本名=池田彌三郎(いけだ・やさぶろう)
大正3年12月21日—昭和57年7月5日
享年67歳(池田彌三郎大人命)
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園い区1側33号
国文学者。東京都生。慶應義塾大学卒。慶応義塾大学で折口信夫に師事し、折口学を継承、展開する。昭和36年同大学教授。日本文学や民俗学、芸能史の研究を通じ、独自の学風を開いた。『文学と民族学』『日本芸能伝承論』のほか回想記『まれびとの座』などがある。

人生というものはたった一つであって、池田彌三郎という人間は大正三年に生まれて、もうあと何年か経って死ぬ、そして今後も古今東西にわたって生まれ代わることはないでしょう。だから私にとっての自分の人生というのは、随分愚劣で酒飲んで酔っ払って、二日酔いになってウズウズしたりするけれども、それでも自分にとってはたった一つの人生だということは何ものにも代え難い。皆さん方にとってもそうです。皆さん方の人生というものは、皆さん方にとってたった一つの人生なんですね、これは大事なことでしょうね。掛け替えのないことなんです。だけれども同時にたった一つの人生だということは、他人の人生に対して同情を持たない人生になりがちなんです。自分が金持ちであると非常に貧乏して苦しんでいる人の気持ちについ同情できない。今度は逆に自分が苦しい生活をしていると、友達に非常に金に恵まれたのがいても、お互いの間に何ら気持ちの通い合いがない。片っ方は片っ方の気持ちに同感しないし、立場を理解しない。それでは人生というものは非常に寂しいと思います。
そういう他人の人生を理解するということは、自分がたった一つしかすごすことのできない人生で、いくつもの人生を同時に経験するということになります。それが小説を読むことの最も素朴な、そして一つの大事な意味だと思うのです。人生で経験のできない多くの人生を、小説の中に身をおくことによって自分があたかも経験したかの如くに経験する。これを豊かにしておくということは、逆に言えば沢山の書物を読んで、他人の人生を自分が経験した如くに身に付けるということは、その人を非常に大きな、豊かな、しかも判断力に富んだものに仕立てていくだろうと思う。しかもこれは試験勉強ではできないんです。明日試験があるから、今日のうちに詰め込みでやっちまえという勉強ではできないんですね。少しずつ、少しずつ一つの小説を読み、一つの映画を見、あるいはそれについて友達と語り合い、検討し合い、またその友達に奨められてそれに関連したものを読み、そういうことを少しずつ、少しずつ繰り返して作っていかなければならない。だから骨なんです。
(たった一回の人生)
昭和9年5月2日は池田彌三郎にとって生涯忘れることのできない日であった。慶應義塾大学の国文科の教室ではじめて折口信夫の講義を聴いた事によって、折口学の継承、伝達というその後の彼の歳月を決定づけ、昭和28年に師折口が没するまで、その日の光景はつねに彼の傍らにあったのだった。昭和6年に大学入学を果たして以来、大学院から途中兵役を挟んで研究員、講師、助教、教授と、自らも三田育ちというほど定年退職にいたるまで三田の山に居座り続けて半世紀。退職後は洗足学園魚津短期大学教授となって、魚津に赴任するが、昭和57年5月10日未明吐血、急遽救急車で帰京、東京女子医科大学病院消化器センターに入院加療するも空しく、7月5日午前11時5分、肝不全により帰幽した。
東京銀座の天ぷら屋「天金」の次男として生まれた池田彌三郎。叔父は坪内逍遙門下の劇作家池田大伍。恵まれた環境下で育ったいわゆる若旦那であったのだ。彼のスマートで洒脱な随筆はその育歴によって為されたものには違いないのだけれど、それとは別に、生涯変わらぬ師弟関係となった折口信夫との出会いこそが池田の心柱であったのだろうと思うのだ。〈死を語ることは不毛だからね〉、〈あの世があるか、ないかということは、結局フィフティフィフティだよ。あるかもしれないし、ないかも知れない〉と語った池田の御霊は幽世に帰って行ったのだろうが、いまにも雨が落ちてきそうな暗天、霊園の塋域にある墓の「池田」と硬質な文字で刻まれた漆黒の碑にわずかな雨滴が当たり始めた。
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