高山樗牛 たかやま・ちょぎゅう(1871—1902)


 

本名=高山林次郎(たかやま・りんじろう)
明治4年1月10日(新暦2月28日)—明治35年12月24日 
享年31歳(文亮院霊岱謙光日譫居士)
静岡県静岡市清水区村松2085 龍華寺(日蓮宗)



評論家。山形県生。東京帝国大学卒。大学在学中、『滝口入道』が『読売新聞』の懸賞に当選、注目されたが、以後は小説の筆をとらなかった。明治30年雑誌『太陽』の主幹。早稲田大学・東京帝国大学の教壇に立つかたわら評論活動を続けた。34年『美的生活を論ず』を発表、坪内逍遥らと論争を展開。『奈良朝の美術』などがある。







 嗚呼、憫むべきは餓えたる人に非ずして、麺包の外に糧なき人のみ。人生本然の要求の満足せられたるところ、其處には乞食の生活にも帝王の羨やむべき樂地ありて存する也。悲しむべきは貧しき人に非ずして、富貴の外に價値を解せざる人のみ。吾人は戀愛を解せずして死する人の生命に多くの價値あるを信ずる能はざる也。傷むべきは生命を思はずして糧を思ひ、身體を憂へずして衣を憂ふる人のみ。彼れは生れて其の爲すべきことを知らざる也。今や世事日に□劇を加へてひとは沈思に□無し、然れども貧しき者よ憂ふる勿れ。望を失へるものよ、悲む勿れ。王國は常に爾の胸に在り、而して爾をして是の福音を解せしむるものは、美的生活是也。
                              
(美的生活を論ず)

               


 

 東京帝国大学在学中『滝口入道』で一躍有名になった天才樗牛は、その後も『文明批評家としての文学者』『美的生活を論ず』など次々と指導的評論を発表し、当時の青年学徒の必ず通過する人生鉄路の停車場ともいわれた。変節の多い主義主張はその矛盾を含むところがあり、反発をかって損をしている部分もかなり見受けられた。
 明治33年、美学研究の目的で文部省からドイツ、フランス、イタリア三国への官費留学の命を受けたのだが、壮行会の後に喀血して療養生活を余儀なくされ留学は辞退した。後年は療養の傍ら日蓮に傾倒しその研究に専念していたが、病状は好転せず、明治35年2月に喀血、10月、平塚杏雲堂佐々木分院に入院、12月24日午後1時30分に死去した。



 

 遺言に曰く〈駿河国清水港附近龍華寺と申すは、三保の松原より富士山への眺望本邦無二と存じ候。私も数回遊覧し、当に慕い居り候土地に有之候。もし少生死後に相成り候へば、右龍華寺に埋葬相願い度く候〉——。
 肺結核のため、晩年を日蓮の研究に専念していた高山樗牛は、風光明媚なこの寺を〈観富の風光本邦無二天下第一観也〉と絶賛し、遺言によって墓所に定め、墓碑は日蓮宗のこの寺龍華寺の築山の上、七面堂の脇に独逸式に設えられてあった。駿河湾と富士を見晴らす墓所の朝倉文夫作・ブロンズ胸像は彼の個人主義の行く末を知り得たであろうか。碑表に〈吾人は須らく現代を超越せざるべからず〉の銘句が刻されていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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