田村俊子 たむら・としこ(1884—1945)


 

本名=佐藤とし(さとう・とし)
明治17年4月25日—昭和20年4月16日 
享年60歳(釈尼文俊)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



小説家。東京府生。日本女子大学中退。幸田露伴に師事。明治36年に処女作『露分衣』を発表。その後、『夕霜』『露』などを佐藤露英の名で発表。39年から2年ほど女優生活を送った。44年大阪朝日新聞の懸賞小説に応募、『あきらめ』が一等になり作家生活に入る。『木乃伊の口紅』『女作者』『春の晩』などがある。




 


 「私は自分に生きるんだから、自分はやっぱり自分の藝術と云へるわ。自分の藝術に生きると云ふ事は、やっぱり自分に生きるって事だわ。」
 「私は自殺でもしたいほど苦しんでるの。何によって生きたら好いのか分からないんですもの。私は何かに滅茶苦茶に取り縋らなくっちゃゐられない様な氣がしてゐるのだけれども、何にどう取り縋ったらいゝのか分からない。私は宗教なんて事も考へますけれどもね。然うならいっそその道の人になって了ひ度いやうな氣もしてゐるんです。」
 「私だって随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思ってしまったの。私は自分に生きるの。」
この女は然う云って、その戀男の黒いマントを被て帰って行った。
                                                              
(女作者)



 

 幸田露伴同門の田村松魚と谷中天王寺町(現・台東区谷中)に暮らしたが、〈粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねつちりした女の心とがいつも食ひ違つて〉愛憎は振幅し、葛藤は田村俊子というデカダンな作家を誕生させたのであった。
 鋭い文学的感覚、何人もの男と繰り広げた恋、放埒な血潮、都会風の情調と情趣を濃厚にそなえた女性であった田村俊子は、多くの非難に対してかえって偽悪者ぶってみせたりもした。
 晩年は精神的にも時代的にも圧迫された冬の季節であったが、大戦末期の上海、昭和20年4月13日夜、作家・陶晶孫の晩餐会からの帰路、脳溢血におそわれ黄包車(人力車)上から昏倒、そのまま昏睡状態を続け3日後の16日午前9時、不帰の人となった。



 

 昭和26年4月、七回忌に岡田八千代、湯浅芳子、佐多稲子ら「田村俊子会」の手で建てられた自然石の墓碑は、岡田八千代の書を白く刻み、石組みの花生には、数輪の白百合の花がひっそりと傾いでいた。
 昭和29年、中国から遺骨が返還され、翌年の4月16日、没後10周年記念として遺骨埋葬式が行われた。俊子には著作権継承者がいなかったため、俊子忌に集まった「田村俊子会」の人々は印税で女流文学者に与える賞として〈田村俊子賞〉を創設、昭和36年の第一回受賞作品には瀬戸内晴美の『田村俊子』が選ばれた。
 ——〈この女作者はいつもおしろひをつけてゐる。だからこの女のかくものはおしろひのなかからうまれてくるのである〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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