本名=高安三郎(たかやす・さぶろう)
明治2年2月16日—昭和19年2月26日
享年75歳
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ10号1側
詩人・劇作家。大阪府生。明治24年劇詩『天無情』を刊行し、詩人として出発する。イプセンの最初の紹介者として知られる。のち劇作に転じ、29年戯曲『重盛』を発表。新歌舞伎の発展に寄与した。戯曲『江戸城明渡』、詩集『夜濤集』、評論『東西文学比較評論』などがある。

2011/11/10に訪れたときは整備されていました。
薔薇はなさく陰に臥して、
詩を枕に仰ぎ見れば、
詩の心は花に入りて、
笑むよ花びら、笑むよ、笑むよ、
笑みて、笑みて、詩となるよ。
薔薇ほゝゑむ陰に臥して、
詩を懐きて睡り見れば、
花の姿は夢に入りて、
舞ふよをとめの、舞ふよ、舞ふよ、
舞ひて、舞ひて、戀となるよ。
をとめ舞ひ舞ふ袖にふれて、
戀を歌ひつ我も舞へば、
夢の心は姿ぬけて、
散るよもろとも、散るよ、散るよ、
散りて、散りて、花となるよ。
(昼の夢)
高安月郊は、家業である医学を志して上京したのだが、文学の道に足を踏み入れ、詩人として出発、劇作家をも志したのだった。
ドストエフスキーやイプセンに傾倒、ゲーテやユーゴーなど欧州近代文学の紹介者としても知られており、殊にイプセンを日本に最初に紹介した人でもあった。劇作家としても『重盛』や『大塩平八郎』、『桜時雨』など史劇に秀でた作品を遺している。演劇、特に歌舞伎においてその才能を逸すべからざるものにした人としても記憶されているが、昭和19年2月26日、老衰のため本郷・西片町の自宅で死去した。
高安には梁田貞が作曲した、名歌曲「昼の夢」の作詞があり、西洋音楽への関心も高かった。娘は東京音楽学校(現・東京藝術大学)でピアノを専攻、作曲家の弘田龍太郎と結婚している。
想いに耽りながら、ひとつひとつの墓石の文字を読んで歩くのは、心安らぐものであるが、日暮れなずむ墓地の佇まいに背を向けて、一段下った窪地に建つ「高安月郊之墓」を眼にした時、その想いは一変した。それはまさに息を呑む光景であった。色という色は生命力を失い、枯枝や枯葉が墓石の上に被さり、あるいは台石の周りに縦横に散らばって、身震いするほどの冷気と闇が急速に襲ってきた。
〈醒むるに早きうれしさ、過ぐるに遅きつらさに、まさる夢こそまことや、うつゝばかりのいのちか!〉と詠った詩人は遂に無縁仏と成り果てたのかと思うほどであったが、後年、訪れたその塋域は整備され、失っていた彩りをようやく取り戻していたのだった。
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