岩野泡鳴 いわの・ほうめい(1873—1920)


 

本名=岩野美衛(いわの・よしえ)
明治6年1月20日—大正9年5月9日 
享年47歳(泡鳴居士)❖泡鳴忌 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種20号12側


 
詩人・小説家。兵庫県生。専修学校(現・専修大学)卒。明治34年詩集『露じも』、37年『夕潮』、38年『悲恋悲歌』の詩人として出発。41年の『闇の盃盤』以後は小説に転じ、自然主義文学の作家として知られた。評論『新自然主義』、小説『耽溺』を発表後、『放浪』『断橋』『発展』『毒薬を飲む女』『憑き物』を発表。






 

 渠の考へでは、自己と刹那とを離れたものはすべて無能力の過去---空だ。そして自分の失敗は、もう過ぎ去つてゐるから、空だ。今の戀も亦、過ぎ去りかけてゐるから、もう、半ば空だ。
 然し、さういふ様に空々になる経験を背景として、まの當り、刹那の生気を全身に感じて来ると、智、情、意の区別ある取り扱ひが行はれなくなつてしまつて、無区別な瞑想場裏に、手足の神経と腹の神経とあたまの神経とが、一致して、兎角空理に安んじ易い思索を具體化し、自己といふ物を盲動現實力の幻影にする。
 その幻影が義雄の生命だ。それさへ握つてゐれば、渠は決して、人の所謂世界に對して、頓悟、漸覺、理想だの、無理想だのと云はない。人の所謂社会に對して道徳だの、不道徳だのと云はない。その代り、渠は孤獨の自己としての自己の悲痛を食はざるを得ないのだ。
 その糧が、今は、乃ち、敷島に對して殘つてゐる戀だ。三味、太鼓の音だ。身づから踊り出したい様な空気だ。かういふものがすべて自己といふ蛸の手足で、それを義雄は喰ふよりほかに道がない。面白い様な而も悲痛惨憺の自己を手足のさきまで感じて、渠は涙にむせびかけた。

(断 橋)

 


 

 泡鳴の「刹那的個人主義」や「神秘的半獣主義」の哲理は、とてものことでは私には理解し得ない。その人生観、人間観、芸術観 などの全てが「実行即芸術」に則っているのだ。
 欲望のおもむくままに行動し、奇矯な言動が多かった。その分トラブルも方々で発生した。ある時期は蟹の缶詰工場を造るために樺太に渡り事業に失敗、心中未遂を起こしたりもしている。
 今の世ではとうてい成立しえない奔放な人生に終止符を打ったのは、壮年ともいえる47歳になった時。大正9年5月9日、腸チブスで東京帝国大学医学部附属医院(現・東京大学医学部付属病院)入院中に林檎を食べて大腸穿孔手術を受けた直後の午前3時40分のことであった。



 

 波瀾万丈といえばそうなのだが、それは自らが仕掛けた波乱ではあった。その個性の強さ、行動力などは他に類を見ない。
 文学においては「自然主義」の島崎藤村、田山花袋などや、「反自然主義」の夏目漱石らと厳しく対立、いわゆる「新自然主義文学」の立場を明確にしたのだった。
 ——死後17年を経過した昭和12年、朽ち果てた仮墓標を悼んで〈墓石なきを悲しみ友人相寄り此処にその碑を立つ〉と詩人野口米次郎(ヨネ・ノグチ)撰文が記された墓石碑が建立された。
 それからさらに60余年がすぎた。首都高速道路の騒音がよどんでいる雑司ヶ谷霊園の北隅、錆で黒ずんだ鉄鎖の向こうに「岩野泡鳴墓」は平板な碑面を炎天下に晒していた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   飯沢 匡

   飯田蛇笏

   生田春月

   生田長江

   池田満寿夫

   池田彌三郎

   池波正太郎

   石和 鷹

   石井桃子

   石垣りん

   石川 淳

   石川啄木

   石川達三

   石坂洋次郎

   石田波郷

   石塚友二

   石橋思案

   石原八束

   石原吉郎

   泉 鏡花

   磯田光一

   石上露子

   伊藤永之介

   伊藤桂一

   伊藤左千夫

   伊東静雄

   伊藤信吉

   伊藤 整

   稲垣足穂

   犬養道子

   井上ひさし

   井上光晴

   井上 靖

   茨木のり子

   井伏鱒二

   今井邦子

   伊良子清白

   色川武大

   岩波茂雄

   岩野泡鳴

   巖谷小波