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小学4年庄野学級

2002.12.19. 掲載
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これは、今から56年前の1年間を共に過ごした恩師と級友が、ほぼ50年ぶりに開いたクラス会の、私的記録である。

●クラス会を開くことになったきっかけ
2002年11月17日の中学卒業50周年の記念同窓会の会場で、小学校が同じだった同級生が顔を合わせると、異口同音に「小学校の思い出は4年の庄野学級が一番」と言う。実は、私にとっても学校生活で一番懐かしいのがこの頃で、受持ちの庄野千鶴子先生は憧憬の的であった。「先生にお会いしたいなあ」と誰からともなく声が出て、クラス会をしようということになった。そうは言っても、年が明けてからの話だと思っていた。

ところが、その内の一人の女性のMJさんが先生に手紙を差し上げたらしい。それに対して、11月21日に先生から電話があり、皆に会いたいと言われたそうだ。そのことを翌22日に、別の女性のMNさんが、私に連絡してくれた。そこで、急遽先生に電話を差し上げ、クラス会の日程が決まった。MJさんの手紙が、このクラス会のきっかけとなったわけで、彼女に心から感謝している。

私に連絡をくれた女性の世話役のMNさんから、FAXで送られてきた名簿を見ると、女性の参加者は8名もいる。私は焦って、古いアルバムをとり出したり、中学の同窓生の名簿でチェックをしたりで大慌て。その際に、亡くなった男性が2名いるのを発見して驚いた。結局、連絡のとれた男性はわずか3名で、その代わりその3人の誰もが二つ返事で参加OKをしてくれた。そして、クラス会の案内文と資料を11月25日、参加者全員に発送した。

●なぜ、小学4年庄野学級が懐かしいのか?
55年前の1年間を一緒に過ごした40数名のうちの約3割が、即座に、集まりたいと思ったことに胸が熱くなった。その一番大きな理由は、担任の庄野千鶴子先生の素晴らしさにあると思う。

先生は「県一」と略称される兵庫県立第一高等女学校を卒業された知的で美しい女性だった。「県一」はその名の通り、県下随一の名門校だった。先生は情熱があふれ出る感じの方で、生徒は誰も先生が大好きだった。音楽がお好きで、昼休みには皆によく歌を唄わせ、それを本当に喜んで聴いて下さるのだった。

私は、97年1月から「歌と思い出」を書き、このホームページに掲載しているが、そこには庄野先生と庄野学級のクラスメートの話がいくつか出てくる。小中高を通じて、学校時代の一つのクラスのことを、これほどたくさん書いたのは、このクラスだけである。それは、私がどれほど、この「小学4年庄野学級」を大切に思ってきたかを表わしている。

この「小学4年庄野学級」を、多くの級友が懐かしむその他の理由として、長く苦しかった戦争が終わり、平和になった年であったせいもあるのだろう。昭和21年(1946年)は敗戦の翌年である。軍国主義からデモクラシーに180度転換したが、神戸の街は戦災で荒廃し、貧しかった。しかし不思議に青空の明るさがあり、学校生活には活気がみなぎっていた。

そして、この「小学4年庄野学級」を大切に思う最後の理由は、級友に恵まれていたことではないかと思う。小学4年と言えば学童期のど真ん中、非常に仲の良い友人ができるのもこの頃からだと思う。私の場合、それは山下哲男君だった。家がどちらも同じ兵庫県の公舎で、通学途中はもちろん、放課後も、家に帰ってからも、常に一緒に行動(遊び)をしていた。食事と寝るときを除いて、いつも一緒にいたような気がする。

彼はクラスで背が一番高くスポーツ万能だった。私はその頃から生意気だったので、6年生によくいじめられたが、彼はかばってくれたり、助けてもくれた。彼自身は、「気は優しくて力持ち」の温厚な性格だった。私はその頃から、何度も喧嘩をしてきたが、彼とは一度もしていない。高校が別だったせいもあり、高校に入った頃から疎遠になってしまった。しかし、何かのきっかけで思い出すと、つい名前が出てしまうので、会ったこともない妻も、彼の名前を良く知っている。この度、55年前の級友とクラス会を持つことになり、一番会いたいと思ったのが彼、山下哲ちゃんだった。

当時の4年生は、私たちの庄野学級だけが男女共学で、後は男子だけのクラスと女子だけのクラスに分かれていた。どうやら、私たちのクラスは男女共学のテストケースだったようで、男女がよく遊び、仲の良いクラスだった。魅力的な女の子がたくさんいて、思い出すことがいろいろある。こども心に、淡い憧れを抱いたが、そのような感情のことを「仔牛の恋 Calf Love」と言うのだろう。そのことについては別に書きたく思っている。

●クラス会当日JR塩屋駅に集合
以上前書きが長くなったが、12月14日土曜日に、待望の庄野学級のクラス会が行なわれた。午後3時にJR塩屋駅に集合したが、約50年ぶりで会う哲ちゃんはすぐ分かった。彼も同じで、私をすぐ分かったようだ。同じく約50年ぶりに会う女性のSTさんもいたが、この人もすぐ分かった。結局分からなかったのは女性一人だけだった。

●庄野先生のお宅
庄野先生のご実家は、神戸市灘区にあり、主にそちらで生活をされてきたが、阪神大震災で家屋が全壊し、それ以来塩屋で、「夏」と言う名前の雌犬と暮らしておられる。私たちが、タクシーを呼ぶのにモタモタしていると、どうしているのかと、15時22分に携帯電話が鳴った。セッカチで、しっかりしていらっしゃるのは、55年前も同じだとみんなは苦笑い。

お家に着くと、門のところまで出て来られた先生は、寒いのに皆を大声で歓迎され、なかなか入って来られない。しびれを切らした私は、断りもせず、お先に家の中に上がってしまった。和室にはテーブルを囲んで、13枚の座布団が置かれてある。先生は今年80歳だそうだが、昨年まで、神戸の元町で洋裁を教えて来られただけあって、10歳は若く見える。張りのある元気なお声で、私たちと14歳の差があるとは信じられないほどだ。

●まずは記念撮影
全員が揃ったところで、真っ先に「記念撮影をしておこう」と言われたのには、ちょっと面食らった。会を始める前の記念撮影は、余り行なわれないのではなかろうか? しかし、あとでそれが正解であることを知った。机の上に並んだ品物はまだ多くはない。これが会の途中や終わりであれば、机の上や周辺を片付けるのに大変だったことだろう。やはり、先生は賢明でいらっしゃると感心した。何人かがスナップ写真を撮っていたが、セルフタイマーを使って、全員が写った写真も1枚撮れたのはラッキーだった。


後列 左から 野村、 馬場、 磯部、 ST、 山下、 IR
前列 左から NK、 IK、 庄野先生、 MN、 JT、 SK、 MJ

●吟醸酒で乾杯
記念撮影が終ると、先生が用意された吟醸酒で乾杯。それからは、堰を切ったように55年前の思い出話がとめどなく続いた。よく知っていること、まったく知らなかったこと、笑い声が絶えない。

●こどもたちが集まっているの
クラス会が始まって、間もなく電話があり、それに出られた先生は、「いま、こどもたちが集まっているの。だから、そんな難しいお話には答えられない」と応答されるのを聞いて、全員が吹き出してしまった。66歳の私たちが、こどもたちだって! その後も、何度か「この子は」と話されるのを、苦笑しながら、嬉しく聞いていた。先生はいつまで経っても先生、生徒はいつまでもこどもたちなのだ。

私たちの来訪に対して、「教師冥利に尽きる」と何度か言われたが、それは55年前に、先生が私たちにして下さった教育が、どれほど素晴らしかったかを証明しているのだと思う。

●あの頃唄った歌を唄う
クラス会の10日ほど前、庄野先生にお土産の希望を伺ったら、歌が良いと言われたと、女性の世話役のMNさんから電話があった。それを聞いて、先生はやっぱりカッコイイ、昔のイメージ通りだと思った。Bさんは、当時唄っていた歌の歌詞をひとりひとりが手に持って、皆で唄ってはどうかという、グッド・アイデアを出してくれたので、大喜びで選曲をして、下記の「庄野学級唱歌集」を作り、持参した。

庄野学級唱歌集

1.ABCDEFG(きらきら星)----------フランス民謡
2.オウマ-----------------------------------文部省唱歌
3.ウミ-------------------------------------文部省唱歌
4.海----------------------------------------文部省唱歌
5.夏は来ぬ---------------------------------小山作之助
6.花嫁人形---------------------------------杉山長谷夫
7.赤とんぼ---------------------------------山田 耕筰
8.浜千鳥-----------------------------------弘田龍太郎
9.ふるさと---------------------------------岡野 貞一
10.荒城の月--------------------------------瀧 廉太郎
11.からたちの花----------------------------山田 耕筰
12.野ばら----------------------------------シューベルト、ウエルナー
13.モーツアルトの子守唄------------------フリース
14.シューベルトの子守唄------------------シューベルト
15.サンタ・ルチア-------------------------ナポリ民謡
16.蛍の光----------------------------------スコットランド民謡
17.仰げば尊し-----------------------------不詳
18.高羽小学校校歌(昭和13年制定)

そして、歌の話題が続いたところで、この唱歌集を配り、全員で1曲づつ順番に斉唱して行った。

1.「ABCDEFG(きらきら星)」は、庄野先生に教えていただいた英語の歌である。その1年足らず前までは、英語は敵国語として使うことを禁止されていたのだから、時代が180度転換したことを改めて思った。

2.「オウマ」、3.「ウミ」は、私たちが国民学校入学したときに、最初に覚えた文部省唱歌である。4.「海」、5.「夏は来ぬ」は当時習った曲で、学芸会で合唱をした記憶がある。

6.「花嫁人形」は、今回の女性世話役のMNさんが学芸会で独唱をした曲で、誰もがそれを覚えていて、ひとしきり話が弾んだ。この曲はもちろん彼女がひとりで唄った。

55年前、庄野先生は昼休みになると、私たちに歌を唄わせて、それを楽しんで聴いて下さるのだと書いた。その頃STさんが唄った「可愛い魚屋さん」が印象に残っていて、この唱歌集に載せたかったのだが、歌詞が見つからず、載せられなかった。そこで、ご本人に頼んで唄ってもらった。私も一緒に唄ったが、ほとんど全部覚えていた。

7.「赤とんぼ」、8.「浜千鳥」、9.「ふるさと」、は全員で唄った。「ふるさと」は私が低音部を唄い2部合唱にした。

11.「からたちの花」は私が一人で唄った。この曲を私の母が唄ったのを覚えてくれているSKさんがいたり、その頃私が唄った「椰子の実」を覚えているIRさんもいて、そんな昔のことを覚えていてくれたのが嬉しかった。

この時、SKさんが私の家の縁側に腰掛けて、母と話している光景が突然頭に浮かんだ。あれはいつ頃だったのだろうか? SKさんは母のお気に入りで、自分の若いころのアルバムを見せたりもしていた。彼女が、若いころよりも今の母の方が好きだと言ったので、意外に思ったことを思い出す。母は肺結核のために衰えていたが、昔の勝気なところがなくなって、穏やかな顔になっているからだろうかとその時思った。

12.「野ばら」のところで、「この歌をドイツ語であなたたちに教えたと思う」と先生が言われた。そう言えば、そのような記憶もある。私はこの歌をドイツ語でも唄えるので、先生と二人で「Sah ein Knab' ein Roeslein steh'n、、、」と一番を最後まで唄った。そして、小学4年生に英語(アルファベットだが)やドイツ語の歌を教えて下さる、ハイカラな先生に受け持っていただいた幸せを思った。

そのあとは、13.「モーツアルトの子守唄」、15.「サンタ・ルチア」を全員で唄い、歌を終わりにした。私たちが唄っていると、庭にいる先生の愛犬「夏」が、仲間に入れて欲しそうに騒ぎ、縁側のガラス窓をガリガリ引っかいていた。

●赤鬼と青鬼
クラスメートから、山下哲ちゃんといえば私、私と言えば山下哲ちゃんを思い出すと言われた。また、「野村さん、哲ちゃんに会えて恋人に会ったくらい嬉しいでしょう?」と尋ねられたりもした。それに対して、哲ちゃんは「恋人以上や」と即答していたが、私もそれに近い気持だった。

庄野先生に、「あなたたちはほんとに良いコンビだったね」と言われた。私たち二人はやんちゃで、絶えず悪いことをするので、「赤鬼と青鬼」とあだ名をつけておられたそうだ。その赤鬼と青鬼は、鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動していたと、ニコニコ笑って話される。「鬼」にされていたとは知らなかったが、愉快だった。ただ、「赤鬼青鬼」は、どちらがどちらなのか、聞きそびれてしまったのが残念である。

どんな悪いことをしていたのかというと、横山学級という男子だけのクラスを相手に、よく喧嘩をしていたらしい。そう言えば、そのクラス全員と喧嘩した記憶がある。馬場君は、私が横山学級の誰かの頭に、チューインガムを塗りつけたと言えば、先生は、私が悪いことをするくせに、叱られるとポロポロ涙を流す「鬼」さんだったと、笑われるのだった。

馬場君は、私の記憶の中ではアメリカン・ポピュラーソングを教室で歌っていたおませな少年だが、先生の記憶では相当なやんちゃだったらしい。「あのやんちゃだった馬場君も、ずいぶんおとなしくなったのね」と先生に言われて、「ボクは前からおとなしいです」と、すまして答えていた。

●優等生
クラス会に参加した男性4名の最後が磯部君である。彼は優等生だったようで、男女共学のモデルケースとして他校の先生方が庄野学級の授業を見学に来られた時、見学の先生方を感動させる発言をしたらしい。「あんなに小さなこどもの口から、とっさに、これほど優しいことばが出るとは、よほど、このクラスの教育は行き届いているに違いない」と、後で庄野先生はほめられたそうだ。そのことを少なくとも3回は話されたので、先生にとって、大切な思い出であることが良く分かった。

磯部君は岡山へ集団疎開をした時から、庄野先生と一緒で、合計3回先生に受け持っていただいたそうだ。優等生の彼は、疎開先でも率先してよく努めを果たし、健気だったらしい。そのせいか、疎開先で肋膜炎になり、先生が必死になって彼の治療の介護に努められたと聞いた。その結果、肋膜炎も治り今の彼があるわけだ。

私は中学3年の時に、先生に反抗をして、それ以来優等生であることを止めたと思ってきたが、小学4年で担任の先生に赤鬼青鬼と思われていたことを知って、私には優等生の時代がなく、優等生だったと思っていたのは、身勝手な錯覚だったことを覚った。

今度のクラス会に参加した女性の人数は、男性の2倍ある。しかし、先生が話題にされたのは、その逆で、男性に関するものの方が女性の2倍近くあった。それは、男の子の方が先生を煩わせたり、印象に残ることをする場合が多かったということだろうか?

●僕らは少年探偵団
当時の私たちは、高羽小学校の校区ばかりか、それから遠く外れたところにまで遠征して、そこで遊んでから家に帰ることが多かった。そんなある日、同僚の先生二人と一緒に帰宅途上の庄野先生を、遊び先で発見した。先生はその時24歳、知的で美しく、叱られると恐いが、私たち男子生徒にとって憧れの人だった。

先生の姿を発見して、私は先生のお家が何処なのかを猛烈に知りたくなった。そこで、少年探偵団よろしく、先生に気付かれぬように、門の影に隠れたり、路地にもぐり込んだりしながら、先生がお家に入られるのを見届けた。これはもう大発見である。私と一緒に探偵ごっこをした者は誰だったのだろうかと思って来たが、その一人はやっぱり哲ちゃんだった。ところが、優等生の磯部君も、その仲間の一人だったと知って驚いた。

この探偵ごっこのことは、今度のクラス会で初めて皆に明かしたのだが、先生はやはり気付いておられなかったようで苦笑されていた。今、振り返ってみて、先生は少年たちにとって、憧れの美しい年上の女性だったのだと思う。

●会って、分からなかったただ一人の女性
男性はもちろん、7名の女性も昔の面影が残っていて、誰だか分かったが、一人だけ思い出せない女性がいた。それが、いつもピーピー泣いていたJTさんだった。当時は弱々しく、よく学校を休んでいたそうだが、今はまるで別人で、一番雄弁だった。彼女は絵が得意で、鷹匠中学時代に美術の岩瀬先生の激賞された絵が、何かのコンクールに金賞で入選したそうだ。

岩瀬先生と言えば、先日の鷹匠中学卒業50周年記念同窓会で、私が50年前の非礼を詫びたその先生であり、不思議な因縁を感じてしまった。

後で、当時の写真や中学卒業アルバムを見て、なぜ、彼女だけ誰だか分からなかったのかという謎が解けた。私たちの知っているJさんは、トンボの目玉のような度の強いメガネをかけていた。だから、メガネを着けていない顔を知らず、今はメガネなしなので、分からなかったのだ。

もう一人、昔はおとなしかったのに、雄弁になったNKさんという女性のことも書いておく。当時、庄野先生は生徒たちに、将来何になりたいかと尋ねられたことがあったそうだ。その時、ほかの女の子は、お嫁さんになりたいなどと答えていたが、彼女はお料理をしたいと答えたらしい。それが、あることがきっかけで、料理屋の調理人を10年間することになった。子どもの頃に答えたことが本当になったと話していた。

●女性たちは今も付き合いが続いている?
クラス会の席で女性たちが話しているのを聞くと、クラスメートの女性の消息をよく知っている。中には、息子や娘を介すると、回りまわって親戚になる者もいるようだ。これはやはり女性と男性の違いなのかと思った。1日か2日で、8名ものクラス会参加者の名簿が集まったことに驚き、それに比べて、私が消息を知っている男性は馬場君と磯部君くらいなので焦ったが、日頃の付き合い方の違いが、諸に出たということが良く分かった。

●寿司をご馳走になった
このクラス会のことで、庄野先生に私が始めて電話を差し上げた時、「あなたたちは、どこからお寿司を取ったら良いか分からないだろうから、私が取っておきます」言われた。私たちがお家に上がった時には、既に寿司は届いていた。それを皆でご馳走になった。先生が自慢されるだけあって、たしかに美味い。私たちに負けないスピードで、先生が寿司を食べられるの見て、頬が自然とゆるんでくるのを覚えた。

会の途中で、IKさんに呼ばれて別室に行くと、電卓を片手に本日の会計の計算をしながら、お寿司代をどうしようかとの相談だった。私は迷わず、「せっかく先生がご馳走して下さるのだから、ありがたく、お気持ちを頂戴しよう」と言ったので、そうなってしまった。女性の世話役のMNさんも、私も計算は苦手なので、IKさんのおかげで助かった。字が上手で、算数も得意だったのは、55年前と変わっていない。

●思い違い
私が小学5年の時に、妹は麻疹で突然亡くなった。可愛い妹の死がきっかけで、私は医師になる決心をしたのだとほとんどの人が思っていたようだ。妹を可愛く思ってきたことも、母が我が娘の死を嘆き悲しんだことも、その後間もなく、母が結核を発病したことも、皆の覚えている通りなのだが、私が医師の道に進んだきっかけは、そのような美談ではない。

私はこどもの頃から物を創るのが好きで、中学の頃から工学部に行く積りでいた。私が医学部を受験することになったのは、高校2年の春、自分たちはどちらも肺結核なので、医師になって欲しいと両親から懇願され、仕方なくそれを受け容れたためだった。だから、医学部に行ってからは自分の好きな外科に進み、心臓外科では人工心肺という工学部的な分野を担当してきたのだった。

●47年前の写真
遠く姫路から参加のIRさんは、庄野学級に関係する写真をアルバムからはがして持って来られた。庄野学級は、過去に一度クラス会を持ったことがある。高校を卒業して大学に進学した年、1955年(昭和30年)の夏だった。その写真の中に、女性だけで写したスナップがあった。

それを見て、私は思わず「うゎ〜、みんなきれいやな〜!」と嘆声を上げてしまった。32歳の先生と18歳の女性たちは、思ってもみなかったほど美しかった。そう漏らした途端、「男性は年をとっても余り変わらないけど、女性は変わるのよ!」と詰問口調の声がして、うろたえてしまった。

●最後にドジ
姫路のIRさん、桑名の馬場君が終電までに帰れるようにと先生は気配りをされるので、午後7時半を過ぎたころにクラス会を終え、先生のお宅を後にした。3台のタクシーに分乗し、JR塩屋駅に向かう途中でカメラを忘れてきたことに気がついた。そこで、馬場君を駅まで送り、残り3人でそのまま引き返してカメラを持ち帰って来た。

途中で「男性群はどうしているの」という携帯電話が19時47分に入り、平謝り。大急ぎでタクシーを降り、目に留まった改札口でJスルーのカードを入れるのだが拒否をくり返される。磯部君と哲ちゃんは切符を買っているので、私もそうしようと思ってよくよく見たら、JRではなく山陽電鉄の塩屋駅だった。

いやはや、やっぱり私はドジ・チョンボを切り離すことができない運命にあるらしい。女性群は、寒いJR塩屋駅で待っていてくれた。その中の何人かは、元町で降りてルミナリエを観るという。私もそれに加わりたかったが、磯部君と哲ちゃんにはその気がなさそうなので、ひとりだけ良いことをするのは気がとがめ、きっぱりあきらめて帰宅した。家に着いて直ぐ、庄野先生にお礼の電話を差し上げたが、先生は大変喜んでおられた。時刻は22時ちょうどだった。

●長年の夢が実った
何十年も前から庄野先生とクラスメートに会いたく思ってきたが、50年近く経って、その夢が実現した。そして、私たちは素晴らしい小学4年を過ごしたのだということを改めて認識した。そのことを、誇りを持って世界に発信しておく。

(2002.12.19.)

記念写真の公開に対して参加者から異議が出なかったため、掲載しました。


<2002.12.26.>

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