躊躇はあったのですが、GoToキャンペーン東京解除のあった昨年10月のおわり、以前京都で知り合った知人に誘いをうけて京都に行ってきました。
大徳寺近く、西陣織の帯の織元町家でゲストハウスを営んでいる私と同年代の女性で、そこに4日間ほど滞在してきました。新型コロナでは相当な被害を受けたようで、騒動以来初めての客だったそうです。
以前にネットで読んだ「〈志賀直哉〉京都時代の旧居解体」という新聞記事から、昨年春に計画していたものの、コロナ騒動の煽りを食って頓挫していた旅だったのですが、四年ぶりに京都の町を歩いた、というよりも彷徨ったというほうが正解かも知れません。
「文学者掃苔録」の別項目のひとつに「文学散歩:住まいの軌跡」という項目があり、その中の京都編はかなり広範囲に渡っています。洛中、洛北、洛南、洛西など、文学者の住居変遷の詳細データはそれなりに揃っているのですが、それぞれの地図に落とし込むには点在する範囲の広さがネックになっていて、現在は五条通以北のみの中途半端な地図になっています。
稲垣足穂や衣笠省三、坂口安吾、西村京太郎、淀野隆三などの伏見地区、上田敏の下京区下二宮町、岡部伊都子の下京区東塩小路町、水上勉の下京区八条坊城、山村美紗や鶴見和子の宇治、志賀直哉の山科、寿岳文章の向日市上植野町、吉井勇の綴喜郡八幡町、大庭みな子の大津比叡平などなど、その他にも指折り数える作家の軌跡をなんとかしたいとは思っているのですが、なかなか思うように纏められないでいます。
今回の旅は「文学散歩:住まいの軌跡」に落とし込んだ文学者今昔旧居の痕跡の中でも、資料によって町名までは判明するものの番地が確定していない痕跡を探すことにありました。左京区秋築町の会田雄次邸、中原中也が下宿した上京区中筋通りのスペイン窓の家、左京区岩倉長谷町の鶴見俊輔邸など比較的容易に見つけ出せたものは何軒かありましたが、多くの痕跡は町名どまりで番地は不明のまま。ことに思い入れたのは志賀直哉の旧居跡とドナルド・キーンの下宿跡の正確な住所確認がありました。
衣笠園にあった志賀直哉京都時代の旧宅は大正4年1月から5月までの短期間に住んだところで、『暗夜行路』でも「机を据えた北窓から眺められる景色が彼(謙作)を喜ばした。正面に丸く松の茂った衣笠山がある。その前に金閣寺の森、奥には鷹ヶ峰の一部が見えた」と綴られ、重要な舞台として描かれているのですが、北野白梅町交差点から南西に200mほどのところにあったはずの建物は、残念なことに、すでに不動産業者によって整地分譲されておりました。100年前の眺望は論外としても周辺の佇まいで僅かに俤を感じるところはありましたが、写真で見た二階建て日本家屋や庭の木々も何もない跡地に、工事業者のトラックが横付けされているばかり、しばし呆然とはいたしましたが、ネット記事を見てからもかなりの経過がありましたので、さもありなんと納得するしか術はありませんでした。
ドナルド・キーンがフォード財団の奨学金を得て日本に留学、昭和28年から30年にかけて京都で下宿した東山区今熊野の奥村邸離れ「無賓主庵」は現在、同志社大学今出川キャンパスのアーモスト館脇に移築されて昔のままの姿を止めているのですが、館の事務所でかつて「無賓主庵」のあった奥村邸の住所を尋ねても〈東山区今熊野南日吉町〉以外の正確な住所番地は判明せず、府立図書館でコピーした昭和30年の住宅地図を頼りに現地を訪ね歩いたのでした。のちに奥村家の下宿人となった永井道雄と終生の縁を結んだ因縁の「無賓主庵」があった今熊野南日吉町の現在は、宅地造成などによって当時の住宅地図とは大きくかけ離れていました。地元の人たち数人の助けを借りてようやくたどり着くことができた場所には奥村家が土地売却したのか、所有か否か不明の四階建てマンションが建っていました。キーンが〈それは今熊野の坂道にあった家で、京都の資産家が昭和の初めに飛騨の高山から京都に移築したものでした。大きな囲炉裏や茶室がある昔ながらの素晴らしい家で、縁側からは人家が一軒も見えず、はるかかなたに泉涌寺の御陵だけが見えました〉と述懐した下宿跡からは、新たな住宅が建て込んでいて泉涌寺の御陵など望むべくもなく、京都から山科醍醐へ続く醍醐街道瓦坂という古道からの崖地斜面に僅かばかりの樹木が植わっているばかりで、キーンが逍遙した道すがらの風景も、当時あった家々も多くは移りかわり、聞き込み訪ねた古くからの地元民にすら「無賓主庵」の記憶は忘れ去られていたのです。
ドナルドキーンが初めて訪れた京都で下宿し、日本文化を学び、終生の友永井道雄と出会った場所〈京都市東山区今熊野南日吉町23番地〉、確と記憶されたし、と強く思うのです。
「文学散歩:住まいの軌跡」のために活用したのは日本文藝家協会編の『文藝年鑑』でありました。国会図書館や都立中央図書館に通いつめ、大正11年から今日までの99年間、私の選んだ文学者約1300名の住居変遷を蔵書から引き写したのです。それに加えてそれぞれの個人年譜、郷土史、自叙伝や遺族の回顧録、現地調査などと照合、時々の住居表示変更を確認しながら明治、大正、昭和、平成の地図を重ね合わせ、住宅地図、火災保険地図などを補助として纏め上げた総合データを元に、イラストレータで書き起こした原図に落とし込んだのが「文学散歩:住まいの軌跡」です。
作家は自らの作品を通して、幾多の人生を生き、死を確かめ、哲学を学んだはずなのですが、つまるところ、そのことによって得た作家の覚悟とは何だったのでしょうか。自らを何者としたのでしょうか。自らの立ち位置は何処にあったのでしょうか。立ち位置はもとより、住居変遷の上に現れた僅かな心の軌跡や辻々に佇む姿を思い浮かべ、その心情を少しでもくみ取ることができたならば、この地図を掲載した私の本望も遂げられたと言うべきでしょう。
「住まいの軌跡」が文学者の生きた痕跡であるならば、その墓は死んだ証しにもなるのでしょうか。
墓所が2ヶ所ある文学者も多く見受けられ、、3、4ヶ所の墓所をもつ佐藤春夫や徳富蘇峰、中島らものように大阪湾に散骨された事例もみうけられるのですが、大多数の文学者は望むと望まざるに関わらず、先祖累代の墓やそれぞれ個名の墓に眠っているのです。
今回掲載した河野多恵子や河野裕子の本墓が実際はどこにあるのか、あるいは未だ遺骨のままどこかで鎮まってあるのか、伝聞も資料もなく、私には見当も付かないのですが、春日大社の渡り廊下につり下げられた燈籠に名を刻んで墓とした河野多恵子や墓は無用のものとして、自宅庭の日当たりの良い斜面に植えた山桜に死後の思いを託した河野裕子、あるいはまた伊豆修善寺の山腹に娘の設計による「墓のような家」を建てた倉橋由美子のような例を見るにつけてもなお一層、作家における生死の立ち位置というものを確と見極めてみたいと思うのです。
それはまた、私自身の生死を刻むための確認でもあるのです。
私の歩いた道を舞い下りてくる
小さなひとつひとつの点が
ひとひら、ひとひら
地表すれすれに速度をおとし
うっすらとした音が
ようやくなりやんだ刻
冬はそろそろと生まれて
のちの世に
雪飾りの都をつくったそうな
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