藤原信実 ふじわらののぶざね 治承元〜文永二(1177-1265) 法名:寂西

藤原北家長良流。為経(寂超)美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将弁内侍少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。
中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。

  3首  2首  2首  2首  1首 計11首

題しらず

山桜さきちるときの春をへてよはひは花のかげにふりにき(新勅撰110)

【通釈】春は山桜が咲いては散り、人が栄達したり落胆したりする季節――私は出世に恵まれることもないまま幾度も春を経て、花の陰で年を重ねて来たことだ。

【語釈】◇さきちるときの春 叙任の季節である春を暗示。

【参考歌】藤原定家「新古今集」
春をへてみゆきになるる花のかげふり行く身をもあはれとや思ふ

題しらず

春暮るる井手のしがらみせきかねて行く瀬にうつる山吹の花(続後撰156)

【通釈】春が暮れてゆく井手の里――玉川に散り落ちた山吹の花を、柵(しがらみ)は塞きとめられず、流れる瀬に移ろってゆく花びら。

【語釈】◇井手 山城国の歌枕。歌枕紀行参照。

三月尽鶯といふことをよめる

けふのみとおもふか春のふる郷に花の跡とふ鶯のこゑ(続後拾遺154)

【通釈】春は今日限りと思うのか、盛りの季節が過ぎてさびれた古郷に、花の跡を訪れ、散った花を哀惜するかのように鶯が鳴く。

【語釈】◇春のふる郷 「春の古る」「古里」の掛詞。春が古びて、さびれてしまった里。

【補記】「関月集」によれば、「石清水社三十首歌」での作。

【参考歌】寂蓮「新古今集」
ちりにけりあはれうらみのたれなれば花の跡とふ春のやまかぜ

舟中納涼

(むろ)の海や瀬戸のはや舟なみたてて片帆にかくる風のすずしさ(拾遺風体集)

【通釈】室の海の瀬戸をゆく早舟は、波を立てて進む。その片帆にかかる風の涼しさよ。

【語釈】◇室の海 播磨国の歌枕。兵庫県揖保郡御津町に面する室津湾。「せと」は海峡。◇はや舟 船足の速い船。◇片帆 真帆(まほ)の対語。帆を一方に片寄せて風を受けること。また、そのようにした帆。

【補記】「万代集」「夫木抄」「信実集」等、初句は「むろのうらの」。「拾遺風体和歌集」は冷泉為相編、嘉元二年(1304)以前の成立。

夏月をよみ侍りける

庭のうへの水音ちかきうたたねに枕すずしき月を見るかな(玉葉388)

【通釈】庭の上を流れる水の音が近く聞こえる場所でうたた寝して、目が覚めると枕もとを涼しく照らす月の光を見ることだ。

【語釈】◇水音 遣り水などの音だろう。

摂政殿御百首に、うみのきり

霧隠れうたふ舟人声ばかりするがの海の沖にでにけり(信実集)

【通釈】霧に隠れて漕ぎながら歌う船頭――その声ばかりが、駿河の海の沖に出てしまったのだ。

【補記】地名「するが」に動詞「する」を掛けている。結句、『六華集』は「沖に出でけり」、『夫木和歌抄』は「沖に出でにけり」。詞書に「摂政殿御百首」とあるのは近衛兼経(1210-1259)の岡屋入道摂政家百首であろう。

題しらず

月影も夜さむになりぬ橋姫の衣やうすき宇治の川風(続拾遺296)

【通釈】夜寒の季節になって、月の光も冷え冷えと射すようになった。橋姫の衣は薄過ぎはしないか。宇治の辛い河風に吹かれて…。

【語釈】◇橋姫 橋を守る女神。当時は遊女などのイメージを纏っていた。◇宇治(うぢ) 「憂し」を掛ける。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむうぢのはしひめ

西園寺入道前太政大臣家卅首歌の中に

下折れの音のみ杉のしるしにて雪のそこなる三輪の山もと(続後撰511)

【通釈】下折れの音だけが杉のあるしるしで、三輪山のふもとは雪の底に埋まっている。

【語釈】◇下折れ 雪の重みで枝が根もとの方から折れること。◇三輪 奈良県桜井市の三輪山。三諸(御諸)山とも。神体山で、祭神を大物主神とする大神(おおみわ)神社がある。杉や檜の鬱蒼と生える山として詠まれる。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
わがいほはみわの山もとこひしくはとぶらひきませ杉たてるかど
皇后宮摂津「金葉集」
ふる雪に杉の青葉もうづもれてしるしも見えずみわのやまもと

恋歌とて

色ならばいづれかいかにうつるらん見せばや見ばやおもふ心を(続古今957)

【通釈】この思いが色であるならば、どこかに、どれほどか濃く移り染まることだろう。あの人に見せたいよ、自分も見たいよ、恋い慕うこの心を。

【本歌】紀貫之「後撰集」
色ならば移るばかりも染めてまし思ふ心をえやは見せける

恋歌中に

きぬぎぬの袂にわけし月かげはたが涙にかやどりはつらん(続古今1159)

【通釈】重ね合わせた袖に映っていた月の光は、後朝(きぬぎぬ)の別れに、離れ離れになった――あの月影は、そのあと誰の涙に宿り、消え果てたのだろうか。

【語釈】◇きぬぎぬ 衣々。後朝とも書く。恋人同士は、脱いだ互いの衣を重ね合わせて同衾するという風習があった。そして翌朝、それぞれの衣を着て別れた。その別れの時を「きぬぎぬ」と言った。◇たが涙にか 誰の涙に。残してきた女を暗示している。

【補記】信実集には詞書「西園寺卅首に」とある。弘長二年(1262)、「三十六人大歌合」にも見える。

わかれをよめる

行くを惜しみとまるをさそふ心こそともにかなしき別れなりけれ(続後拾遺531)

【通釈】去って行くのを惜しむ心もあり、留まるようにと誘う心もある。どちらも悲しい別れの思いなのだ。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日