本名=井上幸一(いのうえ・こういち)
明治3年6月3日(新暦7月1日)—昭和9年9月11日
享年64歳(剣花帰幸道一居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内92 建長寺塔頭正統院(臨済宗)
川柳作家。山口県生。明治36年東京の日本新聞社にはいり、川柳欄を担当。38年川柳結社「柳樽寺(りゅうそんじ)」を結成し、「川柳」を創刊して革新川柳を主張する。のちに同誌を「大正川柳」「川柳人」と改題、自分自身は無産派川柳に接近した。著書に『赤裸々の大石良雄』『川柳を作る人に』『古川柳真髄』などがある。

何よりも母の乳房は甘かりし
やせこけた犬に火焔のやうな舌
結び切るやがてはお落つる花の露
ひきがへる石をのせると目をつむり
活眼をひらくとゴミが眼にはいり
咳一つ聞こえぬ中を天皇旗
死、死、死、死、||世界はない
米の値を知らぬやからの桜狩り
号外や占領だけはデカイ声
絶頂で天下は見えぬ霧の海
当初は「川柳は大いに笑う文学なり」と言っていたが、大正期に入ると大正デモクラシーを敏感にくみ取り「川柳は文壇の民衆詩でなければならぬ」という論調に変わっていった。昭和に至ると「川柳王道論」を主張し始めた剣花坊の生活態度は寝たいときに寝て、起きたいときに起きるという自由な態であったが、昭和8年ころから体調が思わしくなく、翌9年には軽い脳溢血をおこして右半身が不随になった。9月8日に午睡のまま再度脳溢血で倒れ、意識が戻らぬまま9月11日午前5時、執筆と療養を兼ねて一夏を過ごしていた鎌倉の建長寺塔頭正統院の一室で死去した。没年の元旦に自宅の衝立に筆で書いたという「後五百年凡駒生まれて又千里」の句には死ぬまで川柳革新運動を実践してきた剣花坊の熱い執念を見る。
禅宗の寺である建長寺には多くの塔頭があり、それぞれが天園ハイキングコースに至る道に沿って並んでいる。仏殿、法堂、方丈、唐門の横を通り過ぎた先に塔頭正統院はあった。石畳の敷かれた狭く薄暗い静謐そのものの参道をたどって山門をくぐると本堂前左側に狭い墓地があり、右奥隅に「川柳中興の祖」といわれた「井上剣花坊之墓」がひっそりとあった。側面に三男亀三を生んだ後、産後の肥立ちが悪く亡くなった前妻トメと先妻の男の子三人を育て上げながら剣花坊を支え続け、夫の死後も遺志を継いで「川柳人」主宰者として活動し、代表句〈国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ〉を残した後妻の信子に挟まれて、自由人剣花坊の戒名「剣花帰幸道一居士」と行年、俗名が刻まれている。
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