僕は君を知らない
君の語った言葉の
君の描いた風景の
君の選択した道の
君の生きた年月の先に
ずっと先に
それはあるはずだったのに
老いた父を
老いた母を
この世の隅に残された二人を
ままにして
骨髄性なんとかという
難しい病を得て
生を終えた君の
空っぽになった歳月
君は何を見て
何を考え
何を思い
何を望み
何を語り
何処へ向かっていたのか
今日の日の
昨日の日の
その前の日の
そしてまたその前の日の
君を知らない
僕はまるで知らない
僕は遠くにいて
何十年も遠くにいて
僕は遠くに離れて
何かの折に
何かの時代に
当然のように逢っていたかも知れないのに
人を介しての
君の輪郭だけしか思い描けないのだ
ただひとつ覚えているのは
はっきりと覚えているのは
古家の離れの階段を
従兄弟たちと上り下りして
遊んでいた幼い君の姿だけだ
君の大きな目と
君の声だけだ
風が鳴った
風は雨を誘って
あんなにも華やかだった桜の花弁を散らし
今はもう
おだやかな初夏の
吹いてきた風が若葉を揺らしている
揺れるたびに
濃さを増した若葉の
仄かな翠の影が散った
君が生まれた水無月の
たっぷりと水を張った稲田に
あしたの風は微かに立ち
君の魂と君の運命は定めの如く交差して
同じ時は二度と巡り来ず
彷徨い戸惑うかくれん坊の鬼のように
死は生の中にこそあって
生は死に従うのみ
しかし今は
幽明界に浮かぶ葦の間に
寂しく落ちる夕陽の不条理を嘆こう
小さな庭の
柘榴の悲しさ
橙赤色の六辨花が咲いている
水鉢の睡蓮に陽は差しこぼれ
旅立った君の季節(とき)にも
新しい朝がやってくる
君は夜明けの空を見たことがあるか
それはそれは美しいものだ
哀調を帯びた青藍の空に
少しずつ赤と紫の色が滲みはじめ
やがてはすっきりと
赤紫の帯がわずかな撓みをもった弧を描いてゆく
清々しい
慈しみの微笑みで包まれた
そんな光景を君は見たことがあるか
無辺の天道をふいて
君のいなくなった朝がやってくる
冷や冷やとした青紫に
哀しく白みはじめた故里に向かって
僕は何を祈ろう
生きとし生けるもの
すべてはつかの間の出来事
魂と呼べる住処の
恐ろしい痛みも
苦しみも怒りも無念も
悔恨や憐憫
歓喜喝采さえも
偲ぶほどに続きはしない
ああ綺麗だ
永劫の一片となって
人しれずこぼれてゆく
追憶の基調音
何もかもが
流れて
流れて
薄れて消えてゆく
それからまた
僕は君の背を見ながら歩こう
数羽の鳥影が円舞する君の空を
切れ切れの薄雲が浮かぶ君の空を
空の下にきらきらと輝きはじめる君の海を
播磨の灘を
君の遊んだ野山
君の歩いた道
夢前川のせせらぎを枕に
君の安らいだ家
君の思慕した父母
君の住んだ城のある町
白鷺の降り立つ里の
君の故郷よ
遙かに遠い君の故郷よ
懐かしい僕の故郷よ
君の新しい物語はもう始まっているか
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