堯恵 ぎょうえ 永享二〜明応七以後(1430-1498) 通称:藤の坊

出自不明。頓阿以来の二条家歌学を継ぐ常光院流の歌僧。法印僧都。天台宗関係の僧であったと推測され、自著より加賀白山や青蓮院と関係が深いことが窺われる。堯孝の弟子。彭林(堯尋の甥)からも歌学を学んだという。堯憲(常光院の正式な継承者)の兄弟子。弟子に兼載などがいる。
文明年間末頃、東国・北国を旅し、美濃の東氏、越後の上杉氏など各所の豪族から歓待を受け、歌会に招かれた。明応三年(1494)頃から京に定住したらしく、後土御門天皇・勝仁親王(のちの後柏原院)に古今集や百人一首を講じた。明応七年に成った家集『下葉和歌集』(以下「下葉集」と略)は勝仁親王の命名になるという。以後の消息は不明で、家集成立後まもなく没したかと見られている。
飛鳥井雅世・冷泉為富・一条兼良など多くの公家歌人と交流があった。著書は歌学書『古今集延五記』『古今声句相伝聞書』、紀行『北国紀行』『善光寺紀行』ほか数多い。

南北朝時代に二条家が断絶してしまうと、二条派の歌学は頓阿の子弟によって受け継がれた。ことに頓阿の曾孫常光院堯孝は歌才に恵まれ、足利将軍家の後援を得て勢力を伸ばす。室町時代における二条派歌学の道統を常光院流と呼ぶ所以である。
堯恵はその堯孝の弟子で、家柄があまり高くなかったゆえか常光院の正式な継承者にはなれなかったが、応仁の乱後の京都で後土御門院・後柏原院に古今集を講ずるなど、堯孝の弟子の中では抜きん出た歌学者であった。しかし、当時は二条派の学統を嗣ぐ古典学者として宗祇という大きな存在があり、その影に隠れてしまったような恰好だ。
歌は技巧重視で、非常に凝った趣向を用いている。六百九十余首を収める自撰家集『下葉(したば)和歌集』を読むと大変意欲的な制作態度が窺えるが、成功作が多いとは到底思えない。
むしろ彼の才能は『北国紀行』『善光寺紀行』といった紀行の書に花開いたと言えるのではないか。『北国紀行』より、武蔵国鳩が井(今の埼玉県鳩ケ谷市)から武蔵野越しに富士を眺めるくだりを引用しよう。

其日の半ばより、やうやう富士は見え侍りぬべきを、夜の霜の名残なほ掻き曇りて、限りも知らず侍り。からうして鳩が井の里、滋野憲水が宿に着きぬ。二十日の夜の残月ほがらかに枯れたる草の末に落ちかかりて、朝の日又東の空より光ばかりほのめきたり。富士蒼天にひとしくして、雪みどりを隠せり。ただそれならんと思ふに、茫然として青空に向かへり。

  今朝見ればやや慰めつ富士の嶺にならぬ思ひもなき旅の空

以下には『下葉集』『北国紀行』より八首を抜萃した。

蒼海のほとりもなき上に、富士ただ虚空にひとり浮かべり。東路のいづくはあれど、今日こそ真実麓よりなり出でけん姿も見え侍るとおぼえて

春の色の碧にうかぶ富士のねは高天の原も雪かとぞみる(北国紀行)

【通釈】春の色である藍色の中に浮かぶ富士の高嶺を見れば、高天原も雪が積もっているのかと思えるのだ。

【語釈】◇碧(みどり) ここでは藍色。海の色であると共に、春の霞の色。◇高天(たかま)の原 天つ神が住む天上の国。天照大神が支配する。

【補記】文明十九年(1487)二月、相模国三浦の崎(三浦半島の相模湾側、今の葉山町辺りの岬か)を逍遥していた時、涯もない蒼海の上に富士山が浮かんでいるのを見て詠んだ作。それ以前も東国の道でたびたび目にしていたが、その日初めて全姿を現わした富士を見たゆえの感動。家集では詞書「相州より富士をみて」。

【参考歌】慈円「新古今集」
天の原ふじのけぶりの春の色のかすみになびくあけぼのの空

海村夕立

浪の上は千里(ちさと)に晴れて(みぎは)なる木末(こずゑ)にしづむ夕立のそら(下葉集)

【通釈】空は、海上では遥か沖まで晴れ渡っていて、海辺の木々の梢には夕立が降りそこだけ暗く沈んでいる。

【補記】晴れた海原と夕立の降り籠める海辺という壮大な景を一首に籠めようとした。「しづむ」は海の縁語であるが、この語によって、渚の松林が水中に沈んだかのように濡れている景も想われる。凝りに凝った措辞はこの作者には珍しいものでない。

【参考歌】俊成卿女「俊成卿女集」
波のうへは千里のほかに雲きえて月かげかよふ秋のしほ風

萩花蔵水

埋れ行く野原の水の声なきもおちてしらする萩の下露(下葉集)

【通釈】咲き乱れる萩原に埋れて流れてゆく野中の水は声を立てないけれども、花の下露が滴り落ちてその在り処を知らせる。

【補記】「萩花蔵水(萩の花、水を蔵す)」は極めて珍しい歌題。

山路雪

山ふかみ人もはらはぬ橋の上のあやふき暮に積る雪かな(下葉集)

【通釈】山があまり深いので、掃う人もいない橋の上――危うい夕暮時に積もる雪であるよ。

【補記】「あやふき暮」は積雪故に足もとが危うい夕暮ということだが、山奥に住む話者の心も人恋しくて危うい、と深読みしておきたい。

【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
人づまに心あやなくかけはしのあやふき道は恋にぞありける

初恋

われながら昨日にかはる心とはいまだおもはぬ夕暮の空(下葉集)

【通釈】自分でも昨日の私と今日の私で心が違うとは、いまだに思われない――夕暮の空を眺めつつそう思うよ。

【補記】ここに言う「昨日」とは、まだ人に恋をしていなかった昨日。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
世の中はなにかつねなる明日香川きのふの淵ぞけふは瀬になる

遠恋

君がわたり思ひやれども行きなやむ心の末や峰のかけはし(下葉集)

【通釈】あなたの住むあたりを思い遣るけれども、私の心はその先で行き悩む――峰に渡した懸橋を難渋して登るかのように。

【語釈】◇遠恋 恋人と遠く隔てられた恋。◇かけはし 険しい崖地などに板などを渡した橋。

【補記】山道の末には険しい懸橋があるように、恋人のもとへ行こうとする心の末には越え難い障害があるのか、とした。

【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
君があたり雲井に見つつ宮ぢ山うちこえゆかん道もしらなく
  藤原家隆「壬二集」
思ひやる心いくへの峰こえてしのぶのおくを尋ね侘ぶらん

あづまに侍りし春のころ、隅田河に舟をうかべて

浪の上のむかしをとへばすみだ河かすむや白き鳥の涙に(下葉集)

【通釈】舟を浮かべて波の上の昔を尋ねれば、隅田川が霞んで見えるのは、白い鳥に流す涙ゆえか。

【語釈】◇むかしをとへば 伊勢物語(下記本説参照)の舟人たちを偲ぶことを言う。◇白き鳥 都鳥。ユリカモメのことかと言う。

【補記】「白き鳥の涙に」は、文字通り受け取れば、鳥自身が涙を流していると解するほかない。『北国紀行』によれば、文明十九年(1487)二月、利根川・入間川の合流するあたりで詠んだ歌。

【本説】「伊勢物語」第九段
なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりに群れゐて思ひやれば、かぎりなく遠くもきにけるかなとわびあへるに、渡し守、「はや舟にのれ、日もくれぬ」といふに、のりてわたらむとするに、皆人、ものわびしくて、京におもふ人なきにしもあらず。さるおりしも、白き鳥の嘴と脚とあかき、鴫の大きさなる、水のうへにあそびつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人、見しらず。渡し守にとひければ、「これなむみやこどり」といふをききて
 名にしおはばいざこととはむ都鳥わがおもふ人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりてなきにけり。

水無瀬川にて、皇居とおぼしき所の御かたを拝したてまつりき

散るもみぢありて行く水絶えせずや今も水無瀬にうかぶことのは(下葉集)

【通釈】散る紅葉があって、行く水は絶えないのか、今も水無瀬川に美しい木の葉が浮かび流れる――そのように、後鳥羽院のご意志は今も引き嗣がれ和歌は詠み継がれている。

【語釈】◇水無瀬川 大阪府三島郡島本町あたりを流れて淀川に合流する。川辺に後鳥羽院の水無瀬離宮があり、その崩後は後鳥羽院御影堂が建てられ、明治時代になって水無瀬神宮が造営された。

【補記】新古今集編纂を指導した後鳥羽院の遺業と、その伝統が引き継がれていることを讃える。室町時代には宗祇らが『水無瀬三吟百韻』を御影堂に奉納するなど、後鳥羽院鑽仰の気運が高まっていた。


公開日:平成17年06月05日
最終更新日:平成19年07月31日