かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた
(石原吉郎・墓)
機織りの街・桐生の殺風景な空に、幹の片割れを切り取られた大ケヤキがおぼろ気な陰影を描いて立っていました。
川沿いの寺にあるひとつの墓碑、母と父の戒名に挟まれて「美徳院温良妙延清大姉」のか細い文字。その下に「昭和二十四年六月一日亡/長澤延子/行年十八才」とあります。桐生高等女学校を卒業してまもなく、「魂が破滅をえらぶなら肉体も運命を共にしなければならぬ」と自覚した純粋詩人は自らの命を絶ったのです。16歳の鎮魂曲にしるした「長方形の石塔の下 東洋の香りに包まれて 茶色のとかげに護衛されて 朽ち果てよ 死者の肉体」と叫んだ長澤延子は、いかなるやすらぎに包まれてあるのだろうかと、4年の年月を経て再びこの碑の前に佇んだとき、瀟々と吹く風の合間に薄明かりの一条を見たと思ったら、止んでいた雨がまた静かに降り始めました。
2009年6月1日は長澤延子没後60年になります。
遺稿集『海』の「Tへの手紙」にあるTこと高村瑛子さんが亡くなってから5年、長澤延子命日の前日、延子の生家にも近く、桐生の街が一望できる丘に建つ桐生水道山記念館で「長澤延子・高村瑛子を偲ぶ会」が行われました。
4年ぶりに訪れた桐生、以前訪れた(編集後記2005/02/11)ときは冬でした。みぞれ混じりの冬雨だったように思いますが今回も降ったりやんだりの雨空、よほど天候には恵まれていないようです。
桐生駅から長澤延子の生家の墓がある養泉寺へ、桐生川の土手を北上して養家の墓のある大蔵院、下って坂口安吾終焉の住処跡、南川潤の墓がある円満寺、長澤延子生家、通っていた西小学校、幼稚園など4時間、桐生の市街を半周したのではないかと思うほど歩きました。古びれた街並みや歴史的建造物などを愛でながら、疲れた体をようように押し上げてたどり着いた水道山の会場。
出席者は当然のことながら長澤延子や高村瑛子さんにつながった人々です。死後16年にして編まれた遺稿集にも携わり、「偲ぶ会」の発起人でもある新井純一氏、遺稿集刊行当初からの支援者いいだもも氏、詩人の久保田穣氏、石川逸子氏、兄上である長澤弘夫氏、江古田文学で長澤延子特集に関わったクリハラ冉氏、歌人の福島泰樹氏、研究者、ご友人など3~40名。それぞれに永く、あるいは強いつながりをもって接してこられた方々ばかりであって、私などが出席するのは場違いな会であったのですが、ご案内をいただいたのを幸いにノコノコと厚かましくも出席して有意義な時間を過ごさせていただいたのです。
出席者の立場からお二人の人柄、歩み、つながり、長澤延子自死前後のこと、研究などのお話、詩の朗読もあり、最後に長澤延子に於いては今日に至るまで何冊かの詩集が編まれ、文芸誌の特集が組まれてきましたが、少しばかり字句の乱れがみられるようなのでこの際、定本をという趣旨のお話もありました。
今となっては長澤延子を直接に知る人は少なくなりました。その詩を知る人も少ないことでしょう。しかし、自らの魂を「生」と「死」に凝固させ求道して逝った彼女の「死」にもひたすらな未来がわたっているのです。いつの日か近い将来、関係者のご努力によって定本が成り、長澤延子という天才詩人が再び蘇ってくることを私は願っています。
冒頭の詩を書いた石原吉郎は私の敬愛する詩人です。彼は長澤延子が自死した1949年、シベリア抑留臨時法廷判決で重労働25年の刑をうけ、カラガンダ第二刑務所へ囚人として収容されました。スターリン死去に伴う特赦により1953年、帰国、詩人としての歩みを始めたのですが、1965年に500部のみ自費出版された長澤延子の遺稿集や1968年に刊行された「友よ 私が死んだからとて』を手にしたことがあったのかどうかを私は知ることもありませんが、信じるべき観念はつながってほしいと思っています。
そんなことをあれこれ思いながらの帰途、車窓の彼方をぼんやり眺めていると列車の振動が心地よい眠りとなって、立ち退くことを拒んでいた胸のしこりをやわらかく掬っていきました。
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