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歌と思い出 3

 1951〜1955年 15歳〜19歳

1997.01.26. 掲載
2008.05.05. 改訂
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1951 昭和26年 15歳 中学3年

この年の4月、マッカーサー元帥が、トルーマン大統領との朝鮮戦争の作戦上の対立から、突然解任された。日本人にとって、絶大な権力者と考えられていたので、その人が解任されるなどとは、思ってもいなかった。だから、非常な衝撃を受け、同時にアメリカという国の、シビリアン・コントロールというものの凄さを実感した。

私も、これまでの見せかけの優等生であることを止め、はじめて先生に反抗し、授業中問われたことに答えなかった。職員室に呼び出され説教されても謝らないので、「野村は哲学にかぶれて危険だから付き合いをするな」と言われた友人もいたようだ。哲学ではなく、ヘッセの「デミアン」に参っていたのだと思う。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.家へおいでよ Come on a my House

  Come on a my house, my house     A,EEEDCDECD     ポップス

ローズマリー・クルーニーは少しコミカルに、しかしパンチを効かしてこの歌を唄っている。彼女のデビュー曲である。ちゃきちゃきのヤンキー娘というイメージだ。江利 チエミもこの曲を唄っているが、その頃の私は、日本語と英語を混ぜて唄うのが嫌だった。

2.ハーバー・ライト Harbour Lights

  I saw the Harbour Lights      CEGBABA          ポップス

この曲は、吉展(よしのり)但夫とキャスバン・オーケストラのテーマ・ソングで、関西では人気があり、民放で良く聞いた。高校に行ってからは、ブラスバンドの連中がこの曲をよく演奏していたし、大学では男性合唱団でこの曲を唄った記憶がある。ポルタメントをかけて、甘く優しく唄うと、港町神戸に似つかわしいムードに浸ることができる。

もともとは、プラターズがヒットさせた曲で、夜に神戸港へ帰ってきた時など、自然とこの歌が浮かんでくる。

3.マイ・ハート・クライズ・フォー・ユー My Heart Cries For You

  If you're in Arisona I'll follow you   GGAGECEGcBdF     ポップス

テネシー・ワルツのB面に入っていたのがこの歌で、ガイ・ミッチェルが歌っている。喧嘩をして去って行った恋人に、切々と、しかし、男らしく、もう一度チャンスを与えてくれ、と訴える歌であるが、流れるような美しいメロディーが好きで、レコードと一緒によく唄っていた。そう言えば、私は歌を聞くというより、一緒に唄っていることの方が比較にならないくらい多い。

4.モナ・リザ Mona Lisa

  Mona Lisa,Mona Lisa men have named you G^FAGG^FAGECA,G,  映画音楽

ナット・キング・コール特有のこのソフト・バラードを聞くと、六甲の県公舎に住んで居た頃、我が家の北隣に居られた若いご夫婦のことを思い出す。ご主人は京大出の、スマートな方だったが、この歌がお好きでクラブで唄われたことがあるそうだ。その話を母から伝え聞いて、非常に羨ましくなった。その奥さんは、東工大の教授のお嬢さんだと聞いていたが、イングリット・バーグマンに似た知的な美しい方で、私の秘かな憧れの人だった。

5.テネシー・ワルツ Tennessee Waltz

  I was waltzing with my darling     CDEGCDEG        C&W

この歌は、アメリカン・ポピュラーソングが我が国で広く受け入れられる契機となった曲、といえるのではないだろうか。たくさんの人が唄っているが、私の好みはジョー・スタッフォードだ。トランッペット・ボイスと言われた情熱的な唄い方が好きだった。クラシックや歌謡曲の唄い方と全く異質な、力まかせの、非女性的な唱法をはじめて聞いた時には、強烈な印象を受けた。こんな唄い方もあるのだなと思った。

この歌がきっかけになったのか、私はトランペット・ボイスの歌手が好きで、最近ではフランスのミレイユ・マチューに聞き惚れていた時期もある。クラシックでも、プラシド・ドミンゴよりもデル・モナコの方が好きだし、自分でも一番興に乗っている時は、このような唄いかたをしているのだろうと思う。

パティー・ページの歌い方は、甘く優しくまろやかで、それはそれで素晴らしいのだが、この曲の場合なぜかジョー・スタッフォードを選んでしまう。たしか、江利チエミがこの曲でデビューしたのだと思うが、その頃の私達は、カバー・バージョンなどには見向きもしなかった。ちょうどこの年から民放が始まり、三人娘が登場したが、美空ひばりなど聞くのも嫌だという気分だった。

もうひとつ「Waltz」はワルツではなく、「ウォース」と発音することを知ったのもこの時である。

6.ラ・ビ・アン・ローズ(バラ色の人生) La vie en Rose

  Hold me close and fold me fast   cBAGEcBz AGECBA     シャンソン

人は一生の間に、幾度か、世の中の全てのものがバラ色に見える経験を持つだろう、たとえそれが束の間の幻想であったとしても。その時の感情に最もふさわしい曲、それは「バラ色の人生」だと思う。エディット・ピアフの作詞作曲になるこの歌を、ピアフ自身が素晴らしく情熱的に唱っている。ピアフは、この曲をイブ・モンタンとの恋の真っ最中に作ったと聞くが、さもありなんと思える。ピアフのこの歌や、愛の讃歌のように真正面から愛を高らかに讚美する歌が、私は好きだ。

そしてこの曲は、私にとって、サッチモとの出会いの曲でもあった。サッチモが唱うこの曲を始めて聞いた時には、正直いってたまげてしまった。何という声の悪さ、何という変な唄いかたなのかと呆れたのである。これまで自分が抱いてきた歌というものから余りにもかけ離れていた。しかし、何回かレコードを聞いている内に、だんだんと彼の音楽に魅きつけられて行った。ピアフの歌はフランス語だから訳詞を見なければ意味が分らない。それに比べてサッチモの方は、簡単な英語だから、中学生の私にも充分理解できたし、唱うこともできたのである。

間奏で入るサッチモのトランペットが、歌に劣らぬ凄いもので、それまで、ハリージェームスのような甘い流れるようなムードの奏法に慣れていた耳には、新鮮で衝撃的だった。天にも届かんばかりの強烈な高音のエネルギーが、きらきら輝いている、といった感じだった。

7.マレキアーレ Marechiare

  Quanno sponta la luna a Marechiare    EEAABcBA^GAA  カンツォーネ

トスティー作曲のこのナポリ民謡を、スキーパが軽快に、流れるように、小気味よく歌うのに合わせて、私もよく唄った。歌詞は無茶苦茶だが、そのようなことはどうでも良かった。スキーパがリリック・テナーの第一人者と言われた人であることは後に知ったが、私がカンツォーネ好きなのは、このあたりから始まっているのかもしれない。

8.マリア・マリ Maria, Mari!

  Arapete, fenesta, famm'affacia Maria   cBA^GBA^GA  カンツォーネ

このナポリ民謡もジーリが歌うレコードで知った。「窓を開けて、顔を見せておくれ。お前に会うために、私は道に立っているのだよ」と言う解説文に載っている直訳の歌詞を、そのまま無理にメロディーに当てはめて一緒に唄うのだが、最後の部分だけは「オイ マリー オイ マリー Oj' Mari! Oj' Mari!」とイタリア語だった。この歌も、「オ・ソレ・ミオ」と同じカプアの作曲である。

9.ビギン・ザ・ビギン Begin The Beguine

  When they begin the Beguine   CDEGEDE     ラテン・ハワイアン

学校から帰ると、ビング・クロスビーが唄うこの歌を、レコードに合わせてよく唄った。当時のレコードはSP盤で、ピックアップに鉄の針をつけて音を拾い上げる方式であった。シャーシャーという針音が耳障りなのと、レコードが早く傷むので、竹針を使ってみたり、コンデンサーを間に入れて高音をカットしたり、いろいろ苦労した。

ほかにも「ナイト・アンド・デイ Night and Day」や「グッド・ナイト・スイートハート Good Night Sweetheart」、「テンプテイション Temptation」などを、ほれぼれしながら聞いては唄っていた。間に入る口笛がまた粋なもので、自分もよく真似をしたものである。少しアルコールが入って、気持よく梅田の地下街を歩いている時など、今でも思わず口笛を吹いてしまうが、考えてみると、この頃からの習慣のようだ。残響の大きい場所で吹く口笛は、気持の良いもので、ちょっとした自己陶酔に浸ることができる。

10.シューベルトのセレナーデ

  ひめやかに やみをぬう わがしらべ   EFEAEDEDADz EDDCB,C   洋楽歌曲

小学校の5年でラブレターを書き、6年でデートをしたというのに、中学に入ってからは、特定の人に恋心を抱くことが無かったのは、どういうことだったのか。その代わり、アメリカン・ポピュラーやシャンソンの他に、クラシックのセレナーデなどをよく聞き、唄いもした。外国映画に出てくる美しい女優にあこがれ、胸をときめかしていたように思う。

シラノ・ド・ベルジュラック」いう映画を、三宮の「三劇」という映画館で見た時のことである。シラノがロクサーヌ姫に、窓の下からセレナーデを捧げる場面がとても気に入り、何時の日か自分もあのように好きな女の人の窓辺で唄いたいものだと思った。そして、シューベルトのセレナーデを練習したのを覚えている。

レコードは、映画「未完成交響楽」の主題歌として、主演女優のマルタ・エガルトが歌うのをよく聞いていた。

11.浄きアイーダ Celeste Aida

  Celeste Aida,forma divina     GABcdgGABcdg      洋楽歌曲

この頃、オペラのアリア集のレコードを持っていて、その中の、ヴェルディーの「アイーダ」抜粋曲集をよく聞き、唄った。この「浄きアイーダ」は、昭和31年、イタリア歌劇がはじめて日本を訪れたとき、勇将「ラダメス」が奴隷となっている敵国の王女「アイーダ」を想って歌うのを、宝塚大劇場で息をのんで聞き惚れ、見惚れたことを思い出す。実際の歌劇を観るのは、これがはじめてだった。

これまでの好きな女の子は同じ学年だったが、中3になってからは、2学年下の中1の女の子に対象が変わった。その一人がO.Hさんで、シラノ・ド・ベルジュラックのヒロイン「ロクサーヌ」姫に何処か似ていたので、同じ名前をつけて心の恋人にした。

同時にもう一人、F.Tさんには、「ベアトリーチェ」と名付け、やはり密かな恋人にした。ダンテの永遠の恋人の名をもらったのである。といっても、彼女たちは自分の心の中の憧れの対象であり、それ以上の関係にはむしろなりたくなかった。今にして思うと、あれはファン心理に近いのものだったのだろう。身体が容赦なく大人になっていくのに悩み、精神的なものに逃避しようとしていたのかも知れない。

その頃の日記の中でF.Tさんを「浄きB」の符丁で書いている。この「淨き」という言葉は「淨きアイーダ」から知った言葉で、「神々しく美しい」と同義語に受けとっていた。

12.星は光りぬ E lucevan le stelle

  E lucevan le stelle     EEEEEEE              洋楽歌曲

このプッチーニのオペラ「トスカ」の「星は光りぬ」は、ジーリが歌うレコードで良く聞き、唄った。「淨きアイーダ」が男らしく堂々と愛を歌うのに対して、こちらは、愛する者を残して死ななければならない男の、切々たる思いが込められた歌である。今でも時々風呂場でこれを唄うことがあるが、自分が主人公になった気分になり、自己陶酔に陥ることができる。私はバリトンで、テナーのこれらの曲は楽譜通りには唄えないのだが、アカペラだから、好きな音程で唄っているというわけである。

13.乾杯の歌 Brindisi

  Libia mo libia mo ne lieti ca lici    GeGeeGee^degfe    洋楽歌曲

ヴェルディーのオペラ「椿姫」第1幕で、アルフレードが友よ、飲み明かそうよと唄う歌。この曲を、この年に音大を出て、鷹匠中学に音楽教師として赴任して来られた吉田久恵先生が、女学院の音楽科を出られた吉村多恵先生のピアノ伴奏で唄われるのを聞いて感動した。

14.夢路より(夢みる人) Beautiful Dreamer

  Beautiful dreamer,wake unto me    cBcGED^CDA     洋楽歌曲

フォスターが死ぬ数日前に書いた最後の作品と言われているが、彼の他のどの曲よりも美しい佳曲である。これも、乾杯の歌と同じ時に、吉田久恵先生が唄われ、心に響いた。

15.老兵は死なず Old Soldiers Never Die

  Old soldiers never die     ccBAGcE             洋楽 雑

      Old soldiers never die, they just fade away.
      Young soldiers wish they'd fade away.

マッカーサーが解任され、退官するときに引用した歌の文句である。彼は去るときまで格好をつけ、それがまことによく似合っていた。間もなく、このレコードが売り出され、何回となく聞いた。B面には「露営の歌 We're Tenting Tonight」が入っていて、これが軍歌と思えぬ、しんみりした平和を願う歌だったのには驚いた。

16.追憶

  ほしかげやさしく またたくみそら     AeeefeedcB       洋楽 雑

学校で習った歌というものは、なぜか余り唄いたくないものが多いが、短調の中で一時長調に替わり、また短調に戻るこのスペイン民謡は、多感だったその頃の気分にぴったりで、よく唄っていた。


1952 昭和27年 16歳 高校1年

この年、神戸高校に進学した。学校は摩耶山の直ぐ下にあり、大阪湾が一望できて、建物は英国の城を思わせる立派なもので、広い運動場に体育館とプールがあり、鷹匠中学とは雲泥の差だった。当時の高山校長は、情操教育が必要だと考えられ、1年生全員に音楽、美術、書道の3科目の履修を義務付けられていた。いろいろな面でいい環境だった。

しかし、ここでも入学早々先生に反抗して大目玉を貰う羽目になった。それは国語の時間である。山名邦夫先生が教科書の中に出てきた「素朴」の意味を私に問われた。それに対して「素朴は素朴です。こんなことは分りきったことで、説明するまでもないと思います」と答えてしまったのだ。新入生に、このようなことを言われて、先生はさぞ立腹されたことだろう。しかし、その時の私は謝ることをせず「こんなことを言ってしまったのだから、国語だけは誰にも負けない成績を必ずとってみせる」と心に決めるだけだった。 卒業25周年目の同窓会で先生にお会いした。そこで当時の非礼をお詫びしたが、先生はやはり覚えておられた。その先生も昭和61年に亡くなられた。

この年の冬に、阪急六甲駅の近くの生駒楽器店で、ギターを買った。本当はピアノかオルガンのような鍵盤楽器が欲しかったのだが、貧しい私の家では買ってもらえるわけもなく、小遣いを貯めてギターを手に入れた。シューベルトは、ピアノがないときにはギターで作曲をしたとか、ベルリオーズが「ギターは小さなオーケストラだ」と言っているとか、セゴビアのようなクラシックギターの名手がいるとか、いろいろ理由をつけてギターにのめり込んでいった。そしてピアノのバイエルに相当するカルカッシ教則本を我流で一応マスターした。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.山のけむり

  やまのけむりの ほーのぼのーと     EccBcBAADEFEABAE     歌謡曲

この年流行った歌謡曲の中で、思い出すのはこの歌くらいである。もともとは、NHKのラジオ歌謡だったが、ある会の席で坂本武君が唄った。その唄い振りが素晴らしかったので、惚れ込んでしまったという曲だ。彼は小柄な、男らしいサッカー部員で、低音のよく響く声でこの歌を唄った。胸にじーんとくるような歌だった。後になって、彼の奥様と家内が、回りまわって親戚になることを知った。

2.雪の降る町を

  ゆーきのふるまちを ゆーきのふるまちを  EEEAGFGEEEEFEAcB    邦楽歌曲

内村直也は、その頃「えり子とともに」というラジオ放送劇の人気番組の脚本をを書いていた。彼の詩に中田喜直が曲をつけ、NHKのラジオ歌謡で発表された。品の良い、心にしみる良い曲で、高 英男が唄った。

3.トゥー・ヤング Too Young

  They try to tell us we're too young     GcdeBGEA      ポップス

この曲を口ずさむ時、思い出すのは、高校に入学したばかりの頃の情景である。桜並木のトンネルを通り抜け、校門に入って来た時に、この曲が高いところから流れてきた。その頃、ナット・キング・コールの歌でヒットし始めていたこの曲を、ブラスバンドの誰かが吹いていたのだろう。クラリネットの甘味な音色が、たまらなく魅惑的だった。ナット・キング・コールの唱い方は粋で、新鮮で、ジャズ・ヴォーカルのすばらしさを満喫させてくれたが、それにもまして、この曲の歌詞が良かった。

「世間の人は、私達が愛し合うには若すぎる、愛などといっても、言葉だけのものだ。本当の意味など分かっていないんだと言う。しかし、私達の愛はいつまでも続き、いつの日か、世間の人も私達が若過ぎたのではなかったことを理解してくれるだろう」という歌詞にいたく共感し、感動をさえ覚えたのを思い出す。私も人並に、恋を夢見る年頃だったのだろう。

4.グッドナイト・スイ−トハ−ト Goodnight,Sweetheart

  Goodnight,Sweetheart all my pray'rs are for you EE^DE^DE^DEFE ポップス

ビング・クロスビーが甘い声で唄うこの曲を、よく聞いていた。歌の間に台詞が入り、口笛も続く。どちらもこれまで経験したことがなく新鮮で、夢中になって真似をしていた。歌はノン・ビブラートの方が好きだが、口笛はビブラートを効かした方が、よほど楽しく聞こえることをこの時に覚えたように思う。大人になってから、この曲はダンス・バンドのラスト・ナンバーであることを知った。

5.セプテンバー・ソング September Song

  But it's a long long while     CEBAAz CC_E_AGG     映画音楽

これもまた、メロディーの美しいバラードである。トゥー・ヤングとは反対に、「5月から12月までの時間は長いけれど、9月の声を聞くと(人生の秋になると)残された日々は少なくなる。だから、貴重な日々を貴方と一緒に過ごしたいのだ」という、現在の私の時代にふさわしい曲である。しかし、その頃は歌詞など分らず、「セプテンバー、ノヴェンバー」のメロディーところが好きで、ここの部分をうっとり聞いていた。教室では松本峯吉君がよく唄っていたのを思い出す。この曲は映画「旅愁」で使われて有名になったが、実際にこの映画を観たのは、最近購入したLDが最初である。

6.ドミノ Domino

  Domino, Domino you're an engel that Heaven has sent me EFEEFE シャンソン

ドミノ、貴方は天使であり、悪魔である」とビング・クロスビーが思いを込めて唄うのを聞くと、何とまあ、外人はオーバーだなと思いながらも、その気持が分るような気もした。この曲はドリス・デイも唄っているし、ペギー葉山はこの曲と火の接吻でデビューしたが、やはり男性が唄うべき曲だと思う。

7.ス・ワンダフル  'S Wonderful

  'S wonderful 'S marvelous      GGEGGE           映画音楽

ミュージカルの楽しさを、始めて教えてくれた忘れがたい映画、それは「巴里のアメリカ人」だった。ジーン・ケリーとレスリー・キャロンが主演するこの映画を、母と一緒に神戸元町のABCで見た。映画が始まると同時に、ショックと興奮で夢中になっていた。鮮やかな色彩、躍動、呆れるほど見事な踊りと歌、これがアメリカの映画というものだなと感嘆した。

恋が実りそうになって、嬉しくて嬉しくてたまらないという風情で、ジーン・ケリーが道を歩きながらこの歌を唄うのだが、それは驚きと同時に羨望でもあった。そして、嬉しい気持をストレートに表現することを、美しいと思った。

ほかの映画にも、これと似た場面のあったような気がして考えているうちに、それはミッチー・ゲイナーが砂浜で踊り唄う歌「ア・ワンダフル・ガイ」だと分った。ミュージカル「南太平洋」である。どちらも、恋の嬉しさをあけっぴろげに、身体全体で表現し、見るものに恋の素晴らしさ、生きるよろこびを教えてくれる。

この映画の少し前に、イギリスのバレー音楽映画「赤い靴」が封切られ、落ち着いた美しい色彩と主演モイラ・シャラーの素晴らしい踊りに誰もが魅せられてしまった。これに対して、「我にミュージカルあり」とアメリカが世界に問うた映画がこれだったと聞いている。そして、まさに勝負はあった。それはアメリカが一番輝いていた時代だった。

8.アンナ Anna

  Ya vieneel negrozumbon bailan do alegreel baion GGGAFGAz DFAcBAG カンツォーネ

イタリア映画「にがい米」の主題歌で、シルバーナ・マンガーノが主演し、画面の中でも彼女が唄っていた。この映画を見ながら、グラマーで官能的な彼女の姿態の虜にならないでいることは不可能だった。この映画も最近ビデオ・テープを入手することができた。

9.海に来たれ Vieni sul Mar

  Deh ti, desta fanciulla la luna     CDEAGECDEC     カンツォーネ

神戸高校では1年生全員に、音楽、美術、書道を必須科目としていたことは前に書いたが、音楽は柳歳一先生に教えていただいた。先生は上野音楽学校を出られたテナーで、このナポリ民謡を美しい声で、楽しく歌われるのを聞き、この歌を覚えた。この歌は神戸高校楽譜集にも載っていたが、訳詞は、今手元にある楽譜のものと違っている。

音楽にはもう一人、金健二先生が居られたが、この先生にはコールューブンゲンを習った。母の楽譜と一緒に見つかったこの本を見ると、赤線を引いているのが、C dur と G dur の比較だったりで、難しいことをやっていたのだなと思う。音階もドレミファではな、CDEF(ツェー デー エー)とドイツ流音名で歌わされ、戸惑った記憶がある。私はこれで音階を、戦時中のハニホヘ、戦後のイタリア流ドレミファ、ハーモニカで覚えた1234、そしてこのドイツ流CDEFと同じ音階を4通りで歌うことを習ったことになる。

  戦時中の唱歌<オウマ>は、次のようになる。

  |ホトトト|イトトト|イハハニ|ハイト |(戦時中)
  |ミソソソ|ラソソソ|ラドドレ|ドラソ |(戦後 イタリア流)
  |3555|6555|6112|165 |(ハーモニカ)
  |EGGG|AGGG|ACCD|CAG |(ドイツ流)

もちろん、この授業以外ではドレミファで唄い、数字譜もドレミファに読み替えて唄うが、このドイツ流音名は、大学に入って合唱を始めた時に、非常に役立った。

今、このコールューブンゲンを見ていて、数字譜がここに載っていることを知った。1875年に著わされた書物に既に書かれている。ハーモニカのために考案されたと思い込んでいたのが間違いだったのを知って嬉しくなった。

これを私が考案したメロディー略譜で記載してみると以下のようになる。

  |MSSS,LSSS,L^D^D^R,^DLS|(メロディ略譜)

10.遥かなるサンタ・ルチア Santa Lucia Luntana

  Partono'e bastimente pe' terre assai luntane EEEEDCCEEEFEGG カンツォーネ

代表的なナポリターナで、イタリアでは「サンタルチア」といえば、こちらを指すということだ。聴いて良し、唄って良しの、いかにもナポリ民謡という名曲だと思う。

11.魔王 Erlkoenig

  Wer reitet so spaet durch Nacht und Wind ?   EFEDEEFDA  洋楽歌曲

このたび出てきた母の楽譜の中には、この歌のピースも入っていた。その表紙の中央の高い位置に恐ろしい魔王がいて、その下には子供を抱きかかえるている父親が、髪を逆立てている。母の楽譜は、私の知っている頃からは、父の本箱の右の引き出しに入っていた。その中のこの楽譜だけは薄気味悪くて、幼い頃はすぐに隠すのだったが、さすがに、この頃になると、そのようなことはなかった。

父が買って来た、ゲルハルト・ヒュッシュが歌うこのレコードを聞いて、圧倒されてしまった。なんと迫力のある感動的な歌であろう、18歳のシューベルトが、ゲーテの詩を読み、一夜にしてこの曲を作ったと言う。天才とはこのような人のことを言うのだと思った。ヒュッシュの歌いかたも、感動以外の何物でもなかった。そして、私はいつもの通り、レコードに合わせて、ヒュッシュになりきった気分でこの歌を唄っていた。その時に使ったのが、この母の楽譜であり、堀内敬三の訳詞だった。「魔王」、セノオ音楽出版社、昭和3年3月15日5版発行(初版大正11年1月25日)、定価金30銭。

この曲がきっかけとなり、私はヒュッシュが歌うシューベルトの歌曲に魅せられることになり、これまでの人生で一番影響を受けた歌となる「冬の旅」に続くのだった。



1953 昭和28年 17歳 高校2年

朝鮮戦争が治まり、それとともに糸ヘン景気も終りを告げ、不景気な時代に入って行った。そして我が家でも母方の祖母からの経済的援助が突然なくなり、公務員の父の給料だけで生活していかなければならなくなった。この頃までは、かなり裕福に暮らしてきたのに、一転して貧しい生活を余儀なくされ、辛い目を経験した。

とりわけ嫌だったのは、弁当に麦めしを持って行かなければならないこと、授業料の納付期限が来ても払えないので学校の掲示板に滞納者として名前が張り出されることだった。しかし、ほどなく母は近所の人と頼母子講(たのもしこう)を作り、このようなお金の必要な時には、これを落して急場をしのぐ方法で、私の悩みを解決してくれた。授業料が期日通りに払えるようになった時の嬉しさ、ほっとした気持を今も覚えている。

 LPレコード

以前は進駐軍の兵隊が、中古レコード屋に、うすっぺらい封筒に薄い円盤を入れて売りにきているのを見て、あれが新しいレコードらしいと驚いていたが、この頃になって、漸くLP盤やドーナツ盤が一般に出回りはじめた。そこで、我が家の電蓄も改造してもらうことになった。今でも覚えているが、モーターはアカイ(その頃はまだ赤井だった)のフォノモータC5で、ピックアップは、理研のクリスタル型だった。このモーターは回転ムラがなく、78回転から45回転、33 1/3回転までカバーしているのに驚嘆した。それまでは78回転の早さでも幾らか回転ムラがあったのに、その半分以下のスピードでも安定している。つくづく、技術の進歩を感じたものだった。

ピックアップをレコード盤の溝に載せると、針音のまったくない澄み切った音色が、スピーカーから流れ出る。竹針を使ったりして、針音を少なくしようと苦労していたことが嘘のようだった。それに、演奏時間が比べものにならぬほど長くなり、例えば、ベートゥベンの第5で12インチのSP盤4枚必要なのに、LP盤では片面で収まるのだ。

間もなく、SP盤はリンゴ箱に詰めて押入の奥にしまいこまれ、その上、何かの機会にきれいさっぱり捨てられてしまう運命となった。その時のレコードに付いていた説明のしおりが、このたび、かなりたくさん見つかり、昔の貴重な資料となっている。自分が大切にしたものの記録をとりあえず残して置くという性癖は、このころから始まったようだ。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.ガイ・イズ・ア・ガイ

  うちのママがいいました     G,CCCDEECDB,G,          ポップス

この歌は、前の年にドリス・デイが唄って流行した。江利チエミもカバー・バージョンで唄っていたが、その頃の私の周りの者は「フン!」といった心境で、真面目に聞こうとはしていなかった。ところが、臨海学校のキャンプ・ファイヤーで、1年下の少し不良ぽい女の子がこれを唄うのを聞いて認識を改めた。「うちのママが言いました。男はみんな狼よ」で始まり「私だってアバンチュールを楽しみたい」で終るこの日本語の歌詞が、その女の子によく合っていて、可愛いいと思ったからである。

これ以来カマトトぶった女の子の歌も好きになり、それは何年か後で山本リンダの「困っちゃうな」や、奥村チヨの「ごめんねジロー」にまで続くことになった。

2.国境の南 South Of The Border

  South of the Border down Mexico way   G,CEGGAAFDC    ポップス

これも、同じキャンプ・ファイアで聞いて好きになった印象深い歌である。臨海学校は、淡路島の西海岸にある江井という浜で毎年行われ、カッターを漕いだり、泳いだりして1週間ばかり集団生活を送る。自由参加なので1年と2年が約20名づつ、全部で4〜50名位だったと思う。

2年生になって、理科は化学を選択したが、その化学を教えて下さった司馬一太郎先生が、この歌を唄われた。唄う前に「自分の妹が、シナトラのこの歌のレコードをよくかけているので、つい覚えてしまった」と弁解された。小柄で、少しはにかみ屋の先生が、思いがけずこのような粋な歌を唄われたので感動した。

「昔約束をすっぽかして去った男が、ある日メキシコに近い国境の南の地に戻ってみると、彼女は尼さんになっていた。教会の鐘は私にこの地を去ることを命じていた」という意味の歌で、大人になっていくにつれて、この歌の意味が少しづつ理解できるようになった。最後の「アイアイアイア−イ、アイアイアイア−イ」のところは、ちょうどその頃良く聞いていたシャンソンの「ボレロ」にも同じ「アイアイアイ」が出てくるので印象深く感じた。

3.愚かなり我が心 My Foolish Heart

  The night is like a lovely tune     GGCEGABA       映画音楽

高校2年のクラスで、成田藤昭君と親しくなった。彼はラジオやアンプを組み立てたり、触るのが好きで、工学研究会というサークルに属していた。私も昔からその方面が好きだったので、その会に入り、一層親しくなった。この歌は、彼に借りたドーナツ盤に入っていたが、ロマンチックな甘いムードが好きで、よく唄っていた。やさしい英語だったせいか、内容がどこか刺激的なためか、今でもほとんど歌詞を見ないで唄うことができる。

4.エタナリー Eternaly

 I'll be loving you eternaly     CDEDFEB,CD          映画音楽

チャプリンの映画ライムライトのテーマに歌詞をつけたもので、永遠に貴方を愛するという、何ともオーバーな歌である。チャプリン自作のメロディーは歌詞にふさわしく、流れるように美しい。この人の曲は「スマイル」もそうだが、とてもメロディーがきれいだ。「I'll be loving you eternaly」と私がつぶやいているのを聞いて、怪訝な顔をしていた父を思い出す。

このチャプリンと私は誕生日が同じ4月16日である。馬鹿みたいだが、それが誇らしく、嬉しい。

5.ジャンバラヤ Jambaraya

  Goodbye Joe,me gotta go me oh my oh   EGAEGAGEGD     C&W

ハンク・ウイリアムスの作詞作曲になるこの歌は、もちろんハンクのものも有名だが、ジョー・スタッフォードのデビュー曲でもあり、我が国では、こちらの方が良く知られているのではないかと思う。他に、ティーブ釜やつの唄いかたも味のある良いもので、これは民放の「素人ジャズ勝ち抜き歌合戦」で聞いたのだった。トルコ人のロイ・ジェームスという人が司会をしている番組で、ほとんど毎週聞いていた。

この歌の歌詞にも、差障りのある表現があるとか言われていて「Son of gun, we'll have big fun on the bayou」のところがそれらしいとまでは分ったが、それ以上のことは理解できないままだった。この曲からカントリー&ウエスタンにも惹かれ、とりわけ、ハンク・ウイリアムスの魅力を知ることになった。この年、彼は自動車事故で亡くなった。29歳だった。シューベルトも31歳で亡くなっている。夭折する人は、その時までに自分の全てを出し尽くしてしまっているのかも知れない。

6.カウライジャ Kaw-Liga

  Kaw-liga was a woode indian standig by the door GGGAGGEGGAG C&W

正しい発音は「コーライジャ」で、インデアンが戦う時に頭につける羽根飾りのことだが、この歌では煙草屋の店先に立てられている木彫りのインディアン人形の名前。ハンク・ウイリアムスの最後の歌となり、ハンクの死後、ミリオン・セラーとなった。

日本では小坂一也が唄ってヒットした。「...おお、カウライジャはかわいそう、甘いキッスも知らないで、一人さびしく立っている、カウライジャは木の人形...」。その小坂一也も97年に62歳で亡くなった。

7.ユー・アー・マイ・サンシャイン You Are My Sunshine

  You are may sunshine, my only sunshine    G,CDEEE^DECC  C&W

失恋の歌だが、曲調は意外と明るく、聞いていて楽しいムードがある。おそらく、世界中で最も親しまれていると思われるカントリー・ソングである。英語の歌をあまり知らない人でも、この歌を英語のカラオケで唄うことができることが多く、皆で一緒に唄ってムードを盛り上げる時に重宝する歌である。

8.マイ・オールド・ケンタキー・ホーム My Old Kentucky Home

  The sun shines bright in my old Kentucky home MMMD,RMFMFLS C&W

母がこの歌をよく唄っていた。また、黒人のソプラノ歌手マリアン・アンダーソンのレコードでもこの歌をよく聞いた。フォスターの曲の中で好きな歌の一つである。「weep nomore my lady,oh weep nomore today」のところでジーンと来るが、すぐ気を取り直し明るく唄うところが良い。

9.懐かしきヴァージニア Carry Me Back To Old Virginia

  Carry me back to old Virginia     EEFEDCA,G,C         C&W

フォスターの曲を思わせる歌だが、より繊細で情緒あふれる歌である。作曲したのはJ.A.ブランドという人で、ハーバード大学を出て、歌手兼作曲家として黒人霊歌風の歌も作ったそうだ。ヴァージニア州歌である。この歌もマリアン・アンダーソンのレコードでよく聞いていた。

10.峠の我が家 Home On The Range

  Oh, give me a home where the buffalo roam  G,G,CDECB,A,FFF  C&W

カウボーイ・ソングとしてあまりにも有名なこの歌は、カンサス州歌でもある。ビング・クロスビーのレコードで大ヒットした。この「Range」は「」と訳されてきたが、そうではなくて、「牧場」とか「放牧場」の意味であるらしい。そう言われてみると、その方がピッタリくる歌詞である。

11.ハイヌーン High Noon

  Do not forsake me, oh my darling     G,CDECFEDC      C&W

この歌は、この年公開された映画「真昼の決闘」の主題歌である。任期を終えた保安官が、結婚式を挙げ、花嫁と共に町を去ろうとしていた。そこへ、昔刑務所へ送り込んだ無法者達が、仕返しをするために町へやってくる、という知らせが届く。町の人々はかかわりを恐れて、誰一人彼に味方をしようとしない。多勢に無勢、花嫁は自分の親兄弟を一人残らず決闘で亡くしているので、逃げてくれと懇願する。しかし、彼は留まって闘うと言う。決闘の場に居合わせることに耐えられず、花嫁は汽車に乗り町を去って行く。その時の保安官の気持ちを唱ったのがこの曲なのだ。

いとしい人よ、私を見捨てないでくれ、ここに留まってくれ」で始まるこの曲は、運命から逃れることをせず、これに立ち向かって行こうとする自分の気持ちを述べ、自分は死を恐れはしないが、今こそ、お前が必要なのだ、お前がいなくては何もできないのだ、留まってくれと訴える。死を恐れない強い男が、伴侶を請い求めるところが印象的で、アメリカの勇者と日本のそれとの違いを、その時つくづく感じたものだった。

一旦町を離れた花嫁が、思い直してまた町へ戻り、夫に協力して無法者達を倒した後、新生活を求めて町を去るのだが、ここに夫婦愛の一つの典型を見たと思った。

保安官は、ゲイリー・クーパー、花嫁はグレイス・ケリー、そして画面にまことに似つかわしく、バスバリトンで唱っていたのはテックス・リッターだった。その後、フランキー・レインの歌の方がよく聞かれるようになったが、味のあるのはもちろん本家本元の方である。

C&Wの魅力を教えてくれたのが「ジャンバラヤ」であると書いたが、もう一つの曲が、これだったと覚えている。「タン トト タン トト タトタト タン トト」とバックで刻まれるリズムも新鮮だった。友人の南 正敏君は、このリズムが気にいって、ギターを始めたように記憶している。

12.愛の讃歌

  あなたのもえるてで     GFEEEGBdc            シャンソン

この頃シャンソンもよく聞いた。その中に「エトワール・ド・パリ」というシャンソン曲集のレコードがあり、ピアフの「愛の讃歌」も入っていた。

愛のうたの中で最高のもの、それは「愛の讃歌」であると私は思う。これほど愛を正面から堂々と、高らかに唱った曲を知らない。もちろんピアフが最高である。

訳詞によると、「たとえ空がこわれ大地が砕けることがあっても、貴方の愛があれば、そんなことは大したことではない。貴方が望むなら、世界の果てまでも行き、祖国も棄て、友とも別れ、盗みもする。どんなに笑われても、どんなことでもしてみせる。いつの日か、貴方がこの世を去ることがあっても、貴方の愛があれば、それも大したことではない、自分も同じ様に貴方の後を追って行くから。その時、大空の中で神が愛し合う二人を結びつけてくれるだろう」という大意のうたである。

この愛の讃歌は、我が国では岩谷時子の訳詞で、越路吹雪の唄ったものがよく知られている。この訳詞は、原詩よりも激しさがかなり抑えられてるが、それでも、日本人にはかなり過激かもしれない。

昭和42年の11月に私は田伏経子と結婚した。その披露宴の席で、弟の義にギター伴奏を頼み、妻のためにこの歌を唄った。フランス語は駄目なので、歌詞は岩谷時子の訳詞だった。新郎自身が花嫁のために唄うということは、当時考えられないことで、宴に出席された方々は驚き呆れられたようである。考えてみれば、白雪姫、シラノ・ド・ベルジュラックの頃から抱いてきた望みを、この時に果たしたといえるのかも知れない。

越路吹雪が亡くなる少し前に、彼女のリサイタルでこの曲を聞いたが、絢爛豪華で洗練されたおしゃれな愛の讃歌だった。それはそれで良いのだが、叩きつけるような情熱あふれるピアフの素朴な愛の讃歌とは、次元が違っていた。愛というものは、おしゃれでもなければ格好のいいものでもなく、なりふり構わぬ激しいものだと言うことをピアフは歌で示し、そのことが私達の心を打つのだと思う。

13.セ・シ・ボン C'est Si Bon

  C'est Si Bon Lovers say that in France  G^FFGABAGE    シャンソン

キャンプ・ファイヤーを囲んで歌い過ごす夜を始めて経験し、燃え上がる火の魔力に心を奪われてしまった。「ガイ・イズ・ア・ガイ」、「国境の南」のいずれも、その場で聞いた歌だったので、心に残っているのかも知れない。私は確かこの「セ・シ・ボン」を唄ったと思う。この歌は余りに煽情的なのでフランスでは放送禁止になったとか聞いたことがあるが、当時の私にはもう一つよく分らないまま、大人びたつもりで唄ったような気がする。

フランス語は皆目分らないので、サッチモの英語の歌詞で唄った。「恋におちた時フランスの恋人達は”セ・シ・ボン”と言う、それは”すごく素敵”という意味だ...」で始まる歌だった。

14.冬の旅 Winterreise

ゲルハルト・ヒッシュが唄う「冬の旅」ほど、高校時代の私が影響を受けたものはない。24曲のほとんど全曲をそらんじていた。ドイツ語は分らないので、レコードの説明書に対訳で付けられた大木敦夫氏と伊藤武雄氏の共訳の詩を、ヒュッシュのレコードに合わせて唄うのだった。この訳詞が非常に勝れていて、詩としての美しさだけでなく、唄うための効果が最高に考慮されていた。中でも以下の11曲は、今でも空んじて唄うことができる。

多感で悩み多い高校時代に、この「冬の旅」を聞き、唄うことでどれほど心が慰められ、明日への望みを取り戻すことができたか計りしれない、この歌があったから、高校時代を乗り切れたのではないかと思っている。その中でも好きな歌を書いてみる。

   2.風見の旗 Die Wetterfahne
     かざみのはたは きみが     EcBA^GABdcBAcd      洋楽歌曲

   3.凍ゆる涙 Gefror'ne Traenen
     なみだはこごえて     EEDCCB,CA,            洋楽歌曲

   5.菩提樹 Der Lindenbaum
     Am Brunnenn vor dem Tore  GGEEEECz CDEFEDC    洋楽歌曲

   7.川にありて Auf dem Flusse
     あかりて さやぎて     AABcdeez EABcde        洋楽歌曲

   9.鬼火 Irrlicht
     ふかきいわまに おにびはいざなふ  AAEEDEA,A,EEEEE^F^GA  洋楽歌曲

  11.春の夢 Fluehlingstraum
     ゆめみしは はるよ     GGAGeedcc          洋楽歌曲

  15.からす Die Kraehe
     われをねらいて いちわのからす   A^GAEGFEDFEDCB,A,   洋楽歌曲

  20.道しるべ Der Wegweiser
     いかなればわれは ひとめをさけて  A,B,CCCCCA,B,CDCB,A,B,  洋楽歌曲

  22.勇気 Mut
     ふりかかるゆき はらいすてむ       EABcBABE     洋楽歌曲

  23.幻の陽 Die Nebensonnen
     かがよう みつのひ     EEDDDEFE          洋楽歌曲

  24.老楽手 Der Leiermann
     かどにたてるおいらくの     AEABcAEA^GBE     洋楽歌曲

15.深い河 Deep River

  Deep River, my home is over Jordan  EDCDA,CCCcAGED   洋楽 雑

16.誰も私の悩みを分かってくれない Nobody knows my trouble I see

  Nobody knows my trouble I see     EG,A,CDEEEE     洋楽 雑

マリアン・アンダーソンの歌う黒人霊歌「誰も私の悩みを分ってくれない」と「深い河」をこの時期よく聞き、また唄った。苦しい時にこの歌がどれほど私を勇気づけ、明日に向かって生きていくエネルギーを与えてくれたことがあったか、数えられないほどである。今でも、たまに風呂の中でこの歌を唄うことがある。それは気が重くて、たまらなくなった時に多いような気がする。息子はこれが聴こえてくると、親父の奴、相当参っているようだと判断するらしい。

17.巴里の若者のうた

  おごそかのうたーをわれらはきく     CEFADGEDEDCz G,DEGFD  

当時の神戸高校の合唱部は、男子の人数が少ないので、文化祭などに出演する時に、何回かエキストラを頼まれ、色々な曲を唄った。その中では、この曲に強い印象が残っている。それは男声合唱の素晴らしさ、楽しさをこの時初めて経験したためであると思う。曲は津川主一の訳詞の四部合唱で、私はバリトンを唄った。柳先生が関学グリークラブの演奏を聞いて選ばれた曲だけあって、簡単そうでありながら、盛り上りのある、堂々とした本格的な男声合唱曲だった。


1954 昭和29年 18歳 高校3年

私は子供の頃から物を作るのが好きだった。そして将来はエンジニアになりたいと思い、大学は工学部に行く積りだった。ところが、高校2年の春に、両親から医学部に行くよう懇願され、病身の両親の頼みを拒みきれず、やむなく進路を変更した。高校3年になり、受験勉強を始めなくてはならないのだが、春の修学旅行が終わり、実力考査の成績が発表されるまでは、誰もがのんびり構えていた。

この頃の私が憧れていた女性は、神戸高校の近くに住んでいるインド人の少女で、年齢は中学生くらいだったと思う。浅黒く端正で、高貴な顔をしていた。恐らくその少女の影響だろう、将来インド人と結婚したいと本気で思っていた。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.城ケ島の雨

  あめは ふるふる     ECA,CA,CB,A,             邦楽歌曲

北原白秋の詩に曲をつけた梁田 貞は尺八の名手だったという。利休鼠とは、みどりがかったねずみ色のことらしい。この歌を同級生の小原君が文化祭で独唱するのを聴いて、良い歌だなと思った。リズムが少し難しく、我流で唄ってきた私には、伴奏が付くと、唄い難い曲である。

2.出船

  こよいでふねか おなごりおしや     EABccBAddefffe     邦楽歌曲

この詩を書いた勝田香月は、秋田県の能代港で見た粉雪舞う港の情景を思い出して、これを書いたと言う。演歌的な情緒たっぷりの歌曲である。唄いやすい曲で、つい思いを込めて唄ってしまうが、その後で気恥ずかしくなる。淡々と唄う方が味があるような気がする。

3.稗つき節

  にわのさんしょうのーきーーに     EGGGAcdededcd      邦楽 雑

九州への修学旅行のバスの中で、色んな歌が唄われ、この宮崎県民謡はその時始めて知った。これを知るまでは、心のどこかで民謡を軽んじていたのだが、この曲を聞いて民謡の良さが分り好きになった。担任の佐々木泰夫先生は日本史がご専門で、この民謡の他にも熊本県の「五木の子守唄」「おてもやん」「田原坂」、福岡県の「黒田節」など、九州地方の民謡の解説だけでなく、一緒にも唄って下さった。

4.ストレンジ・センセイション Strange Sensation

  Strange sensation     EdB^Gz EFE^DEEecA        ポップス

タンゴ「エルチョクロ」に歌詞をつけた曲が「キス・オブ・ファイア」としてヒットしたので、こんどは「ラ・クンパルシータ」に歌詞をつけて出てきたのがこの曲である。ジューン・ヴァリのデビュー曲で、澄みきった声量たっぷりの歌いぶりは清潔で、私には好感が持てた。しかし、残念ながらこの曲のほかはほとんどヒットしなかった。

5.プリテンド Pretend

  Pretend you're happy when you're blue     CEGcABGE   ポップス

モナ・リサ」、「トゥー・ヤング」に続く、ナット・キング・コールのこの歌は、変わらぬ魅力にあふれ、魔力といった方が正確だったと、今にして思う。ハーメルンの笛吹きの笛の音色に魅せられて、ついていった鼠の心境だった。何と人の心を魅きつける歌いかたなのか、本当にたまらないといった感じで聞いていた。

6.青いカナリア Blue canary

  Blue canary she feels so blue     EEAEz EDCDB,DB,     ポップス

ボタンとリボン」では軽快な歯切れのよい唄いぶりだったが、この曲ではダイナ・ショーは知的で清潔に唄っている。よく流行った。ものの本には、彼女が大学卒で教養が邪魔をして面白くなく、歌も下手だとか書かれたりしたが、私はその記事を読んでから、余計に彼女が好きになった。

7.ホワイトクリスマス White Christmas

  I'm dreaming of a White Christmas     EFE^DEF^FG    ポップス

ビング・クロスビーの歌がオリジナルだが、私はフランク・シナトラのレコードでこの曲を知った。自分で買ったシナトラの最初のレコードだった。クロスビーとは違って声に甘みが少ない分だけ、男性的で野性的だと感じた。クリスマスが近づくと、この曲とビゼーの「ノエル」を聞くのを楽しみにする年が何年も続いた。

この曲から一人の女性が連想される。医師になった昭和37年の暮れ、阪大病院の北1階看護婦詰め所でこの曲を口ずさんでいると、その部屋にいた看護婦のT.Sさんが、この歌詞をザラ紙に英語でサラサラと書いたのだった。九州の田舎から出てきた女の子が、こんなハイカラな歌を原語で知っていることに驚いた。それから30年ばかり過ぎて、当時の医師と看護婦の同窓会で彼女に会い、そのことを話すと「福岡は昔から都会よ」と彼女は答えた。

8.さびしい山猫 Lonsome Polecat

  I'm a lonesome polecat     GAGAGAGE           映画音楽

映画「略奪された7人の花嫁」の主題歌であるが、映画を見たのはずっと後になってからのこと。この頃に、ラジオ神戸が電話リクエストという番組を始めたが、若者の間で人気番組になったていた。他の民間放送は、これを真似て始めたのだったと思っている。自分の名前とメッセージが読み上げられ、電波に乗るというのは当時すごいことに思われた。

我が家には電話がなかったので、集会所の電話からこの曲をリクエストしてみた。電話を掛けてから自分の名前が読み上げられるのを固唾を飲んで待つ時間の長かったこと。ところが、実際に放送されてみると、そっけなくて、気が抜けたような虚しい気持になった。

略奪された7人の花嫁」という興味をそそる映画の題名もそうだが、「さびしい山猫」という歌の題名も魅力的だった。それ以上に歌が良かった。男声コーラスのメロディーが美しく、ポーズのとりかたが唐突で面白くて、ジャズ調のハーモニーが新鮮で好きだった。いままでのポピュラーで味わえなかったジャズコーラスの醍醐味を、この曲で知った。

9.愛の泉 Three Coins In The Fountain

  Three Coins in the Fountain     AGFEGDFFEDCDE     映画音楽

これは映画「愛の泉」主題歌であるが、私の頭のなかでは「ローマの休日」とこんがらがっている。というのは、この曲をよく聞いていた高3の夏休みのある日曜日に両親と弟がそろって「ローマの休日」を観に出かけたのだが、私は家に残され、勉強することを半ば強いられた。この曲がローマのトレビの泉を舞台としているので、長いあいだ「ローマの休日」の主題歌だと錯覚していた。

10.虹の彼方に Over The Rainbow

  Somewhere over the rainbow way up high   CcBGABcCAG  映画音楽

戦前の「オズの魔法使」という映画の主題歌で、ジュディー・ガーランドが唄っているSP盤でこの曲を聞いた。虹の彼方に思いをよせる子供っぽい夢を歌っているが、生意気盛りの高校生にも合わないことはなく、好んで聞き、また唄った。「Where trouble melt like lemon drops where above that the chymny tops」の早口のところが面白くて、真似をしたものだ。

11.チャタヌガ・チュ−・チュ− Chattanooga Choo Choo

  Pardon me boy is that the Chattanooga Choo ChooEF^FGz GABcdcEAG 映画音楽

これは映画「グレン・ミラー物語」の中に出てくる歌で、戦地に慰問に来た女性シンガーとバックコーラスが歌うこの曲を聞いて、ジャズコーラスの楽しさを知った。今でも、その時の画面が目に浮かぶ。

12.スマイル Smile

  Smile tho' your heart is aching  CDEDCB,A,B,CDCB,A,G,   映画音楽

36年の映画「モダン・タイムズ」のテーマ曲で、54年に歌詞がついて、トニー・ベネットのレコードがヒットした。N.K.コールも唄っているが、トニー・ベネットと違って、あまり崩さず、端正に唄っていて、コールの唄う方が好きだ。私は野村医院の職員に「顔だけではなく、言葉にも微笑み」を求めてきたが、その時よくこの歌のことを話した。微笑みはものごとを良い方に向かわせる不思議な力を持っている。これは経験則だが、科学的にも証明され始めている。

13.ジャニー・ギター Johnny Guitar

  Play the guitar ,play it again my Johnny  A,B,CEDEFGFFE  C&W

これは映画「大砂塵」の主題歌であるが、映画を見たのはこれもずっと後になってからのこと。ビクター・ヤングの曲も良いが、なんといっても、ペギー・リーの唄が絶品である。成熟した大人の女性の魅力が、絶えず洩れ出でてくる節まわしに、ぞっこん惚れ込んだ。それに歌詞も良かった。「あなたは冷たく見えるけれども、心の中は暖かいことを私は知っている」というところなど、私が理想としている男のイメージとオーバーラップして、じーんと胸にくるのだった。ちょうど、その頃の私は、ギターに熱中していた。だから、一層好ましく感じたのかもしれない。

この曲を聞いた状況をいろいろ思い出すことができるが、中でも医師になって間もなく、沖縄の那覇のある喫茶店で聞いたのが、真っ先にまぶたに浮かぶ。昭和37年の夏、沖縄は未だアメリカの占領下にあった。沖縄に行くにも帰るにもパスポートが必要で、検疫を受けねばならない時代だった。ジューク・ボックスからこの曲を選び、ひとりでこの曲を聞いていると、外国にいるムードにつつまれ、半ば夢心地だった。

14.帰らざる河 The River Of No Return

 There is a river called THE RIVER OF NO RETURN EEFGEDCDEDCA,A,G,  C&W

これは同名の映画の主題歌である。マリリン・モンローの唄っているレコードの他に、テネシー・アーニーのものもあり、私はこちらの方が好きで、そのレコードを買った。昔はジャズやポピュラーを嫌っていた母が、この頃には息子に洗脳されたのだろうか、この曲を英語で唄うまでに変わっていた。

15.茶色の小瓶 Little Brown Jug

  My wife and I all alone, in a little brown hut   GEGGGFAA   C&W

映画「グレン・ミラー物語」を観たのは神戸の聚楽館だった。初めて観るジャズに興奮し感激して夢中だった。サッチモやジーン・クルーパー、ライオネル・ハンプトンなども出演している。ストーリーも良かったし、妻を演じたジューン・アリスンが素敵だった。親しかった南 正敏君などは、「彼女のような女性と結婚したい」と言い出すほど熱を上げていた。

茶色の小瓶」はグレン・ミラーが妻と一緒に、かって共に学んだ大学に立ち寄った時に、グリークラブのコーラスの歌声で流れてきた歌だった。そして、主なきグレン・ミラー楽団が、パリからクリスマス放送をした際に、彼女のためにプレゼントした曲でもあった。このラストシーンには泣かされる。ほんとに良い映画だった。

映画公開に続いてレコードがEP盤で出た。友人の成田藤昭君が買ったのを、1カ月近く借りっぱなしで毎日聞き惚れていた。サントラ盤ではなかったので映画とは少し違うのだが、映画の興奮が醒めやらない時期に聞いたせいだろうか、この中に出てくる曲を聞くと同時に映画での情景が目に浮かぶ。

戦前から神戸の子供は「どこに行くの?」と尋ねられた時「ええとこ、ええとこ、しゅーらっかん」と答えるのが一番鼻の高い思いをする時だった。その聚楽館は神戸湊川の新開地にあり、映画館のほかにアイススケート場や娯楽施設が集まっていた。阪神大震災でもう残ってはいないだろう。

16.枯葉 Autumn Leaves

  The falling leaves drift by the window   ABcABcAcAB   シャンソン

この曲は、シャンソンとして、イブモンタンの歌などでもよく聞いたが、サッチモの唄う方がどちらかというと好きだった。英語の歌詞が分りやすいせいもあったのかもしれない。この歌で「miss」という言葉が「〜がいないのを寂しく思う」という意味もあることを知った。「But I miss you most of all, my darling」いい言葉だ。

17.バイア・コン・ディオス Vaya con Dios

  Now the hacienda's dark, the town is sleeping CDE^DE^DE^DEFED ラテン

レスポールとメリーフォードが、テープの多重録音のテクニックを駆使して作った曲だったが、当時は新鮮でインパクトに富んだものだった。しかも、テクニックに負けることなく、歌にハートがあり甘味だった。10年くらい経って2トラのオープンリールのテープコーダーを購入したとき、マルティプル・レコーディングを試みたことがあるが、頭の隅にこの曲があった。


1955 昭和30年 19歳 大学教養1年

この年の春、大阪大学医学部に入学した。教養学部は当時北校と南校に分れていて、私は石橋にある北校に通うことになった。大学に入ると、すぐ、北校男声合唱団、北校混成合唱団、阪大男声合唱団に入り、教養課程の2年間は、専らコーラスを中心の学生生活を送った。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.お富さん

  いきなくろべい みこしのまつに   G,CCCCCDz EGEDEDCC     歌謡曲

高校の卒業式に続いて、謝恩演奏をするためにブラスバンドがステージに集まり、校長は講堂の最前列に進み謹聴の姿勢で立たれた。会場は何を演奏するのだろうかという興味でシーンとしていた。と、その時、この曲の演奏が始まったのだ。スイング調で軽快に、しかし、まじめな顔で彼等は演奏した。高山校長はあたかもクラッシクの曲を鑑賞するがごとく、威儀を正して聞いておられた。ブラスバンドの連中の茶目っけも立派なら、それに堂々と応じられた校長も素晴らしいと感じたのは、私だけではあるまい。

私はこのタイプの歌は苦手だが、この歌にはこのような思い出がある。20年ばかり前に、この曲がディスコ調にアレンジされて、巷でよく聞こえていたが、条件反射的にこの光景を思い出していた。そういうわけで、この曲は高校生活の最後を記念する歌になった。しかし、私の高校3年生のイメージ曲はイタリア映画「高校3年」の主題曲「デリカード」である。バイオンのリズムに乗った軽快でさわやかな曲に、当時聞き惚れていた。

2.あなたと共に

  あなたとともに ゆきましよう     G,EDEFEDz CEA,B,G,     歌謡曲

この曲が流行ったのはその前の年のようだが、K.Jさんが何かの席でこの曲を唄ったのを聞いて覚えた。この頃になると、歌謡曲はほとんど聞こうとしていなかったが、「恋の甘さと切なさをはじめて教えてくれた人」のところでジーンときたのだ。そして恋に憧れる時代が終り、恋をすることができる青春に自分達は居るのだと実感した。

彼女は歯学部の学生で高校の同級生だった。医学部と歯学部は同じ講義を受けることが多く、また同じ混成合唱団に入っていたので、学校からの帰り道によく二人で歩いた。その当時女子学生は少なく、また男女がアベックで歩く姿は大学内ではほとんど見られなかったので、私達はかなり目立ったかもしれない。彼女に淡い恋心をいだいていた気もするが、それよりも同じ受験戦争を戦ってきた仲間という意識の方が強かったと思っている。

間もなく、私は一人の女性に心を奪われ夢中になった。彼女は文学部の学生でI.Yといい、同じ混成合唱団のプリマドンナ的な存在だった。その人の声は天使のものと思うほど美しく、肌は浅黒く、顔は知的で、私の好きなタイプだった。考えてみるとベアトリーチェと名付けたF.Tさん、インド人の少女にも共通する容姿だった。

3.山寺の和尚さん

  やまでらの おしょうさんは     EEDDEz EEDDE       Jポップス

服部良一は、私が生まれた翌年の1937年に、このようなハイカラな曲を作っている。スゴイ人だ。和製ジャズ・コーラスの最初の曲でリズム・ボーイズが唄ってヒットしたという。阪大北校男声合唱団でこの曲を唄って楽しんだことを思い出す。一人で唄っても何とも楽しい曲である。

4.秋のピエロ

  なきわらいして わがぴえろ     EEEEEEEEFEDEFEC      邦楽歌曲

大学の教養課程の2年間は、ほとんど授業に出ず、専ら合唱にのめり込んでいた。その頃の歌の中で、この「秋のピエロ」などを含む清水脩の男声合唱組曲「ピエロ」は、男声合唱の楽しさを教えてくれた最初の曲であった。

5.ブルームーン Blue Moon

  Blue moon, you saw me standing alone    GGFGAGGFGG  ポップス

恋人が欲しいと願いをかけ、それが叶って月を見るとブルームーンは金色に変わっていた。」という内容の歌だが、中学のクラス会でT.Yさんがこの曲を唄うのを聞いた。当時ラジオ神戸の専属歌手で、セミプロだったように覚えている。

彼女とは小学校も同じだったが、4年生でアメリカンスクールに転校し、中学2年で鷹匠中学に再び転校してきた。だから、英語の発音は抜群にうまいが、北海道と本州は陸続きだといったりして、一般常識がないのを面白がって、悪童どもがよくからかっていた。3年の時も同級だった。彼女はその後、俳優大村昆さんと結婚した。時々テレビで見ることがある。この間の衆議院選挙では自民党から出馬したのには驚いた。

6.ロック・アラウンド・ザ・クロック Rock around the Clock

  One, two, three o'clock, four o'clock rock   CCCCCCCCC   ポップス

映画「暴力教室」はまさに衝撃だった。この映画の中で、ビル・ヘイリー&コメッツがこの曲を唄い演奏しているのだが、最初は唖然とし、聞いている内に完全に乗せられていた。この映画を通じてロックを知ったのである。画面一杯に強烈なエレキギターが鳴り響き、これまで慣れ親しんできたクラシックやジャズとリズムが全く違うのに驚き、新鮮さを感じた。普通なら1拍3拍にアクセントがあるのに、このロックンロールは2拍と4拍にアクセントがあり、それも異常に強調して刻んでいく。

このリズムを身につけるために、それから何年かの間、2拍4拍にアクセントをつける練習をくりかえした。10年くらい過ぎて、何とか身体がついていくようになった気がする。息子にその話をすると「ぼくらはその方が自然で、1拍3拍にアクセントをつける方が難しい」と言う。

とにかく、この映画とこの曲がロックを広める出発点になり、プレスリーからビートルズへと続くことになるのである。最近よくハンク・ウイリアムスを聞いているが、その中にこの曲と非常に良く似た曲があるのを知った。そして、ますますハンク・ウイリアムスが好きになった。

7.夢見る頃を過ぎても When I grow too old to dream

  When I grow too old to dream     CDEFGEC        ポップス

映画「わが心に君深く」の中で、ホセ・ファーラーが老いたる妻にこの曲を弾き語るのだが、妙に心に残るシーンだった。ただ題名からは「夢見る頃を過ぎても貴方を愛し続ける」という内容を思わせるが、本当は「夢見る頃を過ぎた時にも貴方を思い出せるように、貴方の愛が私の心に生きているように、私たちはお別れをしよう」という別れの歌なのである。歌詞をよく読んでいなかったので、長い間永遠の愛を誓う歌だと思い込んでいたが、私にはよくある話である。

8.ラバー・カムバック・トゥー・ミー Lover Come Back To Me

  The sky was blue,and high above     CCDEz B,B,CD    ポップス

シグムンド・ロンバーグの名前を不朽にしたミュージカル「ザ・ニュームーン」の中のヒット・ナンバーで、53年ナット・キング・コールでリヴァイバル・ヒットした。また、ロンバーグの伝記映画「わが心に君深く」の中で、トニー・マーティンが甘い美声で、格調高く堂々と歌い上げていた。

この曲を唄うと、なぜか「帰れソレントへ」を思う。どちらも、去って行っってしまった恋人に、帰って来て欲しいと請い願う歌でありながら、おおらかで、女々しくない。

9.嘘は罪 It's a sin to tell a lie

 Be sure it's true when you say I love you  GGAEGA^DBAE   ポップス

この曲は楽譜で覚えて好きになったように思う。メロディーは単純だが歌詞が良い。人を恋することの喜びと苦しさを経験した頃にこの曲を知り、実感をこめてよく唄った。「変わらぬ愛を願い、もしもこの愛が壊れることがあれば、私は生きていない、だから私を愛するという時には、嘘をいわないで欲しい」という意味の内容だが、当時の私には身につまされる思いで唄っていた。

10.ユア・チーティン・ハート Your Cheatin' Heart

  Your cheatin' heart will make you weep   GcAGEGAGF    C&W

ハンク・ウイリアムスの曲の中で好きな歌は、先に書いた「ジャンバラヤ」、良く似た感じの「カウライジャ」、そしてこの「ユア・チーティン・ハート」である。この歌は浮気な女にたいする悲しく腹立たしい気持ちを歌っているが、悲壮感はなく、どこか諦めている感じがする。

11.セレナーデ Staendchen

  Warum bist du so ferne O mein Lieb!     EEEEEAG     洋楽歌曲

阪大男声合唱団は Maennerchor der Universitaet Osaka と称し、ドイツの合唱曲の演奏をその主目標に置いていたのでドイツの歌をよく歌った。その中でも、この Marshner 作曲の 「Staendchen」 はよく歌われた。「私の愛しい人よ 貴方はどうしてそんなに遠くにいるのですか!

この合唱団の竹村雅之君とは、時間があればデュエットをしていた。彼はテナー、私はバリトンである。ある時、梅田の阪急百貨店の1階エレベータの乗り口付近でこの歌を合わせていると、芦屋の奥様といった風に見える中年の上品な女性が立ち止まり、最後まで耳を傾け、ほめて下さった。その時の嬉しさを、今でも覚えていて、彼と話す事がある。

その竹村君であるが、私と同じ年に阪大の工学部に入学し、住友金属を経て現在その系列会社の社長をしている。その忙しい身体で、二人の先生に師事し(一人は大阪音大の教授)3月にはリサイタルをするという。昨年には、自分の会得したコツをまとめて「あなたもテナーになれる」という小冊子を出版した。

もう一人、その頃のコーラス仲間で、プロになった人の記事が読売新聞1996年12月23日で紹介された。木村悌士さんというその人は、阪大男声合唱団などの1年先輩で工学部を出て、現在大林道路専務・大阪支店長ということである。40歳を過ぎてから、プロのオペラ歌手になった、と書いてある。今はテナーのようだが、私の知っている頃は同じバリトンで、可愛がってもらった。写真に出ている奥様は私と同期に阪大の文学部に入学したO.Yさんのようだ。

この二人を見ていると、歌好きにもいろいろあることが分かる。彼らは自分の演奏技術を高め、人に聞いてもらう事に喜びを感じるようだ。私も歌好きには違いがないが、自分が気持ちがよいから歌うので、鼻歌が中心になり、他人様に聞いて欲しいと思うことはほとんどない。

自分にとって音楽は楽しむもので、一緒に唄う、ひとりで唄う、口笛を吹く、拍子を取る、唄いながら踊る、管弦楽曲なら指揮をする、というように自分が参加していないと気が済まない。だから、静かにただ鑑賞をするということは余りしない。



 昭和11年から20年までの10年間には、心に残る歌は非常に少なかったが、その次の10年間に入ると爆発的に増えている。数だけでなく、ジャンルも多岐にわたり、現在の原形はこの期間に出来上がったような感じがする。童謡、唱歌、流行歌、日本民謡、日本の歌曲、カンツォーネ、シャンソン、ドイツ歌曲、オペラ、ポピュラー、ジャズ、ロック、スピリチュアル、コーラス、本当に雑食動物さながらの種類である。

今振り返ってみると、音楽だけでなく、ものの見方、考え方、解決の仕方なども、ほとんどこの期間に身につけたような気がしてくる。

<1997.1.26.>

歌と思い出1、2、3」を書いてから3年以上経った2000年4月から、歌のまとめを再開した。それに先立ち歌のデータ・ベース1000曲を作り「歌と思い出」に取り上げる曲はこれに対応させた。歌に統一性を持たせるため、それ以前に書いた「歌と思い出1、2、3」についても、少し加筆修正を行い、これに対応させた。


<2001.1.3.>
<2008.5.5.>改訂


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