心敬 しんけい 応永十三〜文明七(1406-1475)

紀伊国名草郡田井庄(現在の和歌山県和歌山市)に生まれ、三歳で上洛し、僧となる。はじめ蓮海(連海とも)を名のり、また心恵とも号した。比叡山で修行し、宝徳(1449〜1452)頃、権律師の地位にあり、のち権大僧都に至る。
永享初年頃より和歌を正徹に学ぶ。永享五年(1433)二月、将軍足利義教が開催した「北野社法楽一万句」に参加(名は連海)。以後、京洛の歌会・連歌会に出座し、五十歳頃には心敬を名のって連歌界の中心人物として活躍した。寛正三年(1462)、土一揆等で混乱する京を離れ、故郷の田井庄に下り、翌四年、百首和歌を詠じ、連歌論書『ささめごと』を著わす。のち帰洛し、寛正五年(1464)には洛東の音羽山麓十住心院に住んでいたことが知られる。いよいよ戦乱が激しさを増した応仁元年(1467)、伊勢参宮の後、関東の豪商鈴木長敏に招かれ、武蔵国品川に住む。文明三年(1471)夏、相模国大山の麓に隠棲。同六年、太田道灌邸の「武州江戸歌合」では判者を務めた。同七年四月十六日、帰洛の願いを果たせぬまま、大山に没す。七十歳。
歌集に『権大僧都心敬集』(以下「心敬集」と略)や『心敬僧都十体和歌』(以下「十体和歌」と略)、句集に『心玉集』『吾妻辺云捨』等、論書に『ささめごと』『ひとりごと』『老のくりごと』等がある。門弟に宗祇兼載・心前ほかがいる。

「権大僧都心敬集」 続群書類従446(第16輯上)・私家集大成6・新編国歌大観8
「心敬僧都十躰和歌」 続群書類従403(第15輯上)・私家集大成6
「心敬僧都百首」 続群書類従397(第14輯下)
「寛正百首」 新日本古典文学大系47『中世和歌集 室町篇』
「ささめごと」 中世歌論集(岩波文庫) 日本古典文学大系51『連歌論集』

「心もち肝要にて候。常に飛花落葉を見ても草木の露をながめても、此世の夢まぼろしの心を思ひとり、ふるまひをやさしくして、幽玄に心をとめよ」(『心敬僧都庭訓』)
「氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝のうすこほり。古りたる檜皮の軒などのつらら。枯野の草木など、露霜のとぢたる風情、おもしろく、艶にも侍らずや」(『ひとりごと』)

  5首  2首  5首  5首  1首  6首 計24首

立春

今朝はまだ霞まぬ山も昨日より遠きばかりを春の色かな(十体和歌)

【通釈】今朝はまだ霞む程ではない山だが、昨日よりわずかに遠く見える――そればかりが春の訪れた徴候なのだな。

【補記】『心敬僧都十体和歌』は十の風体に分類して心敬の秀歌を抜粋した集(自撰と推測される)。掲歌はそのうちの「有心体」。寛正四年(1463)の百首歌には「春とだにまだあへぬ色を朝ぼらけとほきばかりにかすむ山かな」とよく似た歌が見える。

【参考歌】西園寺実氏「現存和歌六帖」
今朝よりはかすまぬ山もなかりけり花のみやこに春やたつらん

軒梅

ふかき夜の梅のにほひに夢さめてこす巻きあへぬ軒の春風(心敬集)

【通釈】深夜の梅の匂いに夢が醒めて――簾を敢えて巻き上げるほどもない、軒を過ぎる春風よ。

【補記】「こす巻きあへぬ」云々とは、簾を巻き上げずとも十分に梅の香を風が運んでくれる、という程の意。

【参考歌】順徳院「順徳院百首」
夢さめてまだ巻きあげぬ玉だれのひま求めてもにほふ梅がか

春月

面影は春やむかしの空ながらわが身ひとつに霞む月かな(心敬集)

【通釈】「春や昔の」と詠まれたように、故郷の空は昔の面影のままであるのに、私一人の身には、涙で霞んで別物のように見える月であるよ。

【補記】寛正四年、作者五十八歳の年、紀伊国田井庄に里帰りしての法楽百首歌。長く留守にしていた故郷にあって別人のように年老いてしまった自身に対する感慨を詠む。これも『十体和歌』の「有心体」に入る。

【参考歌】在原業平「古今集」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

春雨

佐保姫の霞の袖に髪すぢをみだすばかりの春雨の空(心敬集)

【通釈】霞の衣を纏った佐保姫の袖に髪筋が乱れて振りかかるように、細かに降り乱れる春雨の空よ。

【補記】佐保姫は奈良の佐保山を領する春の女神。その山に立ち込めた霞を女神の衣に見立て、「霞の袖」と言いなしたのは常套表現だが、春雨の雨脚の細かさを女神の髪筋に喩えたのはファンタスティック。寛正四年の百首歌。

【参考歌】藤原為子「嘉元百首」
さほひめの霞の袖もしほるらし猶ふりくらす春雨のそら

落花

花ならぬ身をもいづちにさそふらん乱れたる世の末の春風(心敬集)

【通釈】風は花を誘って散らすと言うが、花でもない我が身をどこへ誘うというのか。乱れた世の末に吹く春風は。

【補記】寛正四年の百首歌。自註には「都ほとりもみだりがはしくて、ここかしこさまよひ侍るわが身のありさまを、ついでに申あらはし侍るなるべし」とある。

故郷橘

なき玉やふりにし宿にかへるらん花たちばなに夕風ぞふく(十体和歌)

【通釈】亡き人の魂が、故郷の古びた家に帰って来たのだろうか。橘の花に夕風が吹いて、昔を偲ばせる香を運ぶ。

【補記】橘の花の香は過去の追想へ人を誘うものとされた(参考歌参照)が、この歌では「夕風」を詠んだ所がポイントで、心敬自註は「物の色もわかぬ昏黒に、古木の花たちばなの荒庭にうちかをりたるは、花を思ひおき侍りし魂霊や只今来たり侍りぬると、すずろにあやまたれ侍る也」と解説している。なお心敬集では初句「なき人や」。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

澗底蛍火

おぼつかなたが身をなげし(たま)ならん千尋の谷に蛍飛ぶかげ(心敬集)

【通釈】漠としてよく分からない。誰が身投げした亡魂なのだろう。深い谷底に蛍の舞い飛ぶ光――。

【語釈】◇おぼつかな 気になるがよく判らない、はっきりせず不安だ、といった心。◇千尋(ちひろ) 非常に深いこと。中世、「ちいろ」と発音した。

【補記】心敬集には戦乱で命を落とした人の亡魂を詠んだとおぼしい歌が散見する。次の「河月」の歌も参照。

河月

月のみぞ形見にうかぶ紀の河や沈みし人の跡のしら浪(心敬集)

【通釈】今では月だけが、亡き人を思い出すよすがとして影を浮かべている、紀の川――その水底に沈んだ人の果敢ない痕跡を示すごとき白波よ。

【語釈】◇形見にうかぶ 月を形見として死者の面影が「浮かぶ」との意を掛けているのだろう。◇跡のしら浪 下記沙弥満誓の歌に由来する句で、人世の無常を暗示する。

【補記】寛正四年の百首歌。当時京は土一揆で混乱していたが、心敬の故国紀伊でも守護畠山氏の家督を巡る争乱が続いていた。自註には「此河にしづみ侍る人の数千八百人など申し侍る。そのうちに若とし見なれ侍りし人しづみうせ侍れば、たびたび此川の月を見侍る折、あはれなる事ども思ひいで侍れば」と制作時の心境を明かしている。

【本歌】沙弥満誓「拾遺集」
世の中をなににたとへむ朝ぼらけこぎゆく舟のあとのしら浪
(万葉集の「世の中を何に譬へむ朝びらき漕ぎ去にし船の跡なきごとし」の異伝)
【参考歌】平行盛「玉葉集」
もろともにみし世の人は波の上に面影うかぶ月ぞかなしき

秋夕

世は色におとろへぞゆく天人(あまびと)のうれへやくだる秋の夕ぐれ(十体和歌)

【通釈】今や世は有形の万物において衰えてゆくのだ。天女の憂愁が地上に下ったのだろうか、この秋の夕暮の景色は。

【補記】有心体。初句「世は色も」とする本もある。この「色(いろ)」は、「天人」の縁から「美人の容色」の意を帯びるが、一首の本意からすれば仏教用語の「色(しき)」、すなわち「色・形のあるもの」「物質的存在」ということであろう。

【参考】小野篁「和漢朗詠集」(→資料編
物色自堪傷客意 宜将愁字作秋心(物の色は自ら客の意を傷ましむるに堪へたり。うべなり愁の字をもて秋の心に作れること)
  よみ人しらず「古今集」
夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて

暮山鹿

夕ぐれは遠ざかりゆく山のはを軒ばにかへすさを鹿の声(十体和歌)

【通釈】夕暮になると、遠く幽かになってゆく山の端――それを軒端に戻すかのような牡鹿の声よ。

【補記】目には遠ざかりゆくと見えた山の端が、ふと鹿の声を聞いて間近に戻って来たように感じた。「幽玄体」に分類されている。

落葉

絶えまなくさそふ風よりただ一葉心とおつる庭ぞさびしき(心敬集)

【通釈】絶え間なく誘う風によってたくさんの葉が散るのよりも、たった一片の葉が自分から落ちてゆく庭の方が寂しいのだ。

【補記】制作年未詳。

【参考歌】宗尊親王「竹風抄」
神無月嵐のふかぬ夕ぐれも心とおつる木木のもみぢば

冬月

山里はやもめ烏の鳴く声に霜夜の月の影を知るかな(心敬集)

【通釈】山里にあっては、眼の悪い烏が勘違いして鳴く声で、霜夜の冴え冴えとした月明かりを知るのだなあ。

【語釈】◇やもめ烏 眼の悪い烏。唐の張文成作『遊仙窟』の、真夜中に暁を告げて鳴く「病鵲」に由来。

【補記】山陰の里では、病烏の鳴き声によって月光が暁のように明るいことを知る、とした。寛正四年の百首。『十体和歌』の「尊古体」に入り、題は「山家冬月」とある。

【参考歌】張継「楓橋夜泊」
月落烏啼霜満天(月落ち烏啼いて霜天に満つ)
  藤原為家「新撰和歌六帖」
月に鳴くやもめがらすのねにたてて秋のきぬたぞ霜にうつなる

江残雁

ふけにけりかたぶく月も遠き江の氷におつる雁の一声(十体和歌)

【通釈】夜はすっかり更けた。沈みかかる月も遥かに遠ざかって――入江の凍りついた水面へと落ちてゆく、雁の一鳴きの声よ。

【語釈】◇江残雁 江の残雁、あるいは江に残る雁。「残雁」とは仲間に遅れ独り残っている雁のことで、白氏文集の「寂寞深村夜 残雁雪中聞」の影響あって好んで歌題とされた。

【補記】幽玄体。寛正四年の百首には同じ初句を用いた「ふけにけり音せぬ月に水さび江の棚なしを舟ひとりながれて」があり、冷え寂びた境地を尊んだ心敬の、いずれも心尽くしの一首。

【参考歌】慈円「新古今集」
おほえ山かたぶく月の影さえてとばたの面におつる雁がね

湖上千鳥

から崎や夕なみ千鳥ひとつ立つ洲崎の松も友なしにして(心敬集)

【通釈】唐崎では一羽はぐれた夕波千鳥が立ち尽している。片や、洲崎の松も友なしにぽつんと立っていて――。

【補記】「夕なみ千鳥」は下記万葉歌に由来する歌語で、夕波に立ち騷ぐ千鳥のことかという(萬葉集略解)。「から崎」は滋賀県大津市唐崎。琵琶湖の西岸で、松の名所。「洲崎」は普通名詞で、洲が長く湖中に突き出、崎となった所を言う。応仁元年の百首歌。下句は連歌の脇句の趣。

【参考歌】柿本人麿「万葉集」
淡海の海夕波千鳥なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
  大伴旅人「万葉集」
草香江の入江にあさる蘆鶴のあなたづたづし友なしにして

積雪

山もとの杉の一むらうづみかね嵐も青くおつる雪かな(心敬集)

【通釈】麓の一群の杉を埋め残し、そこだけは嵐も青く見えて流れ落ちる雪であるなあ。

【補記】雪嵐の中、ひときわ高く聳える杉林の梢だけが青く見える景(針葉樹に雪は積もりにくい)。寛正四年の百首歌。因みに「青」は心敬の好んだ色で、「水青し消えて幾日の春の雪」の名句もある。

【参考歌】藤原定家「続古今集」
を泊瀬や峯のときはぎふきしをり嵐にくもる雪の山もと
  後鳥羽院「新古今集」
み吉野のたかねの桜散りにけり嵐もしろき春のあけぼの

閑中雪

思ひたえ待たじとすれば鳥だにも声せぬ雪の夕暮の山(心敬集)

【通釈】もう諦めて、人を待つまいと思うと、人ばかりか鳥さえも声を立てない、雪に埋れた夕暮の山里よ。

【補記】寛正四年の百首歌。心敬自註に「此歌はいささか心ふかく仕り侍るやうに拙者思ひ侍り」とあり、自信作であったらしい。なお『十体和歌』では有心体に入れている。

【参考歌】寂蓮「新古今集」
ふりそむるけさだに人のまたれつる深山のさとの雪の夕暮

寄露恋

よもぎふに残るもかなしおき出でしあかつき露のあとの面影(心敬集)

【通釈】暁に起き出て、朝露の置いた庭先まで、あの人を送ったものだ、また夕暮に逢おうと契って――それも昔の思い出になってしまって、蓬生にあの頃を偲ばせる露ばかりが残っているのも切ない。

【補記】寛正四年の百首。自註に「此ゆふぐれとちぎりて、かりそめに出でにし庭もむかしがたりになりて、よもぎが露のみ形見となることを」とあるのに添って解釈してみた。なお「おき」は露との縁で「置き」の意が響く。

蔦風

うつの山つたの葉もろき秋風に夢路もほそきあかつきの空(心敬集)

【通釈】宇津の山で旅寝すれば、蔦の葉ももろく散る秋風のために、現実の山道ばかりか、故郷へ辿る夢路も細々としている、暁の空よ。

【補記】制作年未詳。「うつの山」は今の静岡市宇津ノ谷(うつのや)あたり。東海道の難所として名高く、伊勢物語第九段によって歌枕となった。宇津は「うつつ」と音が通うため、対比して「夢」を詠むのが和歌の常套。

【本説】「伊勢物語」第九段
ゆきゆきて、駿河の国にいたりぬ。うつの山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓はしげり、もの心ぼそく、すずろなるめを見ることとおもふ、す行者あひたり。かゝる道はいかでかいまする、といふを見れば見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、ふみかきてつく。「するがなるうつの山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」

月友羈中

月にただ見ぬ海山をかたるかなさても都の人は知らじを(心敬集)

【通釈】私はただ月に向かって、都の人たちが未だ見知らぬ海山のことを語るのだな。そんなことをしても、かの人たちの耳には届くまいに。

【補記】題意は「月を友とする旅の道中」。続く一首は「旅宿夜夢」の題で「忘られぬ心づからの夢もうし古郷人は思ひ出でじを」。応仁元年の百首歌。

薄暮松風

三十(みそぢ)よりこの世の夢は破れけり松吹く風やよその夕暮(心敬集)

【通釈】三十の時よりこの方、現世の夢は破れてしまった。夕暮、松を吹いて激しく鳴らせる風も、私には無縁であるよ。

【補記】応仁元年の百首歌。心敬三十の年に如何なる一身上の事件があったか不明であるが、当時は比叡山の争乱、土一揆の蜂起などが打ち続き、いよいよ乱世の様相を濃くしてきた時期にあたる。

【本説】作者不明「和漢朗詠集」
山遠雲埋行客跡(山遠くしては雲行客の跡を埋む)
松寒風破旅人夢(松寒くしては風旅人の夢を破る)
【参考歌】藤原定家「新古今集」
年もへぬいのるしるしははつせ山をのへの鐘のよその夕暮

無常

かかれとて()がたらちねの撫でつらん尾花がもとに残る黒髪(心敬集)

【通釈】こんなふうになると思って、誰の親が撫でたというのだろうか。尾花のもとの髑髏に残る黒髪よ。

【補記】戦乱の世、荒野に打ち捨てられたしゃれこうべの黒髪。出家の際に剃ぎ落とした黒髪に母の慈愛を偲んだ本歌を思い合わせる時、いっそう悽愴の感を深くする。

【本歌】遍昭「古今集」
たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ

無常

わが心ただ花のみを幻とおもひわくれば乱れてぞちる(心敬集)

【通釈】ただ花ばかりが幻であると区別して考えれば、私の心が千々に乱れて散るのだ。

【補記】散る花を心の幻と思い込むことで、心そのものを散らし、無にしようという、禅的な発想。制作年未詳。

月にあく心のなどかなかるらん皆うきことは見はてぬる世に(文明三年百首)

【通釈】月に飽きるという気持がなぜないのだろうか。この世の辛いことは全て見尽くした我が人生であるのに。

【補記】倦じ果てたはずの世にあって、月を愛でずにはいない己が心を訝る。文明三年(1471)、最晩年の百首歌(但し二年とする本もある)。同年五月九日は師正徹の十三回忌にあたり、これを記念して詠んだ百首歌らしい。当時心敬は関東流浪の身であった。なお掲歌は秋の部に入るが、述懐色が強いため、ここでは雑の部に入れた。因みに一つ前の歌では「うらめしな世はくらやみの空の月ながむとすれば胸にさわぎて」と乱世を「暗闇の空」に言いなしている。併せて鑑賞されたい。


更新日:平成17年01月16日
最終更新日:平成18年07月27日