武田泰淳 たけだ・たいじゅん(1912—1976) 武田百合子  たけだ・ゆりこ(1925—1993)


 

本名=武田泰淳(たけだ・たいじゅん)
明治45年2月12日—昭和51年10月5日 
享年64歳(恭蓮社謙誉上人泰淳和尚位)
東京都目黒区中目黒4丁目12–19 長泉院(浄土宗)
京都府京都市東山区林下町400 知恩院(浄土宗)


小説家。東京府生。東京帝国大学中退。昭和18年『司馬遷』刊行。戦後22年『蝮のすゑ』を発表。〈第一次戦後派〉作家として活躍。『才子佳人』『ひかりごけ』『快楽』『目まいのする散歩』などがある。



本名=武田百合子(たけだ・ゆりこ)
大正14年9月25日—平成5年5月27日 
享年67歳(純香院慧誉俊照恭容大姉)


随筆家。神奈川県生。横浜第二高等女学校(現・横浜立野高等学校)卒。武田泰淳の妻。武田泰淳の死後に、一緒に過ごした富士山荘の完成から泰淳の死までを綴った日記『富士日記』を刊行。『犬が星見た』『遊覧日記』などがある。



 東京長泉院の墓

 京都・知恩院の墓
  



 『中央公論』の新人賞の選者にえらばれたのは、伊藤整、三島由紀夫、それに私の三人だった。その二人は死んでしまったが、一人はガンを患っての病死だし、一人は割腹自殺だった。一人はひっそりと冷静に(と外部には想像されたが)死を迎え、一人はその自殺した日がいつまでも忘れられないほど、よく晴れた十一月に、一世を驚愕させて、はなばなしく死んでいった。私はどんな死に方がいいだろうか、と冗談めかして話題にしたとき、二人とはちがった死に方をするとすれば、殺される、刺殺される、処刑される、あるいは誰にもわからぬやり方で抹殺される死に方がいいだろうとしやべったことがあった。理くつはその通りだが、殺されるチャンスなど、私を訪れるはずもなかった。だが、今、何の苦痛もなく、ただ寝そべっているだけの自分を発見したとき「恍惚死」ということが思い浮んだ。「恍惚死」といえば聞こえはいいが、ボケて死ぬことである。そうなれば、自分にとっては大へん楽で、じたばたしないでもすむことである。しかし、なんぼなんでも、私のような人間が、そのような安楽な死を遂げられようとは信じていなかった。深沢七郎氏が「武田さんはきっと死ぬときには、あわてず騒がず死ぬでしょうな」と真剣に質間したとき「いや、とんでもない。僕は必ずじたばたして死ぬにきまっているよ」と答えたことがあった。
                                                             
武田泰淳(目まいのする散歩)





 枇杷を食べていたら、やってきた夫が向い合わせに坐り、俺にもくれ、とめずらしく言いました。肉が好きで、果物などを自分から食べたがらない人です。
「俺のはうすく切ってくれ」
 さしみのように切るのを待ちかねていて、夫はもどかしげに一切れを口の中へ押し込みました。
 「ああ。うまいや」
 枇杷の汁がだらだらと指をつたって手首へ流れる。
 「枇杷ってこんなにうまいもんだったんだなあ。知らなかった」(中略)
 そうやって二個の枇杷を食べ終ると、タンと舌を鳴らし、赤味の増した歯のない口を開けて声を立てずに笑いました。
 「こういう味のものが、丁度いま食べたかったんだ。それが何だかわからなくて、うろうろと落ちつかなかった。枇杷だったんだなあ」
 徹夜をしたあと、いましがたまで書いていた原稿があがったところでした。長椅子に横臥して、枇杷の入った鳩尾に手を置いて、柔らかい顔つきになって、すぐ眠りはじめました。
 どうということもない思い出なのに——。丁度食べたかったものを食べていたりすると、梅雨晴れの午後のその食卓に私は坐っています。(中略)
 向い合って食べていた人は、見ることも聴くことも触ることも出来ない「物」となって消え失せ、私だけ残って食べ続けているのですが——納得がいかず、ふと、あたりを見まわしてしまう。
 ひょつとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、あの人の指と手も食べてしまったのかな。——そんな気がしてきます。夫が二個食べ終るまでの間に、私は八個食べたのをおぼえています。
                                         
武田百合子(『ことばの食卓』枇杷)




 埴谷雄高が「うつむいている人」と表現した武田泰淳は、64歳の昭和51年10月5日午前1時30分、胃がんの転移による肝臓がんによって東京慈恵会医科大学附属病院で往生を遂げた。
 それから17年後の平成5年5月27日、北里大学病院で肝硬変のために亡くなった武田百合子の遺体は、渋谷区代々木にあったマンションの夫泰淳の位牌が置かれた和室に戻され、互いに無言の対面となった。
 劇作家との心中未遂で傷ついた百合子、敗戦による祖国喪失やある女を巡る愛憎に焦燥極まった泰淳、それぞれに捨てきれない苦悩を背負って向き合った神保町の喫茶店「らんぼお」。戦後文学者の溜まり場であったこの喫茶店で運命の出会いをしてから半世紀になろうとしていた。



 

 中目黒の台地上に広がった住宅街の東斜面にある長泉院は、泰淳の父が住職となっていた大寺であるが、現在、同敷地内には長泉院附属現代彫刻美術館が設けられて、機会に恵まれない若い彫刻家の発表の場になっている。その野外展示場に下っていく左手にある墓地の奥まったあたり、住職墓域の中に20歳で出家した泰淳和尚と百合子夫人の眠る墓があった。
 昭和52年百合子建之「南無阿弥陀佛」と刻されている。天衣無縫、泰淳の死に際し「みんな、ピラニアに食われて死んでしまえ!」と叫んだ百合子の深い愛を、泰淳はどう受け止めているのだろうか。
 彼が生前に書き置いた「泰淳 百合子比翼之地」という文字は鑿(のみ)が入れられ、分骨を併せて京都知恩院にある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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