井上ひさし いのうえ・ひさし(1934—2010)


 

本名=井上 廈(いのうえ・ひさし)
昭和9年11月17日—平成22年4月9日 
享年75歳(智筆院戯道廈法居士)
神奈川県鎌倉市扇ガ谷2丁目12–1 浄光明寺(真言宗)



小説家・劇作家。山形県生。上智大学卒。父が早世、孤児院に入る。奨学金で上智大学へ。在学中から浅草のストリップ劇場で台本などのアルバイト。放送作家となり、戯曲、小説などに活躍。『手鎖心中』で昭和47年度直木賞受賞。『吉里吉里人』『シャンハイムーン』『太鼓たたいて笛ふいて』などがある。






 

 与七さん、笑いなどというものは、無用でばかばかしいもので、その上、厄介千万なものさ。取扱いをひとつ間違えば、こんどのようなことにもなるし、なによりもあの京伝がいい手本ではないか。あの大才人がお咎めひとつで筆を折ったのだぞ。それを、あんたは、つてを求めてお上に、お咎めを逆に願い出たそうだが、全くどうかしている。お上のほんとうの恐しさを知らないから困る。お上の埒外のところで、ということは笑いも色も抜きで、すこしでも自分のやりたいことを見つけて行く、それしか、もの書きの道はないのだ。しょせん、戯作ほ慰みものではないかね。命を張るだけの値打があるかい? 読者はみんな寝っころがって暇つぶしに読んでいるだけだぜ。勧善懲悪、波瀾万丈、善玉悪玉、豪傑英雄……それで充分だ。うがち、茶気、笑い、滑稽、色里、女……そんなあぶないものは糞くらえだ。おれは安全第一で描きまくる。お上を気にせずにすむ方法でうんと描くぞ。うんと描かなきゃ筆一本じゃ、喰っていけぬ。清右衛門、もう下駄屋なぞやめて、筆で立て!」
 清右衛門は結局自分自身に意見をはじめた。おれは笑い上戸だから、わけもなくにこにこして、安全第一結構じゃないか、と清右衛門にいった。ただし、おれは栄次郎の骨をひろってやる。栄次邸の倒れたところからやってみる。そうでもしなきゃ栄次郎が浮かばれないじゃないか。それに、おれには他に何の才もないのだ。武器は高々駄洒落がちょっと出来るぐらいのものだが、その唯一の武器で、栄次郎の分までやってやろうじゃないか。世人の慰みものに命を張ってみよう。栄次郎のとむらいの日に、おれは生れ変ったんだ。茶気が本気に勝てる道をさがしてやる。むろん、きっと机の前の地獄に坐り通してやる。おれはきょうから十返舎一九だ。
 「なんだ、その十返舎一九というのは?」
 「おれの新しい名前さ」
 と、おれは滑右衛門にいった。

(手鎖心中)

 


 

 〈遅筆堂〉と自らも名乗ったりしたように脚本の執筆がひじょうに遅く、しばしば舞台に支障をきたした。前妻との離婚騒動が話題になったり、なにかと騒がしい身辺ではあった。毀誉褒貶は世の常、〈苦しいけれど、自分は作品の中で「たとえ人生が残り一日でも、どんなに苦しくても、人間は生きなきゃいけない」と書いてきたりもした。そう書いた以上は、自分のことばに責任をとるために頑張らなきゃいけない〉と自らを叱咤しつづけた。
 平成22年4月9日、入院先の病院から鎌倉の自宅に戻ったその夜10時22分、肺がんのために死んでいった。波乱の人生も今は昔、今日の日は穏やかに過ぎ去っていったのだった。



 

 鎌倉七口の亀ヶ谷坂と仮粧坂に近い泉ヶ谷という谷戸にある真言宗泉涌寺派浄光明寺。山門を入らず、道を隔てた反対側の路地を直角に曲がったどんづまりに、さほど大きくはない墓地があり、岩壁を矩形にうがった「やぐら」が数か所並んでいる。葉の落ちきった銀杏の木は冬陽を遮るかのように大きく枝をひろげ、竹林の葉緑はやけに深く見える。
 墓守の老爺がひとり、竹箒で落ち葉をあつめている傍ら、境石に囲まれた一区画に二基の墓石、井上ひさしの再婚相手ユリの実家、姉の作家米原万里の眠る「米原家之墓」、『少年口伝隊一九四五』の老哲学者に〈いのちのあるあいだは、正気でいないけん。〉といわしめた井上ひさしの眠る「井上家之墓」、並びてともに音さたもなし。ただ墓守の竹箒の地ずれの音のみぞ「サッサッ」。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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