田辺茂一 たなべ・もいち(1905—1981)


 

本名=田辺茂一(たなべ・しげいち)
明治38年2月12日—昭和56年12月11日 
享年76歳 
東京都新宿区原町1丁目30 緑雲寺(浄土真宗)



書店主・随筆家。東京府生。慶應義塾高等部(現・慶應義塾高等学校)卒。家業の炭屋を嫌い昭和2年紀伊國屋書店を創業。3年舟橋聖一らと『文芸都市』を創刊。また『行動』『風景』などを創刊、経営し文学者を支援した。長編小説に『すたこらさっさ』、『浪費の顔』『茂一ひとり歩き』などの随筆がある。







 広い空間に、私はひとりでいる。そして、ひとりでいる時間が多い。
 夕刻ちかくなると、銀座の酒場の彼女たちから、三、四回連結がある。これもお定まりの誘い文句だけだから、格別の思考の対象になるわけではない。
 「あ〜、そのうちね……」と通り一遍の答えだけだ。
 五時の退社だが、そんな次第で私の日課は、まことに索漠にして簡素の一語につきると言っていい。
 つまり、あまり話相手はいない日常なのだ。ひとりの部屋に、昼の私は無聯というのではないが、黙念としている。
 そういうとき、ガラス越しに、眼をやると、鳩がきているのである。
 当然、私は鳩に眼をやる。
 私の少年時、同じ新宿の終点で、私の親爺は炭問屋をしていたが店先きは、ちょっと大きな良材を使った岩乗な構えの括らえであった。
 南向きのその店の軒先きにも、ツバメやときに鳩が巣食っていた。
 「こういう鳥がくるのは、吉相なんだよ」とよく私は、母親に言われたことを覚えている。
 鳩と対座していると、そんな昔のことも思い出す。
 ここは安全な場所だと、鳩は思いこんでいるに違いない。鳩の生態というものは、私は知らないが、烏ながら、当然、私の資を眺めるとき、私の挙措のなかから、私という人間を観察しているに違いない。
 危険を感ずれば、或いは私の眼に兇悪を感ずれば、当然、羽掃きして飛び去っていくに違いない。
 それが、そうでないのだ。時折の訪問は、あきらかに仲間意識だ。私の眼に柔いものがあるからに違いない。
 鳩との対座で、そのことを急に思い出したわけではないが、私のさいきんは、とみに急傾斜して、人間は柔く生きなければならぬ、とそんなことばかりを考えるようになってきている。
                                    
(窓辺の鳩)



 

 炭屋の跡取りであった田辺茂一が、小学生の時に父に連れられて行った丸善で洋書の魅力に取り憑かれ、書店経営を志した。
 弱冠22歳、夢を叶えて創業した紀伊国屋書店は、新宿文化の担い手として大いなる時代を走ってきた。自らの発行になる雑誌『行動』を中心に舟橋聖一や豊田三郎などと「行動主義の文学」、「能動精神」を実践提唱して来たりもした。夜な夜な銀座に出没して、巷間伝えられる粋人のイメージばかりが先行してしまったのだが小説も書き、軽妙な随筆家としても知られたのだ。
 昭和56年12月11日、悪性リンパ腫のため76歳の生涯を終えた田辺茂一に今少し文学者の称号をも声高くしたいものだ。



 

 随筆集『酔眼竹生島』、『夜の市長』など艶笑随筆に軽妙な筆を綴り、粋人として知られた田辺茂一の眠る墓としては、いかにもという感じがするのだが、幾代々にもわたって供養されてきた古色の墓「田辺家代々之墓」には鳩ならぬ、艶々しい真黒のカラスが一羽止まっていた。
 古びた墓石と一体化して、あたかも崇高な彫刻芸術のように眼孔鋭く、鋭利な嘴をゆっくり動かしながら永代の守り主の如く訪問者を威嚇している。その威圧的な姿にたじろいで思わず小さな咳をしたとき、今にも降り出しそうだった雨雲が一瞬開けた。と、思ったら一条の陽ざしがレーザー光線のように、その彫刻をうち砕いて新春の華やぎをもたらしたのだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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