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現役最後のクラス会

2004.11.02. 掲載
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高校3年のクラス会が、恩師の病気で取り止めとなり、小学4年のクラス会が、私の現役最後のクラス会となった。何か理由をつけて、特別な記念の日とするのは私の習癖だが、3年続けて開かれるクラス会に、特別なことも思いつかなかった。ところが、実際は、その日に関連して、いろいろのことが重なり、まことの、特別記念日になってしまった。そのことを、記憶が薄れない間に記録しておくことにする。

●1時間40分の遅刻
幹事の磯部君から、クラス会の開催日について、都合の良い日の問い合わせがあり、10月23日はOKと返事しておいたが、案内が来てみると、午後0時から4時までとなっている。2時頃から始まるものとばかり思い込んでいたので、遅刻は仕方がない。診療を終えて即刻JRに飛び乗り、神戸の須磨にある「シーパル須磨」に到着した時には、会が始まって1時間40分が過ぎていた。

磯部君には、休診にして来てくれるだろうと思っていたと謝られたし、大方の人もそう思っていたようなので、「父の亡くなった時と弟の結婚式のほかは、開業して31年間、一度も休診をしたことがない」と釈明をした。それに対する反応は、驚きと呆れと同情だったように思う。

●駆けつけ3杯
遅刻したのが飲める人間の場合、駆けつけ3杯を強いられるのはよくあることだが、席に着くなり「これ全部野村君の分!」とビール中瓶6本がどんと目の前に置かれ、もう一度最初から乾杯となった。庄野先生はお飲みになれる体質だそうで、私に何度もビールを注いで下さる。ノムは酒豪だからと、焼酎の湯割りを持って来る者もいる。私は昼間から飲む習慣はないのだが、根がオッチョコチョイで、騒ぐのが好きな性質なので、ほとんど食べずに飲まされ続けてしまった。

●酒豪にされたわけ
私を酒豪だと言いふらしたのは、磯部君と山下哲ちゃんらしい。二人とは、今年の2月に一緒に飲んだことがあった。夕方の5時から飲み始めて12時近くまで、小学4年生のころの思い出、仕事のこと、結婚、子ども、そのほか消息が途絶えていた40年近い年月をお互いがどのように生きてきたか語り続け、飲み続けた。3人が同じくらい酒に強いことを知ったのはその時である。酒が肴となり話は弾むが、だれも乱れることはない。酒に強い体質に生まれた幸せを、お互いにありがたく思った。

48年前に仲良しだったクラスメート3人が、酒に強いこと以外にも共通点のあることが分かり愉快だった。それは磯部君が大手製薬メーカー、哲ちゃんが県立病院の事務職、私が医師というように、いずれも医療関係の職業に従事してきたことである。当時は、誰もそのような職業につくなど夢にも思わなかったのだから、人生は面白い。

●恩師との会話
私が遅れて行ったせいもあって、庄野先生とは第1回目のクラス会のときのように、長時間いろいろお話することができた。83歳になられるというのに、お顔にしわがほとんどなく、クラスメートの女性と区別がつかないくらいお若いのには、何時ものことながら驚嘆してしまう。

先月、ご主人の七回忌法要を済まし、ほっとされているようにお見受けした。そのことを申上げると、「夏ちゃんが死んで悲しくて涙が止まらない」と仰る。夏ちゃんというのは、第1回のクラス会で、先生のお家にお邪魔した時、縁側の外からガラス障子をガリガリ引っ掻いていた先生の愛犬のことである。この夏ちゃんと、ご主人亡きあとずっと一緒に暮らして来られたのだから、愛惜のお気持がひしひし伝わって来る。

亡くなる前の夏ちゃんは、病気のため往診で点滴をしてもらう状態だったそうだ。彼女は、先生がご自分の病気で病院に行かれている間を必死で生きて、先生のお顔を見るなり事切れた、と涙ぐんで話された。まだ9歳、死ぬには少し早すぎる。我が家の12歳の老犬は、ある夜断続的に悲しい泣声をあげていたが、翌朝、私が側に行くとすくっと立ち上がった。少し安心して朝食を終え、もう一度見に行ったら、冷たくなっていた。彼女は、私に最後の別れをするまで懸命に生きていたのだということが分かり、胸が痛み、涙がこぼれ。そのことをお話して、「愛犬の死はたまらないですね」と申上げた。

それに対して「今日、皆とこうやって会えたので、これからは元気が出てくると思う」と言われる。それからは、亡くなられたご主人が研究一筋の人で、博士号を取られたこと、唯一の趣味が魚釣りで、塩屋の海にもよく釣りに来られ、この地が気に入り、ここに家を建てられたことなどを問わず語りに話された。ご主人はアルコールに弱く、すぐ真っ赤な顔になられたそうだ。そう話される先生のお顔は、幸せそうだった。

●赤鬼青鬼は赤ノッポ青ノッポだった
第1回のクラス会で、庄野先生は当時山下哲ちゃんと私に「赤鬼青鬼」と言うあだ名をつけていたと話された。そして、この赤鬼と青鬼は鬼同士がとても仲がよく、いつも一緒に行動して、いたずらをくりかえしていたとも言われた。確かに私たち二人は仲良しで、いたずらや喧嘩をよくしていたのは覚えているが、鬼にされていたと知らなかった。

今回先生からこの「赤鬼青鬼」について、もう少し詳しい説明をいただいた。先生は「赤ノッポ青ノッポ」という絵本がお好きだったそうだが、その中に出てくる「赤ノッポ青ノッポ」という小学生の鬼たちに、私たちがとても良く似ていたらしい。そこで「赤ノッポ青ノッポ」から「赤鬼青鬼」というあだ名をつけられたということだった。また、赤鬼(赤ノッポ)は私、青鬼(青ノッポ)は哲ちゃんだということも教わった。

赤鬼青鬼と言われて、やっぱり昔から悪餓鬼だったのかと苦笑していたのだが、それが先生お気に入りの絵本のキャラクターだと知って、なんだか出世した気分になった。

●美智子様も愛読された絵本の主人公
翌日気になって「赤ノッポ青ノッポ」はどんな絵本かをWeb検索してみると、それは、かなり有名な絵本のようだった。1934年に東京・大阪朝日新聞に連載された絵物語がまとめられ、鈴木仁成堂から単行本として出版されたもので、童画作家武井武雄という人の作品である。(図1)


図1.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 表紙


あらすじは、桃太郎の121代目の今野桃太郎から、その昔桃太郎に征服された鬼が島の村長のところへ招待の手紙が届いたので、2匹の鬼が日本にやって来て、小学校に入学して、珍騒動をくり返す生活風景を、ユーモラスに描いている。物語は4コマ単位の積み重ねによって構成されている。(図2、図3)


図2.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 第1ページ



図3.赤ノッポ青ノッポ 鈴木仁成堂版 第3ページ


調べているうちに、この「赤ノッポ青ノッポ」は、美智子様も子どもの頃に愛読され、「鬼語」をマスターされていたことを知った。その部分の抜粋を載せておく。

皇后陛下第26回IBBYニューデリー大会(1998年)基調講演
子供の本を通しての平和−−子供時代の読書の思い出−−

私の読書力は、主に少年むきに書かれた剣豪ものや探偵小説、日本で当時ユーモア小説といわれていた、実に楽しく愉快な本の読書により得られたものです。漫画は、今と違い、種類が少なかったのですが、新しいものが出ると、待ちかねて読みました。今回とり上げた「少国民文庫」にも、武井武雄という人の描いた、赤ノッポ青ノッポという、二匹の鬼を主人公とする漫画がどの巻にも入っており、私はくり返しくり返しこれらを楽しみ、かなり乱暴な「鬼語」に熟達しました。

この中にある「少国民文庫」は私も子どもの頃愛読したのを思い出した。その中でも「唇に歌を持て」「パナマ運河物語」というストーリーは、今でも覚えている。「赤ノッポ青ノッポ」がそこにも載っていたようだが、こちらはよく覚えていない。その頃の私の好きな漫画は、「のらくろ」「タンク・タンクロー」「冒険ダンキチ」だった。

●「赤ノッポ青ノッポ」を入手
絶版と知ってあきらめかけていたところ、東京・大阪朝日新聞に掲載された切り抜きを元にして、「赤ノッポ青ノッポ」が、トムズボックスより発売されていることをWeb検索で知り、3冊購入した。1つは自分用、もう一つは哲ちゃん用、最後は庄野先生用のつもりだった。日曜日に申し込むと火曜日に郵送されてきた。これは絵本でなく白黒のペン画なので、先生の言われる絵本とは違うが、それは致し方ない。(図4)


図4.赤ノッポ青ノッポ トムズボックス版 第1ページの一部


私が入手した2日後の木曜日に、MNさんから郵便物が届いた。開けてみると、何とこの「赤ノッポ青ノッポ」が入っていて、入手したので下さるという。もう感激してしまった。MNさんもこの本を見たくなって、出版先を探し出し、同じ時に注文をしたのだろう。庄野先生にもお送りしたと書いてあったので、私が先生用にとっておいた分は、磯部君に差し上げることにした。

●初参加の二人
今回は二人のクラスメートが始めて出席した。その内のUさんは、小学5年生から明石へ転校して行ったので、57年振りの再会である。会に遅れて席に着くと、斜め前に座っている彼女の顔に昔の面影が残っていた。すぐさま「Uさん?」「野村君?」とお互いに名前を呼び合った。彼女は当時おませで姐御肌、いつもクラスを仕切っていたように覚えているのだが、磯部君や哲ちゃんの記憶も同じだった。

三つ子の魂百までとか、部屋の中にある簡易カラオケで誰かが唄いだすと、私を引っ張り出し、「矢切の渡し」の道行きの振り付けを手伝わせようとする。なす術を知らず、うろうろしている私を見て、周りは失笑苦笑。見かねた哲ちゃんが、代わってくれた。こちらは慣れたもの、様になっている。

もう一人の新人は山本博司君、彼とは中学までは一緒だったので、52年振りの再会である。遠く横浜からの参加だった。今は断酒会の会長をしているそうだ。アルコール依存症からの回復が、どれほど困難かということを、長年開業医として見て来ているので、彼の断酒に至るまでの苦しみをおもんぱかった。そして、自分も以前に一度だけ一月ばかりアルコールを断ったことがあり、ウーロン茶だけでも結構楽しく会話が弾み、宴会の雰囲気を壊すことがないのに驚いたことを話した。

●横を向いていた
57年前の私のことで面白いことを聞いた。クラス会常連の馬場君が「野村君はいつも横を向いていた」というのだ。「だから、記念写真でも横を向いているやろ」と言う。言われてみるとその通りで、横を向いているのは私一人だけ。その頃からあまり先生の話も聞かず、好きなことを考えていたのかもしれない。馬場君はといえば、「僕はいつもキョロキョロしていた」と言う。そう言われるとそうだった気がしてくるから面白い。

●歌の思い出
第1回目のクラス会では全員で斉唱をしたが、前回はそれがなかった。今回は部屋に簡易カラオケがあり、全員で「おぼろ月夜」を2部合唱で唄った。そのあとで、皆からのリクエストをもらって、「椰子の実」を唄うことになったが、カラオケにこの曲が入っていない。私はカラオケを余り好まないので、喜んでアカペラで唄った。あの頃は昼休みになると庄野先生に命じられて、よく歌を唄ったが、この曲もその一つだ。歌詞もだいたい覚えていて、なんとか唄うことができた。

●母のお気に入り
SKさんの顔を見ると、即座に母と縁側で話していた情景が目に浮かぶ。そのことを第1回のクラス会のところでも書いた。今回、なぜ彼女が私の家にいたのか、それはいつ頃のことだったのかを、彼女の口から聞き出すことができた。

彼女の家は高羽小学校の近くで、我が家からかなり離れていた。私は女の子を家に誘った記憶がないので、どうして彼女が?と思ってきたが、彼女から私の母を訪ねてくれていたのだった。小学5〜6年の頃、PTAの集いで母が「からたちの花」を独唱するのを聞いてファンになった彼女は、それから何度も我が家を訪ねて、母とおしゃべりをするようになったそうだ。そいうわけで、私が家に帰ると、二人が楽しげに話しているのを目にしたのだろう。

母は彼女に、私のお嫁さんになってくれたら良いのにと話したそうだ。妹の順を麻疹で失くし、そのショックでで肺結核になり、回復したばかりだった母は、優しく話しを聞いてくれるSKさんが、亡き妹のように思えて可愛いかったのだろう。今回のクラス会で、他にもそれと似た話も耳にしたが、どちらも心に残っている。

●いじめられたのではない
私は弱いものいじめが生理的に嫌いなのだが、この庄野学級の頃に一人の女の子をいじめたのではないかという気がしていた。いじめとまでは行かなくても、何か悪いことをしたという気持が、心のどこかに潜んでいた。その対象がKさんだった。2回目の庄野学級クラス会に、彼女が始めて出席して顔を合わせたとき、「昔いじめたかなぁ?」と尋ねると「いじめられました」と笑いながら答える。やっぱり〜!と思って謝った。

今回のクラス会で、彼女は「いじめられたのではなくて、からかわれただけなので気にしないで」と言ってくれた。強い者とは喧嘩をしてきたが、自分より弱いものをいじめるのは、「男の沽券に関わる、男がすたる」と子どもの頃から思ってきた。それなのに、女の子をいじめたかもしれないと思うのは嫌だった。それを救ってくれたKさんに感謝している。

彼女は他所から転校してきて、1年間私の隣の席だったと言う。そこで、本やノートに落書きをしたり、いたずらをしたのだろう。時には悪ふざけが過ぎた場合もあったのではないかと、懸念している。

●パソコンの弟子の著作贈呈
クラス会がお開きになり、希望者はカラオケルームに移動する段になって、クラスメートに紹介しようと持参してきた1冊の本を紙袋に入れたまま座敷の片隅に置いているのに気がついた。しかし、もう全員には紹介する時間がない。仕方なくカラオケルームにいる人にだけに紹介をした。

「私がパソコンを教えた中で、一番優秀な弟子が”きらめく宝石箱”という素晴らしい本を出版しました。昨日もらったばかりのほやほややです。読んでみたい人に差し上げます」と言うと、真っ先に手を挙げたのがKさんだった。これで昔のいたずらのお詫びが少しはできると思って、喜んで謹呈した。

それから4日後の朝、メールチェックをすると、彼女からの読後感想メールが届いていた。現在68歳、2ヶ月前にパソコンを始めたそうだが、とうてい、そんな風には見えない立派なメールなので感心してしまった。そして、良い人に謹呈できたと思い、著者にも知らせたら大変喜んでくれた。

●新潟中越大地震
クラス会当日は、帰宅するなり眠ってしまった。翌朝目を醒ますと、TVも新聞も新潟中越地震のニュースで埋まっている。午後5時56分、何も知らずに歌い騒いでいた時に、この災害が起きていたのだった。「きらめく宝石箱」の著者のご実家は新潟なので、メールでお尋ねしたら、下越のため被害は全くなかったとのことで安心した。

最初は3回目のクラス会だから、書き留めておくほどのことはないだろうと思っていた。ところが、これほどたくさんのことを短い時間で経験できて、今回もまた、これまでと変わらぬ実り多いクラス会だった。


<2004.11.2.>

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