本名=伊藤信吉(いとう・しんきち)
明治39年11月30日—平成14年8月3日
享年96歳
群馬県前橋市元総社町2502―2 釈迦尊寺近くの共同墓地
詩人・評論家。群馬県生。元総社尋常高等小学校卒。県庁に勤め萩原朔太郎、室生犀星に師事。上京してプロレタリア詩人として多くの作品を発表したが検挙されたのを機に運動から離脱、現代詩の批評・研究に力を注ぐ。昭和7年吉田健一等と『批評』創刊。『現代詩の鑑賞』『高村光太郎』、詩集『監獄裏の詩人たち』などがある。

風が草にそよいで消える
波が渚にさわいで崩れる
私は手を振る
いたるところの旅で別れの手を振る
——ふたたびここの土地と海をたずねることがあるか
——ふたたびここの言葉と唄を聴くことがあるか
前後に揺れる時間の起き伏し
行手にくねり後ろにゆがむおぼろな道
見えぬ何ものかが別れを言う
見えぬ何ものかが別れを告げる
訣別の思いで綴る
私の旅、私の歌、私の旅の日の暮れ………
( 旅 )
明治39年11月30日、群馬県群馬郡元総社村(現・前橋市)に養蚕農家の長男として生まれた伊藤信吉、〈涸地よ/雪よ/風よ/おれの土地——故郷よ/ふたたび逢ふ日はいつ——おれはふたたび帰らぬだらう〉と貨車の向こうに月の出た夕暮れの高崎駅で二十余年を過ごした故郷との決別を宣言して以来、プロレタリア文学運動に加わり挫折、詩作の筆を折って、批評、近代文学研究に邁進したが、その脳裏から故郷を捨て去ることはなかった。昭和51年、70歳にして未練の残り火を点すように第二詩集『上州』を刊行、「居ます。すこしツンボ。」と貼紙のある横浜港北区下田町の家で故郷元総社の桑畑に吹く空っ風を想う。〈今朝の秋ふるさとに似たる風ぞ吹く〉。90歳をゆうに超し、入院していた代々木病院で平成14年8月3日、肺炎のため死去。懐かしい故郷の空に帰っていった。
前橋市の広瀬河畔、師と仰いだ萩原朔太郎詩碑から少し下流の信吉の詩碑に〈幼年の日の空に風は季節の色で吹いていた。そして私はこの土地に育ち、風に羽搏く思いを知り、風に抗う歌を知った。〉とあるが、そこから西へ四キロほど、利根川にかかる群馬大橋を渡ってしばらくすると、通称「西ん家」と呼ばれていた信吉の生家や本祭りを楽しみにしていた総社神社、通っていた元総社の小学校など、信吉少年の思い出の場所が現れてくる。かつては桑畑が広がっていた釈迦尊寺の脇道を西に入ると道の両側に小さな共同墓地、秋であれば墓域のぐるりを燃えるような火の色の彼岸花が咲いていたのであろうが梅雨時の今は面影もない。庵木瓜の家紋に「伊藤家」と刻された墓、先に死んだ妻ヨシヱ埋骨の際に詠んだ〈戒名無き妻の墓銘や彼岸花〉の通り、墓誌には他の親族とは異なって信吉と妻に戒名は無い。
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