日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
ずっと以前から気にしていたことなのですが、私の運気は春から初夏にかけての頃に間違いなく底をつくようで、毎年のように大なり小なり何らかのトラブルに見舞われてしまいます。昨年のゴールデンウィーク前後でも家族のコロナ感染など騒がしい時期を送ったのですが、今年もやっぱり災いが潜んでいたようです。
寒さもようやく和らいできた春の終わり、久しぶりに野歩きをしてみようと思い、老夫婦で小田急線秦野駅から平塚方面行きのバスに乗って山あいを一時間ほど分け入った先の名もない停留所で降り、曲がりくねった細い田舎道をのんびりと歩いてみました。何やら由緒ありげな、今では珍しい木造の鳥居が残る集落の鎮守社の脇から緩やかな尾根道をしばらく上って行くと、右手の方に富士山を遠くに望む扇状の段々畑が広がっていました。左右、前後、全方向に広がる清々しいパノラマに心洗われる気分になったものでしたが、帰り道で思わぬ災いが待っていました。畦道を降りようとした時に草の蔓に足を取られて転倒、咄嗟についた手の打ちどころが悪かったのでしょう、右手首を骨折する羽目になってしまいました。翌日整形外科でレントゲンの結果、6週間のギブス生活です。利き腕の右手が使えないので食事をするにも体を洗うにも生活上の不便さには苛立つことばかりで、一時は文字を書くこともできず、キーボードのタイピングにも支障があって気を揉んでいたのですが、ようやくその忌まわしいギブスも取れ、曲がりなりにも普段通りの生活を送れるようになってきたところです。まだ手首の痛みは残っており、思うようには動かせずに苦労するところはありますが、何とか「文学者掃苔録」を更新することができました。
永井荷風が「日和下駄」の中で〈絶壁の頂に沿うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味のある処はないと思っている。〉と描いている根津神社裏門から、本郷台地の縁辺に沿って団子坂に向かう崖上の細い道を土地の人は藪下の道と呼んでいるのですが、我が家からいつ何時出かけるにつけ、西向きの玄関扉を開けると、真向かいの校舎(吉本ばななの卒業した小、中学校)越しに崖上の道に東面して建つ森鴎外邸跡(現在は「森鴎外記念館」になっている)を見ることになります。
本郷駒込千駄木町二十一番地、明治25年に30歳の森鴎外が近くの本郷駒込千駄木町五十七番地(夏目漱石が翌年の26年に英国から帰国して3年間住んだところで、『吾輩は猫である』を執筆したことで知られています。)から越してきて終生の住まいとしたところです。二階から品川の海が見えたことから、のちに「観潮楼」と名付けたそうです。45歳の時から「観潮楼」で歌会を開き、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、石川啄木、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎などを招いて酒肴を振る舞ったと聞きます。あの細い藪下の道を当時30歳半ばの信綱や鉄幹、21、2歳の若者だった白秋や啄木、勇、杢太郎などが興奮を隠しきれずにいそいそと駆けつけていく様を思い描くと何やら感慨深いものがあります。
大正11年7月9日、功なり名を遂げた鴎外はこの家で60歳の生涯を閉じていますが、鴎外の死に対しては多くの文学者から哀悼の意が捧げられました。
鴎外に限らず文学者の死に際して、多くの追悼文が残されていますが、人格と業績を称えるものばかりではなく、時には攻撃的であったりもします。それもまた魂のいどころさえ確と分からないままに弔いの言葉として作家から作家へ、作家から読者へ面々と繋がっていくのです。それらの追悼文をなぞっていくと、その文を書いた作家、書かれた作家の立ち位置、性根、遍歴などが浮き彫りになってきて非常に興味をそそります。
鴎外を師と仰いだ鉄幹は「明星」追悼特集に〈先生の病急なり千駄木へ少年の日の如く馳せきね〉ほか追悼歌四十四首を詠んでおり、また鴎外を敬愛した荷風は〈凡てのいまわしい形をあからさまに照す日の光が次第に薄らいで、色と響きと勾のみ浮立つ黄昏の来るのを待って、先生は「社会」と云う窮屈な室を出で、「科学」と云う鉄の門を後にして、決して躓いた事のない極めて規則正しい、寛闊な歩調で、独り静かに芸術の庭を散歩する(中略)先生はいつも独りである。一所に歩こうとしても、足の歩みが早いので、つい先へ先へと独りになって仕舞うのだ。競争と云うような熱のある興味は先生の味おうとしても遂に味えない処であろう。自分は先生の後姿を遥かに望む時、時代より優れ過ぎた人の淋しさという事を想像せずには居られない。〉と追悼しています。
その荷風は性癖も尋常ならざる人嫌いで偏屈な人物であったようで、誰一人看取る人なく市川市八幡の自宅で最期を迎えます。
図太く自己偏愛的に明治大正昭和三代を生きた荷風の無惨な死にも肯定、否定、さまざまな追悼がさまざまな作家からなされましたが、激烈だったのは石川淳の〈一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。(中略)日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。〉と、言い放った言葉です。おおよそ一般的には死者を弔う言葉とは到底思えませんが、これが言葉に魂を宿らさざるを得ない職業の作家たる所以なのでしょう。
また、うつ伏せに倒れた荷風の死骸の写真まで載せた新聞社や悪様に囃し立てる大方の世間に対して、川端康成は〈人を傷つけること、ひどすぎる。〉と苦言を呈しながら「遠く仰いで来た大詩人」であると追悼し、佐藤春夫とともに17、8才の頃から慶應義塾大学で指導を受けた詩人の堀口大学はささやかな弁護をしています。
〈荷風先生に、後進の指導推挽の熱意がおありにならなかったとかこつ声を、僕は耳にしたこともあるが、事実はむしろその逆だと僕は思っている。あれ以上懇切な指導推挽はあり得ないとさえ思っているほどだ。それに師恩というものは、賜わるものよりも、多く門下が汲み取るべきものかもしれない。〉と師恩について述懐します。
石川淳や川端康成、堀口大学の死に際しても、当然ながら多くの文学者から様々な追悼がなされています。
堀口大学は訳詩集『月下の一群』でギヨーム・アポリネールの詩「ミラボー橋」を日本に紹介したことでも知られています。画家マリー・ローランサンとの恋の終焉、人生の悲哀を気高く歌った名訳として今もなお親しまれています。青年期に私が愛誦した詩のひとつですが、年老いた今に至っては更に胸の奥深く、粛々と流れる水音のように聞こえてきます。
扉を開けた我が家の前方に広がる遠き日の光景から派生する物語は、ひたひたと命尽きる時が近づいている私の過ぎし歳月の夢幻泡影。
鴎外も信綱、鉄幹、啄木、白秋、勇、杢太郎、荷風、淳、康成、そして堀口大学も今は皆、遠に命を全うして泉下の客となってしまいました。遍歴の中の出会い、貧しくとも濃い緑の匂いを発した青春の語らい、輝かしかった人影も、近しい折々の季節の光も、今ではすっかり衰え、暮れなずむ私の胸の中でひとつ、またひとつ、水泡のように、理由のない予感に震えて消えていくのです。
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
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