本名=高橋新吉(たかはし・しんきち)
明治34年1月28日—昭和62年6月5日
享年86歳
愛媛県宇和島市神田川原八 泰平寺(曹洞宗)
詩人。愛媛県生。八幡浜商業学校(現・八幡浜高等学校)中退。『万朝報』に掲載されたダダイズム紹介記事に強い衝撃を受け、大正12年『ダダイスト新吉の詩』を刊行した。後年はダダを脱却して仏教・禅的な詩風へと向かった。『空洞』で日本詩人クラブ賞受賞。『胴体』『雀』『詩と禅』『禅と美学』などがある。

時間が一筋過去から未来にわたって流れているもの
とすればそれはさびしい鰯の腸である
時間の流れに漂うものばかりでとどまるものがない
とすればそれは悲しい浜辺の藻である
この一筋の河の流れの行きつくところは
ないのであろうか
時間のまわりには地図にない海がある筈である
その潮流は決して同じ速度では流れない
流れていると言っても流れていないと言っても
同じである
しかし絶対に動かぬ船が碇泊している
錨を時間の底に沈めると港に水は無くなる
船員は上陸する
凡ての存在を掌に載せて彼は歩いて行く
彼の足の下には何もない
足の先が細長く どこまでもつづいて
流星のように消えている
彼はどこへ行くのも自由自在である
掌の上に過ぎぬ空間を凡ゆる甲板が持っている
(甲板)
中原中也がもっとも敬愛した詩人だった。
高橋新吉の詩は探究心を持たない凡庸な人間を寄せ付けない。〈いかなる言葉にも どんな内容でも持たせることが出来る 一般と通用しない反対の意味を持たせることも詩人の勝手だ そして一人でホクソ笑んでゐる事も詩人には出来る〉と。〈私は死ぬことは絶対に無い 一度死んだからである 二度も三度も死ぬことは 頭の悪い証拠だ〉とも。
「禅」と縁のない私のような凡人にそのような「無我の悟り」は訪れようもないだろうが、ダダイスト詩人として現れ、ダダと訣別後の後半生を禅とともに生きた新吉も、昭和58年から前立腺がんの発病によって入退院を繰り返し、昭和62年6月5日、ついに還らぬ人となったのだった。
夏のとば口、日が長くなったとはいえ午後七時近くにもなるとさすがに夕闇が薄々と迫ってくる。急かされるように宇和島城の裏鬼門にあたるこの寺に辿り着いて一呼吸しようとしたのだけれども、本堂裏に積み上がっているおびただしい墓石を目の当たりにすると、いつものように一つ一つの墓碑を確かめる訳にもいかず、寺の娘さんに案内を請うて、ようように古びて朽ちた「高橋歴代之墓」に。新吉の精神的病を引き金として自殺した父・春次郎の名が微かに読める。「墓碑銘」という詩に望んだ〈太陽と格闘した男〉という銘や新吉の名は、墓石のどこにも見当たらなかったが、そんなことはとるに足らないこと、新吉の墓だもの。
〈留守と言へ ここには誰も居らぬと言へ 五億年たつたら帰つて来る〉。
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