウォータールー・ブリッジ

いよいよ、ロンドンを発つ日である。見る予定のものは、バッキンガム宮殿の衛兵交替式と、ウォータールー・ブリッジくらいで、それよりも、この日はお土産を買わなければならない。これが大変で気が重い。大急ぎで朝食を済ませ、ホテルを早々に飛び出した。

まず、最初にウォータールー・ブリッジに行った。ここはロバート・テーラー、ヴィヴィアン・リーが主演した映画「哀愁(WATERLOO BRIDGE)」の舞台である。戦時下のロンドン、初老の将校が、戦地へ向かう前に、恋人と初めて出逢ったこの橋の上に立ち、昔を思い出す場面で始まるあの映画...

実際にウォータールー・ブリッジに立ってみると、午前9時少し前のこの橋の上は、足早に行き交う通勤の男女の群れが切れ目なく続き、そのような感傷など吹き飛んでしまった。当然だろう、あの映画は60年も前の話なのだ。

しかし、この橋の上からテムズ川を見下ろすと、その眺めは素晴らしかった。橋の欄干の中央には、上流側も下流側にも、その場所から見える景色のレリーフとその説明のステンレス板が張られている。これはありがたいと接写撮影をしてからもう一度眺めたが、説明のないものが、すぐ近くに一つある。ミレニアムを記念して今年生まれた「ロンドン・アイ」だ。高いところへ登るのが好きな私たち夫婦が、この大観覧車のことを忘れていたのは、それだけ他のことで忙しかったと言うことだろう。


図66.ロンドン・アイ 2000年撮影の動画より切り出し

2.BOWストリートを発見!

この橋から西北に向けて歩いていくと、昨夜断念した「JONES」のある Floral Street に、地図上では行き着くことができる。まだ閉まっているのを承知で、とにかく場所を確かめておき、バッキンガム宮殿の衛兵交替式を見たら、とんぼ返りでここに来て頼まれた靴を買い、それから残りの土産物を購入する作戦を立てた。

どんどん歩いて行くと、ミュージカル「ライオンキング」を上演している劇場 Lyceum Theatre がある。道路名を見ると、何と「BOW STREET」と書いてあるではないか! 私はパソコン通信を始めた10年以上前から、ハンドル・ネームをBOWとしてきた。だから、この名前に特に愛着がある。この道路を更に進んで行くと、ロイヤル・オペラ・ハウスが現れた。この建物の北側を通り、BOWストリートと直交しているのが Floral Street だったのだ。


図67.ライオンキングを上演している Lyceum Theatre 2000年撮影の動画より切り出し


図68.BOWストリート 2000年撮影の動画より切り出し


図69.BOWストリートの標識 2000年撮影の動画より切り出し


図70.ロイヤル・オペラ・ハウス 2000年撮影の動画より切り出し

「JONES」は確かにそこにあったが、店はまだ閉まっていた。すぐ近くに地下鉄のコヴェント・ガーデンの駅がある。そのまま、西に向かうと、地下鉄のレスター・スクエア駅が現れた。昨夜は「JONES」まで、あと2〜300mばかりのところに来ていたのである。


図71.JONES靴店はまだ閉店中 2000年撮影の動画より切り出し

昨夜通った道を逆に歩いて行った。私たちに不安を与えた喧騒と悦楽の姿はどこにも見られず、人気まばらな、うす汚れた街がそこにはあった。ここはレスター・スクエアという広場で、周辺に劇場が点在し、ディスコ、映画館、ナイトクラブが集中する歓楽街だったのである。そこも通り過ぎ、ピカデリー・サーカスの近くで、タクシーに乗り、バッキンガム宮殿へ飛ばした。

3.バッキンガム宮殿

昨日ガイドさんから、10時50分に衛兵交替式があると教えてもらっていたが、バッキンガム宮殿に着いてみると、まだ余り人はいない。衛兵交替式を見るのに一番良い場所として教えてもらったのは、宮殿の正門の向かいにあるクイーン・ヴィクトリアル・メモリアルの正門に面した場所だった。しかし、待てども待てども儀式は始まりそうにない。11時を過ぎた頃、私と妻が腕時計に度々目をやっていると、私たちの後ろにいたフランス語を喋っていた夫婦が、11時30分から始まると教えてくれた。

結局儀式が始まったのは11時30分を少し回った頃だった。確かにこの場所は儀式が一番良く見える。妻は1時間近くも損をしたと腹を立てているが、11時30分にここへ着いたのでは、その頃は黒山の人だかりで、とうていこの場所には来れなかっただろう。そう思うと、1時間ほど早く教えてくれて良かったと感謝したくなるくらいだった。衛兵交替式は見るだけの値打ちがあり、しっかりビデオに収めておいた。


図72.衛兵交替式 まず、小隊が左側門より入場 2000年撮影の動画より切り出し


図73.衛兵交替式 騎馬兵が交通整理 2000年撮影の動画より切り出し


図74.衛兵交替式 軍楽隊を先頭にした中隊が、広場を行進して、右門より入る 2000年撮影の動画より切り出し


図75.広場を行進する軍楽隊 2000年撮影の動画より切り出し

4.再びJONESへ

衛兵交替式のメインの部分が終ると、今度はタクシーでJONESへ直行した。店は既に開いていたが、雑誌の切抜きを見せても、置いていないという。何ということだ! このため、どれほど時間を費やしたことか! 甘い、甘い! 親ばかというのは私たち夫婦を言うのだろう。


図76.JONES靴店は開店していたが、求める靴はなし 2000年撮影の動画より切り出し

5.ハロッズへ

時間が余り残っていないので、お土産をハロッズで見つけることにした。ここはロンドンで最も有名なデパートで、地図で見ると売り場面積は無茶苦茶に広い。外壁には王室御用達の4冠が飾りつけられ、その下に Harrods の名前の看板が付けられている。この Harrods の字体を真似て、阪急百貨店の Hankyu が作られたとガイドさんが話していたが、そう言われると確かに似ている。ここには毎日約3万5000人が訪れ、ピーク時には30万人になるとというのだから、もう呆れてしまう。

この広い店内を少し歩いたが、結局ハロッズ・オリジナル・グッズの中から選ぶことにした。しかし、余りにも品数が多くて迷ってしまう。しばらくウロウロしていたら、例の新婚夫婦と出逢った。彼らは非常にハロッズのことを良く知っているので、いろいろアドバイスを受けた。後で尋ねてみると、昨日の午後の自由時間に、ウインザー城の見学ツアーには参加しないで、ずっとこのハロッズの中を見て回っていたというのだ。道理で、土地の人か留学生かと思うほどの物知りだったわけである。

当院の8名の職員への土産は、ハロッズのブランド名が入った布製バッグとテディー・ベアにした。後日談になるが、それを手渡した翌日、職員の一人が「あのテディー・ベアに名前がつきました、ハロッズのテディー・ベアだから ハロベエ にしたのです」と言ったので大笑い。

土産物を買ったら、急に腹が空いてきた。うどんが無性に食べたい。ハロッズの中を探してみたが見当たらないので、しかたなく握り寿司を食べた。これがえらく高いのに、あまり美味くなかった。3時30分にここを出て、4時にホテルに戻り、間もなく空港へ向けて出発した。


図77.巨大デパート「ハロッズ」 2000年撮影の動画より切り出し

6.ロンドン・ヒースロー空港

空港で免税手続きを済ませ、免税店で残りの土産を購入し、午後8時45分に離陸した。間もなく、夕食が出て、それを済ますとすぐ眠ってしまった。


8月23日(水)帰路

食事のアナウンスで目を覚まし、食べ終わると1時間後に関空に到着するという。いつもなら、撮影してきたビデオを機内で全部見るのだが、それをする間もなく眠ってしまったので「乗った、食べた、眠った、食べた、着いた」の楽な12時間の帰路だった。関空到着は午後5時、飛行機から降りるとサウナのような熱風に包まれ、日本の夏を思い知らされた。帰宅したのは午後7時、やはり我が家が一番だ。

日本に帰ってきて、ちょうど2週間目の今日、ようやく旅行記を書き上げることができました。


友人からの感想メール

海外生活の経験豊富な友人二人が、この旅行記の感想をメールで届けてくれました。どちらも、なかなか面白いので、二人の許可を得て掲載します。

<感想メール その1>服部道彦様 2000年9月7日 20:54

Dear BOW

ロン・パリ やぶにらみ道中記、拝誦しました。初めから終わりまでの野村節は誠に楽しく、何か旅行にご一緒した気分になりました。そこで以下読後感 :

8月16日
エスカルゴは思ったよりまずいものですね。昭和34年、入社早々神戸でフランス料理をご馳走になり、エスカルゴがでました。期待が大きかったせいか、なんだ という記憶があります。さざえ の方がうまい。同感同感。

大兄がツアーの最年長でしたか。お医者さんがいる と言ってメンバーが喜んだと思いますよ。

8月17日
モン・サン・ミッシェルは最初目に入った時はっとするでしょうね。ここは是非行ってみたいです。

小生のはっとしたのは二度。はじめはローマ。市内観光でバスがトレビの泉にドンと出た時。二度目はJFK空港からマンハッタンに向かう途中、ミッドタウントンネルの手前の丘にタクシーが登り切り、マンハッタンの摩天楼群が一度に目に入った時です。

8月18日
凱旋門から見たパリの中心は壮観だったでしょうね。シャンゼリゼー大通りが、御堂筋の約三倍の幅員とは知りませんでした。

パリの街としての美しさは、何でしょうかねえ。違う建物が夫々自分を主張しながらも全体としてえもいわれぬ調和を保っているのは事実ですし、それ以前の素晴らしい都市計画でしょうか。小生若かりしころはプラス何とも小粋な女性が歩いていました。今はどうですか。

買物にエネルギーを割かれている様子がよく判ります。さては大兄買物はあまりお好きじゃないのですか。実際外国での買物は疲れますね。

コンコルド広場は、全く何の変哲もないコンクリートの広場ですね。しかし、オベリスクを針にして日時計を作るとは洒落ています。この発想は凄いですよ。

旅行には必ず正式な催しがあります。大兄がジャケットとタイを持参なさったのは全く正しい。こんな時日本の餓鬼は決まって、Tシャツとジーンズで何が悪い と居直ります。まあ粋がらせておけばよろしい。誰も相手にしませんから。

8月19日
ロンドンへ列車で、それもユーロスターとは、羨ましい。イギリスでの入国審査。本当に頭に来ます。外はがらがらのに Others は長蛇の列。このシステムを絶対に変えようとしない所にイギリス人の底意地の悪さがあります。この国の飯はなんともまずいですねえ。ソーホーで中華料理食っている方がよほど無難です。

8月20日
大兄が訪問されたロンドン郊外の街にイギリスの中流以上の生活があるのでしょうね。しっかりと人の手が入っているのもよく判ります。まあイギリスは行けども行けども山に野に、人の手が入っていますね。その点我が国は結構放りっぱなしの所があります。

8月21日
イギリスの日本料理は高くてまずいですね。魚の流通機構がまったくないところで、刺し身を食わせてはいけません。まずいか、あぶないかです。

機中、食っちゃ寝、呑んじゃ寝ができると旅行は疲れませんね。でも関空で、熱風を浴びた時はどう感じられました?

ではこの辺で MIKE


注:服部君は法学部出だが、大学時代のコーラス仲間 でバス、工学部出のテナーの竹村君と私(バリトン)の3人が毎年1回集まり、「日曜に歌う会」と名付けて飲み、歌い、駄弁っている。



<感想メール その2>南正敏様 2000年9月14日 23:30

オフィスにおける徒然に、何か新しい書き込みがあるのではないかとBOWさんのHPにアクセスしたところ、お盆のパリ、ロンドンへのご旅行についての記事を見つけ、一気に読ませて戴きました。いつものことながら、お忙しいのによくこんなにうまく書き下ろせるものだなあと感心しました。

小生の印象に残ったポイントは、
■旅行に出るときに遺書を書くというくだり
小生も旅行とは関係なく書いておきたいと思ってはいます。

■空いていたグリーン車のくだり
セーブできるところはセーブなさるのだなと感心

■迷子になった人はホテルへ戻るだろうとの正しい予測
BOWさんの思った通りの帰結に感心

■ヴェルサイユ宮殿がロックフェラー財団の援助で修復
こんなこと知りませんでした。私は一度だけパリに出張し、週末にこの宮殿へ行きました。1978年だったと思いますが土曜日に出かけたその翌日に爆弾が破裂するという事件がありました。幸い、疑惑が私にかかってきたなんてことは起りませんでした。

■最初のデートでタクシーにさきに乗り込む人だから
ここ面白い。因みに私はいつも家内を窓側に座らせています。

■モンサンミシェルのオムレツ
覚えておいて機会があっても食べないようにします。

■旅の移動中にビデオを再生できるとは
電池のパワーが心配ですが、最近の機械類はうまく作られているのですね。

■シャンゼリゼは道幅124メートルとは驚きです。
私も歩いた筈ですが、そんなに広いとは感じなかったのは立派な街路樹で視界を惑わされたのでしょう。

■モンテニュー大通り、ジャンゼリゼ大通り、ジョルジュサンク大通りでできた正三角形がブランド商品街
プラダもここにあるとのお話そこから来ているのでしょうか、あのプラダのマーク(逆おむすび型にPRADAとある)は?

■アナウンスがフランス側では仏英の順、英国側では英仏の順
これはモントリオールからトロントへ行く飛行機で経験しました。モントリオール発やモントリオール着のときはフランス語、英語圏であるトロントを離着陸するときは英語が前でした。

無理を申しますが、こうした旅行記のなかにスナップ写真を挿入することは難しいでしょうか?ちょっと、BOWさんご夫妻が楽しく旅されている一部分だけでも見たいなという気がします。HPに海外スナップのようなスクリーンを作られては?

ともかく、楽しい読み物でした。ありがとう。

注:南君は高校時代の友人で、昭和28年29年30年31年頃の「歌と思い出」によく登場します。


<2000.9.6.>
<2009.9.1.>写真を加えた改訂版

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