石原八束 いしはら・やつか(1919—1998)


 

本名=石原 登(いしはら・のぼる)
大正8年11月20日—平成10年7月16日 
享年78歳(風性院文琴八束居士)
神奈川県横浜市鶴見区鶴見2−1−1 総持寺中央イ-6-1(曹洞宗)



 
俳人。山梨県生。中央大学卒。飯田蛇笏に師事。昭和22年より飯田龍太らと『雲母』編集に携わる。24年より三好達治に師事。36年俳誌「秋」を共同創刊し、のちに主宰する。51年第六句集『黒凍みの道』で芸術選奨文部大臣賞、平成9年現代俳句協会賞受賞。評論『飯田蛇笏』、句集『秋風琴』などがある。






 

雪の上を死がかがやきて通りけり

くらがりに歳月を負ふ冬帽子

落葉焚きゐてさざなみを感じをり

流人墓地みな壊えをり鰤起し

黒凍みの道夜に入りて雪嶺顕つ

息絶えてまた生きかへる秋の暮

夕焼けは羅殺の兵を天におく

夜明前の蛍は空にのぼりけり

谷川の音天にある桜かな

花に寝て散りくる花を雪崩とも

雁も舟も海峡わたるとき迅し

 


 

 長命を願って生後一か月で本名を「登」から「八束」に改名したほど病弱であった八束は、三十代前半に大喀血、結核療養の境涯をおくることとなった。おおよそ学術・実業の世界の外にあって俳句世界に没頭していったのであったが、〈詩心は内に沈み、句境はこれを内に求め、自ら常に内心をさぐって、内観の鋭さを磨き、内観の自在な表白として作品を詠うことを忘れまい〉と論じ、ただたんに植物を写しただけの俳句には興味を示さず、〈自然の中に作者が身を据ゑ、この窓を通して人間といふ内部を見る〉という「内観造形論」を提唱して現代俳句に新境地をひらいたが、平成9年10月、病床に伏した石原八束は闘病9か月余ののち、平成10年7月16日、呼吸不全のために死去した。



 

 まこと人間の心象をこそ詠ずるべきであるとした俳人石原八束の墓は横浜・鶴見の高台、大伽藍の大本山総持寺墓所にあった。強い風にススキの穂が激しく揺れている。昭和44年3月27日に父起之郎(石原舟月)が建てた墓は、ゆったりとした芝台、中台、上台の上に黒御影の洋型棹石を置いて「石原家」とのみ彫られており、夕陽を背に受けて碑面をなお一層暗く、萎れかけた供花をうすぼんやりと映していた。石原家法名碑には母と難病のため十年余にわたって闘病をつづけた末に亡くなった妻洋子、父舟月に並んで八束の法名、俗名、略歴、没年月日が刻まれてある。傍らに八束等親族縁者によって舟月の句碑〈秋風や褒貶をきく耳ニたつ〉が建てられている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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