後記 2019-02-01                   


 

  

 江戸城の鬼門、上野台地の天王寺門前にひろがる広大な墓原の南東、寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸があった根岸の里に下っていく御院殿坂への細道と寛永寺へとつづく桜並木の参道が交わる辻角に優に百坪はあろうかと思える墓域があります。かつては石柵で囲まれた男爵澁澤榮一家の墓や納骨堂などが並んでいたのですが、数年前に石柵も取り払われて整地され、開放的な墓域となりました。青銅阿弥陀如来座像のレリーフが嵌め込まれた碑の左に三基、巨大な「青淵澁澤榮一墓」を中心に先妻と後妻の墓が左右に並んで西方を向いて建っています。数十メートル先の西側には澁澤榮一が最後の幕臣として仕えた将軍徳川慶喜の墓があり、墓域の3分の2ほどはだだっ広い広場となっていて、そこには樹齢を重ねた幹周り3mほどのタブノキが一本。傘をひらいたように枝葉をめいっぱい四方に広げて立っています。
 晴れた日には朝9時過ぎになるときまって近所にある保育園の園児がこの墓地の広場にやってきて、運動場代わりにタブノキの周りを走り回ったり、遊戯をしたり、少しだけ根上がりして太くなった根の背にまたがったりと思い思いに遊んでいるのですが、その日の朝は気象もさることながら時刻も早かったのでしょう。人影もなく、歓声も聞こえず、ひっそり閑としておりました。

 朝もやの立ちこめる幻想的な冬の日。
 気まぐれに迷い込んだ路地の道すがらには澄んだ黄色の花を咲かせた蝋梅が微かな甘い香りを散らしておりました。山茶花の生け垣に囲まれた寺町の裏道なんぞをぶらぶらと抜け出て、ところどころ踏み石の敷いてある墓地の迷い道を歩いていると、白いニット帽をかぶった幼子の手を引いた老人がゆっくりとその広場に入ってゆきます。祖父とお孫さんなのでしょう。それはそれは薄らとした陽光に晒されて、昨夜の雨に濡れた枯葉混じりの土庭の上に影絵のような二つの輪郭をひかえめに揺らせておりました。ブランコや滑り台などの遊具も何もない墓地の広場です。二人以外誰もいない冬枯れの広場ではせわしなく何かをついばんでいる野鳩が五羽、六羽。ふと見やると、つないだ手をふりほどいて幼子がタブノキの周りを回り始めました。女の子でしょうか、男の子でしょうか、私のいる位置からでは判別がつかないのですが、やがてその勢いのまま十数メートル先にある澁澤榮一の墓の前まで走ってゆきました。しばらくしてふいと振り向いた手には一本の黄水仙の花。それはたぶん墓前にあった供花があまりにも綺麗だったので思わず抜き取ってしまったものなのでしょう。たしかに献げられていた供花は遠目にも鮮やかな葉牡丹や千両、黄水仙、白百合、黄菊で、蜃気楼のように、朝もやの中に浮かんでいる花あかりのようでもありました。老人は突拍子もない行動に驚いたのでしょう、やさしくなだめるようにしばらく問答を繰り返していたのですが、やがて説得するのを諦めたかのように小さな肩に手を置いてうなずいています。幼子は手にした黄水仙の花を目いっぱい掲げてうれしそうに左右に揺らしながら見つめています。丸い丸い顔の少女でした。花の揺れるたびに、丸い顔を左右にかしげています。
 おぼろげな冬模様を滲ませた空に、少女はきっと、今日だけ特別の何かを見つけているのでしょう。あとすこし、あとすこしだけの時を過ぎれば、心地よい風の匂いや野に鳴く鳥の声にも心ときめき、やがては恋もして、美しいものばかりでなく、残酷にも粉々に砕け散った秋の夕日に涙することもあるのでしょう。そうしてまた、雪が降り、桜が咲き、翠の風が吹き、赤い実は色づいて幾星霜、次々と巡る季節ははじまり、黄水仙の咲くいちめんの野にさらさらと少女の日々は流れてゆくのです。

 

    異界の野に
    花を揺らす少女
    愛しい少女
    花の揺れるたびに
    老人は憂鬱を散らし
    花の揺れるたびに
    通り過ぎてきた歳月をしみじみとかみしめる

    ひとりの幸福
    ひとりの悔恨
    ひとりの思考
    心許なくも寂しく美しい
    折々につながる今のときも
    忘れることのなかった遠い航跡

    電車の走る音
    手紙を投函する音
    鴉の鳴き声
    鐘の音
    せかせかと歩く足音
    本をめくる音
    木々を縫って吹いてくる風は
    さまざまな音を一途にさらいながら
    こんな冬の日の
    こんな時間にも
    何処かにそっと運んでいってしまうのだ
    いつのまにか
    四方に散った音という音は
    うたかたのごとく消えて去って
    この世の隅に切り取られた
    楕円形の世界
    つかの間の断片

    とりのこされた老人と少女
    そして私

    具象性のなかった空間の
    不可思議な予感
    遊び飽きた少女の黄水仙を
    元の墓前に戻したとて
    昨日は昨日
    今日は今日
    老人の歩んできた道に
    ぽつねんと私も立って
    重ねた時の流れを追っているほんの一瞬
    最初に感じた輝きは
    置く場所さえ見当たらず
    長かったのか短かったのか
    年月は私の内をせかせかと駈けていった

    海の中にあった意識のおぼろげさ
    少女の抱いた夢の苦しみならば
    少年は両手を挙げて信じられたし
    青年の日の旅の果て
    沖の彼方に燃え尽きてゆく夜の水平線を眺めながら
    美しい言語を並べてもみたし
    背を向けた時代の中の潮流に
    よこしまな記号らしきものを書いては反問もした
    幾十年もたってから
    概ねに納得するものの
    前触れも何もなく
    朝目を覚ますと
    いたわしい少年の夢はすっかりと消えていて
    いつのまにか
    遠茜の空が紛れもなく迫っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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