石坂洋次郎 いしざか・ようじろう(1900—1986)


 

本名=石坂洋次郎(いしざか・ようじろう)
明治33年1月25日—昭和61年10月7日 
享年86歳(一乗院殿隆誉洋潤居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園21区1種1側1番
青森県弘前市新寺町108 貞昌寺(浄土宗)



小説家。青森県生。慶応義塾大学卒。郷里の女学校などの教壇に立ちながら創作を始め、昭和2年処女作『海をみに行く』が雑誌『三田文学』に掲載された。『若い人』が三田文学賞を受賞、『麦死なず』発表後、上京し作家生活に入る。戦後、『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。『石中先生行状記』『山のかなたに』『陽のあたる坂道』などがある。



 多磨霊園

 弘前・貞昌寺


 

 文学の例をとれば年が若くて気力が旺盛な時には、エドガー・アラン・ポーだとかボードレールだとかランボーだとか、青い炎を吹き上げるような迫真力をもった芸術に心を牽かれる。僕がそうでした。そこには、真実、絶対などの深遠な面貌がちらつき、永遠に通ずる瞬間のひらめきさえも覗かれるのです。この幽玄孤高な世界の瞥見に比すれば、世俗の生活などは一顧の価値もない紙屑同然のものです。---今日貴女がたはボードレールやランボーを頭から否定するでしょう。しかし貴女がたの抱く社会的熱意には、どこかしら一と昔前の青年たちがディオニソス型の奔放な芸術に没頭耽溺したのと似通った気分があるように思われてならないのです。(中略)……僕は生活というものをはなやかなものだとも深刻なものだとも考えません。平凡ではあるがウッカリはしていられない---ちょうど田や畑をつくる思うのです。自分だけが真理に通じ、自分だけが意義のある生活をしている---もしそういう気持ちで暮らしている人があるとすれば……そういう人も必要なんでしょうが……僕はその人をこのまないだけです。
                                                         
(若い人)

 


 

 〈私の作品は低俗である〉といって、はばからなかった石坂洋次郎は、〈作品は良いが人間はだめだ〉といわれるより〈人は良いが作品は落ちる〉と言われた方が良いとする信条を持ち続けた。
 〈物は乏しいが、空は青く、雪は白く、林檎は赤く、女達は美しい国である〉という北の国、津軽で育まれた夢をひとつひとつの作品に注ぎ込んだ。長い人生の早い時期に妻となった、天衣無縫のうら夫人によってささえられた悠々の生活も、昭和46年に夫人が亡くなった頃から執筆意欲も衰えてしまった。
 そのうちには認知症の症状が現れ、徐々に徘徊や記憶障害がひどくなって体調もますます悪化し、61年10月7日、転居していた伊豆(伊東市)の自宅で老衰のために天寿を全うした。



 

 『あじさいの歌』、『若い人』、『陽のあたる坂道』など、どの作品も太陽が目一杯降りそそぎ底抜けに明るくて、青春の哀しみや疼き、戸惑い、不安などを慈母観音のように優しく包み込んでくれたものだった。次々とベストセラー作品を発表し、「百万人の作家」ともてはやされた石坂洋次郎。
 ——おびただしい墓碑が並び連なる多磨霊園の幅広い石段を上った5、6歩先に、うら夫人の没後に建てられたという洋風横型「石坂家」墓があった。黒御影石の碑は、あの健康的で明るさにあふれた青春の輝きを、黒光りした碑面に映写して武蔵野の空に拡散していった。
 青森県弘前市の貞昌寺にも没後間もなく分骨されて、うら夫人ともども埋骨されている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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