本名=石牟礼道子(いしむれ・みちこ)
昭和2年3月11日-平成30年2月10日
享年90歳(夢劫)❖不知火忌
熊本県熊本市東区健軍4丁目17―45 真宗寺(浄土真宗)
小説家・詩人。熊本県生。水俣実務学校(現・熊本県立水俣高等学校)卒。谷川雁の「サークル村」に参加。昭和43年水俣病市民会議を結成し、翌年患者からの聞き書き『苦海浄土』を発表。『流民の都』『天の魚』と水俣病の告発を続け、一連の連作によってマグサイ賞を受けた。ほかに『椿の海の記』『おえん遊行』などがある。

病室の前を横ぎる健康者、 第三者、つまり彼以外の、人間のはしくれに連なるもの、つまりわたくしも、告発をこめた彼のまなざしの前に立たねばならないのであった。
安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。
そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい主婦であり、安南、ジャワや 唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わるゝことができるであろうと考えていた。
この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。
(苦海浄土)
水俣病患者を代弁して描き上げた『苦海浄土』は、〈人の世に涙あるかぎり、これを変じて白玉の言葉となし、言葉の力をもって神や魔をもよびうる資質のものをいう〉と詩人を定義した石牟礼道子の一大叙事詩であり一大抒情詩でもあったのだろう。『苦海浄土』第三部「天の魚」の冒頭序詩に〈いまひとたびにんげんに生まるるべしや/生類のみやこはいずくなりや/わが祖は草の親 四季の風を司り 魚の祭を祀りたまえども/生類の邑はすでになし/かりそめならず今生の刻をゆくに/わが眸ふかき雪なりしかな〉とある。平成30年2月10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪で熊本市の介護付き高齢者住宅「ユートピア熊本」で静かで永い眠りについた。
熊本市電にノロノロと揺られて水前寺公園の六駅先、動植物園前停留所でおりたが、墓所のある真宗大谷派の無量山真宗寺はそこからもう目と鼻の先であった。先代住職と親交が厚く『正信偈』も学んだという石牟礼道子の葬儀は7年前の2月12日に執り行われた。その日は熊本では珍しく朝から雪が降りつづけたと追悼文集で目にしたが、今日の熊本は汗ばむほど快晴の秋日和だった。令和4年、石牟礼の命日・不知火忌にあわせて建立された墓は本堂前右、椿と公孫樹の間につつましやかに鎮まって、生地天草産の自然石に昭和62年12月4日、真宗寺で得度した際に授けられた法名「夢劫」が石牟礼の書で刻まれている。一息ののち境内に風がさわっと吹いて少しばかりの安堵をくれた。
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