立原道造 たちはら・みちぞう(1914—1939)


 

本名=立原道造(たちはら・みちぞう)
大正3年7月30日—昭和14年3月29日 
享年24歳(温恭院紫雲道範清信士)❖風信子忌 
東京都台東区谷中6丁目2–35 多宝院(真言宗)



詩人。東京府生。東京帝国大学卒。高等学校時代から堀辰雄・室生犀星に師事、大学で杉浦明平らと雑誌『未成年』を創刊。昭和12年石本建築事務所に入社、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだほか『萱草に寄す』『曉と夕の詩』を刊行した。第二次『四季』の同人。14年第一回中原中也賞を受賞。『暁と夕の詩』などがある。







けふ 私のなかで
ひとつの意志が死に絶えた………
孤独な大きい風景が
弱々しい陽ざしにあたためられようとする

しかし寂寥が風のやうに
私の眼の裏にうづたかく灰色の雲を積んで行く
やがてすべては諦めといふ絵のなかで
私を拒み 私の魂はひびわれるであらう

すべては 今 真昼に住む
薄明の時間のなかでまどろんだ人びとが見るものを
私の眼のまへに 粗々しく 投げ出して

 

……煙よりもかすかな雲が煙った空を過ぎるとき
嗄れた鳥の声がくりかへされるときに
私のなかで けふ 遠く帰って行くものがあるだらう
                                                   
(初 冬)



 

 東京帝国大学工学部建築学科在籍中に奨励賞の辰野賞を三度も受賞した。卒業後は石本建築事務所に入所、詩作でも詩集『ゆふすげびとの歌』や『萱草に寄す』などを発表、建築設計と詩作の両方面で活躍の芽を見せていたのだが、昭和13年11月、九州への旅に出発する。結核のため衰弱した身体をおして決行した旅であったが、12月6日、長崎で発熱、喀血する。
 帰京後の26日、江古田の東京市立療養所に入院するのだが、翌年3月29日午前2時20分に不帰の人となった。しかし病を抱えながら、建築家としての非凡な才能を発揮し、詩作にも反映させた詩人立原道造の夢見た心の世界は、一滴の水紋の如く、今も密やかにひろがり続けている。



 

 谷中霊園の向かいにある多宝院、石柱門を入ると、六地蔵が並んでおり、本堂前を左折した突き当たりに立原家の墓所はあった。
 「立原家之墓」の左直角面に家紋の下に戒名の並んだもう一つの墓碑がある。四人の最後に道造の戒名「温恭院紫雲道範清信士」が刻まれている。背面には塀を挟んで住宅がたてこみ、窮屈な無彩色の風景は彼の音楽的な文体とはあまりにもかけ離れていて、例えようのない哀傷が滲んであった。
 以前は墓石も横並びで、墓石の横に小さな「ゆうすげ」が植えられていたのだが、黄色い花が咲いているのを見ない間に配置が変えられてしまい、「ゆうすげ」は姿を消した。
 〈三時をすぎると咲く花がある これは黄色い花だったので 人はゆふすげと呼んだ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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