後記 2018-06-01                   


 

  

 川端康成が40年余りにわたって書き続け、一時は〈最もなつかしく、最も愛し、今も尚最も多くの人に贈りたい〉と語りながらも、ある時は〈私の歩みは間違つてゐたやうに思はれる〉と自己嫌悪をあらわしていた128編にも及ぶといわれる掌編小説、いうところの「掌の小説(たなごころのしょうせつ)」の中に、「化粧」という作品があります。

 

 私の家の厠の窓は谷中の斎場の厠と向ひ合つてゐる。
 二つの厠の間の空地は斎場の芥捨場である。葬式の供花や花環が捨てられる。
 墓地や斎場に秋の虫の声がしげくなつたとはいへ、まだ九月の半ばであつた。面白いことがあるといふ風に、私は妻とその妹との肩に手をかけて、少し冷たい廊下を連れて行つた。夜であつた。廊下の突きあたり、厠の扉を開くと同時に、強い菊の薫りが鼻を衝いた。まあと驚いて、彼女等は手洗場の窓に顔を寄せた。窓一ぱいに白菊の花が咲いてゐる。二十ばかりの白菊の花環が、そこに立ち並んでゐるのであつた。今日の葬式の名残であつた。(中略)
 それも植物の花ならばいい。斎場の厠の窓に、私はまた人間も見なければならないのである。若い女が多い。なぜなら、男は入ることが少く、老婆は斎場の厠のなかでまで長いこと突立つて鏡を見るほどに、もう女ではないのだろう。しかし、若い女のたいていは、そこに立ち止まってから、化粧をする。葬式場の厠で化粧をする喪服の女―濃い口紅を引くところを見たりすると、屍を舐める血の唇を見たやうに、私はぎょつと身を縮める。彼女等は皆落ちつきはらつてゐる。誰にも見られてゐないと信じながら、しかも隠れて悪いことをしてゐるという罪の思いを体に現はしてゐる。(中略)
 ところが昨日である。
 斎場の厠の窓に、白いハンケチでしきりと涙を拭いてゐる十七八の少女を、私は見た。拭いても拭いても涙があふれて来るらしい。肩をふるはせてしやくりあげてゐる。たうとう悲しみに押し倒されたのか、彼女は立つたまま厠の壁にどんと身を倒した。もう頬を拭く力もなく涙を流れるにまかせてゐた。
 彼女だけは、隠れて化粧に来たのではあるまい。隠れて泣きに来たのにちがひない。
 その窓が私に植えつけた女への悪意が、彼女によつてきれいに拭い取られてゆくのを感じてゐると、その時、全く思ひがけなく、彼女は小さい鏡を持ち出し、鏡ににいつと一つ笑ふと、ひらりと厠を出て行つてしまつた。私は水を浴びたやうな驚きで、危く叫び出すところだつた。
 私には謎の笑いである。

                             『川端康成全集 第一巻』(1981年10月 新潮社)
 

 昭和2年7月27日に芥川龍之介の葬儀が執り行われた谷中斎場の東隣にあったこの家に、川端康成夫妻が越してきたのは、その4年後の昭和6年4月のことでありました。
 性分なるが故か、幼児期から両親をはじめ近親者を次々と失ってきた育歴上に因があったのか、常日頃から死について考えることの多かった川端が、毎日犬を連れて散歩していたという谷中霊園の南西角にあった斎場も、川端が昭和9年6月末に谷中坂町へ転居した頃に取り壊されてしまいましたが、斎場から〈五間と離れてゐなかつたばかりではなく、庭の木戸をあけると斎場の裏庭へ出られる〉上野桜木町36番地の家の厠の窓から実際に目撃した光景を川端独特の感性で写し取って珠玉の掌編に仕上げられたこの作品を読むたびに、いつも幻惑させられ、戸惑うままにひとつまみポイッと「生死」の狭間に投げ入れられてしまう思いがするのです。が、それはともかくとして、私が日課にしている早朝散歩の途中に、かつては森鴎外、芥川龍之介、広津柳浪、大杉栄、澤田正二郎などの葬儀が執り行われた斎場跡や川端夫妻が生活していたという横町の敷石の辻に立ち至ると、朝露に濡れた路地のどこそこから、歳月の陰翳をぬぐい去ったさんざめきがゆっくりと近づいてくるような気がするのです。菊池寛が、泉鏡花が、夏目漱石が、森鷗外が、佐佐木信綱が、その他あまたの文学者が佇んでいたであろう古民家の並ぶこの辻に、穏やかな一日の朝の陽光が真っ直ぐに射し込んでくると、歳月の沈み込んだ陰音が雲母片のように煌めきながら四方に散っていくのが見えてくるのです。

 

   花開いた白菊の
   明日には散る命の終わり
   奥津城の
   想いを囲む疎林の彼方
   横町の石畳に
   映るのは誰の影
   厨と厨の
   窓を揺らした
   仄かに薫る少女の笑い

   形のあるもの
   形のないもの
   墓石の周りに
   命と呼ばれた静寂はあり
   暮色のなか
   揺れ動くうたかたの彩りに
   呼ばれた命の
   幽かに響く 時の結晶
   背面に投げられた
   澄んだ波紋の
   行き着く先は
   死を遂げた人の
   墓のいわれ

   野を分けて
   織りなす風の
   震えつつ
   そよぎつつ
   身を預け
   ひとり歩む墓径の
   振り返ることのむなしさに
   もとめぬ夜の
   ぬばたまの夢

 

 遠い昔になくなってしまった谷中斎場では、芥川龍之介葬儀の11年前、大正5年7月9日に享年41歳で死去した英文学者で詩人の上田敏の葬儀も営まれたといいます。
 上田敏の遺骸は4日後の13日、谷中斎場での葬儀の後、小降り雨の夕刻、一本の柳の木と両側に石標が建てられた入り口の角を北に向かった先、谷中天王寺五重塔の東側、銀杏樹の聳える正面の上田家墓所の土中に納められました。昭和32年に心中事件の煽りを食って焼け落ちてしまった五重塔跡は小公園になってしまいましたが、風は風、空は空であるように、草は草、木は木であるように、訪ればその墓は墓のまま、いつの季節もその場所にあったのですが………

 人丈ほどの石柱に彫られた「文學博士上田敏墓」。
 〈永遠の旅人である人間は、生命の波に乗って冒険の航海に出る〉と講じたこともある上田敏の墓。見慣れたその墓碑がいつの頃からかは定かでないのですが、確かにあった場所から忽然と消えてしまっていたのです。散歩で立ち寄るたび、墓の跡地に呆然と立ち尽くす日々を徒に数えていたのでしたが、そのまま曖昧にはしておけず、霊園管理事務所で問い合わせたところ、高齢になられたご遺族の決断によって廃墓され、平成20年頃に開設された納骨堂のような立体埋蔵施設なる建物に合祀されたということでした。一般人はもとより、たとえ著名人であろうともご遺族の高齢化は如何ともしがたいのは近年の傾向で、墓の管理の簡便化を願って、廃墓、改葬が頻繁に行われるようになってきたようです。
 上田敏に限らずとも、遠藤周作の墓も府中カトリック墓地から上智大学の聖イグナチオ教会地下墓地に改装された由、島村抱月の墓もしかり、雑司ヶ谷霊園から郷里島根県浜田市の浄光寺に、吉田一穂の墓は茅ヶ崎の寺から北海道古平町の禅源寺に、港野喜代子の墓は京都府舞鶴市の寺から大阪の北摂霊園にと改葬されています。前記のように「文学者掃苔録」の墓所一覧表にある墓所の幾つかはすでに改葬されていますが、詮ないこととはいえ、近い将来に廃墓、改葬の憂き目にあう墓も益々多くなるのではと憂慮しいるところです。

 

   時は春、
   日は朝、
   朝は七時、
   片岡に露みちて、
   揚雲雀なのりいで、
   蝸牛枝に這ひ、
   神、そらに知ろしめす。
   すべて世は事も無し。
                      (春の朝)ロバアト・ブラウニング  上田敏訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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