高橋元吉 たかはし・もときち(1893—1965)


 

本名=高橋元吉(たかはし・もときち)
明治26年3月6日—昭和40年1月28日 
享年71歳 
群馬県前橋市亀泉町240 亀泉霊園



詩人。群馬県生。前橋中学校(現・県立前橋高等学校)卒。父の経営する書店煥乎堂に勤務しながら、詩作にはげみ、大正11年処女詩集『遠望』、翌年『耽視』を刊行。白樺派の作家、詩人と交流、13年高田博厚らと『大街道』を創刊。昭和10年『歴程』同人。ほかに詩集『耶律』などがある。







——おかあさん よう
またあのにはとりが鳴いてゐる
どうききなほしてもやつぱりさうだ
おかあさん よう と鳴いてゐるんだ
濁りある そのくせ遠くひびくこゑで 愬へるやうに鳴くんだ
小雨のふつてゐるらしい眞夜中
低い雨だれの音が時々するから  

いつたい にはとりといふものには
人間の魂が封じこめられてゐるのではないか
不幸な やぶれた翼のやうな魂が
方々の天の下にこの鳥がゐて
應へられることのない愬への聲を張りあげてゐるのだ
おとうさん
といふのも方々にゐる
いやだなあ
あの絶望的な聲の呼び方は
それどころではない
たかはしさあん といふのがたしかにゐる
たツかはしさん といふ風にいやに「か」にアクセントをつけて呼ぶのだ
この夏一寸葉山へ行つたら葉山にもゐるんだ
あの聲に呼ばれると 僕はますます痩せこけて
細長くなるやうな氣がする


                               
(にはとり)


 

 大正11年、長男と長女二人の子供を残して妻菊枝が26歳で死んだ。翌々年に高田博厚の紹介で再婚した愛子との間に二男二女をもうけるが次男耶律を4歳で、三男良蔵を1歳で失い、度重なる愛児の不幸に終戦の頃まで「成直」という名を用いた。昭和17年兄清七が死去して煥乎堂三代目当主となったが、20年の前橋空襲によって店舗を全焼。戦後、焼け残った倉庫を本拠として再建復興に努めながらも群馬の文化運動の中心的存在として活動をつづけていたが、32年に軽い脳血栓を患い鎌倉に転地療養。38年、70歳で「高橋元吉詩集」が高村光太郎賞を受賞するが、療養先を移した鵠沼、前妻菊枝の兄で友人の倉田家で最晩年の1年4ヶ月過ごし、昭和40年1月28日に死去した。



 

 夕暮れの迫ってくるこの霊園の高橋家墓所、厚味の違う荒仕上げの石板を土庭に三枚並べ、正面に「高橋氏」と彫られた正方形の石碑が建つ。松ぼっくりが三つほど転がって、三枚の石板の中央の石は左右に較べて少し高く〈散りしはなひらは土にかへれと咲きにし花は天にかへるなり〉と刻された古色となった緑青銘板がはめ込まれている。ご遺族が「おれが死んだ時は」という詩の〈別に墓石といふものはいらない(中略)骨を砕いて粉々にして/それを埋めてその上に樅を一本植ゑるのだ(中略)樅は少くとも高さ三間以上のを選んで欲しい/幹は眞直なのがよい/そしてあの獨特の枝が既に四方に延びてゐるのがよい/この望みが叶へば私はそれですつかり満足だ〉という一節を意識されたのだろうか、背の高い生垣で囲まれた塋域の右奥に大ぶりの樅の木がどっしりと植わっていた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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