在原業平 ありわらのなりひら 天長二〜元慶四(825-880) 通称:在五中将

※改修工事中 未校正

平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。系図
阿保親王が左遷先の大宰府から帰京した翌年の天長二年(835)に生れる。同三年(826)、兄たちは臣籍に下り、在原姓を賜わる。仁明天皇の承和八年(841)、右近衛将監となる。同十二年、左近衛将監。同十四年(847)頃、蔵人となる。嘉祥二年(849)、従五位下に叙される。しかし仁明天皇が崩じ、文徳天皇代になると昇進は停まり、以後十三年間にわたり叙位に与らなかった。清和天皇の貞観四年(862)、ようやく従五位上に進み、以後、左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭・右近衛権中将などを経て、元慶三年(879)頃、蔵人頭の重職に就任する(背後には二条后藤原高子(たかいこ)の引き立てがあったと推測される)が、翌年五月二十八日、卒去した。五十六歳。最終官位は従四位上。
文徳天皇の皇子惟喬親王に仕える。同親王や、高子のサロンで詠んだ歌がある。また貞観十七年(875)、藤原基経の四十賀に歌を奉った。
『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。ことに高子や伊勢斎宮との恋を描く段、東下りの段などは名高い。家集『在原業平集』(『在中将集』)があり、これは古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平関係の歌を抜き出して編集したものと考えられている(成立は西暦11世紀初め頃か)。六歌仙三十六歌仙。古今集の三十首を始め勅撰入集は八十六首。

勅撰集より四十八首、『業平集』より一首、『定家八代抄』より一首、計五十首を選び出した。歌本文は新編国歌大観に拠り、表記もなるべく底本に従うようにしたが、読みやすさを考慮して仮名を漢字に改めた場合がある(特に詞書についてはその例が多い)。

  5首  3首  7首  18首  17首 計50首

なぎさの院にて桜を見てよめる

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今53)

【通釈】この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。

【補記】「なぎさの院」は、いまの大阪府枚方市辺りにあった惟喬親王の別荘。遊猟地であった交野(かたの)に近い。伊勢物語八十二段には、業平が交野で狩のお供をした際、「狩はねむごろにもせで、酒をのみのみつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり」とあって、桜の木の下での酒宴で詠まれた歌となっている。うららかな春という季節――しかし、「春の心」は決してのどかではあり得ない。散り急ぐ桜の花に、心は常に急かされるから。桜など、いっそなければ…。歓楽に耽る中、<いまこの時>の過ぎ去る悲しみが、人々の胸を締めつける。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、金玉集、和漢朗詠集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、九品和歌、古来風躰抄

【主な派生歌】
春の心のどけしとても何かせむ絶えて桜のなき世なりせば(慈円[風雅])
いかならむたえて桜の世なりともあけぼのかすむ春の心は(藤原定家)
山里にたえて桜のなくはこそ花にみやこの春もしのばめ(藤原経高[新葉])
あくがれて花をやみましこの里にたえて桜のなきよなりせば(飛鳥井雅有)
よの中に絶えて春風なくもあれなふかでも花の香は匂ひけり(三条西実隆)
春といへどのどかならずも物ぞ思ふ絶えて桜のなきよなりとも(松永貞徳)

さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける   よみ人しらず

あだなりと名にこそ立てれ桜花年に稀なる人も待ちけり

【通釈】桜の花は散りやすく不実だと評判こそ立っていますが、一年でも稀にしか来ない人を、散らずに待っていました。

【他出】業平集、伊勢物語、和歌色葉、定家八代抄、八雲御抄、悦目抄

【主な派生歌】
我ならぬ人も待ちけりほととぎす年にまれなる初音とおもへば(後二条院)

返し

今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや(古今63)

【通釈】たしかに、私が待たせたおかげで、桜は今日まで散らずに永らえてくれましたね。もし今日私が訪ねて来なかったら、明日あたりはもう怺えきれず、雪となって降ってしまったでしょう。もっとも、雪でないから消えはしませんが、だとしても、散ってしまったのを人は花と見るでしょうか。

【補記】久しく訪れなかった人の家へ、桜の盛りの季節、業平が訪れた。そこで、家の人が「毎年咲く花の方が、年に一度も来てくれるかどうか分からないあなたより、ずっと誠意がありますね」と皮肉ったのである。業平も負けてはいない。「今日は覚えていてくれても、明日になれば私のことなど忘れて、別の男へ心を移してしまうだろう。"あだ"なのは貴方のほうだ」と切り返したのである。古今集では春の部に載せるが、恋人との贈答と見たい。伊勢物語十七段にほぼ同じ形で載っている。

【他出】業平集、古今和歌六帖、伊勢物語、和歌色葉、定家八代抄、八雲御抄、悦目抄

【主な派生歌】
明日もなほ消えずはありとも桜花ふりだにそはむ庭の雪かは(藤原家隆)
今日来ずは庭にや春ののこらまし梢うつろふ花の下風(藤原定家)
今日来ずは庭にやあとのいとはれむとへかし人の花のさかりを(藤原良経[続古今])
けふだにも庭をさかりとうつる花きえずはありとも雪かともみよ(後鳥羽院[新古今])
けふこずは明日ともまたじ桜花いたづらにのみちらばちらなむ(西園寺公経[新千載])

題しらず

花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし(新古105)

【通釈】桜の花を眺めれば、いくら見ても見飽きず、長い溜息をつく――そんな経験は春ごとにして来たけれども、今宵ほどその嘆息を深くした時はない。

【補記】新古今集の排列からすると、落花を惜しむ歌になる。心ゆくまで賞美しないうちに散ってしまう桜への「なげき(長嘆息)」である。ところが出典の伊勢物語二十九段を見ると、「むかし、春宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに」と作歌事情を説明している。二条后を暗示しているとしか思えない「春宮の女御の御方」が催した花の賀宴に臨席しての作ということになる。この場合、単に花の散るのを歎いている歌ではなくなり、「あかぬなげき」には、賀宴が終わることへの哀惜と、女主人への限りない讃美が籠められることになる。二条后との後日譚を匂わせるような章段である。

【他出】伊勢物語、俊成三十六人歌合、定家八代抄、時代不同歌合

【主な派生詩歌】
かざしをる花の色香にうつろひて今日の今宵にあかぬもろ人(藤原定家)
花にあかぬなげきばかりに年をへし昔に猶や袖はぬれけむ(後鳥羽院)
花にあかぬ嘆きや我(われ)が歌袋(芭蕉)

弥生の(つごもり)の日、雨のふりけるに、藤の花を折りて人につかはしける

ぬれつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば(古今133)

【通釈】雨に、そして涙に濡れながら、敢えて花を折ってしまいました。今年の春も、もう幾日も残っていまいと思いましたので。

【補記】春の終りの三月晦日、藤の花を折って人に贈った時の歌。夏にかけて咲き続ける花を、逝く春への惜別の志として、強いて折った、と言う。惜春の情ばかりでなく、花を贈った相手への思いの強さも伝わってくるところが良い。伊勢物語第八十段では「昔、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり」の前置きを付し、寓意を籠めているようだが、もと歌の与かり知らぬところであろう。

【他出】業平集、伊勢物語、古来風躰抄、定家八代抄、井蛙抄

【主な派生歌】
今日のみとしひても折らじ藤の花さきかかる夏の色ならぬかは(藤原定家)
しひて猶袖ぬらせとや藤の花春はいくかの雨にさくらむ(藤原定家[続拾遺])
春よりも花はいくかもなきものをしひてもをしめ鶯のこゑ(*順徳院[新後撰])
ぬれつつぞしひてやをらむ田子の浦の底さへにほふ春の藤波(〃)
さきにけり濡れつつをりし藤の花幾日もあらぬ春をしらせて(宗尊親王[続古今])
いざけふはぬるともをらむ藤浪の下葉の松にかかる春雨(尭恵)
ぬれつつもなほ狩りゆかむ桜花春もいくかの夕ぐれの雨(太田道灌)
また見むと思はぬ花のかげならばしひて手折らむけふの夕べを(*下冷泉政為)
冬はけふいくかもあらぬ雪のうちにしひて折りつる峰のゆづるは(下河辺長流)

題しらず

惜しめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな(定家八代抄)

【通釈】惜しんでも時を留めることは出来ず、春の最後の今日という一日の、夕暮にさえなってしまったのだなあ。

【補記】後撰集巻三に「よみ人しらず」の歌として載る(第三句は「けふの又」)が、定家は伊勢物語に拠って『定家八代抄』に業平作として採っている。同物語九十一段に「むかし、月日のゆくをさへ歎く男、やよひのつごもりがたに」。春の最後の日も夕暮になってしまった、と歎いただけの単純極まりない内容だが、長嘆息さながら句切れなしに詠み下した調べは、行く春を惜しんでも惜しみきれぬ心情にふさわしい。式子内親王の名作に本歌取りされたことも、この歌を忘れがたい一首としている。

【他出】後撰集、伊勢物語、新撰朗詠集、秀歌大躰

【主な派生歌】
ながむれば思ひやるべき方ぞなき春の限りの夕暮の空(*式子内親王[千載])
今ひと日あらましかばと思ふにも春のかぎりの雨ぞかなしき(藤原為家)
しらざりき春の限の夕暮を尾上の鐘にしたふべしとは(正徹)

題しらず

ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ(後撰252)

【通釈】飛んでゆく蛍よ、雲の上まで行ってしまうのなら、「もう秋風が吹いている、早くおいで」と、雁に告げておくれ。

【補記】伊勢物語四十五段では、「昔男」に片思いし続けた挙句死んでしまった娘を憐れみ、その魂が戻って来ることを願って男が詠んだ歌になっている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、六百番陳状、六華集

【主な派生歌】
うたがひし心の秋の風たたば蛍とびかふ空につげこせ(藤原定家)
とぶ蛍かりにつげこせ夕まぐれ秋風ちかし芦の屋の里(藤原為家)

人の前栽(せんざい)に、菊にむすびつけてうゑける歌

植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(古今268)

【通釈】こうしてしっかり植えておけば、秋のない年などないのですから、咲くに決まっています。咲けば花は散りますが、根までも枯れることはないでしょう。

【補記】知人の庭の植込みに菊を植え、その花に結びつけた歌。菊は長寿の薬効を持つ霊草とされた。「この菊が毎秋咲き続ける限り、あなたへの深い思いも枯れることはありません」と、息災を祈る誠心を伝えた歌である。「秋なき時」という意表をつく非現実の仮定、上句から下句への大胆な知的飛躍(貫之に言わせれば「心あまりて詞たらず」の一因)など、業平の特色がよくあらわれた作。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、大和物語、和歌一字抄、和歌童蒙抄、袋草紙、定家八代抄

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは(古今294)

【通釈】神々の霊威で不可思議なことがいくらも起こった大昔にも、こんなことがあったとは聞いていない。龍田川の水を美しい紅色に括り染めするとは。

【語釈】◇ちはやぶる 「神」にかかる枕詞。「勢いはげしい」ほどの意が響く。万葉集では「千磐破」の字が宛てられている例があり、千の岩も破る意で解されていたか。後世、「千早振」などの宛字が多く見られるようになる。◇神世 神々が地上世界を跋扈(ばっこ)し、摩訶不思議な現象が日常的に発生していたと考えられていた時代。「神世もきかず」は、「神代の昔語りにも聞いた覚えがない」ということであり、この魅惑的な情景に対する驚嘆を強調しているのである。◇龍田河 生駒山地東側を南流し、大和川に合流する川。万葉集にも詠まれているが、紅葉の名所となったのは古今集以後のようである。◇唐紅(からくれなゐ) 美しい深紅色。もともとは「大陸渡来の紅」の意。◇水くくる 水を括(くく)り染めにする。括り染めとは、布を所々糸でくくり、まだら模様に色を染め出す染色法。古くは「水くぐる」と解した例も多く、たとえば定家編著『顕註密勘抄』では「水くぐるとは、紅の木のはを水のくぐりてながると云歟」と顕昭の説が踏襲されている。その場合、「川一面を覆い尽くした紅葉の下を水が潜り流れる」意になる。

【補記】二条の后(藤原高子)が「春宮の御息所」と呼ばれていた頃、業平が召されて作った屏風歌。紅葉が流れる龍田河を絞り染めの織物になぞらえた上で、山川に宿る神が水を染色したと見ている。「ぬきみだる人こそあるらし」「山の端にげて入れずもあらなむ」などに通じるような奇想で、これも業平の才の一面だが、華麗さでは作者随一の作だろう。伊勢物語百六段には「むかし、男、親王たちの逍遥し給ふ所にまうでて、龍田河のほとりにて」として見える。

【他出】業平集、伊勢物語、古来風躰抄、定家八代抄、詠歌大概、百人一首

【主な派生歌】
あやなしや恋すてふ名は立田河袖をぞくくる紅の波(藤原俊成)
神無月みむろの山の山颪にくれなゐくくる龍田川かな(式子内親王)
立田山神代も秋の木のまより紅くくる月やいでけむ(藤原家隆)
霞たつ峰の桜の朝ぼらけくれなゐくくる天の川波(藤原定家[新拾遺])
龍田姫てぞめの露の紅に神世もきかぬ峯の色かな(藤原定家)
立田河いはねのつつじかげ見えてなほ水くくる春のくれなゐ(〃)
龍田川神代も聞かでふりにけり唐紅の瀬々のうき浪(〃)
夕暮は山かげすずし竜田川みどりの影をくくる白浪(〃)
春の池のみぎはの梅のさきしより紅くくるさざ波ぞたつ(藤原良経)
これも又神代は聞かず龍田河月のこほりに水くぐるとは(〃[新拾遺])
秋はけふくれなゐくくる龍田河ゆくせの波も色かはるらむ(*飛鳥井雅経[新勅撰])
秋はけふくれなゐくくる龍田川神代もしらずすぐる月かは(後鳥羽院)
立田河くれなゐくくる秋の水色もながれも袖の外かは(藤原道家[新後撰])
木の葉のみ散りしく頃の山河にくれなゐくぐる鳰の通ひ路(*飛鳥井雅世[新続古今])

あづまの方へ友とする人ひとりふたり(いざな)ひていきけり。三河の国、八橋(やつはし)といふ所にいたれりけるに、その河のほとりに杜若(かきつばた)いとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ(いつ)文字を句の(かしら)にすゑて旅の心をよまむとてよめる

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ(古今410)

【通釈】衣を長く着ていると褄(つま)が熟(な)れてしまうが――そんなふうに馴れ親しんで来た妻が都にいるので、遥々とやって来たこの旅をしみじみと哀れに思うことである。

【語釈】◇八橋 愛知県知立(ちりゅう)市に八橋の名のつく町がある。「数多くの橋」を意味するその名からも、杜若が生えていたことからも、沼沢地であったことが推量される。◇唐衣(からころも) 衣服を意味する歌語。◇きつつなれにし 何度も着てヨレヨレになってしまった。「なれ」には「馴れ」の意を掛け、永年親しんできた(妻)、と次句へ繋がる。すなわち「唐衣きつつ」までが「なれにし」を導く序となっている。◇つま 襟先や裾先を意味する「褄(つま)」に、連れ合いを意味する「嬬(つま)」を掛ける。◇はるばるきぬる 遥々とやって来た。「はる」は「張る」と、「き」は「着」と掛詞になり、共に「衣」の縁語。

【補記】「かきつはた」の五文字を各句の初めに置いて詠んだ、折句(おりく)歌。らころもつつなれにしましあればるばるきぬるびをしぞおもふ

【補記】伊勢物語の名高い「東下り」の段(第九段)では「むかし、男ありけり」の例の出だしの後に、「その男、身を要なきものに思ひなして」云々とあり、不遇の人業平のイメージで物語を枠取るとともに、旅先の情景描写にも念を入れ、あわれ深い貴種流離譚に仕上げている。古今集の詞書ははるかに素っ気ないが、歌を歌として味わうのにこれで不足はない。縁語をつらねた折句歌という極めて巧緻な作でありながら、旅情が漲っている。伊勢物語のもととなった原資料(原業平集と呼ぶべきか、原伊勢物語と呼ぶべきか)に既にあったと思われる一章である。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、和歌童蒙抄、定家八代抄、八雲御抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
武蔵野やひとり思ひにむせぶかなきつつなれにしつまもこもらで(藤原有家)
から衣きつつなれにし跡ふりてけふぞみかはの沼の八橋(後鳥羽院)
天の原日も夕しほのから衣はるばるきぬる浦の松かぜ(藤原道家[続拾遺])
宮古いでてはるばるきぬるかひがねや雲ゐの雪のさやの中山(肖柏)
きみもおもへ我もしのばむたび衣きつつなれにしことかたるまで(木下長嘯子)
きつつまだ馴れぬ袷やかきつばた(横井也有)

駿河の国宇津の山に逢へる人につけて、京につかはしける

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり(新古904)

【通釈】駿河にある宇津の山のあたりでは、現実にも、夢の中でも、恋しいあなたには逢えないのですね。

【補記】「宇津の山」は今の静岡市と志太郡岡部町の境をなす峠。「現(うつつ)」と同音なので、対比して「夢」が出て来る。東海道の難所を前に、「夢にも逢はぬ」と京の人へ離愁を訴えた歌。伊勢物語九段で「八橋」に次ぐ節にあらわれる。新古今集の詞書は物語の文を簡略化したものである。『古今和歌六帖』に無名氏のよく似た歌があり、業平の真作かどうかは疑わしい。

【他出】伊勢物語、今昔物語、六百番陳状、定家八代抄、歌枕名寄

【参考歌】作者不明記「古今和歌六帖」
するがなるうつのを山のうつつにも夢にもみぬに人のこひしき

【主な派生歌】
夢ぢにはなれし宿みゆうつつにはうつの山べの蔦ふける庵(藤原俊成[玉葉])
さぞなげく恋をするがのうつの山うつつの夢の又と見えねば(藤原定家[続後撰])
うつの山うつつかなしき道たえて夢に都の人はわすれず(藤原良経)
ふみわけし昔は夢かうつの山あととも見えぬ蔦のしたみち(飛鳥井雅経[続古今])
日くるれば逢ふ人もなし宇津の山うつつもつらし夢もみえぬに(後鳥羽院)
かきくらす雪こそこえしうつの山うつつか夢か跡ものこらず(宗良親王)

さ月の(つごもり)に、ふじの山の雪しろくふれるを見て、よみ侍りける

時しらぬ山は富士の嶺いつとてかかのこまだらに雪の降るらむ(新古1616)

【通釈】季節を弁えない山は富士の嶺だ。今をいつと思ってか、鹿の子斑に雪が降り積もっているのだろう。

【補記】これも伊勢物語第九段から新古今集に採られた歌。『古今和歌六帖』に全く同じ歌が載り、伊勢物語の作者が古歌を借用したものと思われる。「かのこまだら」は鹿子斑、夏の盛りにも鹿毛の白い斑のように点々と雪が積もっている富士の景。民謡風の可憐な珠玉であり、業平の個性は見られない。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、今昔物語、六百番陳状、定家八代抄、歌枕名寄

【参考歌】伝大伴家持「家持集」
しらやまの峰なればこそ白雪のかのこまだらにふりてみゆらめ

【主な派生歌】
おしなべてかのこまだらに見ゆるかな雪むらぎゆる猪名の笹原(上西門院兵衛)
時しらぬ里は玉川いつとてか夏のかきねをうづむしら雪(藤原定家)
花や雪かすみや煙時しらぬふのたかねにさゆる春風(藤原忠良)
時しらぬ山は雪げの雲ながら有明の月のうき島の原(順徳院)
時しらぬふじの裾野の卯の花をこぼれてきたる雪かとぞみる(安嘉門院四条)
いほざきや松原しづむ波まより山はふじのね雲もかからず(*宗良親王)
ふじのねの煙やともしよるとなき鹿の子まだらの雪のしば山(正徹)
ふじのねのいつとてふれる雪もみじ木のまの月のかのこまだらに(木下長嘯子)

武蔵の国と下総(しもつふさ)の国との中にあるすみだ河のほとりにいたりて、都のいと恋しうおぼえければ、しばし河のほとりにおりゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くもきにけるかなと思ひわびてながめをるに、渡し守「はや舟にのれ、日くれぬ」といひければ、舟にのりてわたらむとするに、みな人ものわびしくて、京におもふ人なくしもあらず、さるをりに白き鳥の(はし)と脚とあかき、河のほとりにあそびけり。京には見えぬ鳥なりければ、みな人見しらず。渡し守に「これはなに鳥ぞ」ととひければ、「これなむみやこどり」といひけるをききてよめる

名にし負はばいざ(こと)問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(古今411)

【通釈】「都」というその名を持つのに相応しければ、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。

都鳥(ユリカモメ) 「創造素材 鳥Vol.1」より
ユリカモメ(これなむ都鳥?)

【語釈】◇すみだ河 現在東京都内を流れる隅田川には、この歌に因んで命名された言問橋が架かっている。◇都鳥 ユリカモメのことと言う。◇わが思ふ人 都に残してきた人を言う。

【補記】やはり「東下り」の段で名高い歌。古今集の詞書は伊勢物語の本文とほとんど変わらない。簡潔に旅情を尽したやまとことばの名文である。業平の時代にこれほど見事な和文が成立し得たかどうか疑わしく、貫之などの手が入っていることを想定したくなるが、歌はもちろん業平の作と信じるほかない。背をそびやかしたような上句の気張った調子から、望郷の思いを吐息とともに言い放つような下句へ。理知と抒情がなめらかに連続し融合し、かつ余情ある詠風は業平の真骨頂である。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、和歌体十種(比興体)、定家八代抄

【主な派生詩歌】
人を猶うらみつべしや都鳥ありやとだにも問ふをきかねば(徽子女王[新古今])
言問はばありのまにまに都鳥みやこのことを我に聞かせよ(和泉式部[後拾遺])
名にし負はば知らじなわだの都鳥心づくしのかたはどことも(源俊頼)
わぎもこがうへかたらはむ都鳥さこそ昔の人もとひけめ(藤原実定)
おぼつかな都にすまぬ都鳥こととふ人にいかが答へし(宜秋門院丹後[新古今])
都鳥なに言問はむ思ふ人ありやなしやは心こそ知れ(後嵯峨院[続古今])
吹く風ものどけき花の都鳥をさまれる世のことや問はまし(*少将内侍[続古今])
言問ひていざさはここにすみ田川鳥の名きくも都なりけり(*花山院師賢[新葉])
今こそあれすむべきよよの都鳥わが行末のことや問はまし(長慶天皇[新葉])
限りなく遠く来にけりすみだ川こととふ鳥の名をしたひつつ(後光厳院[新拾遺])
塩にしてもいざことづてむ都鳥(芭蕉)

あづまの方にまかりけるに、浅間のたけに煙のたつを見てよめる

信濃なる浅間の(たけ)に立つけぶりをちこち(びと)の見やはとがめぬ(新古903)

【通釈】信濃にある浅間の山に立ちのぼる噴煙――こんなに煙を噴き上げて、遠近の人が見とがめないのだろうか。

【語釈】◇浅間の嶽 長野・群馬県境の浅間山。平成十四年現在も白い噴煙をあげている。

【補記】新古今の詞書は、伊勢物語八段を簡略化したもの。八橋を経て隅田川に至った「東下り」の前段である。恋(こひ)は火を含み、山の噴煙は忍んでも忍びきれない恋情の比喩とされた。取り立てて言うほどの秀歌ではないが、後世、「あさし」「あさまし」に引っ掛けるなどして盛んに本歌取りされている。

【他出】業平集、伊勢物語、六百番陳状、定家八代抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
信濃なるあさまのたけのあさましや思ひくまなき君にもあるかな(源順)
信濃なるあさまの山のあやしきは雪とぞきゆる火やはもえやむ(源重之)
あさましやあさまのたけにたつ煙たえぬおもひをしる人もなし(藤原定家)
これやさはもゆる思ひを信濃なるわが身あさまの夕暮の空(飛鳥井雅経)
いたづらに立つや浅間の夕けぶり里とひかぬるをちこちの山(〃[新古今])
よとともに消えぬ思ひを信濃なる同じ煙のあさましの身や(源家長[新続古今])

あづまへまかりけるに、すぎぬる方恋しくおぼえけるほどに、河をわたりけるに波のたちけるを見て

いとどしくすぎゆく方の恋しきにうらやましくも帰る波かな(後撰1352)

【通釈】ただでさえ過ぎて来た都の方向は恋しいのに、羨ましいことに寄せては帰って行く波であるなあ。

【補記】「すぎゆく方」は過ぎて来た方向、すなわち京の方ということ。いよいよ都恋しさが募り、寄せては帰る川波を羨ましがってみせた。切実な思いを戯れめかし、サラリと詠み流したところに業平らしいダンディズムがある。伊勢物語七段は伊勢・尾張国境あたりの海浜での詠とし、それらしい場面設定をしている。その場合、「うらやましく」に「うら(浦)」の意が響き、「波」の縁語になる。

【他出】伊勢物語、定家八代抄

【主な派生歌】
昔みし雲井ははやく絶えにしをうらやましくもかへる雁がね(源師光)
塩竈やうらみてわたる雁がねをもよほし顔にかへる浪かな(藤原定家)
日にそへてさてあらまうき世の中にうらやましくもかへる春かな(伏見院)

惟喬(これたか)親王(みこ)の供に狩にまかりける時に、あまの河といふ所の河のほとりにおりゐて酒などのみけるついでに、親王(みこ)のいひけらく、「狩して天の河原にいたるといふ心をよみて(さかづき)はさせ」といひければよめる

狩り暮らし七夕つめに宿からむ天の川原に我は来にけり(古今418)

【通釈】狩するうちに日が暮れてしまった。今宵は、七夕つめ(織姫)に宿を借りよう。我らは天の川の河原に来てしまったのだから。

【補記】詞書の「あまの河」は、交野の地を流れ、淀川に合流する天野川。同名の天上の川に掛けて、地上の憂き世を離れ、夜空を漂って銀河に至ったかのような趣である。これは詞書も業平自身の作と見なしてよいのではないか。伊勢物語八十二段では「世の中にたえて桜の…」などの歌と組み合わされ、一日をかけた風雅な遊宴の一齣として物語世界に編み込まれている。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、今昔物語、五代集歌枕、歌枕名寄

【主な派生歌】
狩りくらし交野の真柴をりしきて淀の河瀬の月をみるかな(藤原公衡[新古今])
狩りくらしいまはとだちもかたのなるふみならしばの雪の下をれ(飛鳥井雅経)

女につかはしける

春日野(かすがの)の若紫の()(ごろも)しのぶのみだれ限りしられず(新古994)

【通釈】春日野の若紫で色を摺り付けた摺衣の「しのぶもぢずり」模様ではありませんが、春日の里で垣間見たたおやかな貴女たちを恋い忍ぶ心の乱れは、限りを知りません。

【語釈】◇春日野 大和国の歌枕。今の奈良県奈良市春日野町あたり。◇若紫の摺り衣 若紫で着色した摺衣。「わかむらさき」は萌え出て間もない紫草。根を紫色の染料に用いた。◇しのぶのみだれ 「しのぶもぢずり」(陸奥国信夫郡特産の摺り衣)の乱れ模様のような心の乱れ。地名「信夫(しのぶ)」に「(恋の思いを)忍ぶ」意を掛ける。

【参考歌】河原左大臣「古今集」
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに

【補記】新古今集は作者を業平として採っている。出典は伊勢物語初段。初冠(ういこうぶり)した男が、春日の里で狩をした折、「いとなまめいたる女はらから」を垣間見て、「心地まどひて」書き贈った歌。河原左大臣の「みちのくの…」の本歌取りと考えられる。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、袖中抄、定家八代抄、歌枕名寄、歌林良材

【主な派生歌】
きのふ見ししのぶの乱れ誰ならむ心の程ぞかぎりしられぬ(藤原顕輔)
春日野の霞のころも山風に忍ずもぢずりみだれてぞ行く(藤原定家[新拾遺])
つむもうし若紫の菫草しのぶのみだれのこる朝露(正徹)
たなびきて帯をぞ継げる春日のの若紫の衣かりがね(心敬)
きえねただ忍ぶのみだれ限あらば露もいかなる涙とかみむ(後柏原天皇)
かすが野の若紫の初わらびたがゆかりよりもえいでにけむ(香川景樹)

右近の馬場(むまば)のひをりの日むかひにたてたりける車のしたすだれより女の顔のほのかに見えければ、よむでつかはしける

見ずもあらず見もせぬ人の恋しくはあやなく今日やながめくらさむ(古今476)

【通釈】全然見えないわけではないが、よく見えたのでもない人――あの人が恋しくてならないので、わけが分からずに今日はぼんやり物思いに耽って過ごすだろう。

【語釈】◇右近の馬場 右近衛府の馬場(馬術の練習場)。◇ひをりの日 意味不明。◇車のしたすだれ 牛車の前後に取り付けられた簾の内側の垂れ布。◇あやなく わけが分からず。無分別に。

【補記】女(よみ人しらず)の返し歌は、「知る知らぬ何かあやなくわきていはむ思ひのみこそしるべなりけれ」。伊勢物語九十九段にも見える。

【他出】業平集、伊勢物語、大和物語、俊頼髄脳、今昔物語、和歌童蒙抄、和歌色葉、定家八代抄、十訓抄、井蛙抄、歌林良材

【主な派生歌】
昨日けふ雲のはたてにながむとて見もせぬ人の思ひやは知る(*藤原定家[風雅])
見ずもあらず見もせぬ人のゆかりとや夕べの空ぞ形見がほなる(後鳥羽院)
見ずもあらず覚めにし夢の別れよりあやなくとむる人の面影(*今出川院近衛[続千載])
白雲の色にまがへて見ずもあらず見もせぬ花にけふも暮らしつ(二条為明)
見ずもあらず見もせぬだにもあやなきをほの聞き初めて袖の濡るらむ(飛鳥井雅世)
あやなくや雲にまがへむ見ずもあらず見もせぬ花に山路暮らして(三条西公保[新続古今])
見ずもあらず見もせぬ月の更くるまであやなく空のかすむ夜はかな(正徹)
うちわたす遠方人を見ずもあらず見もせず霞む春の野辺かな(賀茂季鷹)

やよひのついたちより、しのびに人にものら言ひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける

起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめくらしつ(古今616)

【通釈】起きるわけでもなく、寝るわけでもなく、夜を明かしては、長雨を春という季節のものとして眺めて過ごしてしまいました。

【補記】晩春三月初めから、ひそかに始まった恋。起きてしまうわけでもなく、寝てしまうわけでもなく、夜を明かして後は、日中しとしとと降り続ける雨を、春のものとて眺め暮らした。「春のもの」が雨を指すことは、「ながめ」に「長雨」が掛かることによって示される。「恋しい」などとは一言も言わず、「あなたのことばかり思いながら、この物憂い春の日々を送り迎えています」と暗に言い遣った、いかにも閑雅な、心憎い歌である。伊勢物語第二段ではやや趣が異なり、「かのまめ男、うち物語らひて、かへりきていかが思ひけむ、時はやよひのついたち、雨そほふるにやりける」と、後朝(きぬぎぬ)の歌になっている。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、定家八代抄

【主な派生歌】
中々に明けだにはてよ起きもせず寝もせぬ夜はの村雨の空(藤原家隆)
秋草の露わけ衣おきもせずねもせぬ袖はほすひまもなし(藤原定家)
花を思ふよもの白露おきもせずねもせぬころの床の山風(飛鳥井雅経)
起きもせず寝もせで明かす床の上に夢ともなしの人の面影(*正親町公蔭[新千載])

題しらず

きみにより思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ(続古今944)

【通釈】あなたのおかげで知るようになりました。世の中の人はこれを恋と言うのでしょうか。

【補記】続古今集恋巻頭。「あなたのお蔭でわかつた、なるほど世間の人が恋と言つてゐるのはかういふ思ひのことなのか、といふつぶやきは、それだけでも充分に心を打つ。しかし、作者名といふ額縁によつてもう一つ意味が深まる仕組になつてゐる。われわれはこの感想が、あの恋の名人、在原業平のものだと知つたとき、いままでの多くの恋はみなその名に価しないものだつた、いま味はつてゐるこの苦しさこそ真実の恋だ、といふ歌として取るのだ」(丸谷才一『新々百人一首』)。伊勢物語三十八段では紀有常に詠みかけた戯歌となっている。

【他出】伊勢物語、万代集

人のもとにしばしばまかりけれど、あひがたく侍りければ、物にかきつけ侍りける

暮れぬとて寝てゆくべくもあらなくにたどるたどるもかへるまされり(後撰628)

【通釈】日が暮れたからと言って、寝てゆくことができるわけではないのに…。薄暗い道を辿り辿り帰った方がましです。

【補記】思いを受け入れてくれぬ女の家から帰る時、物(柱や家具など)に書き付けていった歌。これ以上長居をしても虚しい思いをするだけだろう、と女を恨んだのである。伊勢物語には見えない。

女のもとにまかりてもの申しけるほどに、鳥のなきければよみ侍りける

いかでかは鳥の鳴くらむ人しれず思ふ心はまだ夜ぶかきに(続後撰820)

【通釈】まだ夜深い時刻のはずなのに、どうして鶏が鳴くのでしょう。人知れずあなたを思う心は、まだ深く秘められたままなのに。私の思いが伝わらないうちに、夜が明けてしまうなんて。

【補記】伊勢物語五十三段から続後撰集に採録された。「もの申しけるほどに」夜が明けてしまったというのだから、情事は遂げていないのであろう。「人知れず」は、世間の人に知られず、ということだけでなく、相手の女が分かってくれない、という気持を籠めている。あらわに言うことが出来ない「思ふ心」は、深く秘められたままだ。なんとか伝えたいと焦る気持を裏切るように、朝の鶏が鳴く。心の中では、まだ「夜深い」はずなのに。

【他出】伊勢物語、万代集、和歌無底抄

題しらず

秋の野に笹わけし朝の袖よりも逢はでこし夜ぞひちまさりける(古今622)

【通釈】秋の野に笹を分けて帰った後朝(きぬぎぬ)の袖よりも、逢わずに帰って来た夜の方が、いっそうしとどに濡れたのでしたよ。

【補記】前夜逢ってくれなかった女に、翌朝になって贈った歌であろう。「上句には露とはいはで露あり、下句には涙といはねど涙あり」(契沖)。「秋の野にしとどに置く笹の露よりも一層はげしい涙に袖を濡らしたとは、大袈裟(おおげさ)な形容である。しかし業平の場合それは物真似でなく、真情であり独創であったから、全体に東歌(あずまうた)風な、健康な実感があふれている。この時作者の年齢はうら若かったのではないか、そういう想像も自然に浮んで来る」(目崎徳衛)。伊勢物語二十五段では、「あはじとも言はざりける女の、さすがなりけるがもとに言ひやりける」歌とし、第四句を「あはでぬる夜ぞ」とする。また、「色好みなる女」の返し「みるめなきわが身を浦と知らねばや離(か)れなで海人(あま)の足たゆく来る」を付加している(小町の歌の借用である)。

【他出】古今和歌六帖、定家八代抄

【主な派生歌】
いかにせむ雪さへ今朝はふりにけり笹わけし野の秋の通ひ路(藤原定家)

題しらず

思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(新古1151)

【通釈】あなたを慕う気持には、人目を憚る気遣いが負けてしまった。逢うことと引き換えにするのなら、どうなろうと構うものか。

【補記】新古今集では「逢ふ恋」の歌群に置かれ、逢瀬に身の破滅さえ賭けて惜しまぬ心情の歌となる。新古今集がこれを業平作としたのは、伊勢物語に主人公の歌として出て来るからで、実際には古今集よみ人しらず歌(下記参考歌)の改作転用であることが明らかである。伊勢物語六十五段、二条后との痛切な後日譚。

【他出】伊勢物語、定家八代抄

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
思ふには忍ぶる事ぞまけにける色には出でじと思ひしものを
  紀友則「古今集」
命やは何ぞは露のあだものを逢ふにしかへば惜しからなくに

【主な派生歌】
虫の音もしのぶることぞまくず原うらみや秋の色に出づらむ(飛鳥井雅経)
恨みてもなほ慕ふかな恋しさのつらさに負くるならひなければ(*今出川院近衛[新拾遺])

人にあひてあしたによみてつかはしける

寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな(古今644)

【通釈】昨夜寝て見た夢がはかなく途切れてしまったので、続きを見ようとまどろんだけれども、ますます不確かになってゆくことだ

【補記】これは詞書(「人に逢った翌朝、詠んで贈った」)からして、後朝(きぬぎぬ)の歌であることが明らか。女との共寝をはかない夢に喩えている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、定家八代抄、桐火桶

【主な派生歌】
暁に夢をはかなみまどろめばいやはかななる松風ぞ吹く(*後鳥羽院)
かくしつつ憂き身消えなばありし夜の夢をはかなみあはれとを見よ(西園寺公経[新続古今])
覚めにけり逢ひ見てかたる時のまの夢をはかなみ思ひやるかな(木下長嘯子)

業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりける人にいとみそかにあひて、又のあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける   よみ人しらず

君や()し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

【通釈】あなたが逢いに来られたのか、私が逢いに行ったのか、覚えていません。夢だったのか現実だったのか、寝ていたのか醒めていたのか。

【語釈】◇斎宮なりける人 斎宮であった人。◇人やるすべなくて 人を使いに遣るすべがなくて。◇思ほえず 初二句、第四句、第五句について言う。貴方が逢いに来たのか私が行ったのか、夢だったのか現実だったのか、寝ていたのか目覚めていたのか、いずれも判断がつかない、ということ。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、俊頼髄脳、袖中抄、歌林良材

【主な派生歌】
袖ぬれて旅寝の夢に君やこし我や行きけん月ぞやどれる(正徹)

返し

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ(古今646)

【通釈】真っ暗になる心の闇に迷ってしまったのです。夢か現実かは、世間の人が定めればよい。

【語釈】◇かきくらす 真っ暗にする。何も見えなくする。◇世人(よひと)さだめよ 世間の人が判断せよ。「夢かうつつか思ほえず」と言ってきた女に対し、「それは自分にも分からない。私とあなたにとっては、どちらでも良い。さかしらな判断など、他人にまかせれば良いではないか」といった心。なお伊勢物語では「こよひさだめよ」。

【補記】伊勢物語の第六十九段に相当。同書の命名の由来とも説かれる、伊勢斎宮との密通を描く章段である。古今集の詞書は比較にならぬほど簡略。

【他出】業平集、古今和歌六帖、俊頼髄脳

【主な派生歌】
かきくらす心の闇にまどひつつうしと見る世にふるぞわびしき(曾禰好忠)
あはれなる心の闇のゆかりとも見し夜の夢をたれかさだめむ(西園寺公経[新古今])
生きてかく君につかふる老いが身をたぐひなしとは世人さだめよ(西園寺実氏[続古今])

陸奥(みちのくに)にまかりて女につかはしける

しのぶ山しのびてかよふ道もがな人のこころのおくも見るべく(新勅撰942)

【通釈】信夫山――私たちの忍び合う恋にも、忍んで通う道があってほしい。恋しい人の心の奧も見えるだろうから。

【補記】新勅撰集恋五巻頭。「しのぶ山」は福島県福島市内にある山だが、「しのびて」を言うために陸奥にゆかりの山の名を持ってきたもの。山のイメージが一首にかぶさり、「道」「おく(奥)」も山の縁語となる。出典は伊勢物語十五段。さて探った女の「心の奥」には「さがなきえびす心」(野卑な心)を見るだけだ、というオチがつく。古今和歌六帖に似た歌が載り、伊勢物語作者が古歌を転用したものと見られる(参考歌参照)。

【他出】伊勢物語、古今和歌六帖、竹園抄、歌枕名寄

【参考歌】作者不明「古今和歌六帖」
しのぶ山しのびにこえむみちもがな人のこころのおくもみるべく

【主な派生歌】
月影に身をやかへましあはれてふ人の心にいりてみるべく(*源計子)
ともしする人やしるらむしのぶ山しのびてかよふ奥の思ひを(藤原家隆)

業平の朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける  敏行の朝臣

つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし

【通釈】長雨で川が増水するように、物思いに恋心はまさり涙があふれてなりません。その涙の川に袖が濡れるばかりで、お逢いするすべもありません。

かの女にかはりて返しによめる

あさみこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かばたのまむ(古今618)

【通釈】浅いから袖が濡れる程度なのでしょう。涙川に身体ごと流されるとおっしゃるのなら、あなたを信じて契りましょう。

【補記】藤原敏行との贈答。『尊卑分脈』によれば、敏行は紀有常の娘を室とした。業平の妻の妹である。詞書の「家に侍りける女」もその女性であろう。敏行が彼女に求婚して来たのに対し、業平が代って詠んだ。もっと深い心ざしを見せなさい、と男を鼓舞したのである。安倍清行への小町の返歌「おろかなる涙ぞ袖に…」と同様の切り返し方で、一種の型を踏まえているが、「身さへ流る」の激しさは当時の類型も常識も超えている。伊勢物語百七段では話に色々と尾ひれが付いている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、五代集歌枕、定家八代抄、八雲御抄、悦目抄

【主な派生歌】
涙川ぬれにし袖は頼まれず身さへながるといかでしらせむ(藤原隆祐)
を山田にまかする水のあさみこそ袖はひつらめ早苗とるとて(弁内侍[続古今])
いたづらに身さへながるる涙河あふ瀬や猶もたのみなるらむ(源資栄[新千載])

藤原敏行の朝臣の、業平の朝臣の家なりける女をあひしりて(ふみ)つかはせりけることばに、「今まうでく、雨のふりけるをなむ見わづらひ侍る」といへりけるをききて、かの女にかはりてよめりける

かずかずに思ひ思はずとひがたみ身をしる雨はふりぞまされる(古今705)

【通釈】あれこれと、思って下さっているのかいないのか、お尋ねするのもしづらいので、悩んでおりましたところへ、『雨のため出渋っている』とのお言葉。雨が、所詮我が身などその程度かと思い知らせてくれたわけですね。今や、雨ならぬ涙がいっそう激しく我が身に降り注いでおります。

【補記】前の歌の後日譚といったところ。二人が交際を始めてのち、敏行が女のところに手紙を寄越した。「これから参ります。雨が降るのを眺めて決めかねております」。それを聞いた業平が、また妻の妹に代って詠んだ。伊勢物語百七段のオチ「蓑笠もとりあへで、しとどに濡れてまどひきにけり」は蛇足というものであろう。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、綺語抄、奥義抄、和歌色葉、定家八代抄、色葉和難集

【主な派生歌】
みし人に忘られてふる袖にこそ身をしる雨はいつもをやまね(和泉式部[後拾遺])
つれづれと思へばかなし数ならぬ身をしる雨のをやみだにせよ(源俊頼)
春にあはぬ身をしる雨のふりこめて昔の門の跡やたえなむ(藤原俊成)
のちの世の身をしる雨のかきくもり苔の袂にふらぬ日ぞなき(讃岐[新勅撰])
おほ空のながめをだにもせざりけり身をしる雨の雲にまよひて(慈円)
色かへぬ青葉の竹のうきふしに身をしる雨のあはれ世の中(藤原定家)
あふことのむなしき空のうき雲は身をしる雨のたよりなりけり(惟明親王[新古今])
降りくるも身を知る雨はうきことのこれや限の秋の夕暮(後水尾院)

ある女の、業平の朝臣を、ところさだめず(あり)きすと思ひて、よみてつかはしける   よみ人しらず

おほぬさのひく手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ

【通釈】大幣のように、あなたにはお誘いが多いから、私はお慕いしているけれど、信頼しきることはできません。

返し

おほぬさと名にこそたてれ流れてもつひによるせはありてふものを(古今707)

【通釈】そんな評判が立ったところで、大幣なら、流れてもいずれ浅瀬に乗り上げると言うでしょう。最後にはあなたのところへ寄り付くことになるものを。

【補記】「おほぬさ」は六月末と歳末におこなわれた大祓(おおはらえ)の幣(ぬさ)のこと。人々はそれに手を触れて罪穢れを移し、その後川に流した。皆が競って引き寄せようとしたから、「ひく手あまた」と言うのであろう。その大幣のように、あなたにはお誘いが多いから、と女が躊躇いを打ち明けたのである。「ところさだめず歩きす」と言い「ひく手あまた」と言い、業平の色好み・色男ぶりを伝えている。業平は世間の評判などには超然としつつ、悠々と女の遅疑を受け流した。

【他出】業平集、伊勢物語、奥義抄、定家八代抄

【主な派生歌】
みたらしや禊にながす大幣のつひによるせは秋風ぞ吹く(二条為定[新千載])
月ぞすむ霞のうちにながれてもつひによる瀬は有明のかげ(正徹)

業平の朝臣、紀有常がむすめにすみけるを、うらむることありて、しばしのあひだ昼はきて夕さりはかへりのみしければ、よみてつかはしける

あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから

【通釈】天雲のように遠く離れて行ってしまうのですね。そのくせ、妻である私の目には見えるというのに。

【補記】有常の娘と結婚後、余程気にくわないことがあったか、昼間に妻の家を訪れ、夕方になると帰ってしまうことを繰り返した。露骨な嫌がらせである。堪らず妻が歌を送って来た。「め」に妻(め)を掛けて、「毎日会いに来るくせに、夫婦の間柄は離れてゆく」と責めたのである。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、和歌初学抄

返し

ゆきかへり空にのみしてふる事はわがゐる山の風はやみなり(古今785)

【通釈】行ったり来たりする天雲が、空にばかりいて、一向に山に留まらないのは、風が激しすぎるからです。私も奥さんがきつすぎるので家に留まることができず、いつも上の空で去って行くのですよ。

【補記】我が身を雲に喩え、妻の家を山に、女の気の強さを風の激しさになぞらえている。業平に同情する亭主は多かろうが、妻の恨み言にこれほど洒脱な反撃を加えられる夫は稀有ではあるまいか。

【他出】業平集、伊勢物語

(ひむがし)の五条わたりに人をしりおきてまかりかよひけり。しのびなる所なりければ、(かど)よりしもえ入らで、垣のくづれよりかよひけるを、たびかさなりければ、(あるじ)ききつけて、かの道に夜ごとに人をふせてまもらすれば、()きけれどえ逢はでのみ帰りて、よみてやりける

人しれぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ(古今632)

【通釈】人知れずあなたの家を往き来していた道は、通せんぼされてしまった。あの関の番人たち、宵ごとに居眠りしてしまってほしい。

【補記】「東の五条わたり」は左京五条辺。そこに住んでいる女と情を交わすようになり、ひそかに通っていた。やがて家の主人(親とは限らず、女のめんどうを見ていた人である)がこれを知り、毎夜、家の前の道に番人を置くようになったので、逢えずに帰ることが重なった。「ふせてまもらする」(物陰などにひそませて守らせる)人を「関守」に見立てたという以外、これといった企みもなく素直に詠んだ歌。伊勢物語では二条后関係のエピソードとして第五段に置いている。古今集の詞書は物語本文と大差ないが、必ずしも藤原高子を意識して読む必要はあるまい。

【他出】業平集、伊勢物語、定家八代抄

【主な派生歌】
かよひ行く夢路にすぶる関もりはうちもねぬよの我が身なりけり(慈円)
清見がた我が通路の関なれやうちぬる人もなみのよるよる(藤原家隆)
うつつこそぬる宵々もかたからめそをだにゆるせ夢の関もり(後鳥羽院)

五条の(きさい)の宮の西の対にすみける人に、本意(ほい)にはあらで物言ひわたりけるを、む月の十日(とをか)あまりになむ、ほかへかくれにける。あり所はききけれど、え物もいはで、又の年の春、梅の花さかりに、月のおもしろかりける夜、去年(こぞ)を恋ひて、かの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷(いたじき)にふせりてよめる

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして(古今747)

【通釈】自分ひとりは昔ながらの自分であって、こうして眺めている月や春の景色が昔のままでないことなど、あり得ようか。昔と同じ晴れ晴れとした月の光であり、梅の咲き誇る春景色であるはずなのに、これほど違って見えるということは、もう自分の境遇がすっかり昔とは違ってしまったということなのだ。

【語釈】◇五条の后 仁明天皇の后、藤原順子。◇后の宮の西の対 順子の御所の寝殿の西側の建物。ここに「すみける人」が誰かは分からないが、常識的には順子に仕えていた女房などが考えられる。伊勢物語では明らかに藤原高子(清和天皇に入内する以前の)を匂わせている。◇本意にはあらで物言ひわたりける もともとそのつもりはなかったのに、(ふとしたきっかけで)契りを交わし、通うようになった。◇月やあらぬ 「月や昔の月ならぬ」の略。月は昔の月でないことがあろうか。「や」は反語・疑問両説あるが、ここでは反語にとった。◇我が身ひとつは… 下句は上句と倒置の関係にある。

【補記】歌意に沿って語順を並び換えると、「我が身ひとつはもとの身にして、月や昔の月ならぬ、春や昔の春ならぬ」となる。現前する景に失われた過去を手探りして、わが身が過去と現在に引き裂かれていることに気づく、という自失の感情。大胆な省略語法と反語表現を用い、初句・三句で切れる上句は、切羽詰った嗚咽にも似る。
伊勢物語第四段は古今集の詞書より少し描写が詳細になり、また感傷的になっている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、古来風躰抄、定家八代抄、別本八代集秀逸(家隆・定家撰)、時代不同歌合

【主な派生歌】
昔見し春は昔の春ながら我が身ひとつのあらずもあるかな(*清原深養父[新古今])
花の香のにほふに物のかなしきは春や昔の形見なるらむ(藤原長家[続古今])
君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めしことの皆変りぬる(*俊恵[千載])
梅が香も身にしむころは昔にて人こそあらね春の夜の月(藤原俊成)
梅が香になれぬる袖をかたしけば夢も昔の春の夜の夢(〃)
袖の香に梅はかはらずかをりけり春は昔の春ならねども(〃)
月すみし宿も昔の宿ならで我が身もあらぬ我が身なりけり(西行)
身のうさを月やあらぬとながむれば昔ながらの影ぞもりくる(*讃岐[新古今])
里はあれて月やあらぬと恨みても誰あさぢふに衣うつらむ(藤原良経[新古今])
梅の花たが袖ふれしにほひぞと春やむかしの月にとはばや(*源通具[新古今])
昔みし心の色はかはれども月はひとつの光なりけり(藤原家隆)
春やあらぬ宿をかことにたちいづれどいづこも同じかすむ夜の月(藤原定家)
今宵しも月やはあらぬおほかたの秋はならひぞ人ぞつれなき(〃)
いかならむ世にかはまたは松風の今は昔の秋とふきぬる(飛鳥井雅経)
旅衣きつつなれゆく月やあらぬ春は都とかすむ夜の空(後鳥羽院)
面影のかすめる月ぞやどりける春や昔の袖の涙に(*藤原俊成女[新古今])
月やあらぬむかしや誰と匂ふらむ花橘ももとの身にして(藤原基家)
何とかは月やあらぬと辿るべき我がもとの身を思ひ知りなば(後嵯峨院[続古今])
さても身の春や昔にかはるらむありしにもあらず霞む月かな(洞院公泰[新葉])
月やあらぬ昔の人の面影とすめる宿とふ軒の松かぜ(正徹)
身やはあらぬ露もくもれば恨みこし月にあはれぶ春の夜の空(宗祇)
里ふりぬなに中々の梅が香は春やむかしも忘れぬる世に(*木戸孝範)
梅が香に昔の一字あはれなり(芭蕉)

絶えて久しうなりて

今までに忘れぬ人は世にもあらじおのがさまざま年のへぬれば(業平集)

【通釈】今の今まで、忘れずにいる人など、まさかいないでしょう。お互いそれぞれの人生を、長の年月過ごしてきたのですから。

【補記】仲が絶えて久しい、昔の恋人へ贈った歌。伊勢物語八十六段には「なほ心ざし果さむとや思ひけむ」と男の心情を推し量っている。心残りがなければそもそも歌など贈るまいし、ほのかな未練が透けて見えることは確かであるが、かつて時間を共有し、その後別々の人生を歩んだ相手への、適度の情が籠もった詠いぶりであろう。新古今集には「題しらず・よみ人しらず」として載る。古今和歌六帖にも作者不明記で載っている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、新古今集、定家八代抄

堀川の大臣(おほいまうちぎみ)四十賀(よそぢのが)、九条の家にてしける時によめる

桜花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今349)

【通釈】桜の花よ、散り乱れてあたりを霞ませよ。『老い』が通って来ると聞く道が、花に紛れて見分けのつかなくなるように。

【補記】藤原基経の四十歳の算賀に進献した祝い歌(当時は、四十歳以後、十年毎に長寿の祝いをした)。賀の催されたのは、ちょうど桜の散る季節だったか。「老いらく」は、動詞「老ゆ」を名詞化した、いわば抽象名詞である。それが道をやって来るという考え方は、同じ古今集の「おいらくのこむとしりせば門さしてなしとこたへて逢はざらましを」などにも見える。業平の歌では「来(こ)むといふなる」と伝承めかし、桜吹雪によって朧化していることが、かえって想像力を刺戟し、「老いらく」なる、不可視であるはずのものが実体化されたイメージを膨らませる。一種の言葉の魔術である。基経は承和三年(836)の生れだから、四十賀は貞観十七年(875)に催されたことになる。因みにこの年業平は五十歳を超え、当時の常識では立派な「老」であった。

【他出】業平集、伊勢物語、俊頼髄脳、定家八代抄

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ

【主な派生歌】
桜花散りかひ霞む久かたの雲井にかをる春の山風(藤原家隆[新千載])
暮れてゆく秋も山路の見えぬまで散りかひくもれ峰のもみぢ葉(藤原定家)
いかにせむ春には逢はで老いらくの来むといふなる年の暮れ方(飛鳥井雅経)
今は身に来むといふなる老いらくの春より近き年の暮かな(二条良基[新後拾遺])
桜花散りかひかくす高嶺より嵐をこえて出づる月かげ(*正徹)
夕ひばり床も忘れて桜花散りかひかすむ空に鳴くなり(肖柏)
夕日影山とほからじ桜花散りかひくもる鐘のこゑかな(三条西公条)
暮れはつる空ぞかなしき老いらくの来むといふなる春も知られず(一色直朝)

題しらず

おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(古今879)

【通釈】大体のところ、月なども賞美したりはしまい。何となれば、この月というものこそが、積もり積もって人の老いとなるものなのだから。

【語釈】◇おほかたは おおよそは。そうやすやすとは…程の心。◇月をもめでじ 月をも賞美しまい。「をも」は、誰しもが賞美する月であるが、その月をも私は…といった気持で用いている。

【補記】上句で意表を突くことを言っておいて、下句でその心を明かす、という諧謔の歌である。上句の「月」はもとより天体の月を予想させるが、それを下句で歳月の月にすり替えてしまう。もっとも、月の両つの意義が、そう単純に割り切れるわけではない。天体の満ち欠けこそが時の移り行きのめやすとなるのだから。そんなことを、ふと立ち止まって考えさせるところに、この歌の面白みもあるだろう。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、俊頼髄脳、定家八代抄、悦目抄、井蛙抄

【主な派生歌】
つれなさのたぐひまでやはつらからぬ月をもめでじ有明の空(藤原有家[新古今])
おほかたにつもれば人のとばかりにながめし月も袖やぬれけむ(藤原定家)
いたづらにつもれば人のながき夜も月みてあかす秋ぞすくなき(〃)
世をすてていとふとならばひさかたの月をもめでし秋の山里(藤原秀能)
つもりては月だに老いとなるものをつらくも年の暮れてゆくらむ(頓阿)
雪の内に暮れゆく年をかぞふればこれぞつもりて老と成る物(正親町公蔭[新千載])
さてもよに誰かは老とならざらむ愛でずはつらし夜な夜なの月(心敬)
うれしきに憂きに心のくだかれて恋こそ人の老いとなりけれ(*千種有功)

業平の朝臣の母の親王(みこ)、長岡にすみ侍りける時に、業平、宮づかへすとて、時々もえまかりとぶらはず侍りければ、十二月(しはす)ばかりに母の親王のもとより、とみの事とて(ふみ)をもてまうできたり。あけて見れば、(ことば)はなくてありける歌

老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな

【通釈】私はもう老いてしまったので、避けられない別れも遠からずあるというわけですから、そう思えばますます会いたいと思うあなたですことよ。

返し

世の中にさらぬ別れのなくもがな千世もとなげく人の子のため(古今901)

【通釈】この世に、避けられない別れなどなければよいのに。千年も長生きしてほしいと悲しむ、人の子のために。

【補記】伊都内親王が旧都長岡に住んでいた頃、息子の業平は宮仕えで忙しく、なかなか母に会いに行くことが出来なかった。ある年の十二月、急用だとのことで手紙が届けられた。開けてみれば、歌が書いてあるばかり。詞書も歌も触れていないが、「とみの事」と言うからには、病を患ったのであろう。母は子に会いたいがため残り少ない命を悲しみ、子は母の長生をひたすら願ってやまない。母子の情愛を詠んだ名作として、長く愛誦されてきた贈答である。

【補記】伊勢物語八十四段にほぼ同様の形で載る。男につき「一つ子にさへありければ」など、少し説明が詳しくなっている。

【他出】業平集、伊勢物語、定家八代抄

【主な派生歌】
おくるるは世のことわりの道なれどさらぬ別れは猶ぞ悲しき(藤原忠良[続古今])
いかなればつらきならひの夢の世にさらぬ別れのうつつなるらむ(覚宗[続古今])
悔しくぞさらぬ別れに先立ちてしばしも人に遠ざかりぬる(安嘉門院四条[風雅])
是やこのさらぬ別れにますらをのかへり見しけむ桜井の里(加納諸平)

()のおとうとをもて侍りける人に、(うへのきぬ)をおくるとて、よみてやりける

紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける(古今868)

【通釈】妻の妹とあなたが深く結ばれ、私とも深く縁を結んだ以上は、目も遥か、野辺に萌え出た春の草木のように、区別なくあなたも大切に思う。

【語釈】◇妻のおとうと 妻の妹。「おとうと」は兄から弟、姉から妹を呼ぶ称。◇袍(うへのきぬ) 正装時の上衣。◇紫 紫草。読人不知歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」を踏まえ、妻をこう呼んだ。その「色こき時」とは、妻と縁故が深い場合、といった意味。◇めもはるに 「目も遥」「芽も張る」「春」を掛けて言う。

【補記】妻の妹を娶った人(藤原敏行か)に袍を贈った時添えた歌。古今集で掲出歌の直前に置かれている読人不知歌「紫のひともとゆゑに…」を踏まえ、親者となった男への厚情を示した歌である。これら二首の歌によって、紫(紫草)は妻や愛人の暗喩となり、また「紫のゆかり」は妻の縁者を意味するようにもなった。因みに伊勢物語四十一段では、「いやしき男」と「あてなる男(業平を暗示)」を夫に持った「女はらからふたり」という設定で説話化をほどこしている。

【他出】業平集、伊勢物語、袖中抄、定家八代抄、色葉和難集、歌林良材

【主な派生歌】
浅みどりはつしほそむる春雨に野なる草木ぞ色まさりける(土御門院[風雅])
山はみな霞むばかりの春の雨野なる草木ぞ色はわきける(三条西公条)

二条の后のまだ東宮の御息所(みやすんどころ)と申しける時に、大原野にまうでたまひける日、よめる

大原や小塩(をしほ)の山もけふこそは神世の事も思ひいづらめ(古今871)

【通釈】大原の小塩の山も、お后様が参詣なさった今日という日こそは、神代の昔のことを思い出すことでしょう。

【語釈】◇二条の后 清和天皇の女御、藤原高子(たかいこ)。東宮貞明親王を生んだのは貞観十一年(869)、二十八歳の時。◇東宮 高子所生の貞明親王(陽成天皇)。「春宮の御息所」は、ここでは「皇太子の母である御息所」の意。◇大原野 京都市西京区の大原野神社。奈良の春日神社(藤原氏の氏神)を分祠する。参考サイト:大原野神社 ◇をしほの山 小塩山。大原野神社背後の山。◇けふこそは 藤原高子が参詣した今日という日こそは。◇神世の事 藤原氏の祖神天児屋命(あめのこやねのみこと)瓊瓊杵尊に従って天降りしたことを言うか。

【補記】伊勢物語七十六段では、「近衛府(このゑづかさ)にさぶらひける翁」が詠み奉った歌とする(翁はもちろん業平を暗示)。歌のあとには「心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし」の一文を付け加え、かつての二人の恋愛を遠回しに想起させている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、大和物語、五代集歌枕、和歌初学抄、袖中抄、六百番陳状、古来風体抄、定家八代抄、歌枕名寄、世継物語、井蛙抄

【主な派生歌】
しめのうちは昔にあらぬ心地して神代のことも今ぞ恋しき([源氏物語])
大原や神代の松のふかみどり千代もと祈る末のはるけさ(鷹司基忠[風雅])

布引の滝の本にて人々あつまりて歌よみける時によめる

ぬきみだる人こそあるらし白玉の間なくも散るか袖のせばきに(古今923)

【通釈】真珠をつないだ糸を解いて、ばらばらにまき散らす人がいるらしい。白い珠が次々と飛び散ってくるよ。袖で受け止めようにも、貧しい私の袖は狭いのに。

【語釈】◇布引(ぬのひき)の滝 摂津国の歌枕。いまの神戸市中央区。生田川の上流。参考サイト◇ぬきみだる 抜き乱る。首飾りなどの緒から真珠を引き抜いて、ばらばらにする。◇白玉 白い宝玉。真珠など。滝の飛沫をこう呼ぶ。◇袖のせばきに 袖の幅が狭いのに。

【補記】古今集では一つ前に兄行平が同所で詠んだ「こきちらす滝の白玉ひろひおきて世のうき時の涙にぞかる」を載せる。伊勢物語八十七段でも兄の歌が前に置かれているが、「わが世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けむ」と違う歌である。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、定家八代抄

【主な派生歌】
ぬきみだる玉かとぞみる岸ちかみ草葉にまがふ夜はの蛍は(大弐三位)
ぬきみだるしら玉かとぞ思ひける木の葉の上にふれる霰は(河内)
ぬきみだるちるやしら玉白妙の衣手涼し布引の滝(藤原家隆)
布引の滝より外にぬきみだるまなく玉ちる床の上かな(藤原定家)
はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに(*飛鳥井雅経[新古今])
ぬきみだる滝の白糸くりはへてよるとも見せぬ月の影かな(後鳥羽院)

題しらず

はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたに海人のたく火か(新古1591)

【通釈】あれは晴れた夜の星なのか。川辺の蛍なのか。それとも私の住む芦屋の里で海人(あま)が焼く火なのか。

【補記】出典は伊勢物語第八十七段(第四句は「我がすむかたの」)。昔男が摂津国芦屋の里にしばらく滞在していた頃、布引の滝を遊覧しての帰り道、「うせし宮内卿もちよしが家」の前に来て日が暮れた。宿の方を眺めれば、海人の漁火(いさりび)がたくさん見えた。それを、まるで夜空にきらめく星のようにも、河辺を舞う蛍のようにも見えた、と詠んでいる。新古今集のように「題しらず」にすると、星・蛍・漁火、本当のところどれなのかはっきりしなくなり、かえって幻想的な光景を描き出す。

【他出】業平集、伊勢物語、定家八代抄、歌枕名寄

【参考】「白氏文集」巻十五「放言」(→資料編
草螢有耀終非火(草螢(さうけい)耀(ひか)り有れども(つひ)に火に(あら)ず)

【主な派生歌】
芦の屋に蛍やまがふ海人やたく思ひも恋も夜は燃えつつ(*藤原定家[続後撰])
かささぎも渡さぬ橋のあたりまで星か川辺のしら菊の花(藤原隆祐)
はるる夜の星のやどりもひとつにて光あまたにとぶ蛍かな(覚助法親王)
よる鹿の星かともしの光かも嶺たつ雲に明くる短か夜(正徹)
はるる夜の天の川べの蛍かとつまむかひ火の影ぞまがへる(太田資早)
はるる夜の星かとみれば松の葉にすがるほたるの光なりけり(後水尾院)
鵜かひ舟夕やみながら晴るる夜の星か河べの瀬々のかがり火(武者小路実陰)

惟喬の親王の狩しける供にまかりて、やどりにかへりて、夜ひと夜、酒をのみ物がたりをしけるに、十一日の月もかくれなむとしける折に、親王ゑひて、うちへいりなむとしければ、よみ侍りける

あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげていれずもあらなむ(古今884)

【通釈】まだ心ゆくまで楽しんでおりませんのに、早くも月は隠れてしまうのですか。山の端よ、逃げて月を入れないでほしい。

【補記】惟喬親王の狩にお供して、宿に帰ったのち、一晩酒宴に興じたが、あたかも十一日の月が山の端に隠れようとする折、すっかり酒に酔った親王が寝所へ入ろうとした。その時に業平が詠んだ、親王を月になぞらえて戯れた歌である。十一日の月が沈むのは真夜中近い。伊勢物語八十二段では、水無瀬離宮における遊宴の一日の締めくくりに置かれている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、俊頼髄脳、今昔物語、定家八代抄、六華集

【主な派生歌】
朝霞ふかくや峰をへだつらむ山のはにげてみえぬ春かな(宗尊親王)
つくづくとふりもすさめぬ春の雨に山のはにげてかすむ夕暮(木下長嘯子)

紀利貞(きのとしさだ)が阿波の介にまかりける時に、餞別(むまのはなむけ)せむとて、今日といひおくれりける時に、ここかしこにまかり(あり)きて、夜ふくるまで見えざりければ、つかはしける

今ぞしる苦しき物と人待たむ里をばかれずとふべかりけり(古今969)

【通釈】今よく分かりました。待たされることは苦しいものだと。人が待っている里には、絶えず訪れるべきでした。

【補記】紀利貞が阿波介に赴任する際、送別の宴を設けたが、当人は挨拶廻りに忙しかったか、あちこち歩き回って、夜更けまで姿を見せない。そこで業平が人を遣って利貞に届けさせた歌。里住いの妻を散々待たせて、自分も罪なことをしたものだ。我が身を顧みつつ、軽い皮肉で相手を遠回しに責めているのである。利貞は古今集に歌四首を載せる歌人で、業平とはほぼ同世代の人。『古今和歌集目録』によれば、元慶五年(881)、阿波介に任ぜられ、同年没した。業平は前年に亡くなっているので、『目録』に誤りがあるか、あるいは以前にも阿波介に任ぜられたことがあったか、よく分からない。

【他出】業平集、伊勢物語、新撰和歌、古今和歌六帖、三十人撰、三十六人撰、定家八代抄

【主な派生歌】
ふるさとの秋をばかれず人もとへ苦しきものとまつむしのこゑ(飛鳥井雅経)
待つ人の里をばかれずとふ月や苦しきものはいつならひけむ(木下長嘯子)

惟喬の親王のもとにまかりかよひけるを、(かしら)おろして小野といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたりけるに、比叡(ひえ)の山のふもとなりければ、雪いとふかかりけり。しひてかの(むろ)にまかりいたりて、拝みけるに、つれづれとしていと物悲しくて、かへりまうできて、よみておくりける

忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは(古今970)

【通釈】ふとこの現実を忘れては、これはやはり夢ではないかと思うのです。まさか思いもしませんでした、かくも深い雪を踏み分けて、殿下にお目にかかろうとは。

【補記】出家後比叡山の麓の小野郷に住んでいた惟喬親王に、正月の挨拶をしようと、雪の中を訪ねて行った。がらんとした庵室に、親王は物悲しげな様子である。業平はいたたまれず匆々に辞去したのだろうか。そのあと親王のもとへ贈った歌である。「わすれては」は、二人が置かれた只今の状況をふと忘れては、ほどの意。若かりし親王と水無瀬の離宮などで遊んだ、華やかな宴の追想が、この侘びしすぎる現実を忘れさせ、夢ではないかと疑わせるのだ。惟喬親王の出家は貞観十四年(872)、業平が小野を訪ねたのはおそらくその翌年。親王は三十歳、業平は四十九歳を迎えた正月であった。

【補記】伊勢物語では八十三段にあたる。なお新古今集には惟喬親王の答歌を載せる(巻十八、1718)。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、曾我物語、宝物集、定家八代抄

【主な派生歌】
冬草のかれにし人のいまさらに雪ふみわけて見えむものかは(曾禰好忠[新古今])
忘れては雲かとぞ思ふ雪わけてけぶりたなびく小野の炭がま(飛鳥井雅経)
忘れては冬かとぞ思ふ卯の花の雪ふみわくる小野の通ひ路(源家長)
あとまでも夢うつつともなかりけり尋ねし小野の雪のふるみち(藤原為家)
おのづから雪ふみわけて問ひこしも都にちかき山路なりけり(*宗良親王)
忘れては雪かとぞ思ふ卯の花のさきてあとなき小野の細道(花山院長親)
夢かとも雪よりさきにとひてみよ小野の千種の霜枯れの色(貞常親王)
忘れては花も夢かと散る山の雪ふみ分けて春やゆくらん(望月長孝)

深草の里にすみ侍りて、京へまうでくとて、そこなりける人に詠みて贈りける

年を経て住みこし里を出でて()なばいとど深草野とやなりなむ(古今971)

【通釈】何年もずっと住んで来た里を去ったなら、ますます草が深く茂り、深草の里は草深い野となるだろうか。

【語釈】◇深草 平安京の南郊。◇そこなりける人 深草の里に住んでいた人。近所の人。伊勢物語百二十三段では「深草に住みける女」と脚色しているが、古今集では雑歌の扱いなので、必ずしも女と解釈すべき理由はない。◇いとど深草 地名に「深い草」の意を掛けている。

【補記】深草の里に住んでいた業平が、京へ上ることになり、近所の人に贈ったという、別れの挨拶の歌。土地の名に寄せて、自分が去った後の相手の寂しさを言外に思いやっている。返歌(よみ人しらず)は「野とならばうづらと鳴きて年は経むかりにだにやは君は来ざらむ」

【他出】業平集、伊勢物語、定家八代抄、歌枕名寄、井蛙抄

【主な派生歌】
鶉鳴く夕べの空を名残にて野となりにける深草の里(藤原定家[新拾遺])
人めさへいとど深草かれぬとや冬まつ霜にうづらなくらむ(藤原定家)
あれはてていとど深草秋の野に人やはかへる葛のうら風(藤原信実)
おく露のいとど深草里はあれて月のすむ野と成りにけるかな(少将内侍[続千載])
年をへて荒れゆく里の秋風にいとど深草松虫ぞ啼く(慶運)
里の犬のあとのみ見えてふる雪もいとど深草冬ぞさびしき(元政)

おもふ所ありて、前太政大臣によせて侍りける

たのまれぬ憂き世の中を歎きつつ日かげにおふる身を如何(いかに)せむ(後撰1125)

【通釈】期待できない憂き世を歎きながら、日の当たらない場所に生えた草のような我が身をどうすればいいのだろう。

【語釈】◇前太政大臣 藤原良房◇たのまれぬ 期待できぬ。あてにならぬ。◇日かげにおふる身 不遇の我が身を日影に生えている(成長の悪い)草に喩えて言う。

【補記】この歌は伊勢物語に見えない。

【他出】業平集、定家八代抄

世の中を思ひうじて侍りけるころ

すみわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿もとめてむ(後撰1083)

【通釈】この世に住むのは厭になってしまった。もうこれが限界と、山里に木の枝を折って集める隠棲の宿を求めることとしよう。

【語釈】◇思ひうじて 嫌気が差して。「うじ」は「うんじ」と発音する。◇つま木こる 爪木樵る。薪などに用いるため、木の枝を折って集める。

【補記】伊勢物語五十九段では、第四句を「身をかくすべき」とする。この歌を詠んで東山に隠棲し、病で死にかけたが、「おもてに水そそぎかけて」復活した、という話になっている。

【他出】業平集、古今和歌六帖、古来風体抄、定家八代抄、歌林良材

【主な派生歌】
今はとてつま木こるべきやどの松千代をば君と猶いのるかな(*藤原俊成[新古今])
山里を今はかぎりとたづぬとも一方ならぬ道やまどはむ(藤原定家)
すみわびて妻木こるべきやどならばさびしさのみはなげかざらまし(後鳥羽院)

身のうれへ侍りける時、津の国にまかりて、すみはじめ侍りけるに

難波津を今日こそみつの浦ごとにこれやこの世をうみわたる舟(後撰1244)

【通釈】難波の港を今日見たことだ。その御津の浦ごとに渡る舟――これこそが、この世を倦み渡る私なのだ。

【語釈】◇難波津 難波の港。◇みつの浦 御津の浦。「見つ」を掛ける。◇うみわたる 「倦みわたる」(嫌だ辛いと思いながら過ごす)と「海渡る」の掛詞。

【補記】伊勢物語六十六段では、兄弟や友人を引き連れて難波を遊覧した際の作とする。

【他出】業平集、伊勢物語、五代集歌枕、和歌初学抄、歌枕名寄、井蛙抄

【参考歌】小野小町「後撰集」
海人のすむ浦こぐ舟のかぢをなみ世を海わたる我ぞ悲しき

【主な派生歌】
春の色は今日こそみ津のうらわかみ葦の若葉をあらふ白波(藤原定家)
いづこかもつひの泊りと契るらむわれ世の中とうみわたる舟(宗尊親王)

題しらず

思ふこと言はでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ(新勅撰1124)

【通釈】思ったことは言わないで、そのまま口を閉ざしてしまった方がよい。自分と同じ心の人などいないのだから。

【補記】ふとした時、誰でも襲われることのある感慨であろうが、このように直截な言葉で、しかも歌という整序された器に収められたのを読むと、やはりドキッとさせられるし、傷痕のように心に刻み込まれてしまう。伊勢物語百二十四段には「むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにか、よめる」。制作事情を推察しようにも、話を膨らませようにも、とっかかりが見つからない歌ではあろう。

【他出】伊勢物語、竹園抄

【主な派生歌】
おろかなる我とひとしき友もやは嵐のかりほ思ひわぶとも(肖柏)
人づても聞くとは聞かでほととぎす我とひとしきこぞの古声(契沖)

題しらず

白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて()なましものを(新古851)

【通釈】草の上の露を、あれは真珠か、何なのかとあの人が問うた時、あれは露ですと答えて、まさにその露のように私も消えてしまえばよかったのに。

【補記】新古今集は詞書をすっかり省いてしまったが、物語の背景を知らないと、理解し難い歌である。出典は伊勢物語六段、名高い「芥河」の章段。女を盗み出して、芥河のほとりを行くとき、草の上の露を「かれはなにぞ」と女が問うた。男はそれに答える余裕もないまま、「あばらなる蔵」に女を押し込めて、追手から一晩戸口を守ったが、その間に鬼が女を「一口に」食ってしまう。雷のために、悲鳴も聞こえなかったのだ。夜明け頃、すでに女がいないことに気づいた男が、「足ずりして泣けども、かひなし」。そうして詠んだ歌、ということになっている。新古今撰者は勢語の潔く余情ある名文を簡略化して詞書とする愚を避け、敢えて「題しらず」としたものであろう。

【他出】伊勢物語、袖中抄、宝物集

【主な派生歌】
白玉か露かととはむ人もがな物思ふ袖をさしてこたへむ(藤原元真[新古今])
秋草の露とこたふる風もなしただしら玉をみがく月かげ(正徹)
白玉かなにぞととへば荻のうへの影はこたへずふるさとの月(〃)
とはばその露とこたへて別れ行く袖にやきえむ秋の面かげ(後柏原天皇)
白玉かとばかりまがふ草のうへに露とこたへてとぶほたるかな(中院通勝)
草の上に今朝ぞ消えゆく白玉か露かとまがふ夜の蛍は(後水尾院)
しら玉の数珠屋町とはいづかたぞ中(なか)京こえて人に問はまし(山川登美子)

病してよわくなりにける時、よめる

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを(古今861)

【通釈】いつか最後に通る道とは以前から聞いていたけれど、まさか昨日今日その道を通ろうとは思いもしなかったのに。

【語釈】◇つひにゆく道 人が最後に通る道。死出の道。◇聞きしかど 聞いていたけれど。「しか」は過去の助動詞「き」の已然形。◇昨日けふ 近い日々のことを言う。

【補記】伊勢物語最終段、「むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ」。

【他出】業平集、伊勢物語、如意宝集、大和物語、俊頼髄脳、定家八代抄

【主な派生歌】
さきだちておつる涙やつひに行くむなしき野べの道柴の露(慈円)
つひにゆく道をばたれもしりながらこぞの桜に風をまちつつ(藤原定家)
つひにゆく道よりも猶かなしきは命のうちのわかれなりけり(*雅成親王)
つひに行く道もいまはの時なれや羊のあゆみ身にぞちかづく(託阿[新後拾遺])


更新日:平成14年05月11日
最終更新日:平成23年08月03日

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