本名=石原吉郎(いしはら・よしろう)
大正4年11月11日—昭和52年11月14日
没年62歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園11区1種16側17番(信濃町教会会員墓)
詩人。静岡県生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。昭和20年終戦時、シベリア抑留。ラーゲリに収監される。昭和28年帰国。『ロシナンテ』を創刊。第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』でH氏賞受賞。ほかに詩集『礼節』、エッセイ集『望郷と海』などがある。

風がながれるのは
輪郭をのぞむからだ
風がとどまるのは
輪郭をささえたからだ
ながれつつ水を名づけ
ながれつつ
みどりを名づけ
風はとだえて
名称をおろす
ある日は風に名づけられて
ひとつの海が空をわたる
この日は 風に
すこやかにふせがれて
ユーカリはその
みどりを遂げよ
(名 称)
昭和52年11月15日、埼玉県上福岡の自宅浴槽に、急性心不全で身を沈ませていた詩人が発見された。死亡推定は14日。
38歳で生還して以来、とうとうシベリア抑留の楔から逃れることはできなかった。ラーゲリは地獄だった。己の位置がなかった。未来の位置がなかった。いや、番号としての位置だけはあった。敗北の位置だけが。
この世の中で一番重要なものは生でも死でもない。正確な立ち位置だったと私は思う。——サンチョ・パンサが死んだ。私の指標は消えた。
〈死を背後にすることによって 私は永遠に生きる 私は生をさかのぼることによって 死ははじめて 生き生きと死になるのだ〉。
——詩人の死は私の青春の墓標となり、新天地への出発点ともなったのだ。
〈死者は海、生者は海へそそぐ河だ〉——。
私は海を思い、海を信じ、海に向かって、とうとうこの場所にやってきた。詩人の死をニュースで知らされてから20数年がたっていた。「文学者掃苔録」はただただ、この地へ辿り着くためのさまよう旅でもあったのだ。
永遠の中に流れる沈黙を、箸のひとつまみで取り除いてしまったなら、私はもう歩くことができないのだ。ただそれだけで。いまははっきりと思い出せないのだが、石に刻まれた寂しさをなぞって、信じられる場所へ行くことだけが私の夢だったのだ。
なだらかな自然石の上に「信濃町教會員墓」、左側の墓誌にならんだ「石原吉郎 77.11.14 石原和江 93.8.9」の文字。ここに海があった。安堵の海があった。私の旅はまた出発点にたった。
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