ちぎれ雲がゆっくりと東の方へ動いて行く湘南の空。  
                     京急六浦の駅から随分歩いたように感じていたのに、鎌倉七口のひとつ朝比奈切通の入り口に着いたのは小一時間にも満たない道のりでした。ここから朝比奈峠の丘陵を越え、鎌倉市街へと至るつづら折りの坂道をしばらく上ると、半世紀ほど前に西武が開発したという公園墓地鎌倉霊園にたどり着きます。川端康成、堀口大学、山本周五郎、丸谷才一、中西悟堂、下母沢寛、竹山道雄など数多くの作家や著名人の墓があることでも知られた巨大な墓地です。 
                     晴れた日なら霊峰富士が望める墓地の一層高いところには、一代で西武王国を築いた堤康次郎の古代王族の古墳かと見まがうような墓があります。生涯において、実業家としても政治家としても、また家庭人としても、あらゆる業を生じせしめた男でありました。ことに女性関係においては分別も何もなく手当たり次第というほどであったと聞きます。 
                     康次郎の愛人(のちに本妻)であった青山操との間に生まれた堤清二は〈生い立ちについて、私が受けた侮辱は、人間が生きながら味わわなければならない辛さのひとつかもしれない。私にとっての懐かしい思い出も、それを時の経過に曝(さら)してみると、いつも人間関係の亀裂を含んでいた。〉、〈父に唾を吐きかけてもその唾は同じ血を引く自分にもかかる。父を否定し憎悪しても、自分はその父の息子であることから逃れることはできない。〉と鬱屈を含んだ宿命を述懐しています。侮蔑、怒り、翻弄、不安、苦楽、因果、怨讐など、父とのあらゆるカルマに生涯あがないきれなかった清二だったのですが、確執のあった異母弟堤義明がインサイダー取引疑惑で逮捕された頃から、かつては嫌悪していた父康次郎が埋葬されている鎌倉霊園に自らも眠ることを強く希望するようになったといいます。 
                     清二の墓は父康次郎の墓の土手下、羅漢槙の生け垣に囲まれた領域にひっそりとありました。母操、妹邦子とともに鎮まる塋域、西方に見えるはずの冨士も湿った暗気に阻まれて今日は顔を出していないようです。無明長夜の道をゆくが如くの定めを背負った一期、実業家堤清二としてよりも詩人辻井喬として生きることを本意とした男の鎮魂の場所です。  
                     「過去を忘れたい」と人生最後の句に言い置いた辻井喬。 
                     孤高の傍らで、蕭々と生きた心境をどのように解釈すべきかは人それぞれなのでしょう。 鬱々と沈んだ彼の顔を思い浮かべてみたところで詮ないこと。 
                     あるかなきかの埒もない妄想を打ち消して、塋域の足下に視線を落とすと、生け垣の根もとに穿たれた地中への入り口に向かって、芝生庭に敷かれた敷石の上を蟻の隊列が黙々と、この世に存在するただ唯一の深淵を信じるかのように歩んで行きます。蟻もろともに私の信じてきた一切合切、永遠の気配がその穴の中にゆるゆると吸い込まれていってしまうかのような思いに囚われてしまいました。 
                      
                       果てしなきもの 
                       明らかにすらすることのできないあやふやなもの 
                       掃き清められた石畳 
                       ひとの歩みの通るべき場所 
                       路傍の野草や石くれ 
                       苔、水たまり、そよぐ風 
                       
                    ささやかな音の行方 
                       雨水の流れ方について 
                       たとえば夕暮れの雑木林の和らぎの 
                       生きとし生ける有象無象の気配 
                       相交わったありふれた静止画のような一点景に 
                       とどめられた記憶の曼荼羅 
   
                     湿った風が日よけ帽を飛ばすように吹いてきます。 
                     元々は起伏のある丘陵を切り拓いて造ったこの霊園は、谷筋を挟んで対面する斜面をも夥しい墓石群が覆っています。幾十万の物語、過ぎ去った季節の怒りや悲しみ、焦燥、栄光と挫折、埋もれたあるいは昇華した霊魂の時を刻んで、あるがままの生と死の終わりと始まりが交差する葬送の地。 
                     あの町やこの町、花を愛で悠々と道草をする者、惰眠を貪る者、額に汗する者、ある者は気ぜわしく、ある者は心穏やかな足取りで刻一刻、光陰の畔を迷い迷い通り過ぎるのです。張り詰めた心の淀み、漣のように細やかに伝わってくるまろやかな光は解き放たれ、いつかどこかの辻で行き交った人々の熱い息吹を耳元に感じるほどに、遠い昔になくした命の気配が左右前後からヒタヒタと伝わってくるようです。 
                     堤清二の墓所からほど近い川端康成や堀口大学の墓所を再訪し、鎌倉・大町に住んだ歌人尾崎孝子墓をあとに、国文学者池田彌三郎の墓所をめざして坂道を下っている道すがら、風が吹き、路端に生えているタンポポの綿球が揺れて、そのたびに種子が舞い、ほの明かりのように暗い空に移ろっていったのです。行方を追ってなにげなく様々な墓碑を見るともなく見ていると、歩道に背を向けた一列、数列の没年月日や戒名が彫られている墓碑のひとつに○○居士、○○大姉という戒名に並んで「人間万事塞翁が馬」とありました。これが戒名代わりなのかどうか。故人の確固たる遺志で刻まれたのには違いないのでしょうが、なんとも風変わりで意表を突くものでありました。考えてみれば長い人生にあって、楽しい事や嬉しい事、辛い事や悲しい事、色々であるけれども、何が幸福で何が不幸かは今直ぐにどうのこうのと決まるものでもなく、誰も結論づけることは出来ないのだろうと思います。人それぞれ、岐路の選択や含意によっておのずと別の道をたどることになったかもしれないのだろうと思います。会者定離、愛別離苦、相反する苦しみは、人の生きていく過程において逃れようのない摂理なのです。  
                     川の流れの淀んだ畔に  
                       一叢の曼珠沙華が咲いている  
                       消息を失った  
                       苫屋の前の桜の樹  
                       枯れ葉が数片  
                       ひらひらと空に流れ  
                       やがて  
                       焦燥をのこして  
                       川面に散っていった  
                     どこかの辻で別れてしまった  
                       何処かの誰か  
                       それぞれに  
                       音沙汰も知れず  
                       現世の理を行ったきり  
                       手に届く場所にある  
                       歳月の果てに  
                       一期一会の  
                       出会いと別離  
                       長いようで短く  
                       短いようで長い  
                       振り返ってみても  
                       確かだと思った形すら  
                       心細くて朧気だ  
                       天にかき消えた  
                       定めの道の  
                       …………  
                     さてもさても  
                       今日の終わりに  
                       何を願おう  
                   
                    
                    
  
  
  
                    
                    
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