本名=石川達三(いしかわ・たつぞう)
明治38年7月2日—昭和60年1月31日
享年79歳
東京都世田谷区奥沢7丁目41–3 浄真寺(浄土宗)
小説家。秋田県生。早稲田大学中退。昭和10年『蒼氓』で昭和10年度第一回芥川賞受賞、作家として認められる。14年『結婚の生態』、15年『母系家族』、16年『風樹』を発表、戦後も『望みなきに非ず』『風にそよぐ葦』『人間の壁』『四十八歳の抵抗』などを著した。

私の死はもう眼の前に迫っているが、私は死について何も考えて居ない。考えることの興味がない。多くの人が死について色々書いているがすべて無駄だと私は思っている。死後の生活は何もないと思う。人類の死者は何千万或いは何億。それが皆消えてしまって何ものも残っていない。死後の世界は空白である。私に宗教が無いように、死後についても全く何も無い。何か有るように考える人にとっては何かが有る。有ると考えればいろいろな美も考えられる。霊も考えられる。それはそれで宣い。私は何も無いと信じている。知友の心に何か美しいものを残して死ぬ事ができれば、それで充分である。死後について何か有ると考えたがるのは人間の弱さである。他の動物を人間は無数に殺しているが、相互に殺して喰うのが自然であり、そのあとには何も残りはしない。残らないから助かって居るので、何がが残るとすれば大変な事になる。
(死を前にしての日記より)
移民の監督者として渡ったブラジルの農場での体験を描いた『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞。社会派の作家として出発した。私小説、観念小説を否定し、独断的なところが無きにしも非ずの態度、表現は、時に問題を起こしたこともあったが、正義に基づく社会の有り様を果敢に描いていったのだった。
〈私は死期が迫っていて、今晩死んでも当たり前だと思っている。何の感慨も無い。夢の如しと人は言うが私は永かったと思う。決して夢では無かった。〉——死の20日前の日記に記されたこの文につづけて翌日には〈寒い冬だ。春が待ち遠しい。〉との絶筆を遺している。昭和60年1月31日朝、胃潰瘍から肺炎を併発、目黒・東京共済病院で「春」を待たずに石川達三は静かに逝った。
都天然記念物の榧と銀杏、樹齢豊かな大木がある世田谷・奥沢の九品仏浄真寺。住みたい街ランキングでは常に上位にあげられる自由が丘の喧噪を逃れてたどり着いた広い境内。総ケヤキ造り本堂に三つのお堂があり、それぞれに三体の阿弥陀仏が納められている。計九体、ゆえに〈九品仏〉と称されている。
裏手にある墓地の「石川家」の墓は、碑面左下に小さく「達三・代志子」の自署を刻んである。塋域には咲き誇る紅つつじの甘密に誘われた数匹の蜂が喜々として飛び交っていた。ひととき後、ゆっくりと本堂を回り込むとそれまで私を取り巻いていたひんやりとした涼しい風が、いつとはなく背を向けて山門をくぐり抜けていった。
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