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歌と思い出 2

 1946〜1950年 10歳〜14歳

1997.01.26. 掲載
2008.05.05. 改訂
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1946 昭和21年 10歳 小学4年

昭和21年の正月に、両親や妹弟のいる神戸に帰ってきた。神戸はほとんどが焼け跡で、その中にバラックが点在し、闇市がにぎわい、浮浪者や浮浪児が満ちあふれていた。進駐軍におびえ、パンパンに嫌悪感を抱き、雨上がりの夜、焼け跡の片隅で青い火の燃えるのが恐ろしく、逃げだしたことを覚えている。あれは、死体から出た燐が光っているのだと聞かされていた。

世の中は、そのような荒れ果てた状態だったが、親元に戻れた嬉しさは、何にも勝る思いで、喜々として毎日が過ぎて行った。ラジオから流れてくる音楽は、戦時中の軍歌とは違って、甘く、心をひきつけるものが一杯で、これをむさぼるように聞いた。そういうわけで、この年からは、心に残る歌が爆発的に増えている。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.青春のパラダイス

  はれやかな きみのえがお     EEAAAABA^GAcBAecA     歌謡曲

このテンポが早く、明るい唄も大好きだった。おませだった馬場和夫君が学校でよく唄っていたのを思い出す。私もよく唄った。次の歌もそうだが、唄っているのは岡晴夫、オカッパルである。

2.東京の花売り娘

  あおいめをふく やなぎのつじに  CDEGcABABAEGGG       Jポップス

世間では「りんごの歌」とか、「あなたと二人で来た丘」などの方に、人気があったようだが、私はなぜか嫌いで、自分で唄ったことはない。それにくらべて、こちらは軽快なブギ調の歌で、「花を召しませ...」と、可愛い声で花を売っている少女が想像され、憧れに近い感情で聞き惚れ、また自分も唄っていた記憶がある。この歌の方が先に流行り、その後で焼け跡銀座に、花売り娘が出現したらしい。

3.可愛い魚屋さん

  かわいい かわいい さかなやさん GGEGAAGEGAAAA        邦楽 雑

4年生の担任は庄野千鶴子というお名前で、兵庫県立第一女学校を卒業されて間のない若さ一杯の先生だった。美しく知的で、おしゃれな、しかし、叱られると恐い先生だった。生徒は誰もこの先生が大好きで、「ABCDEFG」の歌を英語?で教えてもらったりして、みんな生き生きしていた。

先生はクラスの皆に唄わせて、それを聞くのがお好きだった。S.Tさんという女の子が、頭に手拭を巻いて振付けをして、この歌を唄うのを可愛いと思った記憶がある。彼女はその後、6年生の終りに私とデートをすることになった。目の大きな可愛い女の子だった。

4.オ・ソレ・ミオ

  はればれと ひはかがやく     GFEDCCDECB,A,       カンツォーネ

昼の給食が終ると、庄野先生はよく「野村君、何か唄って聞かせてちょうだい」とおっしゃる。そう言われると、私は何時も、「ちょっと水を飲んできます」と、手洗い場に行ってから唄うのだった。

その時に唄った歌は、「オ・ソレ・ミオ」や「帰れソレントへ」、「からたちの花」などのおませな歌が多かったのだが、先生は熱心に聞いて下さった。その頃は、まだボーイソプラノの澄み切った声だったので、先生のお好みに叶っていたのかも知れない。どの歌も、母が唄っているのを聞いて覚えたものばかりだった。

母は歌が好きで、家の中に歌声の欠ける日がなかった。私がところ構わず鼻歌を唄うのも、人前で唄うのが恥ずかしくないのも、もっと言えば、歌好きなこと自体、この母のせいではないかと思えてくる。その母は、私が29歳の時に54歳で亡くなった。

86年9月に、従弟菊川雅之の結婚披露宴の席で、従妹橋本るつ子に伴奏をしてもらい、この歌を唄ったことがある。母の唄っていた歌詞は手持ちのどの楽譜にも載っていなかったので、覚えているままに唄った。

この「歌と思い出」をまとめるために、書庫を整理していたところ、母の楽譜が10ピースばかり見つかり、その中にはこの歌もあった。ディ・カプア作曲、妹尾幸陽訳詞、「私の太陽よ」、昭和4年8月27日13版(初版は大正6年) セノオ音楽出版社発行、定価30銭。ほぼ70年前の楽譜であり、少し傷んではいるが、まだ充分に使える。そして私が覚えていた歌詞が間違っていなかったことを知った。

この機会に、母が唄っていた歌の中で、私が今もよく唄う歌をまとめておこうと思い、歌詞を見ずに唄うことができるものばかりに限って取り上げた。

5.からたちの花

  からたちの はなが さいたよ    G,EEEEFGECDDE        邦楽歌曲

この歌は、今もよく風呂場で唄う。山田耕作の曲の中では一番好きだ。大阪で「花博」があった年に、千里の「石亭」で、同期に阪大の第1外科に入局した連中と、その頃の阪大病院の北1階詰め所の看護婦が、20数年ぶりに再会して、同窓会を持ったことがあった。その時にこの歌を唄った。思いを淡々と込めて唄うことのできる歌である。「みんな、みんな、やさしかったよ」のところが良い。

6.お菓子と娘

  おかしのすきな ぱりむすめ    GcBAGcFEGDCE         邦楽歌曲

橋本国彦の、軽快で少しコミカル、そして、ハイカラでシャンソン風なこの歌を、母はよく唄っていた。大学時代の男声合唱の友人である竹村雅之君とは、10年以上も前から、毎年1回日曜の午後に、交替で一方の家に夫婦で集まり、夜遅くまで唄い合って楽しんでいる。

94年の秋に我が家で行った時から、宮本麻里さんという非常に上手なピアノ伴奏者を、彼は同伴して来るようになった。カラオケは、テンポを強制してくるので嫌いだが、彼女はこちらのテンポに合わせてくれるので、素晴らしい気分で唄える。この歌も、彼女の伴奏で気持良く唄ったが、竹村君の母上もこの歌を唄われていたと聞いた。

7.浜辺の歌

  あしたはまべを さまよえば   G,G,CDEDCDA,CB,A,G,CEDCD   邦楽歌曲

8分の6拍子特有の、柔らかいリズムに乗せたこの美しい歌に、母は何か思い出があるようだった。女学校の時に上野を受けるように音楽の先生に薦められたが、父親が急死したために、それが叶わなかったと言っていた記憶がある。今から15年ばかり前、妻としばらくエレクトーンを習ったが、その時の進級テストで、この曲を弾いた。そのエレクトーンは義母の病気のために中断してしまった。

8.帰れソレントへ Torna A Sorrento

  うるわしうなばら    ABcdecee               カンツォーネ

この歌も、母が唄うのを聞いて覚えたので、歌詞は手持ちの楽譜に載っているものと違っている。しかし、幼い時に覚えた歌詞を、今でもそのまま、鮮明に覚えているのには、驚くばかりだ。この歌は、カンツォーネ特有の高らかに唄い上げるところが、何とも気持が良く、エコーの効く風呂場で、両手を拡げて唄う時、生きている喜びで一杯になる。

9.サンタ・ルチア Santa Lucia

  Sul mare lucica L'astro d'argento  GGccBBz FFAAGG    カンツォーネ

ナポリの守護神サンタ・ルチアを称えた歌で、唄いやすく、クラスのほかの者も、「月は青く、空に照り...」とよく唄っていた。

10.君よ知るや南の国 Connais -tu Le Pays?

  きみよしるや みなみのくに    EFGAFD            洋楽歌曲

トーマ作曲、堀内敬三訳詞のこの歌も、母はよく唄っていたし、私もよく唄う。これも、出てきた母の楽譜の中にあった。歌劇ミニヨン「君よ知るや南の国」、昭和4年8月20日19版(初版大正5年8月7日)、セノオ音楽出版社、定価金30銭。

92年に、銀婚を記念してイタリアに行ったが、その記録をビデオにまとめた時、タイトルは、ためらうことなく「君よ知るや南の国 イタリア」とした。これはゲーテの「ウイルヘルム・マイスター」にも出てくる言葉である。

11.シューベルトの子守歌 Wiegenlied

  ねむれ ねむれ ははのむねに  EGDEFEEDCB,CDG,        洋楽歌曲

その頃、学校ではモーツアルトの子守歌がよく歌われていた。3拍子のこの曲は、リズミカルで軽やかな気分になり、唄うのにはいいのだが、これは子守歌ではないと思った。それに比べて、シューベルトの子守歌は、母の慈愛に満ち、自然の眠りを誘う歌だと思ってきた。小さな頃の私は、いつも母のこの歌を聞きながら、眠った記憶がある。

12.たゆとう小舟 Rocked In The Cradle Of The Deep

  たゆとうおぶねに みちからたよりて   GGG^FGcdee^degfedc   洋楽歌曲

この歌は、この度出てきた母の楽譜ピースにも含まれている。ナイト作曲、近藤朔風作歌、「たゆとう小舟」、昭和3年9月1日、新響社発行、定価金5銭。大海のゆりかごに揺られて、神の守りの下に眠ろうと歌う、讚美歌調の唄いやすい曲である。

13.ABCDの歌

  えーびーしーでぃー  CECDFDEGEFAF               

庄野先生に教えていただいた「ABCDEFG」の歌は、「きらきら星」の替え歌で、少し幼稚な感じのする歌であった。それに比べて、母が教えてくれた「ABCDの歌」はワルツ調の、大人っぽい、ハイカラな、流れるような曲だった。今でも唄えるし、譜に書くこともできるが、今日まで他の人が歌ったのを聞いたことがない。

A−−|B−−|C−−|D−−|EFG|HIJ|KLM|N−− |LMN|OPQ|LMN|OPQ|RST|UVW|XY&|Z−−||

14.四葉のクローバー The Fourleaf Clovers

  うららにてるひかげに  EEFGcBAGAEF               洋楽 雑

この歌は、シカゴ音大教授だったR.Reuterが、東京音楽学校時代に作った曲で、私は大学で同期の今は亡き播口之朗君の結婚披露の集いで唄った記憶があるが、別の友人だったかもしれない。学生結婚だったと思う。ささやかな会だった。

15.今宵こそは Das Liedeiner Nachat

  このこよいに ひらきてよ  ccBAGAz BAGAAA 

この歌を唄っている母は、どこか幸せそうに見えた記憶がある。出てきた母の楽譜を見て、その理由が分かるような気がした。楽譜には、映画「今宵こそは」主題歌「今宵こそは」、東京音楽書院、昭和9年11月10日発行、定価金20銭、とある。他の楽譜は昭和3年か4年のものだが、これは昭和9年11月発行である。

翌年の5月16日に、両親は結婚したので、そのちょうど半年前になる。この歌は、ドイツ映画「Das Liedeiner Nachat 今宵こそは」の主題歌のようだ。恋愛結婚だったと聞いているので、両親は、一緒にこの映画を観たのだろう。そして、この歌を唄う時に、その頃を思い出していたのだろう。

以上母が唄っているのを聞いて覚え、今もそらんじて唄える歌を数え上げてみた。

自然と聞き覚えてしまった歌ばかりだが、あの頃の記憶力に、今さらながら驚く。それに比べて、今は何と哀れなことか、覚えても覚えても片っ端から忘れていってしまう。



1947 昭和22年 11歳 小学5年

焼け跡のバラックが数を増し、闇市は繁盛し、絶えず停電した。そのころ、NHKでは三木鶏郎の日曜娯楽版という冗談音楽に人気があり、世相を鋭く風刺していた。その中の「おやまた停電まっくらけ、電気がつかなきゃしかたがない。それじゃ寝るとしましょうか、停電停電まっくらけ」という唄はよく流行った。

食べ物は少しましになったものの、麦わらパンの配給があったかと思うと、次はバケツ一杯の精製していない砂糖、次はバケツ一杯のバター、次はバケツ一杯の干しブドウ、次はバケツ一杯のヤシ粉といった具合だった。もちろん多くの家では「かぼちゃ」や「じゃがいも」「さつまいも」などを作っていた。進駐軍のジープが通ると、「プリーズ ギブ ミー チョコレート」と、大声をあげてガムやチョコレートをせしめてくる友達もたくさんいた。

当時の最大の娯楽は映画だった。父に連れられて、三宮の阪急会館で、「未完成交響楽」を観た時の情景の幾つかが、今もよみがえる。貧しいシューベルトが、質札を背中につけてていた姿、井戸端で水を汲んでいる女たちが、「菩提樹」を口ずさんでいる場面、セレナーデを捧げた令嬢に冷たくあしらわれるところなどである。その三宮の阪急会館も、このたびの阪神大震災で消滅してしまった。

当時のもう一つ忘れられない光景は、「我々は団結せねばならない!」と絶叫している男の姿である。これは、日本で最初のゼネストをしようとして、マッカーサーに中止させられた、あの2.1ゼネストだった。きっとニュース映画で観たのだと思う。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.星の流れに

  ほしのながれに みをうらなって  CDEEDCA,A,CCA,A,CA,D    歌謡曲

この歌は、元従軍看護婦が新聞に投書した話をもとに、作られたそうである。淡谷のり子が、「こんなパンパン歌謡は歌えぬ」と唄うのを拒否したので、菊地章子が代わったとも聞く。もちろん、当時小学生の私には、そのような事情など知るわけもなく、少しなげやりで、退廃的な感じのするこの曲に、不思議な魅力があり、よく唄った。どこへもぶつけられない悶々とした気持を、こんなに正しく唄った曲は少ないのではないだろうか? その割に陰湿でないのは、この曲が長調でできていることに関係しているのかもしれない。

2.夜のプラットフォーム

  ほしはまたたき よるふかく  e^de^ddBc            Jポップス

この歌は、もともと出征兵士を送る家族の、さびしい気持を唄ったものだと聞くが、私にとってこの曲は、梅田発最終電車の歌である。大学に入って、男声合唱団の練習とか、セツルメント活動などで遅くなった時には、梅田午前0時10分発神戸行き各駅停車で、六甲の我が家に帰るのが常だった。その時、何時もこの曲が頭に浮かんできた。当時、阪急梅田駅のプラットフォームは、今の阪急百貨店の奥深くにあり、スレート屋根の隙間から星がまたたいていた。そして最後の発車ベルが鳴り渡る。二葉あき子の歌いかたもよかったが、メロディーがメランコリックでハイカラ、半音階を散りばめた、流れるような感じのするところを素晴らしいと思った。

3.東京ブギウギ

  とうきょうぶぎうぎ りずむうきうき  G,A,CEDCA,        Jポップス

今までの二つの曲と比べて、何とバイタリティーに富んだ明るい歌だろう。この曲から出てくるイメージは二つある。その一つは、網目のタイツを着け、脚をロケットダンスのように高らかに振り上げている、若いダンサー達の真ん中で、舞台狭しと唄い踊っている笠置シヅ子の姿である。当時、テレビもなかった時代なので、きっと映画で観たのだろうと思うが、案外想像の産物かも分らない。

もう一つの情景は、第1回百万円宝くじの抽選会場である。これも、ニュース映画で観たのか、それとも、ラジオの実況放送を固唾を飲んで聞いている内に、自分の頭の中にできあがってしまった光景なのか、定かではない。この曲や、古橋、橋爪によるの1500メートル自由形世界記録の更新が、人々の気持を明るい方向へ導いていった気がする。

4.郵便ポスト

  なみきのかどの あかい ぽすと  EDCA,G,A,G,S,FDG,EC  

春の学芸会で、私はこの曲を独唱した。5年になって組み換えがあり、担任は村岡先生に変わったが、私の独唱を薦めて下さったのは庄野先生だったと覚えている。伴奏をしてくれたのはF.Eさんだった。当時、ピアノを習っている子供は少なかったので、彼女はひっぱりだこだった。「荒城の月」の中に、「栄枯は移る世の姿」という箇所がある。この「エイコ」と音が同じなのが可笑しいと、よくからかってこの部分を唄い、嫌がられたのを何故か思い出す。

せっかく独唱させてもらえるというのに、この歌を唄うのは少し不満だった。というのは「椰子の実」を唄いたいと言って、試しに唄わせてもらったが、子供らしくないということで、この歌に変えられたからである。こんな子供の歌は嫌だ、大人の歌が唄いたかった。今思うと、本当に可愛くない子供だった。

5.花嫁人形

  きんらんどんすの おびびしめながら  AAABccBAFFFAEEE     邦楽 雑

同じ学芸会でMNさんがこの歌を唄った。旧庄野学級の二人が独唱を独占したのは、庄野先生のお力が大きかったのではないかと思っている。愛くるしい顔で、上がりながら唄った彼女を思い出す。少しばかり甘えん坊で、杉 葉子に似た面長の可愛い女の子だった。

そして何時しか、私は杉葉子のファンになっていた。「杉葉子が好きだ」という時は、何時も彼女をイメージしていたように思う。小、中、高を通じて彼女と同じ学校だったが、淡い憧れを持っていた。

この年は、私が生まれて始めてラブレターを書いた年である。その相手は学級副委員長だったM.Jさんだった。これをどのようにして渡そうかと、思い悩んだ記憶があるが、結局渡せずに終った。

この頃から私は、父親とよく対立し、反抗するようになった。父に「出て行け!」と怒鳴られ、「出て行く!」と家を飛び出そうとする私を、母が必死で押さえて止めた。しかし、母には逆らった記憶がない。

6.夏は来ぬ

  うのはなのにおうかきねに  GEFGGAcGdcAG            邦楽 雑

この歌は、2部合唱で唄った最初の曲のような気がする。2番を私はソロで唄わせてもらった。今、思い出してみると、難しい歌詞であるが、メロディーがやさしく、流れるように軽快で、好きだった

7.きよききしべに(讚美歌565番)

  きよききしべに やがてつきて  CDEGAGE             洋楽 雑

この年の5月に、我が家は一番悲しいできごとを経験した。三つ年下の妹 順が、麻疹(はしか)にかかり、3日もしない内に突然亡くなったのである。死亡診断書には麻疹肺炎と書かれていた。小学2年生だった。その時の母の嘆きを、今もはっきり覚えている。「子を喪へる親の心」をその時知った。それから1年ばかり過ぎたころ、母は結核で倒れ、近くの甲南病院に入院した。遥か彼方の、山の中腹に建つその病院を見て、母が無性に恋しかった。

父は、私の曾祖父の代からのクリスチャンの家に生まれ、母も若い時に洗礼を受けていた。そこで、順の告別式は神戸の二宮教会で行われた。教会は未だ爆弾で半壊状態だった。その時に歌われた讚美歌の一つがこれである。5年生の私にも、歌詞の意味は良く分った。私は妹のために声を張り上げて唄った。

その18年後には、この歌で母と別れ、そのまた17年後には、父を送る歌にもなった。京都の世光教会での父の告別式で、この歌を唄っている内に、妹と母のことが突然脳裏に浮かび、思わず泣き出して皆を驚かせた。父と別れるのが悲しいのではない、妹や母もこの歌で送ったことを思い出して、悲しかったのだと思っている。


1948 昭和23年 12歳 小学6年

古橋、橋爪が次々と1500メートル自由形で世界新記録を出し、世間は沸きに沸いた。「第1のコース、○○君、じかーん ○分○秒フラット」という、あの独特の実況放送の言いまわしを、誰もがそらんじていたのではなかろうか?

神戸は北が六甲山系の山々、南が大阪湾という恵まれた環境にある。夏になれば、家から歩いて新在家の海に行き、そこで思いっきり泳いで、また家に帰るのを日課のようにしていた。我が家は六甲山の麓、今の神戸外大のそばにあり、ここから海までは距離にして約2キロメートルもあるのだが、苦にもならず、友達の山下哲男君などと、いそいそ出かけるのだった。

海ばかりではなく、六甲山の真下にあるダムにもよく行った。ここでは、時々子供が溺死するので、学校から泳ぐのを禁止されているのだが、泳ぎたい誘惑に勝てず、内緒で何回となく泳いだものだ。

卒業する少し前に、4年生の時に受け持って頂いた庄野先生のお家へ、「可愛い魚屋さん」のS.Tさんと二人で、卒業の挨拶にお伺いした。私の始めてのデートである。今から思うと強心臓もいいところだが、彼女の家まで迎えに行った。お母様がどのようなご様子だったかは記憶にない。しかし、家を出ると中学生くらいの男の子が沢山遊んでいて、盛んに冷やかされたのを覚えている。それでも、わざと平気な顔をして、少しばかり得意そうに歩いて行ったような気がする。二人の来訪に、庄野先生も驚かれたことと思うが、とがめられることもなく、卒業を祝い励まして下さった。

小学校の同窓生は、ほぼ全員が新制中学に進むことになっていた。しかし、彼女は松蔭女子中学校に進むので、卒業と同時に離ればなれなる。そう思うとたまらなくなり、共通の恩師である庄野先生を一緒に訪問するという、もっともらしい方法を考えついたのではないかという気がする。とにかく、のぞみが叶えられ幸せだった。世の中がバラ色に見えていた。そして、これが彼女との最初で最後のデートになった。




  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.フランチェスカの鐘

  ああ あのひとと わかれたよるは  AABcBAABcBAcBA         歌謡曲

この曲は「星のながれに」の二番煎じの感なきにしもあらずだが、こちらは短調で、より哀調を帯びている。「ただ、何となく面倒くさくて、サヨナラ バイバイ言っただけなのに」と唄う、半ば、投げやりなところが、妙に気に入っていた。

2.湯の町エレジー

  いずのやま やま つきあわく  EAAABABcBcfe           歌謡曲

小学生時代の流行歌の中で、一番好きな曲を選べと言われれば、ためらうことなく、これを挙げるだろう。古賀メロディー特有のギターのイントロと、「あーあー初恋の 君を尋ねて今宵また」のところが大好きで、恋に憧れる感情で、これを聞いていたのを思い出す。

残念ながら、両親はこの様な流行歌を俗悪なもの思っていた。だから、家の中で大っぴらに唄うことはできないし、唄う気にもなれなかった。私にとって歌や酒は、本人が自己陶酔に陥ることのできる環境にある場合に価値があるのであって、白い目や、とがめる声に囲まれていては、唄ったり飲んだりする気持になどなれないものだ、と今も思っている。

神戸の三宮の高架の横では、青空楽団というアコーデオンとギターを中心に編成された楽団が、その頃流行っている曲を演奏し、その後で、豆本のような歌集を売っていた。確か一部が10円だった思う。演奏を聞き終わり、その歌集を買ってしまうと、帰りの電車賃がなく、三宮から六甲まで歩いて帰ったこともあった。

3.南の薔薇

  みなみのばら そよかぜに  EECDEAcBA^GA              Jポップス

湯の町エレジーと同じく、この曲も故近江俊郎の歌で、当時のNHKの素人のど自慢大会で、インテリ風の若者に好んで唄われた。舞台をスペインに設定しているためか、少し現実離れしているところがロマンティックで、青年の憧れと情熱を理性で抑えながら、端正に唄うこの曲が好きだった。スペイン、フラメンコ、カルメン、ミロ、ピカソ、黒い髪の女性、赤いバラ、好きだ。

4.異国の丘

  きょうもくれゆく いこくのおかに  EececBCBAz BBBcBAFE    歌謡曲

この歌は、シベリアに抑留されていた、旧日本軍の捕虜たちの間で唄われていた曲で、復員してきた人が、NHKののど自慢で唄ってから、ヒットしたと聞いている。作曲者が誰かということで、大分ゴタゴタしていたが、吉田 正氏が本当の作曲者だと分り、彼の作品第1号になった。

NHKの今週の歌の明星?という番組で、この曲は長い間首位を独占していた様に思う。「今週の第1位は異国の丘」のアナウンスに続いて、この曲がラジオから流れて来るのを、多くの人が楽しみにしていた。放送といってもNHKしかなく、ラジオは並4再生式の音質の悪いものだったが、あの頃の国民の、唯一つの娯楽だった。竹山逸郎のバリトンは格調高く、淡々と望郷の気持を唄って私達の胸を打った。

5.憧れのハワイ航路

  はれたそら そよぐかぜ   GAGCEDEDA,C            Jポップス

その頃の日本人にとって、ハワイはパラダイスのようなところ、憧れの島だった。だから、この曲は皆の憧れを唄ったもので、マドロス姿の岡 晴夫が、マーチ風のこの曲を軽快に唄うのを聞くと、心がおどり、楽しくなるのだった。ハワイ航路が実際に再開されたのは、それから3年後の51年である。

もう一つこの曲が好きだったのは、歌詞の中に自分の名前が出てくるからである。「ノゾミ 果てない遥かな潮路」がそれで、私の名前は「」といい、「ノゾミ」と呼ばれてきた。だから自分の名前が出てくるこの歌が、たまらなく好きだった。子供の頃ならいざ知らず、人生の先が見えてきた今でも満更でもないのだから、馬鹿みたいである。

名前の話を続ける。高松の国民学校に入学した日に泣き出したのは、女の子の組に入れられたからだが、その原因が、「ノゾミ」という名前にあった。「野村 望」という名前の書かれたランドセルを背負って登校すると、上級生に「野村望東尼、野村望東尼」とからかわれた。何でも、江戸時代の偉い尼さんらしいが、女の名前なので嫌でならなかった。

戦争中は嫌だったこの名前も、戦争に負けた頃から逆に好きになった。ところが、医師国家試験を受ける時に、戸籍謄本を取り寄せたところ、「」の横に「のぞむ」とふり仮名がついているではないか。驚いて両親にに問いただすと、両親は「のぞみ」と読ませるつもりで「」と名付けたが、これを役場に届ける際に、曾祖父が女のような名前だと言って勝手に「のぞむ」と仮名を振ったのだ、と教えてくれた。えらいことをしてくれたとは思うものの、この曾祖父は、淡路島に疎開していたとき、一番私を可愛がってくれた人なので、恨む気になれず、苦笑するほか仕方がなかった。

ノゾム」では野心臭くて嫌だが、医師免許証は戸籍謄本と全く同じ名前でなければならないので、医師になると同時に公式には「のぞむ」になった。しかし、親類の間では今も「ノゾミ」で通っている。また、パソコン通信では「」を音読みしたボウから「BOW」と名乗って来たが、インターネット・メールでもこれを継承している。

6.希望の島

  あまつ みつかいの   GGGcBAGE                洋楽歌曲

6年生の中から選ばれた者が集められ、コンクールに出場するために、この合唱曲を練習していた時だった。「野村君、もっと声を落して皆と合わせなさい」と叱られた。これまで何回も独唱をしてきていたので、歌に自信があった。そこをピシャリと正されたので、一瞬あっけにとられ、次の瞬間には、猛烈な屈辱感と怒りがこみ上げてきた。そのまま何も言わずに先生をにらみつけ、練習を勝手に止めて、音楽室を出て行った。思えば何とも可愛げのない、傲慢な子供だった。

しかし、少し時間が過ぎると、自分がおごり、そのため客観的な判断ができずにいたことが分ってきた。そうすると、今度は恥ずかしさで一杯になり、顔が真っ赤になった。それ以来、時々この場面が思い出され、その度に冷汗が出てくる。本当にいい経験をした。この曲にも「ささやく、ノゾミ のことば」という歌詞があるので好きだった。ほろ苦い思い出とともに、私にとって忘れることのできない曲になっている。

このことがあったためではないと思うのだが、この頃から、ハーモニカに熱中するようになった。担任の橋本先生は師範を出られたばかりの男の先生で、ハーモニカが大変お上手だった。舌を使って伴奏をつける奏法などを教えていただき、ハーモニカバンドで学芸会に出演したことを覚えている。

7.かみともにいまして(讚美歌第405番)

  かみともにいまして ゆくみちをまもり   EEEEEGDE         洋楽 雑

これは高羽小学校を卒業する頃に知った曲である。讚美歌の中で一番好きな歌のように思う。卒業の日が近づくと、誰からともなくサイン帳を回しあうようになった。私はこの歌の中の、「また逢う日まで、神の守り汝が身を離れざれ」のところを、何人かの女の子のサイン帳に書いた。かなりのセンチメンタル・ボーイだった。


1949 昭和24年 13歳 中学1年

この年の春、鷹匠中学という新制中学に進んだ。校舎は旧第三神港商業の後を神戸外大(当時は未だ神戸外国語専門学校、外専、といっていた)と鷹匠中学が半分づつ分けて使っていた。運動場には、未だサツマイモの畑が残り、体育館の中には、軍需工場として使われたガラクタが残っていた。

六甲の麓の丘の上にあるこの学校までの山道は、桜並木が素晴らしく、すぐ横には谷川が流れていた。そこで小蟹を沢山取ってきてはチョーク箱の中に入れるというような子供ぽい悪戯もよくしていた。しかし、身体も心も思春期へなだれ込もうとしている時期でもあった。

 変声期

この年の夏頃からオッサン声に変わった。クラスには他にも一人か二人同じような声の男がいたようだ。とにかく高い音が出ないので焦ったのを覚えている。それで、矢田部頚吉という人の「発声法」という本を買ってきて読んでみると、「変声期には声帯に負担をかけないために大きな声を出さないで辛抱することが将来のためになる」という意味の注意が書かれていた。それを信じて、大声で唄うのを控えた。

この「発声法」を、先に書いた竹村雅之君の家の書棚に見つけた時は、探しものがここに在ったのかと、感無量だった。大学教養の頃、彼に貸したのだろうが、約40年ぶりで再会したことになる。最近彼は「あなたもテノールになれる!」という30ページ余りの小冊子を出版した。自分で会得した発声法のエッセンスを具体的に分かりやすく説明している。その本の中に、この矢田部頚吉の本のことが触れられている。図らずも、この本が古くからの歌の友人との共通の記念品となったわけである。

話を元に戻して、ちょうどその頃、母方の祖母が「電蓄」を買ってくれた。これは、正式には電気蓄音器といい、中形冷蔵庫ほどの大きさで、床の間の半分のスペースを占拠する代物である。我が家にこれが届いてからは、毎朝1時間から2時間も早く目が覚めて、音量をガンガン上げて聞き入っていた。今思えば、さぞ近所迷惑だったことだろう。この時期から、クラシックを中心に鑑賞する時間が増え、唄えないことを忘れていたように思う。

この「歌と思い出」をまとめるために書庫を整理していて、母の楽譜が見つかったことを前に書いたが、その時一緒に、その頃のレコードに入っていた説明のしおりも見つかった。こちらは、貧しかった敗戦直後の時代そのままに、ぼろぼろになっていて、手を触れれば壊れてしまいそうな状態なので、コピーを取り、現物は何にも代え難い宝物として、書庫に戻した。母の楽譜が70年ほど前のものなら、こちらも50年近い昔のものである。

話がまたまた歌から脱線するが、私は自分が関わってきた資料をかけがえのないものと思う性分で、過去の資料をできる限り残してきた。例えば、手紙類(ほとんどは年賀状だが)も昭和41年以後は、1年毎にまとめて保管してある。それらの資料を自分の納得する形でまとめておきたいというのが今一番したい欲求である。残された時間がどんどん少なくなって行くにつけ、少し焦りを覚える。この「歌と思い出」もその内の一つで、しかも、一番まとめておきたいものである。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.長崎の鐘

  こよなくはれた あおぞらを   EFEAcBAefedfe          歌謡曲

原爆症で亡くなった長崎医大教授の永井隆氏の死を悼んで、サトウ ハチローが作詞したと聞いている。当時、「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」などの著書が広く読まれていた。私もむさぼるように読んだ記憶がある。その中で「貴方は科学者でありながら何故信仰を持つか」と問われたのに対して、「科学に打ち込めば打ち込むほど神の摂理の偉大さを益々感じるものだ」と答えているのが印象的だった。

サトウ ハチローのお父さんの佐藤紅緑の「少年讃歌」は、淡路島に疎開中の私の愛読書で、かなり影響を受けた。しかし、このハチロー氏とは何となく肌が合わない。それに、古関裕而の曲は「鐘の鳴る丘」や「君の名は」のようなハモンドオルガンが中心で何処となく不自然な上、陰気なので好きではない。おまけに、藤山一郎の唄い方は余りにも優等生的で、ハートが感じられず、これまた好きではない。このように詩、曲、唄について普通なら好きではない組み合せなのに、この歌に限ってそうでないのは、永井隆氏のお蔭だろうか?

神戸高校へ進学して、音楽を教えて頂いた柳歳一先生から伺った話だが、上野の音楽学校在学中は、藤山一郎よりも柳先生の方がレコードの吹き込みなどの隠れアルバイトに精を出していたそうである。

2.午前2時のブルース

  ねぐらの あかりも   G^GAcG^GACz             Jポップス

これはメランコリックな流れるようなブルースで、心地良いメロディーがたまらなく好きだった。しびれるような感じになってひきこまれてしまう。この曲を、思いを込めて口笛で奏でてみると、いい感じになる。静まりかえった空気の中で、程よい残響があれば言うことはない。この曲に近い曲は映画「墓にツバをかけろ」の主題歌、「褐色のブルース」だろう。こうして自分の好きな歌を書き綴っていくと、服部 良一の作品が大きい部分を占めていることを知り驚く。この人は、シューベルトやガーシュインのような天才なのだと思う。

何時かこの人が書かれたものを読んで、さもありなんと感じたことがある。それは、「音楽は神の与えてくれた名音(みょうおん)である」、つまり、自分が作曲した音楽で人が感動するのは、自分の作曲のせいではなく、神様が与えて下さったものだからで、個人の功績にするには、音楽の魅力は余りにも大きい、という意味のことを述べている。

また、この人は、昔シューベルトの歌曲に夢中になったことがあり、歌は心で、曲はハートで描くものと信じて音楽生活を続けてきたとのことである。「ぼくの音楽人生」という音楽生活60年をまとめた著作(昭和57年10月刊中央文芸社)を読むと、天才というものは才能だけでなく、優れた師や仲間がいて、その上に猛烈な努力があってはじめて生まれるのであることが分る。

20年ばかり後になるが、深夜に阪大病院の手術場の風呂に浸かりながら、一人でこの曲と褐色のブルースを口笛で吹いたことが何回かあった。それは良い気分だった。

3.銀座カンカン娘

  あのこかわいや かんかんむすめ   edcBdcGEFGcAEG      Jポップス

この楽しく軽快なブギ調の曲も、服部メロディーである。これは、高峰秀子主演の映画「銀座カンカン娘」の主題歌だった。デコちゃんが自ら歌っている。当時、高峰という女優が二人居て、どちらも人気があった。もう一人の高峰は三枝子である。しかし、私にはなぜ三枝子が秀子と比べられるほど良いのか分らず、「たで食う虫も好き好き」とはこのことだなと思って自分を納得させていた。

4.花

  はるのうららの すみだがわ   GGcz cdcBAGEGcdegd      邦楽歌曲

中学に入って、音楽の時間にこの合唱曲を習った。日本人の詩に西洋音階で曲をつけた最初の曲とされるこの素晴らしい曲を、滝廉太郎は1900年に作ったとのだ知ると、その天分に感嘆し、夭折を惜しむ。

5.センチメンタル ジャニー SentimentalJourney

   Gonna take a sentimental journey    ECECECECEC    ポップス

この曲ほど、戦後の日本の若者の心をとらえたものはなかった、と思うのだが、どうであろうか? 少なくとも私の周りには、そのような連中がたくさんいた。本当にたまらなかった。ぞっこん惚れ込んだ感じ、魔法にかかっている感じで聞いていた。

思い出を新たにするために、センチメンタルな旅に出よう」と呼びかけるこの歌を、ドリス・デイは暗くはないが、けだるく、何とも言えぬ良い感じで唄っている。ジャズフィーリングの新鮮さに感動し、すっかり参ってしまうきっかけを作ってくれた歌だった。

その頃の神戸の街には、進駐軍が溢れんばかりいた。アメリカの全てが良しとされた時代だった。憧れの国、夢一杯の国、それがアメリカだった。

6.サム サンデー モーニング Some Sunday Morning

  Some Sunday morning   GEFGcBBAA^GA           C&W

進駐軍が来てからは、今まで聞いたことのない種類の音楽が押し寄せてきて、多くの日本人が、これに魅せられてしまった。そのはしりとなったのがこの曲や、次の二つの曲だったと思う。同級生の馬場和夫君がよく唄っていた。アメリカの平和で健康的な明るさを彷彿とさせる歌で、歯切れのよい曲だった。後になって、これが西部劇「サン・アントニオ」の主題歌であることを知った。

7.ボタンとリボン Buttons and Bow

   East is east and west is west    G,A,CDEGAAGAGECE    C&W

ボッブホープという、人気者のコメディアンが主演した映画「腰抜け二挺拳銃」の主題歌で、ダイナショアが唄っていた。軽快で楽しく、少しばかりコミカルな歌だった。日本コロンビアのL盤第1回新譜がこの曲だった。「botton and bow」がバッテンボーと聞えるので、「バッテンボー、バッテンボー」が流行った。ダイナショアは大学出のせいか、どこかインテリジェンスが感じられ、甘い清潔な色気が魅力だった。日本語のカバーバージョンも出たが、私の周りのものは見向きもしなかった。



1950 昭和25年 14歳 中学2年

この年の6月に朝鮮戦争が始まった。この戦争に、アメリカ軍が参加することを知った時には、戦争は簡単に終るものと誰もが思った。それほどアメリカは強い国と信じられ、疑われることがなかったのである。しかし、間もなくそれが幻想であることを思い知らされた。

私達鷹匠中学の新校舎が、現在地の徳井弓の木に建設され、生徒は山の上にある現在の神戸外大の校舎から、ここまで、机や椅子をそれぞれ自分で運び込んた。運動場は池を埋め立てて作られたが、未完成のため、毎朝1時間もかけて、全校生徒が石運びをしたものだ。新校舎とはいっても、これまでの学校と違って木造で、木の香りよりも、床に染み込まされた石油の臭いが鼻についた。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.白い花の咲くころ

  しろいはなが さいてた   EABccABB^GA              歌謡曲

この歌を聞くと、条件反射的にある情景が浮かぶ。15歳位のお下げ髪をした女の子が、顔をうつむき加減にして、恥ずかしそうに立っている。伊藤佐千夫の野菊の墓に出てくる少女の感じだ。昔は、ラジオで聞いたので、このようなイメージを抱くことができた。ところが、テレビの懐かしのメロディーで岡本敦郎が歌っているのを見ると、この人には悪いが、少々ブチコワシの感じがした。やはり歌は見るものでなく聞くものだと思う。

2.買物ブギ

  きょうはあさから わたしのおうちは   EAA^G^GAABBddccBB   Jポップス

東京ブギウギに続いて好んで唄われた曲である。本物の大阪弁の面白さに、ブギのリズムの泥臭いハイカラさがからみあって、今聞いても結構楽しくなる。これも天才服部良一の作品である。「青い山脈」も服部良一の歌で日本人の一番好きな歌の首位に何時もランクされている。しかし、生来のあまのじゃくだろうか、私は余り好きではない。ジャズとかブギとかブルースとかバター臭い歌に、この人の真骨頂があると思っている。作詞の村尾まさをと言うのは服部良一のペンネームだ。生粋の浪速っ子が書いた言葉に、ご本人が曲をつけたのだから、歌詞と曲がマッチするのはあたりまえだろう。

てんやわんやという言葉は、獅子文六の同名の新聞連載小説から生まれた言葉だったと思う。朝日新聞のこの小説を読むのが楽しみだった。青い山脈もまた新聞小説で、これも毎日楽しんだ。

3.水色のワルツ

  きみにあう うれしさの むねにふかく   EeedfeBdcA      Jポップス

スマートな、シャンソン風のハイセンスな曲である。その頃のNHKの「のど自慢」では、クラシック系の唄い方をする人がこの曲を好んで唄っていた。高木東六の歌はメロディーが美しく、いかにも歌好きの人が作った歌という感じがする。戦時中の軍歌の中で私が一番好きな「空の神兵」もこの人の作品だが、その歌については前に書いた。

4.二人でお茶を Tea for Two

  Picture you upon my knee   CA,B,A,CA,B,         映画音楽

映画「二人でお茶を」の主題歌で、センチメンタルジャーニーと違って、この曲では、ドリスデイは軽快なテンポで唄い、ヤンキー娘らしさをふりまいていた。「...tion、...tion、...tion、」が、やけに耳についたのを覚えている。

5.いつかは王子様が Someday My Prince Will Come

  Someday my prince will come   Gc^GBAA         映画音楽

ディズニー映画「白雪姫」は、中学生にも魅力一杯の映画だった。アニメの素晴らしさだけでなく、音楽も素敵で、サントラ版が売り出されたので買ってもらい、繰返し聞いた。白雪姫の声はダイナショアだったと聞いた記憶があるが違っているかもしれない。

 白雪姫が唄う。
     Someday my prince will come, Someday will meet again ........ 

6.ワン・ソング One Song

  One song I have but one song   GGEEDCEE          映画音楽

 そして王子が唄う。
     Now that I found you, hear what I have to say !
     One song I have but one song, one song only for you .........

中学生にも分るやさしい英語なので、自分が王子になった気持でよく唄った。こんな少女趣味に浸るかとおもえば、ヘッセの「デミアン」のとりこになったり、心理学や哲学書を読み漁ったり、大人と子供の間で揺れ動いているが、身体だけは間違いなく大人になっていき、常にそれが悩みの根源にあった。

7.ベサメムーチョ Besame mucho

  べさめ べさめむーちょ   AAAAABced         ラテン・ハワイアン

濃厚な大人の愛の歌として、背伸びした気持で、この曲を聞いていたのを思い出す。NHKの「のど自慢」で、この曲はいつも成熟した大人のアルトの声で唄われた。聞いてはいけない、しかし聞きたい、そんな思いだった。それは禁断の木ノ実に誘惑される感情に似ていた。もちろん、自分が唄える歌ではないことは承知していた。それは間違いなく大人の歌だった。

<1997.1.26.>

歌と思い出1、2、3」を書いてから3年以上経った2000年4月から、歌のまとめを再開した。それに先立ち、歌のデータ・ベース1000曲を作り、「歌と思い出」に取り上げる曲は、これに対応させた。歌に統一性を持たせるため、それ以前に書いた「歌と思い出1、2、3」についても、少し加筆修正を行い、これに対応させた。


<2001.1.3.>
<2008.5.5.>改訂


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