武林無想庵 たけばやし・むそうあん(1880—1962)


 

本名=武林磐雄(たけばやし・いわお)
明治13年2月23日—昭和37年3月27日 
享年82歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号4側



小説家・翻訳家。北海道生。東京帝国大学中退。雑誌『モザイク』に翻訳を発表。辻潤らとともにダダイストとして知られた。大正9年に渡欧、滞留17年に及ぶ。昭和18年失明したが、24年共産党に入党。32年『むさうあん物語』を発表。『性欲の触手』『飢渇信』『無想庵独語』などがある。




 
 


 この世智辛い世の中に、何事もたゞ金ばかりで解決が出来さうに見えてゐる世の中に、私は悠々閑々として棲息してゐる。即ち金になりさうな事には全く頭も手も使はずに生きてゐる。自分ながら随分愚かな人間だと思ふ。随分無能を極めた人間だと思ふ。でも仕方がないと思つてゐる。かういふ風な傾向を持つて生まれて来たのだから止むを得ないと思つてゐる。奮発といふ事をしなければ、努力といふ事をしなければ、人生は果して過してゆけないところだらうか?それ為に若し人間が必ず自滅する筈に出来てゐる人生なら、私は晏如として自滅するより仕方がない。昔は従容として死に就く事を士の本分だと心得てゐた。犬死でも何でもかまはない。金をとる努力をしなかつた為に、私は従容して死に就かう。さう覺悟して私は生きてゐる。

(ピルロニストのやうに)



 

 放浪文士武林無想庵が長い滞欧生活を終えてフランスから帰国したのは昭和5年のことであった。最後は哲学者らしく終わりたいと望んだ無想庵だった。
 谷崎潤一郎、佐藤春夫、川田順、辻潤等多くの友人に支えられ、波乱に満ちた生涯を送った無想庵が死んだのは、昭和37年3月27日のことであった。8年に緑内障で右目をつぶし、18年63歳の時、まったくの失明となった。以後の19年間を妻朝子の口述筆記に頼ることになるが、口述によって書かれた『むさうあん物語』に、その波乱の生涯が物憂げに映し出されている。
 伊藤整は〈もっとも自由な、幼児のような人生を夢想しつづけた希有な一つの生涯が、ここに終わったということである。〉と追悼している。 



 

 芥川龍之介、谷崎潤一郎らを驚かせた超人的記憶力と博学の人である。また無想庵以上に自由奔放、勝手放題に生きた中平文子とのスキャンダル、恋愛と結婚、ヨーロッパ滞留17年、のちに親友辻潤と伊藤野枝の間に生まれた辻まことの最初の妻になった娘イヴォンヌとの確執、緑内障からの失明、共産党入党など、〈失敗した芸術家〉武林無想庵の生活と心情は放逸で非社会的な態度に一貫していた。
 パリを愛し、たとえ浮浪者となっても日本に帰りたくなかった無想庵、樹影を避けるように照らされた「武林之墓」は、ついには貫き得なかった日本の俗習風土を疎むかのように孤影を保っている。
 ——〈なさざれはくはずといふかあなかしこ 何をなしてか我はくらへる〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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