本名=瀧口修造(たきぐち・しゅうぞう)
明治36年12月7日—昭和54年7月1日
享年75歳 ❖橄欖(かんらん)忌
富山県富山市大塚1733 龍江寺(曹洞宗)
詩人・美術評論家。富山県生。慶應義塾大学卒。日本のシュルレアリスムの理論的支柱。大学在学中から西脇順三郎と出会い、フランス現代詩と美術を研究・紹介した。戦後は読売アンデパンダン展企画に関与、「実験工房」を結成するなど新進の芸術家に表現の場を提供する。『瀧口修造の詩的実験』、翻訳に『超現実主義と絵画』などがある。

ぼくの黄金の爪の内部の瀧の飛沫に濡れた客聞に襲来するひとりの純粋直観の女性。 彼女の指の上に光った金剛石が狩獵者に踏みこまれていたか否かをぼくは問わない。 彼女の水平であり同時に垂直である乳房は飽和した秤器のような衣服に包まれている。 蠟の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る。 彼女は時間を燃焼しつつある口紅の鏡玉の前後左右を動いている。 人称の秘密。 時の感覚。 おお時間の痕跡はぼくの正六面體の室内を雪のように激変せしめる。 すべりされた㹦の毛皮のなかに発生する光の寝台。 彼女の気絶は永遠の卵形をなしている。 水陸混同の美しい遊戯は間もなく終終焉に近づくだろう。 乾燥した星が朝食の皿で轟々と音を立てているだろう。 海の要素等がやがて本棚のなかへ忍びこんでしまうだろう。 やがて三直線からなる海が、ぼくの掌のなかで疾駆するだろう。 彼女の総體は、賽の目のように、あるときは白に、あるときは紫に変化する。 空の交接。 瞳のなかの蟹の声、戸棚のなかの虹。 彼女の腕の中間部は、存在しない。 彼女が、美神のように、浸蝕されるのはひとつの瞬間のみである。 彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。
しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が姙娠する焔の手紙、それは雲のあいだのように陰毛のあいだにある白晝ひとつの白晝の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の傳説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 霊魂の喧騒が死ぬとき、すべての物質は飽和した鞄を携えて旅行するだろうか誰がそれに答えることができよう。 彼女の精液のなかの眞紅の星は不可溶性である。 風が彼女の縁色の衣服(それは古い奇蹟のようにぼくの記憶をよびおこす)を捕えたように、空間は緑色の花であった。 彼女の判断は時間のような痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知がぼくの指を引っぱった。 すべては氾濫していた。 すべては歌っていた。無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のように光っていた……
(絶対への接吻)
〈私は暴力にも近い自己抛棄によって何がえられるかといった「実験」のようなものに身を投げた〉と、瀧口修造はそれまでの詩人とは一線を画した類のない詩人であった。
薔薇の眼、純粋な脳髄、黄金の月光、天使の衣装、二人の孤独、二人の歓喜、球形の鏡、妖精の距離、〈夢のひとかけら〉はイメージの発生源。眠っている死人の夢、砂糖壺を探す聖者、一種の言語として考える夢、コトバまるごとの夢、逝く5年ほど前、『寸秒夢、あとさき』にはこんなことを書いた。〈夢の整理、残月は明けに残りながら、去るものの姿である。そしてまた逢う日まで、という思い入れよろしく、か否か〉。
昭和54年7月1日午後3時40分、心筋梗塞のため、綾子夫人に見守られながら瀧口修造は逝く。
富山県婦負郡寒江村大塚(現・富山市)が瀧口修造の故郷である。ただし、すでに生家の痕跡もない。
〈早く故郷を離れてしまった私個人についていえば、ふるさとに対して言い知れぬ借りを抱きつづけている。おそらく私はそれを精算しきれずに死ぬかも知れぬ〉と記した彼の墓は、田んぼに囲まれた小さな集落の小さな禅宗の寺にある。黒御影石の碑面に自署「瀧口修造」墓、裏面にはかつてオブジェの店を開くという構想に友人マルセル・デュシャンが贈ってくれた看板のサインRrose Sélavy(ローズセラヴィ)の文字。
死後、メモ類のなかから発見された「遺書」(1970年7月に書かれた)にはこうあった。〈年老いた先輩や友よ、若い友よ、愛する美しい友よ、ぼくはあなたを残して行く。何処へ? ぼくは知らない………〉。
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