後記 2018-02-01                   


 

  

  甘やかな花のように
  まぎれてゆく暮色
  この季節のおわり
  雪の中にたたずむ人よ
  花咲かぬ郷に
  しんしんと去ってゆく人よ
  

  1949年6月1日に自裁して果てた夭折の詩人長澤延子の〈没後60年を偲ぶ会〉でお会いして以来、はがきやメールでの交流以外には久しく合うことのなかった新井淳一さんが昨年秋に亡くなっていたことを知らされて、かつてなく激しい動揺を覚えたのはつい先日のことでありました。
 70〜80年代にかけてパリ・コレクションで衝撃的にデビューした「イッセイ ミヤケ」の三宅一生さんや「コム デ ギャルソン」の川久保玲さんのコレクションなどに多くの素材を提供されてきた日本を代表するテキスタイルデザイナー新井淳一さん。ファッションの世界でのゆるぎない名声はともかくとして、私にとっては詩人長澤延子を介してのみの密かなお付き合いであったのです。2002年に肺がんと胃がんを患われて以降も、各地で多様な布の表現性を追求した成果の作品展を催されていて、時折ご招待を受けた所々でお会いする機会はあったものの2年ほど前に私が京都に居を移してからは、つながりの細い糸もぷっつりと切れて次第に日々は薄れていったのでありましたが、それでもあの優しい微笑みと淡々とした語り口で周りに集う人々を魅了し続けておられるものとばかり思っていたのでした。

 はじめて桐生川沿いのご自宅にお伺いしたのは2005年、みぞれ混じりの小雨が降る日、長澤延子の墓にお参りしたあとのことでありましたが、約束もとりつけず突然の訪問にもついぞ不快な顔をみせられることもなく、管理されている長澤延子の遺稿やアルバム、貴重な資料の数々を丁寧に説明してくださったこと、ご自分の運転されるお車で、氏の作品も収蔵されている大川美術館や長澤延子に縁のある水道山公園、生家、若き日に三宅一生さんや山本寛斎さんらと談論したという古民家風レストラン「芭蕉」など桐生の町のあれこれを案内していただいたことなど、そのふんわりと真綿で包み込むような優しさや微笑みの風貌とともに思い浮かべているのです。

 旧制桐生中学校(現・桐生高等学校)の演劇部部長であった新井淳一さんは長澤延子とおなじ旧制桐生高等女学校(現・桐生女子高等学校)の生徒であった(長澤延子の称するTこと)高村瑛子から延子の書いた文章を見せられ、結果的にはオルグをされたように演劇部の何人かとともに延子と同じ青年共産同盟員になったのです。水道山でのお花見会や合同班会議など幾多の会合で同席するものの直接話をかわすことはなかったといいますが、私の手元にもある遺稿集『海』は新井さんの奔走によって延子の兄・弘夫氏や友人らと共同編集され、赤城山で紡いだ玉糸を新井さんの工場で織りあげた紫紺の布を装幀して五百部限定、長澤延子十七回忌の年に刊行されたのでした。

 「十七年ののちに」という文章で新井淳一さんはこう書いています。

 僕は長澤さんを良くは知らなかった。だが当時長澤さんにつづいて他にも行方不明で、恐らくは死を選んだろうと噂されている女学生の話を聞いたとき、自殺という生命の燃焼のあり方が、僕たちの世代にとっての大きな魅力であり、至高の青春の姿かと思った。
 青春期にとってまだ掌にしていない未来は、霧に包まれて無限の可能性を秘めてあるべきだったろう。だがあのころの青春は、はじめから絶望の中にあった。過去と共に未来も喪われていた。大人たちは指標を与えるどころか自らがいかにして生きるかを知らず、教師の権威は地に墜ちていた。少年だった僕らがうろたえた大人たちに同情し、社会的責任を負って生きねばならぬ親たちや先輩の疲れた姿にあわれみを感じてさえいた。大人は死ぬこともできない。老残の醜状をみるに絶えずと思ったりした。
 そして事情はそれぞれに異り、思いは又萬別だったろうが、何人もの若い生命が自らの手で灯を消していった。あれから何回かの十七回忌を僕らは今持っている。一見平和な日々が僕らの周囲を流れている。飢餓の時代に青春を過ごした親たちが、実業につき、教師となり、教育ママになり、子供たちはピアノを学び、日曜のドライブを楽しみ、皇室のアルバムに飾られた本が書店に並んでいる。
 だが飢餓の時代は去ったのだろうか。精神の苦痛は和らげられたのだろうか。ただ奴隷の安逸だけをむさぼっているのではないか。
 長澤さんの遺稿集『海』は僕らに血の赤さを思い知らせてくれる。みせかけの繁栄や、みせかけの平和のかげに、彼女の愛したニッポンの樹木を枯らさぬために、僕たちの土壌に新しい血を注がねばならぬのではないだろうか。

 

 今回掲載した加藤周一は「知の巨人」と呼ばれ、1937年、17歳の映画評から2008年7月に書かれた朝日新聞掲載『夕陽妄語』の「さかさじいさん」まで、「プチブルインテリ」、あるいは「左翼」と位置づけられもした彼の生涯の大半は文章を書くことと、語ることに費やしたといいます。〈権力の側に立つか、小さな花の側に立つか〉、太平洋戦争の始まった頃の不安な時代に〈急に訪れては、急に消える去る歳月を超えるほど密度の高い美しい時間〉は加藤の記憶の中に〈明瞭に、そのあらゆる細部にわたって、意識の中に残った〉のです。〈細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空が拡り、青い空の奥に小さな白い雲が動く。風はなく、どこからも音は聞こえてこない。信州の追分の村の外れで、高い空と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しくみえた。たとえ私の生涯にそれ以外に何もないこの美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい、——〉と。

 加藤周一が発案し、発起人の一人ともなって2004年6月10日、戦争を永久に放棄し戦力を保持しないと定めた第9条を含む日本国憲法の改定を阻止する目的で大江健三郎、鶴見俊輔、井上ひさし、小田実ら護憲派の作家九人によって結成された「九条の会」は今も受け継がれていますが、かつて戦争とファシズム、飢餓の時代に青春を過ごした新井淳一さんもまた加藤周一最晩年の肺がんと宣告された2008年5月、「9条世界会議」の呼びかけ人として名を連ねていたのです。

 

  季節は
  鋭さを滲ませ
  青みの残った
  宵の空に
  薄れゆくときめき
  風はさらに冷えて
  蒼茫とした径の
  かすかに聞こえる
  さんざめきよ
  うつろいは
  ひとりの死者と
  ひとりの私に
  うたかたの
  選択をあたえたのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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