藤原家隆 ふじわらのいえたか(-かりゅう) 保元三〜嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位

良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。
「風体たけたかく、やさしく艶あるさまにて、また昔おもひ出でらるるふしも侍り。末の世にありがたき程の事にや」(続歌仙落書)。
「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。
「家隆は詞ききて颯々としたる風骨をよまれし也。定家も執しおもはれけるにや、新勅撰には家隆の哥をおほく入れられ侍れば、家隆の集のやう也。但少し亡室の躰有て、子孫の久しかるまじき哥ざま也とて、おそれ給ひし也」(正徹物語)。
「妖艷の彩を洗い落とした後の冷やかな覚醒、鬼拉の技の入り込む隙もない端正なしかもただならぬ詩法、それは俊成を師とした彼と、俊成を父とした定家の相肖つつ相分つ微妙な特質であった」(恂{邦雄『藤原俊成・藤原良経』)。

以下には勅撰集入集歌と『壬二集』を中心に八十八首を抄出した。本文は主として新編国歌大観に拠る。表記は改めた部分もあり、他本により語句を差し替えた箇所もある。勅撰集入集歌には、新編国歌大観番号を付した。

  15首  7首  22首  6首  17首  21首 計88首

六百番歌合に、春氷

春風に下ゆく波のかずみえてのこるともなきうす氷かな(風雅35)

【通釈】春風が吹くと、氷の張った下を流れてゆく水にさざ波が立つ――その数が透けて見えるほどで、もう残っているとも言えないほどの薄い氷である。

【語釈】◇かずみえて 数がかぞえられるほどはっきり見えて。先例「石ばしる水の白玉数見えて清滝川にすめる月影」(藤原俊成[千載])。

【補記】建久四年(1193)頃の六百番歌合、春上十七番右勝。判者の俊成は「薄氷の下に波の数の透ける心、わりなく(殊勝に)見ゆ」とし、勝をつけた。

百首歌たてまつりし時

谷川のうちいづる波も声たてつ鶯さそへ春の山風(新古17)

【通釈】谷川の解けた氷の隙間からほとばしり出た波も、春めいた音をたてた。この音を伝えて、まだ谷間から出て来ない鶯を誘い出してくれ、春の山風よ。

【語釈】◇鶯さそへ 鶯は春になると谷から出て来ると考えられた。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院初度百首。

【他出】定家八代抄、百番自歌合、壬二集、新三十六人撰、歌林良材

【本歌】源当純「古今集」
谷風にとくる氷の隙ごとにうちいづる波や春の初花
  紀友則「古今集」
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべにはやる

【主な派生歌】
峯の雪たにの氷もとけぬらむ鶯さそへむめのした風(飛鳥井雅経)
朝露もちりかひなびく柳風鶯さそへ池の浮草(正徹)
江の南梅も柳もかすむ日に鶯さそへ春のうらかぜ(冷泉為村)

若草

花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草のはるを見せばや(壬二集)

【通釈】花の咲くのばかり待っている人に、山里の残雪の間に萌え出る、若草の春を見せてやりたいものだ。

【語釈】◇草のはる 「はる」に「春」「(草の芽が)張る」の両義を掛ける。

【補記】「六百番歌合」春上二十二番右持。

【他出】三百六十首和歌、題林愚抄

摂政太政大臣家百首歌合に、春の曙といふ心をよみ侍りける

霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空(新古37)

【通釈】霞がたちこめる末に見える、末の松山――「末の松山波も越えなむ」というが、ちょうど棚引く霞が波のように山を浸している。そこへ、ほのぼのと夜が明けてゆくとともに、横雲もおぼろに霞みつつ、あたかも海上の波を離れるかのように、曙の空を立ち昇ってゆく。

【語釈】◇末の松山 陸奥国の歌枕。所在地は諸説あり未詳。海に程近い小山で、頂きに松が生えていると思われていたらしい。「霞み立つ末」と言い掛けている。◇ほのぼのと 夜がうっすらと明ける様を言うとともに、ぼんやりと棚引く横雲のさまを形容している。◇波にはなるる たなびく霞、または波打つ丘陵を「波」と呼んでいるか。古今集の本歌(下記参照)によって、男女の別れを暗示し、また「波」は「末の松山」の縁語となる。◇横雲の空 「横雲」は水平にたなびく雲。新古今時代、この句を末に置くのが流行ったが、家隆の歌は最初期の例。新古今集に並ぶ定家の「峰にわかるる横雲の空」は、家隆詠に五年遅れる。

【補記】「六百番歌合」春中二十八番右勝。判者の俊成は「『波にはなるる横雲の空』といへる気色、ことに宜しく侍るめり」と賞しつつ、「霞波雲、重畳して覚え侍る」(同じような言葉が重なりすぎているように思える)と批判もしているが、左方人も「甘心」したことなどを理由として勝とした。

【他出】六百番歌合、定家八代抄、家隆卿百番自歌合、壬二集、歌枕名寄、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄

【本歌】よみ人しらず「古今集」東歌
君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ

【主な派生歌】
ながめやる沖つ島山ほのかにて波よりはるる横雲の空(飛鳥井雅経)
わが袖にあめも涙もふりそひぬ都わかるる横雲の空(飛鳥井雅有)
しがらきのと山の霞ほのぼのと春にあけゆく横雲の空(惟宗光吉)
あけわたる高ねの花に風過ぎて春にわかるる横雲の空(飛鳥井雅親)
こがらしに枝をわかるるもみぢ葉もほのぼの見ゆる横雲の空(本居宣長)

【古説】「この哥は末の松山波こゆる古事をふまへてより所とする成べし。末の松山は波の越る所なれば、あけぼのの比、よこ雲が波にわかるるとみたてたり。雲と云ものは、夜は山にかかりて有。あけぼのに山より外へわかれさるものなれば也。かすみたつゆくすゑと云かけて、遠望の躰をもたせたり。ほのぼのとは朝の躰なり。古事に男と女と此山をかけて契りしに、波のこえけるによりて、わかれしといふことなれば、その古事をおもひて、波にはなるるとよめるとみえたり。かやうのよせなければ、はなるるといふ詞を用ざるべし」(新古今増抄)

題しらず

いく里か月の光もにほふらむ梅さく山のみねの春風(新勅撰40)

【通釈】月明かりの夜、梅の花咲く山の頂に、春風が吹きつける。花ばかりか、月の光も、幾里までほのぼのと香っていることだろう。

【補記】自歌合に「私春十首 建久五年」とある。家隆三十七歳、歌壇で活躍を始めて間もない頃の作である。
この歌については頓阿の『水蛙眼目』に逸話がある。定家が新勅撰を撰んでいた時、梅の花に華やかな歌がないというので周章狼狽し、家隆の歌にならあるだろうと探したところ、この歌を見つけ出して入れたのだという。

守覚法親王家五十首 建久九年夏 春

すむ人もうつればかはる古郷の昔ににほふ軒の梅が枝(壬二集)

【通釈】時が移れば、住む人も変る古里であるが――軒端の梅は、さながら昔を偲ばせるように匂っている。

【語釈】◇古郷(ふるさと) 古い由緒のある里。特に奈良古京などを指す。

【補記】建久九年(1198)、守覚法親王主催の五十首歌。但し自歌合には「私百首建久八年」とある。

【本歌】紀貫之「古今集」
人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける

百首歌たてまつりし時

梅が香に昔をとへば春の月こたへぬ影ぞ袖にうつれる(新古45)

【通釈】梅の香に遠い記憶を呼びさまされ、春の月に向かって昔のことを尋ねてみたが、答えてはくれず、私の袖に月明かりを反映させるばかりだ。

【補記】伊勢物語」四段に、主人公が「梅の花ざかりに、こぞを恋ひていきて…」「月やあらぬ春やむかしの…」の歌を詠んだ、とある。この物語と歌を背景にしている。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院初度百首。

【他出】三百六十首和歌、定家八代抄、家隆卿百番自歌合、壬二集

摂政太政大臣家百首歌合に、野遊のこころを

思ふどちそこともいはず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯(新古82)

【通釈】気の合った同士、どことも決めずに遊び歩いているうちに、春の日も暮れてしまった。今夜は、おまえが泊る花の宿を貸してくれよ、野辺のうぐいす。

【補記】六百番歌合、春中六番右持。壬二集では第二句「そこともしらず」。

【他出】定家八代抄、家隆卿百番自歌合、壬二集、沙石集、井蛙抄、題林愚抄、歌林良材

【本歌】素性法師「古今集」
思ふどち春の山べにうちむれてそこともいはぬ旅寝してしが
【参考歌】大中臣能宣「拾遺集」
をみなへし我に宿かせ印南野のいなと言ふともここを過ぎめや

建保四年百首に

桜花咲きぬるときはかづらきの山のすがたにかかる白雲(続古今90)

【通釈】桜の花が咲いたときは、葛城山には山の姿そのままに白雲がかかっている。

【語釈】◇かづらき 葛城(かつらぎ)山。大和・河内国境の連山。主峰は葛木神社のある葛木岳(通称金剛山)。動詞「かづらく(髪飾りにする)」の意が掛かる。◇白雲 山桜を雲に喩える。

【補記】建保四年(1216)、院百首。

【参考歌】源俊頼「堀河百首」「新後拾遺集」
桜ばなさきぬる時は三吉野の山のかひより波ぞこえける

【主な派生歌】
ことさらにつくりなしてや昨日みぬ山のすがたに霞たなびく(三条西公条)
かづらきの山のすがたに打靡きたてりともなき春霞かな(香川景樹)

関花

逢坂(あふさか)や明ぼのしるき花の色におのれ夜ぶかき関の杉むら(壬二集)

【通釈】逢坂の峠で迎えた夜明け――花の色はありありと曙を感じさせるのに、ひとり関の杉木立だけは、まだ夜深い様子で、暗い色に沈んでいる。

【語釈】◇逢坂 山城・近江国境の峠。東国との境をなす関があった。◇おのれ夜深き この「おのれ」は副詞的用法。「ひとりだけで」程の意。

【補記】道助法親王家五十首。成立不詳。承久二年(1220)以前に詠進か。

【参考歌】宮内卿「仙洞句題五十首」「新古今集」
あふ坂やこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら

遠所にて十首歌合侍りし、山花

などてかく思ひそめけむ桜花山とし高くなりはつるまで(壬二集)

【通釈】どうしてこれほど桜の花に思い入れるようになったのだろうか。思いが積もり積もった果て、山となって高くなってしまうまで。

【語釈】◇思ひそめ 思いを染める。深く心にかける。◇山とし 山として。先蹤「なげきこる山とし高くなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける」(大輔「古今集」)。

【補記】嘉禎二年(1236)、配流地隠岐で後鳥羽院が催した『遠島御歌合』に、都から提出した歌。同歌合では初句「なぞもかく」。また題は「山桜」。

【本歌】大輔「古今集」
なげきこる山としたかくなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける

華暁鐘

鐘のおとも明けゆく空に匂ふなり今日もやありて花を見るべき(壬二集)

【通釈】明るくなって行く空に、鐘の音もほのぼのと香りたつかのようだ。今日も生きて花を見ることができるだろうか。

【補記】壬二集の排列によれば、前内大臣(藤原基家)家の歌会での作。

五十首歌たてまつりし時

桜花夢かうつつか白雲のたえてつれなき嶺の春風(新古139)

【通釈】あの桜の花は夢だったのか、現実だったのか。どちらとも知れないが、山にかかっていた美しい白雲は消えてしまって、何も知らぬ気(げ)な春風が峰を吹き渡っている。

【語釈】◇白雲 桜を白雲に喩えるのは和歌の常套。また「知らず」を掛ける。◇たえてつれなき 白雲は消えて、そのことに全く無関係な(冷淡な)様子で。「たえて」には「全く」の意の副詞的な用法を掛けている。

【補記】初出は建仁元年(1201)二月の老若五十首歌合。三十九番左勝。新古今(2-139)・老若歌合・自讃歌などでは第四句「たえてつねなき」とするが、壬二集・家隆自歌合などの「たえてつれなき」を採った。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りてなければ
  壬生忠岑「古今集」
風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か

百首歌奉りし時

吉野川岸の山吹咲きにけり嶺の桜は散りはてぬらむ(新古158)

【通釈】吉野川の岸の山吹が咲いたなあ。山の高いところの桜は、散り切ってしまっただろうか。

【補記】正治二年(1200)の院初度百首。下記本歌が山吹の散る頃、川底の影も移ろうことを詠んだのを反転するように、山吹が咲く頃、山の高みで散る桜を想起した。

【本歌】紀貫之「古今集」
吉野河岸の山吹ふくかぜにそこの影さへうつろひにけり

【主な派生歌】
朝日山きしの山ぶきさきにけり花のした行くうぢの柴舟(冷泉為尹)
よしの川さくらながれて行く春もここぞ泊りとさける山吹(飛鳥井雅親)
神なびの岸の山ぶき咲きにけりみむろの嵐ふかずもあらなむ(橘千蔭)

【古説】「春の時節をよく知りたる歌なり。山吹は暮るる春のものなり。桜は中春のものなれば、岸の山吹の咲く比、桜は散る筈なり。斯かる歌一躰なり。斯くいふ事は、春の色の尽きぬ事を喜びたる義なり」(増抄)。

江上暮春

蘆鴨(あしがも)の跡もさわがぬ水の江になほすみがたく春やゆくらむ(壬二集)

【通釈】蘆辺に群がっていた鴨は、とうに飛び去ってしまった――その騒がしい跡もなく、静かな入江に、それでも安住は出来なくて、春は去ってゆくのだろうか。

【語釈】◇蘆鴨(あしがも) 蘆辺の鴨。鴨は秋から冬にかけて北方から渡来し、春になると帰るものが多い。冬の歌に詠まれるのが通例。◇水の江 水を湛えた江。江とは海や湖の一部が陸地に入り込んだところ。この歌では難波江がイメージされる。◇すみがたく 住み難く。「澄み」と掛詞になり、「水」と縁語になる。

【補記】九条内大臣家三十首。

題しらず

いかにせむ来ぬ夜あまたのほととぎす待たじと思へばむら雨の空(新古214)

【通釈】さてどうしよう。幾晩も幾晩も、姿をあらわさない時鳥――もう待つまいと思う折しも、村雨の降り出したこの空。

【語釈】◇ほととぎす カッコウ科の鳥。夏鳥。初夏によく鳴く。滅多に姿を現さない。「心をぞつくしはてつるほととぎすほのめく宵の村雨の空」(藤原長方「千載集」)「なにとなく涙ぞおつるむら雨の夕べの雲になくほととぎす」(藤原俊成)など、雨の夜によく鳴くと考えられた。◇村雨 集中的に降ってすぐ止む、一団の雨。

【補記】壬二集の詞書は「夏歌とて」。

【本歌】柿本人麻呂「拾遺集」
たのめつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる

【参考歌】「水無瀬恋十五首歌合」
いかにせむこぬ夜あまたの袖の露に月をのみまつ夕暮の空(後鳥羽院)
今はただこぬ夜あまたのさ夜ふけてまたじと思ふに松風の声(雅経)

【鑑賞】「いとめでたし、詞めでたし。(中略)此集のころ、『いかにせむ』をおけるうた、いと多き。下にかなはざるが多きを、此歌などは、此詞いとよくかなひて聞こゆ」(宣長『美濃の家づと』)。

日吉奉納五十首 夏

ちかき()もほのかに聞くぞ哀れなる我が世ふけゆく山ほととぎす(壬二集)

【通釈】程近い声も、ほのかに聞こえるのが哀れだ。老けゆく我が耳に聴く、更け行く夜の山ほととぎすよ。

【語釈】◇我が世ふけゆく 人生が更け行く、夜が更け行く。

老若歌合五十首 夏

むら雨の風にぞなびくあふひ草向ふ日かげはうすぐもりつつ(壬二集)

【通釈】村雨を吹き寄せる風になびく、葵草。その花が顔を向けている太陽の光は、雨雲にうっすらと覆われてゆく。

立葵の花 鎌倉市二階堂にて
立葵の花

【語釈】◇あふひ草 立葵(たちあおい)。アオイ科タチアオイ属、原産は地中海沿岸地方。高さ二メートルほどになり、梅雨前に薄紅や白の美しい花を、太陽に向かって咲かせる。古く「唐葵(からあふひ)」とも呼ばれ、枕草子に「唐葵、日の影にしがたひてかたぶくこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ」とある。

【補記】雨風に靡く立葵の薄い花びらの上で、陽射しが次第に弱まってゆくイメージに、梅雨に入る頃の気忙しく、また少し淋しいような季節感が捉えられている。「老若五十首歌合」六十九番左負。

【参考歌】源氏物語「藤袴」
心もて光にむかふあふひだに朝おく霜をおのれやは消つ

院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 夏

むば玉の闇のうつつの鵜飼舟月のさかりや夢もみるべき(壬二集)

【通釈】闇夜を徹しておこなわれる鵜飼舟――鵜飼を渡世とする者たちにとっては、闇こそがこの世の現実なのだろう。月の明るい晩には、やすらかに寝て夢を見ることもあるのだろうか。

【語釈】◇むば玉の 闇にかかる枕詞。◇闇のうつつの 下記本歌に由る表現。闇が現実であるところの。◇鵜飼舟(うかひぶね) 飼い慣らした鵜を用いて魚を獲る舟、またその漁。夏の風物詩であり、貴族は見物を楽しんだが、仏教的な見地からは、殺生を業とする鵜飼の職は罪深いものとしても捉えられた。

【補記】建保四年院百首。「自歌合」では第五句「夢もみゆべき」。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり

山里は門田の稲葉見わたせば一穂出でたる夏の朝露(壬二集)

【通釈】夏の朝、山里にいて、門田の稲葉を見わたすと、一本だけ穂を出している稲があって、朝露に光っている。

【補記】承久二年(1220)、慈円勧進の「大僧正四季百首」。

蝉の羽のうすき衣のひとへ山青葉涼しき風の色かな(壬二集)

【通釈】蝉の羽のように薄い単(ひとえ)の衣と同じ名をもつ一重山は、青葉が繁っているが、そこを吹いて来る風も緑に染まって、涼しげな色をしているなあ。

【語釈】◇ひとへ山 『夫木和歌抄』には「ひとへ山、一陪、山城或大和」とあり、『歌枕名寄』は信濃国の歌枕とする。万葉集の「一隔山(ひとへやま)重なるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ」などから固有名詞化したか。

【補記】「大僧正四季百首」。

寛喜元年女御入内屏風

風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける(新勅撰192)

【通釈】風にそよぐ楢の葉、その下を流れる楢の小川の涼しげな夕暮どきにあっては、皆が川に入って六月みなづきばらえのみそぎをしている様子ばかりが、まだ夏であるしるしなのだった。

ならの小川
ならの小川

【語釈】◇風そよぐ 風にそよぐ。当時の和歌では助詞「に」を略すことが少なくない。◇ならの小川 京都上賀茂神社の境内を流れる川。樹の「楢」を掛けている。◇みそぎ 禊ぎ祓え。旧暦では夏の終りにあたる水無月の晦日(みそか)、川などで、水によって身のけがれを洗い浄めた。◇夏のしるし まだ夏であることの証拠。

【補記】『壬二集』の詞書は「六月祓」。寛喜元年(1229)十一月十六日、九条道家女の竴子(のちの藻壁門院)が後堀河天皇の女御として入内する際の、年中行事を描いた月次(つきなみ)屏風に添えた歌。

【鑑賞】「誠にいつもある詞を以てめづらしくしたてられて、うち吟ずるにもすずしくなる心ちのし侍るにや。此の百首にも、新勅撰にも入れられ侍り。心およばずともさるゆゑあらんとは思ふべし。なほ詞すがたたぐひなくこそ」(百人一首応永抄)。

【他出】壬二集、百人一首、秋風抄(序)、新三十六人撰、心敬私語

【本歌】八代女王「古今六帖」「新古今集」
みそぎするならの小川の河風に祈りぞわたる下に絶えじと
  源頼綱「後拾遺集」
夏山のならの葉そよぐ夕暮は今年も秋の心地こそすれ
【参考歌】源経信「経信集」
のどかなる風のけしきに青柳のなびくぞ春のしるしなりける
  藤原教長「教長集」
風そよぐならの葉かげのこけむしろ夏を忘るるまとゐをぞする

【主な派生歌】
年月をすつるしるしはみそぎ川夏こそなけれ水のしら波(松永貞徳)
風わたるならの小河の夕すずみみそぎもあへずなつぞながるる(小沢蘆庵)

百首歌よみ侍りける中に

昨日だにとはむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(新古289)

【通釈】まだ夏であった昨日ですら、訪れようと思った摂津の国の生田の森――今日、ついにやって来たところ、古歌の通りに秋の初風が吹いた。待ちかねた秋になったのだ。

【語釈】◇昨日だに 「だに」は「…だけでも」「…すらも」の意の助詞。「心が逸って、まだ暑かった昨日でさえ…」という、秋を待望する心を籠めている。◇津の国 摂津国。今の大阪府北西部と兵庫県東南部。◇生田の森 神戸市の生田神社あたりの森。「いくたび」「行く」を掛ける。

【補記】風のことは言っていないが、下記本歌により「秋の初風」の吹いていることが暗示される。『壬二集』によれば、「堀河百首題、後度百首和歌」。題は「立秋」。

【他出】自讃歌、定家十体(有一節様)、定家八代抄、瑩玉集、家隆卿自歌合、続歌仙落書、壬二集、歌枕名寄、心敬私語、歌林良材

【本歌】清胤「詞花集」
君すまばとはましものを津の国の生田の森の秋の初風

守覚法親王、五十首歌よませ侍りけるに

明けぬるか衣手さむし菅原やふしみの里の秋の初風(新古292)

【通釈】夜が明けたのか。袖がすうすうして寒い。宿に臥していて、目が覚めたのだ。ああ、菅原の伏見の里の、秋の初風よ。

【語釈】◇菅原やふしみの里 奈良市菅原町。「臥し見」を掛ける。「いざここにわが世はへなむ菅原や伏見の里のあれまくもをし」(古今集、よみ人しらず)以来、荒廃した土地のイメージで詠まれることが多い。「臥し」の掛詞を用いた例としては、「恋しきをなぐさめかねて菅原や伏見にきてもねられざりけり」(拾遺集、源重之)などがある。

 

花も葉ももろく散り行く萩が枝にむら雨かかる秋の夕ぐれ(両卿撰歌合)

【通釈】ただでさえ花も葉ももろく散ってゆく萩――その枝に驟雨が降りそそぐ、秋の夕暮よ。

【語釈】◇むら雨 集中的に降ってすぐ止む、一団の雨。

【補記】「定家家隆両卿撰歌合」より。これは後鳥羽院が定家・家隆の秀歌各五十首を合わせた紙上歌合。初出は建保四年院百首。壬二集では第二句「もろく成りゆく」。

夕荻

軒ちかき山の下荻こゑたてて夕日がくれに秋風ぞふく(壬二集)

【通釈】我が庵の軒先に迫っている山――その麓に生える荻をざわめかせながら、夕日のあたらないところを寒々と秋風が吹いてゆく。

【語釈】◇山の下荻(したをぎ) 山の麓に生えている荻。◇夕日がくれに 夕日があたらずに。夕日の陰になって。

【補記】建保三年(1215)、光明峰寺入道前摂政家百首歌。

露や花はなや露なる秋くれば野原にさきて風にちるらむ(壬二集)

【通釈】露と見えるのは花だろうか。花と見えるのは露だろうか。いずれにしても秋が来たので野原に咲き、いま風に散っているのだろう。

【補記】初句・二句切れ。「なる」は推定の助動詞「なり」の連体形。疑問の助詞「や」に呼応した連体形の結びである。堀河百首題、後度百首和歌。

院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 秋

暮れぬまに山の端とほくなりにけり空よりいづる秋の夜の月(壬二集)

【通釈】まだ日が暮れないうちから、山の端は遥か遠くに隔たってしまったよ。夕空にあらわれた秋の夜の月に、山里が煌々と照らされて…。

【語釈】◇山の端(は) 山を遠くから眺めたとき、山の、空との境目をなすあたりをこう言った。今言う「山の稜線」に近いが、「線」として意識されていたのではない。◇とほくなりにけり 明月によって山里の風景がくっきりと照らし出されたために、山の端までの距離が遠ざかったように見えた、という逆説的光景。

【補記】建保四年の後鳥羽院百首。

浦月

をとめごが玉裳のすそに満つ潮のひかりをよする浦の月かげ(自歌合)

【通釈】漁をする海人の娘たちの、美しい裳裾に満ちてくる潮――それがさやかな光を寄せて来るのだ、入江に射す月が波に映じた光を。

【語釈】◇玉裳(たまも) 裳とは、上代、女性が腰から下にまとった衣服。玉は美称。◇浦の月かげ 浦に射す月明り。「浦」は入江、湾。

【補記】内大臣家百首。題は壬二集より。同集、第二句「玉藻のそこに」とする。

【本歌】柿本人麻呂「万葉集」巻一
嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか

院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋

はつせ山ふる川のべも霧はれて月にぞたてる二もとの杉(壬二集)

【通釈】初瀬山のふもとを流れる、布留川――山の霧が晴れ、その河辺も霧が晴れて、月光の中に、二本の杉が立っているのが、くっきりと姿を現わした。昔、恋人たちが逢うための目印としたという杉が…。

【語釈】◇はつせ山 初瀬山。奈良県桜井市。長谷寺がある。◇ふる河 布留川。石上神宮のわきを流れ、初瀬川に合流する。◇二もとの杉 下記【本歌】参照。将来恋人と会う約束をした場所の目印となるもの。

【補記】千五百番歌合、六百八十七番右勝。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
はつせ河ふるかはのべにふたもとあるすぎ年をへて又もあひ見むふたもとあるすぎ

和歌所歌合に、湖辺月といふことを

にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古389)

【通釈】琵琶湖の水面に月の光が映れば、秋は無縁と言われた波の花にも、秋の気色は見えるのだった。

【語釈】◇にほの海 琵琶湖の古称。◇波の花 白い波頭を花に見立てた。下記本歌を踏まえる。

【補記】「波の花にぞ秋なかりける」と詠んだ本歌(下記参照)を承けて、月の光によって「波の花」にも秋らしい色は見えると応じた。建永元年(1206)七月十三日和歌所当座歌合(散佚)。

【本歌】文屋康秀「古今集」
草も木も色かはれどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける

百首歌中に

海のはて空のかぎりも秋の夜の月の光のうちにぞありける(玉葉686)

【通釈】海の果て、空の極みまでも、見わたす限り、秋の夜の月の光のうちに包まれてあるのだ。

【補記】叙景歌というよりは、宗教的な想念を詠んだ歌。承久二年(1220)、慈円勧進の「大僧正四季百首」。

日吉奉納五十首 秋

しるべせよおくる心の帰るさも月の道吹く秋の山風(壬二集)

【通釈】道案内してくれよ。友が帰って行くのを送った心が、引き返してくる間も。月に照らされた道を吹き渡る、秋の山風よ。

【語釈】◇しるべせよ 月と風の両方に呼び掛けていると解したい。◇おくる心の帰るさ 庵に遊びに来た友人などが帰るのを、心が送って行った。その帰り道。

【補記】山中の孤独な庵住いという設定で詠む。

建保二年内裏の十五首の歌合に

雁がねの聞こゆる空や明けぬらむ枕にうすき窓の月かげ(続古今461)

【通釈】雁の鳴き声が聞こえる空――もう夜が明けたのだろうか。枕もとにうっすらと射す、窓からの月明かり。

【補記】建保二年(1214)八月十六日、順徳天皇主催の内裏歌合。秋にちなむ十五題の乱合。この題は「秋雁」。

入道二品親王家に五十首歌よみ侍りけるに、山家月

松の戸をおしあけがたの山風に雲もかからぬ月を見るかな(新勅撰267)

【通釈】松の戸を押し明けると、明け方の空を山風が吹き、雲一つかからない月を見るのだ。

【語釈】◇おしあけがたの 押し明け・明け方、掛詞。◇雲もかからぬ月 たとえば出家後の清澄な心境などを暗示する。

【補記】建保六年(1218)〜承久二年(1220)頃の道助法親王家五十首。

【本歌】よみ人しらず「新古今集」
あまのとをおしあけがたの月みればうき人しもぞこひしかりける
【参考歌】九条良経「春日社歌合」(1204)、「新古今集」
天の戸をおしあけがたの雲間より神よの月の影ぞ残れる

【主な派生歌】
秋風は梢をはらふ夕暮に雲もかからぬ山のはの月(進子内親王[新拾遺])

題しらず

ながめつつ思ふもさびし久かたの月の都の明けがたの空(新古392)

【通釈】じっと夜空を眺めながら、かの伝説の月の都に思いを馳せていると、物寂しいことよ――やがて夜が明けかかり、今にも消えそうな、有明の月が浮かんでいる空……。

【語釈】◇ながめつつ 「程へたる心也。宵より明まで詠たる也」(私抄)。◇思ふもさびし 「月の都のさびしかるらんと、爰の明がたの物さびしきより想像したる心也」(私抄)。「遠く月宮の事を思ふにさへも淋しと也。況して行きて其処に居たらばとなり」(増抄)。◇月の都 月宮殿。月天子の住む宮。『神仙感遇伝』『仙伝拾遺』『逸史』などには、仲秋の名月の晩、唐玄宗が道士の導きにより銀の橋を渡って月天宮に遊んだとの伝説を載せる。仙女に歓待を尽された後、再び銀の橋を渡って帰る玄宗が足もとを振り返れば、橋は一歩ごとに消滅していった、という。

秋歌とて

玉島やおちくる鮎の河柳下葉うちちり秋風ぞふく(風雅513)

【通釈】鮎が流れを下ってくる玉島川よ――その川沿いの柳の下葉を散らせて、秋風が吹く。

【語釈】◇玉島 肥前国の歌枕。今の佐賀県東松浦郡浜玉町あたり。同地を玉島川(万葉集に詠まれた松浦川に同じ。但し今の松浦川は別)が流れる。万葉集以来、若鮎が泳ぎ、あるいは乙女が漁をする清流として詠まれる。◇おちくるあゆ 秋、産卵のため下流に下る鮎。◇河柳 河岸の柳。鮎が走り泳ぐさまを、河に落ちてすばやく流れ去る柳の葉のイメージに重ねて描き出す。

和歌所にて、をのこども歌よみ侍りしに、夕べの鹿といふことを

下紅葉かつ散る山の夕時雨ぬれてやひとり鹿のなくらむ(新古437)

【通釈】山の夕暮れ時、時雨が降っては、黄葉した萩の下葉が散ってゆく――その雨に濡れて、妻を恋う鹿はひとり鳴いているのだろうか。

【語釈】◇下紅葉(したもみぢ) 古来の和歌の取り合わせからすれば、萩の下葉の黄葉と考えるべきであろう。◇かつ散る 時雨が降るはしから、散ってゆく。この「かつ」は二つの出来事が連鎖的に起こっていることを示す副詞。◇ひとり 「独り鳴くとは、妻を恋ひて鳴く由、声の哀れに聞こゆるにつきて、妻と一所にゐるならば、斯く哀れにはあるまじきと、思ひ遣りたる也」(増抄)。

【補記】『壬二集』の詞書は「仙洞和歌所にてわたくしに歌合侍りしに、夕鹿を」。元久二年(1205)、新古今集の部類が終わった後の歌合での作であるが、後鳥羽院の命により、新古今集巻五巻頭に置かれることとなった。

【他出】自讃歌、定家十体(見様)、定家八代抄、家隆卿自歌合、時代不同歌合、壬二集、新三十六人撰、三五記、題林愚抄

【参考歌】藤原顕季「金葉集」
しぐれつつかつちる山のもみぢ葉をいかにふくよのあらしなるらむ

遠所にて十首歌合侍りし、夜鹿

天の川秋の一夜のちぎりだに交野に鹿のねをや鳴くらむ(壬二集)

【通釈】天の川を渡って逢う、一年に一度の秋の夜の契りでさえ、遂げるのは難しいのだろうか、それで鹿は交野で声をあげて鳴いているのだろうか。

【語釈】◇天の川 銀河。また、交野の地を流れる天野川を暗示。◇秋の一夜のちぎり 一年に一度限りの、七夕の夜の逢瀬。◇交野(かたの) 今の大阪府枚方市あたり。「難(かた)し」を掛ける。皇室の御領で、古来狩猟地として名高い。「伊勢物語」八十二段には惟喬親王が在原業平らと共に狩をして遊んだエピソードを伝える。

【補記】『遠島御歌合』三十三番右勝。続古今集446、詞書は「十首歌合に」。

【鑑賞】『遠島御歌合』での後鳥羽院の判詞は「右歌、秋のひと夜の契だにといひて、かた野に鹿のとつづきたる、ことにやさしくきこゆ。惟喬の御子、かた野に狩して七夕つめにやどかりし昔までおもひよそへられて、をかしく侍り。(中略)いかさまにも右歌は、秀逸と見ゆれば、よのつねの歌のならぶべきにあらず」。家隆は、隠岐に流された後鳥羽院への思いをこの一首に籠めた。

野鹿といふことを

さを鹿の夜はの草ぶし明けぬれどかへる山なき武蔵野の原(新拾遺469)

【通釈】牡鹿は夜を草の上に臥して過ごし、朝になれば山へ帰ると聞くが――広大な武蔵野の原に棲む鹿は、夜が明けても、帰るべき山がないのだ。

【補記】夫木和歌抄には「百首歌中」とあるが、典拠は未詳。

【本歌】「万葉集」巻十
さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく

寄野秋

鹿のねはなほ遠き野に吹きすててひとり空行く秋の夕風(壬二集)

【通釈】遠くで鹿が鳴く――その声を、さらに遠くの野へと運び去ったのちも、空の彼方をひとり吹きわたる、秋の夕風よ。

【語釈】◇なほ遠き野に吹きすてて 鹿が鳴いているのは遠くの野であるが、その声をさらに遠くの野へと吹き捨てて。

【補記】壬二集の排列によれば、前内大臣(藤原基家)家の歌会での作。

【参考歌】源俊頼「散木奇歌集」
吹く風にあたりの空をはらはせてひとりもあゆむ秋の月かな

【主な派生歌】
あしびきの山のあらしに雲きえてひとり空ゆく秋の夜の月(教実[新勅撰])

守覚法親王家五十首歌中に

むしの音もながき夜あかぬ故郷になほ思ひそふ松風ぞふく(新古473)

【通釈】虫の音も秋の長夜を鳴き通しているこの故郷に、いっそう物思いを添える松風の音が聞こえる。

【語釈】◇故郷 荒れ寂れた里、昔馴染みの里。◇松風 松を吹く風。反響音はあわれ深いものとされた。

【補記】「御室五十首」。新古今集は第五句「秋風ぞ吹く」とする本もある。

【他出】定家十体(幽玄様)、定家八代抄、家隆卿百番自歌合、壬二集、歌林良材

【本歌】『源氏物語』「桐壺」靭負の命婦
鈴虫の声のかぎりを尽しても長き夜あかずふる涙かな

西園寺入道前太政大臣家卅首歌よみ侍りけるに、秋歌

朝日さす高嶺のみ雪空はれて立ちもおよばぬ富士の川霧(続後撰316)

【通釈】朝日がさしのぼる富士の高嶺――頂の雪は白じらと輝く。空は晴れわたって、富士川から朝霧がたちのぼるが、到底山頂に届くことはない。

【語釈】◇高嶺(たかね) 富士山を指す。◇富士の川霧 富士川に立つ霧。

【補記】西園寺公経家の三十首歌。新勅撰集撰進以前に開催。

【主な派生歌】
雨はるる高嶺は空にあらはれて山もとのぼる富士の河霧(*性助法親王[新後撰])

千五百番歌合に

露しぐれもる山かげの下紅葉ぬるとも折らむ秋のかたみに(新古537)

【通釈】露・時雨が絶えず洩れ落ちる、守山の山陰の下紅葉――濡れようとも、折り取ろう。過ぎ行く秋の思い出のよすがとして。

【語釈】◇もる山 守山。『五代集歌枕』『八雲御抄』ともに遠江国の歌枕とする。「漏る山」と掛詞。

【本歌】紀貫之「古今集」
しらつゆも時雨もいたくもる山はしたばのこらず色づきにけり

時雨

淡路島はるかに見つる浮雲も須磨の関屋にしぐれきにけり(玉葉855)

【通釈】さっきまで淡路島の上空遥かに見えていた浮雲も、みるみる須磨の関に近づいて、関屋の板廂に音立てて時雨を降らせたのだった。

【語釈】◇須磨の関屋 「須磨」は今の神戸市須磨区あたり。西国との境をなす関があった。源氏物語では光源氏流謫の地。「関屋」は関所の番小屋。

【補記】初心百首(堀河院題百首)。

和歌所にて、六首の歌たてまつりしに、冬歌

ながめつつ幾たび袖にくもるらむ時雨にふくる有明の月(新古595)

【通釈】しぐれたり晴れたりしながら、更けてゆく夜――空を眺めて過す私の袖に映った有明の月の光も、幾たび曇ることだろう。

【語釈】◇いくたび袖に 「いくたび袖にくもるとは長夜をなげきあかすをいへる感情の袖の露也。此露にやどる月かげの時雨るればみえず、はるればみゆる也。その心を幾度袖に時雨るらむといへり。冬のよの時雨つはれつ更行躰也」(聞書)。◇袖にくもるらむ 「くもる」の主語は「有明の月」。涙に濡れた袖に映る月光が、時雨が降るたびに曇る、ということ。◇時雨にふくる 時雨のうちに更けてゆく。時雨は、ぱらぱらと降ってはやむ、晩秋から初冬にかけての通り雨。◇有明の月 遅い時刻に現われ、明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。

【補記】建仁二年(1202)三月の三体和歌会。秋冬の歌は「からびほそくよむべし」と予め院の注文がついた。

題しらず

ふるさとの庭の日かげもさえくれて桐の落葉にあられふるなり(新勅撰393)

【通釈】荒れ果てた里の庭に射す日影も、暮れるとともに冷たく冴えて、桐の落葉に霰が叩き付ける音がする。

【語釈】◇さえくれて (日の光が)つめたくなり、(日が)暮れて。

【補記】初心百首「霰」。

摂政太政大臣家歌合に、湖上冬月

志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月(新古639)

【通釈】志賀の浦よ、夜が更けるにつれて、沖へと遠ざかってゆく波打ち際――その波の間から、氷って現われ出る、有明の月。

【語釈】◇志賀の浦 志賀は琵琶湖西南岸、南志賀地方。◇遠ざかりゆく波間 夜になって気温が下がると共に湖面が氷結し、波打ち際が遠くなってゆく。その波間。

【補記】正治元年(1199)十二月、藤原良経家歌合(散佚)。

【本歌】快覚法師「後拾遺集」
さ夜ふくるままに汀や氷るらむ遠ざかりゆく志賀の浦波

【主な派生歌】
志賀の浦や氷らぬ波の音はして月の御舟ぞ遠ざかりゆく(藤原隆祐)
志賀の浦や秋しく月の氷にも遠ざかりゆく波の音かな(順徳院)
冬枯れの木の葉さはらぬ高嶺より氷りて出づる月ぞまぢかき(花園院)
遠ざかるゆくへも月の影さえて氷はてなき志賀の浦波(本居春庭)

建保五年内裏歌合、冬山霜

かささぎのわたすやいづこ夕霜の雲ゐにしろき峰のかけ橋(新勅撰375)

【通釈】鵲が渡すという橋はどこか。空に聳える峰の、夕霜に覆われて白じらとした梯(かけはし)――あれがそうなのだろうか。

【語釈】◇かささぎのわたす 鵲が天の川に渡す。七夕に関わる伝説。◇夕霜の 夕方に降りる霜の。「雲井」でなく、「しろきかけ橋」を修飾する。◇雲ゐ 雲のあるところ。空。◇かけ橋 崖に板などを棚のように架け渡して通れるようにした道。

【補記】歌意に沿って下句の語順を入れ替えると、次のようになる。「雲井に(そびゆる)峰の、夕霜の(降りて)しろきかけ橋」。建保五年(1217)、「冬題歌合」一番右持。

【本歌】伝大伴家持「家持集」「新古今集」
かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける

冬歌とてよみ侍りける

明けわたる雲まの星のひかりまで山の端さむし峰の白雪(新勅撰424)

【通釈】しだいに明けてゆく空――雲間に見える星の光まで、山の端に寒々と輝いている。山の頂には雪……。

【補記】「御室五十首」。

院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋

ほのみてし君にはしかじ春霞たなびく山の桜なりとも(壬二集)

【通釈】ほのかに見たあなたには及ばない。春霞がたなびく山の桜であろうとも。

【補記】千五百番歌合、千百三十七番右。源師光の判詞は「存古歌心、すがたなびやかにこそ侍れ」。

【本歌】紀貫之「古今集」
山ざくら霞のまよりほのかにも見てし人こそこひしかりけれ

摂政太政大臣家百首歌合に

富士の嶺の煙もなほぞ立ちのぼる上なき物は思ひなりけり(新古1132)

【通釈】あんなに高い富士山の煙でも、さらに上へ立ちのぼろうとする。どこまでも昇ることをやめないものとは、恋の思いの火だったのだ。

【語釈】◇上なき物 「わがおもひは、空にみちみちて有ゆへに、立のぼるべきうへがなき也と」(増抄)との解釈もある。◇思ひ 「ひ」に「火」の意を掛ける。

【補記】『六百番歌合』、恋六「寄煙恋」。

【本歌】村上天皇「拾遺集」
世の人の及ばぬものは富士の嶺の雲居に高き思ひなりけり

院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋

入るまでに月はながめつ稲妻のひかりの間にも物思ふ身の(壬二集)

【通釈】山の端に入るまで、ずっと物思いに耽って月を眺めていた。稲妻の光がひらめく一瞬の間でさえ、あなたを忘れず思う我が身なので。

【語釈】◇入るまでに 月が東の山から昇り、西の山に隠れてしまうまでずっと。

【補記】千五百番歌合、千三百三十四番右。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
秋の田の穂のへをてらす稲妻の光のまにも我やわするる
  橘為義「詞花集」
君待つと山の端いでて山の端に入るまで月をながめつるかな

題しらず

おもひ河身をはやながら水の泡のきえてもあはむ波のまもがな(新勅撰707)

【通釈】思い川の水脈(みお)は速いので水が泡立つ――そんな水の泡のように消えてもよいから、我が身も早くあの人に逢いたい。束の間でも逢える時間があったらなあ。

【語釈】◇おもひ河 絶えず湧いては流れる恋の思いを川に例える。大宰府のあたりを流れる染川のことともいう。◇身をはやながら 「水脈速ながら」(水脈が速いままに)、「身を早」(我が身も早く)の掛詞。◇きえてもあはむ 死んででも逢いたい。「泡」の縁で「きえ」と言う。◇波のま 束の間。「河」の縁で「波」を持って来た。

【補記】三宮十五首会。

【本歌】伊勢「古今集」
山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな
  伊勢「拾遺集」
思ひ川たえずながるる水のあわのうたかた人にあはできえめや

院百首 建保四年、于時宮内卿従三位正月五日叙之 恋

とこはあれぬいたくな吹きそ秋風の目にみぬ人を夢にだにみむ(壬二集)

【通釈】寝屋の床は荒れてしまった。ひどく吹かないでおくれ、秋風よ。風のように目に見ることのできない人を、せめて夢にでも見ようから。

【補記】建保四年(1216)、後鳥羽院百首。自歌合・定家家隆両卿歌合に採られている。

【本歌】紀貫之「古今集」
世の中はかくこそ有りけれ吹く風のめに見ぬ人もこひしかりけり

 

夢かとぞなほたどらるるさ夜衣うらみなれたる袖をかさねて(三百六十番歌合)

【通釈】これは夢ではないかと、なお手探りせずにはいられない。恨むことにばかり馴れてしまった人と、何度も裏を返すことに馴れてしまった小夜衣の袖を重ねて……。

【語釈】◇たどらるる 夢ではないかと迷い、現実を確かめ直さずにいられない。◇さ夜衣(よごろも) 夜、寝るときに着る衣。「うら」を導くはたらきもする。◇うらみなれたる 「裏見」「恨み」を掛ける。衣を裏返して寝るのは、夢で恋人に逢えるまじないであった。

【補記】建仁元年(1201)〜建永元年(1206)頃成立の「三百六十番歌合」。

【主な派生歌】
たえはつる心のうちを恨みても猶たどらるる夢のうきはし(俊成女)
夢かとぞなほ辿らるるおいらくの子は先だてむものとやはみし(木下長嘯子)

建保四年百首に

くもれけふ入相の鐘も程とほしたのめてかへる春の明ぼの(続古今1165)

【通釈】いっそ今日は曇って、一日中雨になってしまえ。夕暮は程遠く、入相の鐘までとても待ちきれない。「また今夜」と期待させてあの人が帰ってゆく、春の曙の空よ――。

【語釈】◇くもれけふ 今日は曇れ。雨になれば、諦めがつき、夕暮までの長い時間を待つ気もなくなるから、ということ。◇入相の鐘 日没の頃、寺で撞く鐘。

【補記】建保四年(1216)、後鳥羽院主催の百首。自歌合・両卿合、いずれにも入選。

題しらず

忘るなよ今は心のかはるともなれしその夜の有明の月(新古1279)

【通釈】忘れないでよ。今は心変わりがしてしまいるとしても、睦まじく過したあの夜々の、いつも二人で眺めた有明の月は。

【語釈】◇なれし 「親密に過した」の意で「その夜」に掛かると共に、「見慣れた」の意で「有明の月」にも掛かる。

【補記】「君がこころはかはるとも、かたみの月はわれをわするなと月にいひかけたる」(増抄)。「有明の月よ、忘れるな」と呼び掛けていると解することもできる。文治三年(1187)、閑居百首。自歌合。

院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋

おのづからたのむ夢路はむなしくていつかうつつの恋はさむべき(壬二集)

【通釈】せめて夢でと、おのずから期待せずにはいられないが、眠ってもあの人には逢えず、夢路は空しい。いつになったらこの現実の辛い恋は冷め、私は恋の迷いから目覚めることができるのだろう。

【語釈】◇うつつの恋はさむべき 現実の恋は冷めるだろうか。「さめる」は夢との縁で「覚醒する」意にもなり、「夢でさえ逢えない、こんな現実の恋の迷いから早く醒めたい」といった心が響く。

【補記】千五百番歌合、千二百二十一番右負。

千五百番歌合に

思ひ出でよ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲のあとの山風(新古1294)

【通釈】思い出してもみよ。こんな空しい結果を招いたのは、誰の口約束の果てなのか。昨日かかっていた雲が、今朝は払われて跡形もなく、ただ山風がつれなく吹いているばかり――。そんなふうにあなたは素知らぬふりをしているけれど。

【語釈】◇かねごと 約束した言葉。◇昨日の雲 「風の吹はらひて、消うせて、今日はなき雲をいひて、早くの契の絶たる譬也」(美濃)。

【補記】千五百番歌合、恋二、千二百三十五番右持。

【他出】自讃歌、定家十体(拉鬼様)、定家八代抄、家隆卿自歌合、近代秀歌、続歌仙落書、壬二集、新三十六人撰、三五記、桐火桶、六華集、心敬私語

【参考歌】「源氏物語・夕顔」
見し宿のけぶりを雲とながむれば夕べの空もむつましきかな

【主な派生歌】
みるままに昨日の雲の村時雨冬にもめぐる山かぜぞふく(後柏原天皇)
この朝け山風にほふ花の色に昨日の雲の空めをぞしる(三条西実隆)
さえくれし昨日の雲のあとなれや明けゆくをちの峰の白雪(小沢蘆庵)

深山恋

さてもなほとはれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峰にみゆらむ(新古1316)

【通釈】それでもやはり、あなたは来てくれないのか――私に飽きたのでしょうか。秋の夕暮のゆふは山にかかる雲を、無情な風が吹き払うのが見えるでしょう――そんなふうにつらい仕打ちに悲しんでいる、私の気持も分かってほしい。私もあの雲のように、あなたに弄ばれ、最後は見捨てられるというのでしょうか。

【語釈】◇秋のゆふは山 「秋」に「飽き」、「ゆふは山」に「ゆふべ」を掛ける。「ゆふは山」は万葉集に見える「ゆふま山」の誤伝か。「よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに」(12-3191)、「恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山隠れし君を思ひかねつも」(14-3475)。◇雲吹く風 雲に女を、風に男を暗喩。風によってもてあそばれる雲。

【補記】建久元年(1190)、和歌所歌合。

【他出】定家十体(幽玄様)、家隆卿自歌合、壬二集、桐火桶、題林愚抄

春恋

恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮(水無瀬恋十五首歌合)

【通釈】あの人をいくら恨んだところで、私の心から始まった思いなのだから、どうしようもないかなあ。散る桜の花に、そんな思いがする、春の夕暮だことよ。

【語釈】◇心づからの 自分の心が原因の。◇うつろふ花 散る花。下記本歌を踏まえる。「時が経つにつれ、うつろいゆく恋」の意がオーバーラップする。

【補記】建仁二年(1202)九月の恋歌合。四番右負。

【本歌】藤原好風「古今集」
春風は花のあたりをよきてふけ心づからやうつろふと見む

秋恋

思ひ入る身は深草の秋の露たのめし末や木枯しの風(新古1337)

【通釈】恋に深く心を沈めた我が身は、深草に宿る秋の露のようなものだ。期待させたあの人は、私に飽きたのだろう、とうとう来てくれず、果ては露が木枯しの風に吹き散らされるように、私はあの人の酷い態度のために、はかなくこの世から消えてしまうのだろうか。

【語釈】◇思ひ入る 心の底まで思いを入れる。「入る」には「草叢のなかに分け入る」というイメージが掛かる。◇深草 丈高く繁った草の意に、地名の深草を掛ける。深草は平安京の南方、古今集・伊勢物語以来の歌枕。初句とのつながりから「思ひ入る」ことの深い意を兼ねる。◇秋の露 秋に「飽き」、露に涙と果敢ない命を暗示する。◇たのめし 「たのめ」は下二段活用の他動詞で、「期待させる」「あてにさせる」意。◇末 葉の縁語。◇こがらし 晩秋から冬にかけて吹く風。「来ず」「からし(ひどい・つらい)」を響かせる。

【補記】伊勢物語を背景に据え、「飽きがた」になった男を待つ女の、絶望的な恋情を詠んでいる。上句・下句ともに体言止め。イメージの連鎖の仕方もみごとで、新風の恋歌として、技法的にはほぼ完成の域に達した作であろう。建仁二年(1202)九月の水無瀬恋十五首歌合、十五番右勝。

【他出】若宮撰歌合、水無瀬桜宮十五番歌合、自讃歌、家隆卿自歌合、壬二集、歌枕名寄、心敬私語

【参考】「伊勢物語」百二十三段
昔、男ありけり。深草にすみける女を、やうやう飽きがたにや思ひけむ、かかる歌をよみける。
  年をへてすみこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ
女、返し、
  野とならば鶉となりてなきをらむかりにだにやは君はこざらむ
とよめりけるにめでて、ゆかむと思ふ心なくなりにけり。

羇中恋

篠原やしらぬ野中のかり枕まつもひとりの秋風の声(水無瀬恋十五首歌合)

【通釈】ああ、篠ばかり生える、見知らぬ野原の真ん中、松の根もとで野宿する。松も一本寂しげに立っているが、私も独りぽっちで、待つ人もなしに、わびしく聞くばかりだ、松の梢を吹く秋風の音を。

【語釈】◇かり枕 仮の枕。ここでは野中の松の根元を、仮の枕として借りている。◇松もひとりの 松に待つを掛ける。「もひとり」は、私もひとりぽっちだが、松も孤立している、の心。

【補記】三十一番右勝。

院百首 千五百番歌合是也、建仁元年 恋

おもへども人の心のあさぢふに置きまよふ霜のあへず()ぬべし(壬二集)

【通釈】いくら私が深く思っても、相手の心は浅く、浅茅原にあるかなきかに置いた霜がはかなく消えてしまうように、私もこの恋に迷った末こらえ切れず死んでしまうにちがいない。

【語釈】◇あさぢふ 浅茅生。丈の低いチガヤの生える原。前句からの続きで「心の浅し」の意が掛かる。◇置きまよふ 霜があるかなきかの様で置いている。「まよふ」には恋に心迷う意が掛かる。◇あへず消ぬべし 「あへ(敢へ)」は、ことを全うする意。霜が置き迷ったあげく氷結しきれない、恋が成就されない、恋の辛さにこらえ切れない、など複雑に意味が重層する。「けぬ」は霜の縁語。

【補記】千五百番歌合、千二百七番右。新編国歌大観は下句「おきまよふ色のあらずけぬべし」とあるが、底本(蓬左文庫蔵玉吟集)の誤写であろう。

【本歌】素性法師「古今集」
おとにのみきくの白露よるはおきてひるは思ひにあへずけぬべし

百首歌たてまつりしに

逢ふとみてことぞともなく明けぬなりはかなの夢の忘れがたみや(新古1387)

【通釈】逢えたと思ったら、なんということもなく、夜は明けてしまったようだ。はかない夢だった。あんな夢が忘れ形見になろうとは。

【語釈】◇明けぬなり 明けてしまったようだ。「ぬ」は完了の助動詞、「なり」は伝聞推定の助動詞。この場合、夜が明けた気配を感じ取って「明けたようだ」と言っている。◇はかなの夢の忘れがたみや 夢という、はかない忘れ形見よ。あんなにも呆気ない夢が、恋人をいつまでも思い出すよすがとなってしまった、という詠嘆。「忘れがたみとは、即夢をいへるなり。夢は昔あひし時の形見なれば也」(美濃)。「現つのかたみさへ、はかなき事なるにとなり」(増抄)。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院初度百首。自歌合などは第三句「あけにけり」とする。

【本歌】小野小町「古今集」
秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを

内大臣家百首

時すぎて小野の浅茅にたつ煙知りぬや今も思ひありとは(自歌合)

【通釈】炭焼の季節は過ぎたのに、小野の浅茅原に煙が立っている――そのように、あなたに逢えぬまま時が過ぎた今も、私の心はまだ燃えているのです。そのことを知ってくれましたか。

【語釈】◇小野 山城国愛宕郡小野郷。比叡山の麓。炭焼の名所。◇思ひ 「ひ」に「火」の意を掛ける。

【補記】内大臣家百首。『壬二集』には見えないが、「自歌合」「両卿歌合」に採られている。

【本歌】小町姉「古今集」
時すぎてかれゆく小野の浅茅には今は思ひぞ絶えず燃えける
【参考歌】藤原実方「金葉集」
いかでかは思ひありとはしらすべき室の八島のけぶりならでは

守覚法親王家に、五十首歌よませ侍りける、旅歌

野辺の露うらわの波をかこちても行くへもしらぬ袖の月かげ(新古935)

【通釈】野辺を分け、入江のほとりを行き、濡れたのは露や波のせいだとごまかしたところで、つらい旅は行方も知れずに続くのだ――実は涙で濡れた袖に、月の光もあてどなく宿って…。

【語釈】◇かこち 言掛りをつける。袖が濡れているのは自分の涙のせいなのだが、それを野辺の露や浦の波のせいだとかこつける。

【補記】「御室五十首」。

羇旅を

をりしかむひまこそなけれ沖つ風夕たつ波のあらき浜荻(新拾遺843)

【通釈】夕暮、伊勢の浜辺で寝床をこしらえようとするが――沖からの風が激しく吹き、ひっきりなしに荒波が打ち寄せて、葦を折り敷くいとまもない。

【語釈】をりしかむ 葦を折り敷いて、野宿のための寝床を作ることを言っている。◇浜荻 伊勢の浜辺に生えている葦。「伊勢国には、葦を浜荻と云ふなり」(仙覚抄)。『八雲御抄』等にも同様の記事があり、「伊勢の浜荻」は葦の別称とされていた。

【補記】嘉禎二年(1236)七月、遠島歌合。六十五番右勝。

【主な派生歌】
友千鳥むれて鳴くなる声たかし夕たつ波のあらき磯辺に(伏見院)

前内大臣家三十首歌に、旅宿を

かへすとも雲の衣はうらもあらじ一夜夢かせ岑の木がらし(雲葉集)

【通釈】峰をわたる木枯しよ、そんなに激しく吹いて雲の衣を返そうとでもいうのか。返したところで、裏などあるまい。吹き止んで、静かな眠りをくれ。そして一夜の夢を見せてくれ。

【語釈】◇前内大臣 藤原基家。◇かへすとも 雲の衣を返すとも。衣を裏返して寝ると、恋しい人の夢を見るという俗信があった。「いとせめてこひしき時はむば玉のよるの衣を返してぞきる」(小町「古今集」)。◇雲の衣 雲を衣に見立てる。◇うらもあらじ 雲の衣には裏地などないから、裏返そうとしてもまじないの効果はあるまい、ということ。◇一夜夢かせ 今夜一晩、夢を与えてくれ。

【補記】壬二集は結句「木枯のかぜ」。両卿撰歌合・夫木抄・六華集などにも見える。

五十首の歌たてまつりし時

明けばまた越ゆべき山の峰なれや空行く月の末のしら雲(新古939)

【通釈】夜が明ければ、また越えなければならない山の頂きなのか、空をわたる月が行き着く末の、白雲の見えるあたりは。

【語釈】◇しら雲 「知らず」を掛け、行く末がどことも分からない、の意を響かせる。

【補記】建仁元年(1201)二月、老若五十首歌合。

【他出】自讃歌、定家十体(事可然様)、定家八代抄、家隆卿自歌合、詠歌大概、近代秀歌(自筆本)、八代集秀逸、続歌仙落書、壬二集、六華集

【古説】「かりねをなげきあかす折ふし、しらくもの一村月にたなびきたるをみて、あすは又あの白雲のかかる嶺をこそこえめといふ。誠にたよりもしらぬ山中にやどりなれたる心きどくなり。白雲はみ山の高根にある物なればかくよめり。月にむかひて打なげきたる心幽に侍り」(聞書)。

旅の歌とてよめる

故郷にききし嵐のこゑも似ず忘れね人をさやの中山(新古954)

【通釈】さやの中山では、嵐の音も故郷で聞いたのとは似ていない。都の人のことは忘れてしまいな、我が心よ。

【語釈】◇さやの中山 遠江国の歌枕。静岡県掛川市日坂と金谷町菊川の間、急崚な坂にはさまれた尾根づたいの峠で、街道の難所の一つ。

【補記】元久元年(1204)十一月、北野宮歌合。

百首歌たてまつりし時、旅歌

ちぎらねど一夜はすぎぬ清見がた波にわかるるあかつきの雲(新古969)

【通釈】清見潟のほとりに旅寝して――海の上に浮かぶ雲と契りを交わしたわけではないが、ともに一夜を過した。暁になり、雲は波と別れるように立ちのぼってゆく。さて、私も朝発ちして旅を続けるのだ。

【語釈】◇清見がた 清見潟。駿河国の歌枕。静岡市清水区興津の海辺にあたる。「かた(潟)」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた。

最勝四天王院障子に、あぶくま河かきたる所

君が代にあふくま川のむもれ木も氷の下に春をまちけり(新古1579)

【通釈】我が君の聖代に生まれ合わせて、阿武隈川の底に沈む埋れ木のような我が身も、氷の下で春の訪れを待っているのですねえ。

【語釈】◇あふくま川 阿武隈川(あぶくまがわ)。陸奥国の歌枕。福島県白河市の山中に発し、仙台湾に注ぐ。「あふ」と掛詞のため、「ふ」は清音で表記した。◇むもれ木 水中や土中に永く埋もれていて、変わり果ててしまった木。世に埋れた不遇の身を暗示。◇春をまちけり 春は君恩の暗喩。

【補記】承元元年(1207)、最勝四天王院の障子絵の諸国名所を題に詠まれた和歌。

鳥羽

君すみてとはにみるべき宿なれば田の()はるかに松風ぞふく(壬二集)

【通釈】あなたがお住みになり未来永劫管理されるだろう離宮ですから、田の面はるかに祝意を表するように松風が吹いています。

【語釈】◇君 具体的には後鳥羽院を指す。◇とはにみるべき 永遠に見るべき。「とは」に地名「鳥羽」を掛ける。鳥羽は山城国の歌枕、鴨川・桂川の合流点近く。白河院が離宮鳥羽殿を造営した。◇松風 松の梢を鳴らして吹く風。松は常緑・長寿のめでたい木であるから、賀意が籠もる。

【補記】最勝四天王院障子和歌。

 

いにしへの幾世の花に春暮れて奈良の都のうつろひにけむ(日吉社撰歌合)

【通釈】遠い昔、奈良に都が築かれ、移ろうまでに、幾度春は訪れ、花に暮れていったことだろう。

【語釈】◇うつろひにけむ 「うつろひ」には、都が場所を移す意に、花が散る意が重なる。

【補記】寛喜四年(1232)三月十四日、日吉社に奉納された撰歌合。新勅撰集1276の第五句は「うつろひぬらむ」。

【本歌】作者不審「万葉集」巻六
世の中を常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
  伊勢大輔「詞花集」
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

西行法師、百首歌すすめてよませ侍りけるに

いつかわれ苔の袂に露おきてしらぬ山ぢの月を見るべき(新古1664)

【語釈】◇いつか…見るべき いつになれば(出家して)…見ることになるだろう。◇苔の袂 僧衣の袂(袖)。また山中の苔むした岩木のイメージを重ねる。◇露おきて 露を置いて。露は苔の縁語。山居の孤独に流す涙を暗示する。◇しらぬ山ぢ 馴れない山の中。「路」の意味はない。

【補記】文治二年(1186)頃、西行勧進の二見浦百首。

【参考歌】
わしの山ふもとはるかにてらす月しらぬ山路の道しるべせよ(基俊)
いつか我このよの空をへだたらむあはれあはれと月を思ひて(西行)

出家

いとひてもなほ故郷を思ふかな槙のを山の夕霧の空(壬二集)

【語釈】◇いとひても 厭っても。「いとひ」は「関わり合うことを避ける」程の意。◇なほ故郷を思ふかな それでもやはり、(捨てた)故郷を思ってしまうなあ。故郷は住み慣れた土地。具体的には都を指す。◇槙(まき)のを山 山城国の歌枕。今の京都府宇治市、宇治川右岸の山。◇夕ぎりの空 夕霧のかかった空の彼方には都がある。

【補記】正治二年(1200)、院初度百首。

【参考歌】『源氏物語』「橋姫」
あさぼらけ家路も見えずたづねこし槙の尾山は霧こめてけり

百首歌たてまつりしに

滝の音松の嵐もなれぬればうちぬるほどの夢はみせけり(新古1624)

【通釈】滝の音や松を吹く嵐の音によく眠れず、夢も見ない夜々が続いたが、近頃はようやく馴れて、ふっとした微睡み程度の夢は見せてくれるようになったなあ。

【補記】院初度百首「出家」。新古今集、結句を「夢はみてまし」とする本もあるが、壬二集・自歌合など「夢はみせけり」。

前大僧正の報恩講の次に、仏前祝

神垣やもとの光を尋ねきてみねにも君をなほいのるかな(壬二集)

【語釈】◇前大僧正 慈円。◇報恩講 仏恩に報じるための法会。いつの事か不明。◇神垣 神社の垣、また垣が巡らされた神域。ここでは神社(日吉大社か)を指す。◇もとの光 本来の光。本地垂迹説を踏まえ、仏・菩薩の本来の姿のことを言う。◇みね 「峰」「見ね」の掛詞。峰は比叡山を指す。

舎利講の心を

つたへきて残る光ぞあはれなる春のけぶりに消えし夜の月(玉葉2725)

【語釈】◇舎利講 仏舎利(釈迦の遺骨)を供養する法会。◇つたへきて 釈迦入滅後も(仏舎利を)伝えてきて。◇残る光 今も残る仏舎利の慈光。結句の「月」のイメージと響き合い、釈迦の面影を暗示。◇春のけぶり 釈迦を荼毘に付した時の煙。◇消えし夜の月 煙によって見えなくなった月。釈迦は煙となってお隠れになったが、今もなおその慈光は仏舎利として残っている。

【補記】家集では詞書「月輪房会に、舎利講讃歎」。

建暦二年内裏詩歌合、水郷秋夕

春日山おどろの道も中たえぬ身をうぢばしの秋の夕暮(壬二集)

【通釈】春日山のいばらの道――藤原氏の出として、公卿へと至る道――は、私の代で絶えてしまった。宇治橋に佇んで、身を憂く思う、秋の夕暮……。

【語釈】◇春日山 藤原氏の氏神を祀る春日大社(奈良県奈良市)の鎮座する山。◇おどろの道 いばらの道。漢語「棘路」の訓読語で、公卿、あるいは公卿へ至る道のこと。◇中たえぬ 中途で絶えてしまった。「たえ」は「橋」の縁語。◇うぢばし 宇治橋。「憂」を掛ける。

【補記】建暦二年(1212)五月十一日、内裏詩歌合(散佚)。この時家隆は正四位下宮内卿で、まだ公卿に至っていなかった。

和歌所にて、述懐の心を (三首)

おほかたの秋の寝ざめの長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて(新古1760)

【通釈】秋の夜は、たいてい途中で寝覚めしてしまうものですが、そんな長い夜の間も我が君のことをお祈りしています。御恵みに浴する我が身の幸をありがたく思って。

【補記】建永元年(1206)八月一日、卿相侍臣嫉妬歌合(散佚)。同年正月、家隆は歌道の栄によって宮内卿に任ぜられている。

【他出】定家十体(事可然様)、家隆卿自歌合、壬二集、三五記、桐火桶

【主な派生歌】
八幡山さかゆく峰は越え果てて君をぞ祈る身のうれしさに(*源通光[玉葉])

 

和歌の浦やおきつしほあひにうかび出づるあはれ我が身のよるべ知らせよ(新古1761)

【通釈】和歌の浦よ、沖の潮合に浮かび出る泡ではないが、ああそのようにはかない我が身を寄せるべき所を教えてくれ。

【語釈】◇和歌の浦 紀伊国の歌枕。玉津島神社がある。同社の祀る玉津島姫は衣通姫と同一視され、和歌の神として尊崇されるようになった。◇おきつしほあひ 沖つ潮合。沖の、潮流が出会う所。◇あはれ 下記本歌を踏まえ、「泡」を掛ける。

【補記】卿相侍臣嫉妬歌合。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
わたつ海のおきつしほあひにうかぶあわのきえぬものからよる方もなし

 

その山とちぎらぬ月も秋風もすすむる袖に露こぼれつつ(新古1762)

【通釈】月の光は袖に映り、そこへ秋風はあわれ深く吹き付ける――どこそこの山に一緒に入ろうと約束しているわけでもないのに、月も秋風も、早く世を捨てよと私に勧め、私の袖には涙の露がこぼれ続ける。

【語釈】◇すすむる袖 山に入ることを勧誘するかのように、月が宿り、秋風が吹きつける袖。

【補記】建永元年(1206)八月一日、卿相侍臣嫉妬歌合(散佚)。「和歌所にて述懐の心を」。

承久三年七月以後、遠所へ読みて奉り侍りし時

寝覚してきかぬを聞きてかなしきは荒礒波の暁のこゑ(壬二集)

【通釈】明け方、ふと目が覚めて、聞こえないのに聞いた気がして悲しいのは、荒磯に打ち寄せる波の音です。

【語釈】◇承久三年七月 承久の乱の起こった年月。◇遠所 後鳥羽院の配所、隠岐。◇きかぬを聞きて 京都では聞こえるはずがないのだが、隠岐の院のことを思う余り、家隆の耳は荒磯波の音を聞くのである。

【補記】『増鏡』の「新島守」や『承久記』などにも見える歌。

遠所にて御歌合侍りしに、山家

さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心ちして(壬二集)

【通釈】寂しいことです、まだ見たこともない島の山里を、想像しただけでも、そこに住んでいるような気持がして。

【語釈】◇まだ見ぬ島 隠岐島を指す。「このおはします所は、人離れ、里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山陰にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦葺ける廊など、けしきばかりことそぎたり」(『増鏡』)。

【補記】嘉禎二年(1236)七月、後鳥羽院が隠岐で撰した「遠島御歌合」。家隆は都から歌を贈った。

壬生の二位家隆卿、八十にて天王寺にてをはり給ひける時、七首の歌を詠みてぞ回向せられける。臨終正念にて、その志むなしからざりけり。かの七首の内に

契りあれば難波の里にやどりきて波の入日を拝みけるかな(古今著聞集)

【通釈】前世からの因縁があったので、こうして難波の里に宿りに来て、西方浄土を念じつつ西海の果てに沈む入日を拝んだのだった。

【語釈】◇天王寺 大阪市天王寺区の四天王寺。◇臨終正念 臨終時に往生極楽を念ずること。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年04月04日