本名=水城 顕(みずしろ・あきら)
昭和8年11月6日—平成9年4月22日
享年63歳(顕文院石和日鷹居士)
東京都台東区下谷2丁目10–6 法昌寺(法華宗)
小説家。埼玉県生。早稲田大学卒。昭和51年より『すばる』の編集長を勤め、石川淳の担当として晩年の執筆活動に貢献した。60年『掌の護符』続いて『果つる日』で芥川賞候補、『野分酒場』で泉鏡花文学賞、『クルー』で芸術選奨文部大臣賞、『地獄は一定すみかぞかし』で伊藤整文学賞を受賞した。

この年は六月下句から異様にむし暑い日がつづき、七月になると三○度を越える真夏日の連続で、暑熱はその後もまったく衰えるけしきを見せなかった。先に述べたように、
その前年は記録的な冷夏であり、私はこの狂ったような二年問を、小突きまわされなが
ら生きてきたような気がする。
八月初めの、気温が正午に三七度を越えた猛暑の日、かねてから痛んでいた私の右上の奥歯が一本、ほろり、と抜け落ちた。癌病院からの帰り道だった。炎天火の路上で、
私は掌の上の腐蝕し汚れた歯をしげしげと見た。すると突然、耳もとに、誰やらの低い
声が響いたのだ。
「地獄は、一定すみかぞかし」
ふたたび三たび、それは問を置かず、われ鐘のように耳の奥にこだました。地獄は、一定すみかぞかし、とても地獄は、一定すみかぞかし……。
口中に血がたまっていた。ティッシュペイパーをふくんで引き出すと、燃えあがるよ
うな真紅のバラの花だった。それは、酷烈な真夏の直射日光にさらされて、見る見るう
ちに黒ずみ、干からびて行く。私はその干からびたバラを見つめながら、なおも響きつづけている何ものかの声色に開き入った。
それがづ『歎異抄』の中の言葉であることはわかっていた。どういう文章からその言葉
が導き出されてくるのだったか、思い出せないが、かまわない。ただ、何というなつか
しい声色だろう……、と、心の底で思い続けていた。
(地獄は、一定すみかぞかし)
平成9年4月22日午前8時40分、東京・杉並区阿佐ヶ谷・河北総合病院の一室で、台東区下谷・法昌寺の住職福島泰樹(歌人)は年長無頼の友であった水城顕の病床脇にひざまづき、小声で臨終正念の読経を始めた。
昭和57年に妻をガンで失い、再婚後、自らも平成5年に下咽頭ガンを宣告されて以後何度かの再手術、入退院を経たものの、ついには末期症状に至ったのだ。転移によって肺の切除を余儀なくされ、痛苦がかさなるばかりの中にあっても、無頼派といわれた作家石和鷹は渾身の力を振り絞って大作『地獄は一定すみかぞかし』を書き終え、友の誦経を聞きながら喉頭を全摘出した喉穴から最期の息を吸ったのだった。
〈さらばわが無頼の友よ花吹雪け この晩春のあかるい地獄〉。
江戸の名残を幽かに残した東京・下谷にある法昌寺、下谷七福神の毘沙門天が祀られているこの寺の住職であり歌人の福島泰樹は石和の死を悼んで多くの歌を詠んだ。
本堂裏、重子夫人の百日法要のあと埋葬されたこの墓は、住職であった福島に石和鷹が求めたものである。「水城家之墓」ではなく、ただ「水城」とのみ刻された簡素な碑、側面に先に亡くなった重子夫人に並んで石和鷹の法号がある。額ずいて手を合わせたとき、広いとはいえない墓地に小さな風の渦が立ち上がって、隙間もなく並んだ墓碑のあちこちに枯れ葉を舞い散らせ、瞬く間に消え去っていった。
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