二条為明 にじょうためあきら 永仁三〜貞治三(1295-1364)

二条家庶流。二条為藤の子。為忠の兄。御子左家系図
後醍醐天皇に仕え、北条氏討伐の企てに参加。笠置の陣で捕えられ、元弘二年(1332)三月、尊良親王の土佐配流に従った。観応二年(1351)、南朝が京都を一時的に恢復した際、南朝の参議となったが、その後は北朝に仕え、延文元年(1356)には北朝の参議となった。同四年、権中納言。侍従を兼ね、同五年正三位に昇叙される。同六年、権中納言を辞退。貞治三年(1364)四月、民部卿に任ぜられるが、同年十月二十七日に薨じた。七十歳。
正和四年(1315)の為世主催花十首寄書、元亨三年(1323)の亀山殿七百首、建武二年(1335)の内裏千首、康永三年(1344)の金剛三昧院奉納和歌、貞和二年(1346)の貞和百首、延文元年(1356)の延文百首、延文四年(1359)の七夕内御会などに出詠。二条家嫡流の従兄為定に長く随従したが、その後不和となり、為定の子為遠とも対立して、二条家は分裂に至った。将軍足利義詮の信任を得て歌の師匠となり、義詮・後光厳天皇に古今集を相伝。貞治二年(1363)、義詮の執奏により新拾遺集撰進の命を下され、翌年四季部を奏覧したが、同年、完成を遂げずに薨去した。続千載集初出。勅撰入集は計四十五首。

「為明卿は生得におもしろき様にはなかりしかども、まことの道の人とおもふやうなる歌をよみ侍りしなり。たゞしくいさゝか古体にたけある様に侍りき」(二条良基『近来風体抄』)


左兵衛督直義よませ侍りし日吉社七首歌中に、花盛開といへることを

遠近(をちこち)のさくらは雲にうづもれて風のみ花の香に匂ひつつ(新拾遺93)

【通釈】あちこちの桜は雲に埋もれて見分けもつき難く、ただ風ばかりが花の香に匂っては花の盛りの季節を告げ知らせている。

【補記】足利直義が主催し、日吉社に奉納した七首歌。為明自ら新拾遺集春上の巻軸に置いた程であるから、自信作であったろう。

【参考歌】藤原為家「為家千首」
みよしののみ山は雲にうづもれてをのへににほふ四方の春風

延文百首歌たてまつりける時、春月を

かすむ夜の光を花とにほふにぞ月のかつらの春もしらるる(新続古今93)

【通釈】朧ろに霞む夜の月が、あたかも花のようにほのぼのと光ることで、月の桂の樹にも春の訪れたことが知られるよ。

【補記】月に桂の木が生えているとするのは唐土渡来の伝説。そもそもは桂花(キンモクセイの類)を言ったらしいが、和歌では落葉高木の桂として詠むのが普通。桂は早春、あまり目立たない紅い花をつける。

【本歌】源忠「古今集」
秋くれば月のかつらの実やはなる光を花とちらすばかりを

朝更衣

世とともに春の別れをしたひきてあくればかふる花染の袖(亀山殿七百首)

【通釈】世と共に春の別れを慕ってきて、とうとう夜が明ければ脱ぎ替えることよ、花染めの衣を。

【補記】立夏の朝における春服から夏服への衣替えを詠む。初句「世とともに」は悪く言えば曖昧、良く言えば含蓄深い言い方。「時の流れと共に」といった意味のほかに、「世間の人々と共に」、すなわち世の人心に漠然と流されて、といった心がこもる。下記俊成女の歌を意識せざるを得ないからである。

【参考歌】俊成女「新古今集」
をりふしもうつればかへつ世の中の人のこころの花ぞめの袖

延文百首歌に、盧橘

うたたねのとこ世をかけてにほふなり夢の枕の軒の橘(新続古今279)

【通釈】転た寝の床から、遥かな常世の国にまでかけて匂うようだ。夢見る枕辺の、軒先の橘よ。

【補記】夏歌。題「盧橘(ろきつ)」は柑橘類を言う漢語だが、ここでは橘のこと。花橘を詠んだ古今・新古今の名歌三首のみならず、田道間守が常世の国から「時じくのかくの木の実」すなわち橘を持ち帰ったとの伝説(古事記)をも踏まえて詠む。なお「とこ世」には「床」が掛かる。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
さ月まつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする
  式子内親王「新古今集」
かへりこぬむかしをいまとおもひねの夢の枕ににほふ橘
  俊成女「新古今集」
たちばなのにほふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする

延文百首歌に、夕立を

いとどしくあべの市人さわぐらし坂こえかかる夕立の雲(新続古今322)

【通釈】いっそう喧しく安倍の市人が騷ぎ立てているらしい。夕立の雲が峠を越え掛かり、今にも一雨来そうなので。

【補記】夏歌。「あべ」は今の静岡市。「あべの市」は万葉集由来の歌枕で、「ことしげきあべの市路」(源頼政集)など、ことに賑やかな市として知られたらしい。「坂」は静岡市と焼津市の境をなす日本坂峠。

【先蹤歌】法印定円「夫木抄」
かきくらしおもひもあへぬ夕立に市人さわぐみわの山もと

【参考歌】春日蔵老「万葉集」
焼津辺に吾が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし子らはも
  「万葉集」東歌
坂こえて阿倍の田の面にゐる鶴のともしき君は明日さへもがも

貞和百首歌に

夢さそふ風のやどりと成りにけり枕にちかき庭の荻はら(新続古今369)

【通釈】庭の荻叢に風がひっきりなしに吹きつけ、あたかもそこが風の宿となってしまったかのようだ。さわさわと荻の揺れる音が枕に近く響いて、絶えず私を夢へと誘う。

【補記】秋歌。荻(おぎ)はイネ科ススキ属の多年草。秋に出す穂は銀白色で、稲よりも大きく、ふさふさとしている。風に音立てて揺れるさまが秋らしい情趣として歌によく詠まれた。秋風の音は恋人の訪れを暗示するものでもあったから、この「夢」は恋の匂いのする夢である。

【先蹤歌】藤原成宗「新勅撰集」
いく秋の風のやどりとなりぬらむ跡たえはつる庭の荻はら

【参考歌】素性法師「古今集」
花ちらす風のやどりはたれかしる我にをしへよ行きてうらみむ

元徳元年三月尽日、内裏にて人々三首歌よみ侍りけるに、毎夕待恋といふことを

とへかしな我のみたえぬあらましにまつを契りの夕ぐれの空(藤葉集)

【通釈】訪ねてくださいな。私ばかりが絶えず叶わぬ願いに待ち暮らす――それが宿縁であるかのような、夕暮の空の下を。

【補記】毎夕男を待つ女の立場で詠んだ歌。

 

思ひきやわが敷島の道ならでうき世の事をとはるべしとは(太平記)

【通釈】思いもしなかった。我が家業である和歌の道でなくて、風流とは無縁の世俗のことを問われようとは。

【補記】太平記巻二「僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」。元徳三年=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れた際、為明は側近の歌人として六波羅に捕われた。拷問にかけられようとした時、硯を所望し、料紙にこの歌を書いた。幕府の使者たちはこれを読んで感涙し、為明はあやうく責を遁れたという。和歌としてすぐれた作ではないが、南北朝の政争に翻弄された歌人為明の人生を象徴するという意味では彼の代表作となろう。為明の歌人としての名声はこの一首によって高まったという(近来風体抄)。

【語釈】◇敷島の道 「敷島の」は「やまと」に掛かる枕詞であったが、のち「しきしまの道」で「和歌(やまとうた)の道」を意味するようになった。


最終更新日:平成15年04月12日