伊集院 静 いじゅういん・しずか(1950—2023)


 

本名=西山忠来(にしやま・ただき)
昭和25年2月9日-令和5年11月24日 
享年73歳 
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園文學者之墓
 


 
小説家・作詞家。山口県生。立教大学卒。広告代理店につとめたあと、フリーとなり、昭和63年から文筆に専念、平成3年『乳房』で吉川英治文学新人賞、4年『受け月』で直木賞、14年『ごろごろ』で吉川英治文学賞を受賞。ほかに『正岡子規と夏目漱石』、『機関車先生』などがある。





 

 


 

 斉次郎が英雄を見た。英雄も斉次郎を見上げた。その時、燈台の灯りが回って来て、 斉次郎の顔半分を白く照らし出した。斉次郎の目が光っていた。こんな強い目で斉次郎が英雄を見たことはなかった。
 「何じゃ、お父やん」
 「いいか、人は死んでしもうたらそれでおしまいじゃ。何が何でも生き抜くことじゃ。 あの海峡を渡る時は、 途中でわしも沈みそうになった。わしが泳ぐのをやめておったら、おまえも正雄も生まれては来なんだ。生きるいうことは、ほれ、この潮を渡り切ることかも知れん。おそろしいとかつらいとかで泳ぐことをやめたら、人はそれで終 りじゃ。おまえは泳いで泳ぎ抜くしかないんじゃ。それがせんないなら死ぬしかない……」
 斉次郎が海を見た。英雄も闇の海を見つめた。潮騒だけが聞えた。
 「わしも泳ぐ。おまえも泳げ。いいな、英雄」
 斉次郎はそこまで言うと、大きな腹を海へ突き出すようにして息を吸い込んだ。そうして沖へむかって、ウォーッと大声を上げた。それは野獣がうなり声を上げたような雄叫びだった。
 「おまえもやってみろ。気持ちがええぞ」
 斉次郎がふりむいた。白い歯が見えた。英雄も笑い返して、岩の突端に歩み出た。両手を口に当てて、英雄はあらん限りの声を出した。
 「もっと腹に力を入れて出してみろ」
 英雄は息を大きく吸って、大声を上げた。二度、三度と真っ黒な海にむかって英雄は叫び続けた。声は少 しずつ力強くなって、海峡へ引いて行こうとする波に乗って沖へ流れて行く。
 秋へむかう海流が、英雄の声をかき消すように、波音を立てて流れていた。
 一瞬、波音が途絶えた。英雄の声が長い余韻を残して周囲に響いた。


(海峡)


 

 女優夏目雅子と不倫関係の末に結ばれたものの、急性骨髄性白血病におかされた彼女とともに闘病生活、他界別離によって伊集院静の心身は疲労困憊であった。重度のアルコール依存症、酒とギャンブルに明け暮れた放埓三昧の日々、最後の無頼派作家と呼ばれ、夏目雅子の逝去から3、4年後に出会った女優の篠ひろ子と結婚したことでも世間をにぎわせた。出生当時の名前は趙忠來(ちょ・ちゅんれ)、帰化した際の名前を西山忠来(にしやま・ただき)、筆名を伊集院静として数々の文学賞を受賞し、作詞家・伊達歩(だて・あゆむ)としては近藤真彦の作品を多く手掛けてもきた。令和5年10月27日、肝内胆管がんとの診断を受け、治療と静養のため執筆活動を休止するが、約一か月後の11月24日に死去した。



 

 何度訪れたかも数えられないほど足を運んだここ富士霊園の「文學者之墓」、雲ひとつない晴天ではあるものの、霜柱がたつほどの冷気を漂わせたこの墓所には、幾多の読書人を感銘、感涙させた文学者が多々眠っているのだが、墓というよりも石塀を屏風型にした記念碑のような第九期の墓壁に令和6年、〈近しい人の死の意味は、残った人がしあわせに生きること以外、何もない。二十数年かけて、わたしが出した結論である。そうでなければ、亡くなったことがあまりに哀れではないか。〉と別離への思いを語った伊集院静の名と代表作「海峡」が刻まれた。二番目の妻夏目雅子は遠く山口県防府市にある伊集院静の実家菩提寺、極楽寺の西山家墓に眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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