後記 2017-06-01                    


 

  

 朝の気配がする。
 昨夜の雨が山の端を濡らし残していった甘い匂いは風に乗って、目覚めかけた家々の軒先を流れ、朝霧が麓のほうから木々の枝葉を包みながらゆっくりと山襞をのぼりはじめている。

  移ろいの日々に
  仄かな風が舞った
  土に還る命の果ての
  概念と呼ばれる場所に
  年老いた人のひとり
  長い年月
  清らかな流れの中の
  一本の木に
  吹く風の時間
  初めて聞く予感の震え
  響き合う鼓動
  ひろがる波紋
  いつかまた
  この都に来るために
  花脊の峠を越え
  桜の咲き誇る北山の
  桂川源流沿いを
  自転車でひたすら走った

  都を去るにあたって
  心待ちしていたのは常照皇寺の九重桜
  散る花の嘆きを残して
  しなやかな若葉が鳴いている
  小さな吊り橋の袂
  草むらに寝転んで
  最後に見たのはうたかたの夢
  叫びのように
  一瞬に消えた
  そうかあれは夢だったのか
  理由を問うても
  せんないことだが
  夏黄櫨に絡みついた山葡萄のように
  花の咲く季節をひたすら待って
  語れない悔恨を想う
  わたる風の合間に
  私は何を得たのか
  何を失ったのか

 

 リビングの窓辺。
 境目のない灰色の空が左右にひろがって、盆栽の小鉢や苔玉の並んだ棚、簾越しに薄ぼんやりと空に透け込んだスカイツリーが見えています。上野の丘と本郷の丘に挟まれた窪地を南北に走る通りの両側は大小様々なマンションが擁壁のようにぎっしりと建ち並んでいるのですが、奇跡的にも我が家の前方だけはその擁壁からは免れていて、上野の森の方向にせり上がっている家並みや寺々の甍がどこか地中海の小島の崖風景を想わせるようで私の心を大いに癒やしてくれているのです。いましもまたパソコンの前に座ってキーボードに打ち込む指の動きをしばし休め、その景色をただなんとなく眺めながら、つい一月前まで住まいしていた京都の町並みやそこで知り合った人々を思い浮かべています。京都という町は、碁盤の目のような通りと毛細血管のように張り巡らされた路地、図子、突抜けなどの小路や苔むした古寺の甍、「千年のすれっからし」と白洲正子の評する京都人の矜持やその背後に息づく複雑な明暗と階調で構成されているのですが、私の眼下に広がっている東京下町の狭い風景の中に所狭しとひしめき合っている何十という江戸期以来の寺院や脇骨のような坂道、先の大戦で焼け残った路地に漂う昭和の残り香などが渾然一体となった周辺の雰囲気は、京都での生活を思い起こすに十分な懐かしい手がかりともなっているのです。念願だった一年半の京都生活を終え、久しぶりに帰ってきた我が家の生活にはしばらくの間なじめないでいたのですが、窓からの風景を眺める時間を重ねるにつけ、ようやく以前のサイクルにかみ合うようになってきました。

 

  私のために回った緩やかな季節の巡り
  古碑に刻まれた音
  忘れられた名の
  光の煌めき
  揺るぎない春のつづきの
  夕暮れ時
  都の路地は華やかに息づきはじめ
  忿怒にこそ癒やしの言葉を投げかけてくる
  沈む夕日に影を伸ばして
  垂直に立つ
  愚かしい死者の意思の
  生きていることへの選択
  果たし終えた概ねのものがたり
  
  蒼穹に浮かぶ三日月の
  思いを捨てて
  やり残した儀式を正そう
  昔の日の
  山の日々の静けさに
  空にあずけた情念の悲しき
  西の郷家に生まれ
  東の巷に憂う
  水鏡の中の幻影に
  結末を告げる
  一閃の光陰
  星は動いたか
  動かなかったか
  夜はしばらく立ち止まり
  それからゆっくりとくずれ落ちて
  薄墨の闇を破った時
  流れる朝の庭に
  冷気がきゅーんと弓を張る
  待つときは過ぎた
  そろそろ
   迂遠の過去に
  手を振って
  幾重にも重なった山稜の彼方に消え去ろう

 

 豊臣秀吉は「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」という辞世を遺して逝ったと聞きましたが、私にもまたいつの日か「京都のことは夢のまた夢」と感慨するときが確と訪れてくるに違いないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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