伊藤左千夫 いとう・さちお(1864—1913)


 

本名=伊藤幸次郎(いとう・こうじろう)
元治元年8月18日(新暦9月18日)—大正2年7月30日 
享年48歳(唯真居士)❖左千夫忌 
東京都江東区亀戸3丁目43–3 普門院(真言宗)



歌人。千葉県生。明治法律学校(現・明治大学)中退。搾乳業を営む傍ら、茶の湯や和歌を学ぶ。明治33年正岡子規に師事、『根岸短歌会』に参加。子規の没後、36年短歌雑誌『馬酔木』を創刊。『アララギ』でも中心となった。38年小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。『隣の嫁』『春の潮』などがある。






 

おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く

鶏頭のやゝ立乱れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり

秋草のしどろが端にものものしく生きを栄ゆるつはぶきの花

鶏頭の紅古りて来し秋の末や我れ四十九の年行かんとす

今朝のあさの露ひやびやと秋草や総べて幽けき寂滅の光             

おとろへし蠅の一つが力なく障子に這ひて日は静なり         

ゆづり葉の葉ひろ青葉に雨そゝぎ栄ゆるみどり庭にたらへり

 


 

 明治35年9月に、師正岡子規が死んだ翌年に『馬酔木』を、41年にはその後継誌『アララギ』を創刊した。斎藤茂吉や土屋文明などが師事し、「根岸派」歌人の俊英達はそろって伊藤左千夫の元に集まってきたのだが、作句傾向の違いなどから次第に対立を深めていった。
 大正2年には、経済的負担軽減のため、20数年間住みなれた日本橋茅場町から、経営していた牧場牛舎のある東葛飾郡大島町(現・江東区大島町)に移転した。このころから作歌上の苦悩、経済上の痛みなどで疲労が重なり、頭痛が頻繁に起こるようになっていたが、ついに7月29日夜半12時頃、脳溢血のため昏睡状態に入り、30日午前6時、終焉を迎えることとなった。



 

 斎藤茂吉は師左千夫の訃報に接し、その心境を後に〈ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし〉と歌って、その偉大さをあらためて感じているのだった。
 「アララギ派」興隆の礎をつくった左千夫の功績は計りしれないものがあるのだが、寂滅の光が消え去った後、数多くの星たちは連綿とつながる『アララギ』の輝かしい瞬きを繰り返しているのであった。
 亀戸天神社に近いこの寺内域は手入れも自然まかせのように植栽樹木や雑草が心地よく茂り、中村不折筆の刻まれた「伊藤左千夫之墓」は棕櫚葉の覆い被さった塋域に、無残にも大戦火の傷を残したまま悠然と存在する。
 ——〈牛飼が歌咏む時に世の中のあらたしき歌大いに起こる〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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