諸論考 目次

 
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題名
初出または執筆時期
要約
■労働組合の社会的機能
 2019年12月22日
  「完全護憲の会」での説明資料
  (ブログへのリンク)
@ 労働組合の組織率の低下や、ストライキの減少のみに目を向け、「自分・達」の弱体化として捉える傾向性には反対する。
A 「労働組合運動」が前提としてあるのではなく、「現在の生きるための闘争が労働運動・労働組合の形態をとる場合」がある、に過ぎない、と考えるべきでないか。
B 「賃金額」を追求するだけでは全く不足、我々がいかに喜びを持って生きられるのか、そのためにどのような制度を社会に作り上げる必要があるのか、それらの問いと熱情によってのみ、社会運動も政治運動も構成される。
C したがって、闘争の「原型」は労働問題とか、貧困問題とか、ジェンダー問題とかに区分されず、誰にも共有される不定型な力動であり、現在の一見些細な運動の中にそれらのベクトルは必ず含まれて発現しており、それらを自覚化して励起していく事こそが、現在の課題ではないか。
D 「自己責任」論を内側から破壊し、「我々」という編成に至る道筋を目指そう。

物質をいかに内在化するか
 2002年11月 季報 唯物論研究 第82号 
 特集「21世紀と唯物論の存在理由」

「物質」概念は諸分節の母体として有効であり、「唯物論」とは或る党派性ではなく、現実を生きるための批評的技術を整合的に名指す場合に可能な名称にすぎない。

私たちにとっての人権
  2002年04月
 参議院憲法調査会公聴会応募不採用原稿

「天皇」は憲法によって諸人権を剥奪されている矛盾した存在であり、私たちが人権を普遍的なものと考える限り、制度として廃止されなくてはならない。
天皇の人権問題について論議を
  2001年12月
 朝日新聞投稿不採用原稿
皇太子夫妻に子供が生まれたが、生まれだけによって職業選択の自由や選挙権を剥奪されるという天皇一族に対する人権侵害を回復するには、国家を構成する憲法制定の主体としての我々が天皇制を廃止する必要がある。
「自衛」する幻想的な諸主体の限界
  2001年11月  季報 唯物論研究  第78号
 緊急小特集 「9・11米国中枢同時テロ」私はこう思う
生の固有性から乖離した「自己意識」が持つ、恐怖感と他者への支配欲求という2面性は、死者からのまなざしにより解体される。
自体性の知・・・徹底した唯物論について
 2000年2月  季報 唯物論研究  第71号  
  特集「20世紀、そして21世紀」
「唯物論」は意識と物質というような2元性の中における片方の基体性(優位性)の主張としてではなく、徹底的な一元性の主張であるとき生命力を持つ。そのような絶対的な必然論こそが、決定することの「自由」を生み出す。
「連帯する」ということについて
 1999年5月  季報 唯物論研究  第68号  
  特集「アソシエーションの理論と実践」
「独立した、不可侵の、個人」という二百数十年前に形成されたと思われる「主体」を基底とする限り、「連帯」は成立しない。それらの主体様式・自己意識を越える理解、別の主体様式への途はニーチェやフーコーらに見られ、また具体的な生活の中に開かれている。
「公共性」ということについて
東急「こどもの国線」通勤線化問題のこの5年

1996年2月報告
 Forum21  35,36号
(市民フォーラム21運営委員会 発行)
「公共性」とは人々の集団的意志の形成過程にかかわることがらである。その時代の「主体」構成の規則性に応じて作動している次元においてのみ、人々は相反する「利害・要求」を持つ「諸主体」として登場する。このような対立する諸主体の存在は単に前提であるに過ぎない。その「要求動因」の分析による主体構成の動態化により、新たな集団的主体化過程が生成される過程をこそ、「公共性」と呼ぶべきである。諸要求の分類区分に弁別された主体数の多寡とは関係がない。
生協におけるパート労働の現状と課題
 1995年12月
協同総合研究所所報「協同の発見」 第45号
アンケート調査の報告などによれば、生協のパート労働の基幹化と生協の企業化傾向は、パートやワーカーズコープをになう「主婦」組合員の主体化とともに、限界の可視化による不満を高めている。

メディア上の身体(下)
アルバイト・スチュワーデス報道の接線
「フォーラム21」No.33  1995年5月

1994年、航空会社が客室乗務員を非正規雇用にするという計画をめぐって引き起こされた諸言説への分析。(未完)
メディア上の身体(上)
アルバイト・スチュワーデス報道の接線
「フォーラム21」No.32  1994年10月
1994年、航空会社が客室乗務員を非正規雇用にするという計画をめぐって引き起こされた諸言説への分析。(未完)

■生命・個人・家族
  − 人工生殖技術が切り開いたもの

■資料
1994.08.20 
季報唯物論研究/大阪哲学学校夏季合宿での発表

人工生殖技術は、「自然」と「人間、「個人」と「家族」、「社会」といった項目内で、当初は位置づけられ社会的に実装されていくが、その技術の基盤となったヒトに対する生物・物質としての理解の徹底は、そのような技術を必要とさせた「個人」「家族」といった主体化構成自体を、自解させていくことにならざるを得ない。
労働者協同組合の運動と理論
1993年11月  季報 唯物論研究  第46/47号  
労働者が自ら出資し、自ら働き、自ら管理する、として表現される「自主性」は、問題の解決を意味していない。その「自主的な主体」はそれ自体を作動させている時代的な規範性ノルムの具体的水準で常に軋轢コンフリクトに曝されており、それは「自主」という仮想的な完結性の外部から訪れる。そのことに自覚的であることが、労働者協同組合を運動体として持続させうる。
雇う・雇われるの関係とは?
1993年9月
協同総合研究所
所報「協同の発見」 第18号  
特集「労働組合問題全国交流会から」
労働者協同組合において、事業体と運動体というような二重性で分割運営しようとすることは、運動としての発展性を閉ざす。両者の矛盾を引き受け、それへの対応を内在的に繰り込んだ手法、仕組みを考えるべきである。
「我々」という編成にむけて  (4つの断章) 
 1993年3月   
Forum21  24号
(市民フォーラム21運営委員会 発行) 
日本語の「左翼」的、あるいは「論争」的言辞が、批評「対象」をも内包する主体様式にまで至れないとすれば、それは「言葉:概念」の位相に対する論理的雑駁性と、自らが世界構築の〈力〉そのものであるという身体感の未経験によっている。しかし、それらは日常生活への論理的な分析によって誰もが到達可能である。
 1.「もの」と「関係」,  2. 思想とは誰のものか,  3. 構成する力としての「我々」,  4. 説明の言葉と行為の言葉

■国労運動からの教訓(社会的主体の形成について)
1992年6月
協同総合研究所 所報「協同の発見」 第8号

国鉄の労働現場は労働者集団が多くの主導権を持っていたが、それは国鉄分割民営化闘争の中で崩壊する。その統御が企業内のみを想定し、その外部は「政治」として別次元化されていたことの限界が露呈したのである。
具体的な仕事の意味から、すべてを統御する主体へと変成していく道を歩まなければならない。

協同する欲求
1991年12月
協同総合研究所 所報「協同の発見」 第4号  

国鉄分割民営反対闘争の過程で、「仕事」と「雇用」は全く別の空間に属することを痛感した。「雇用」無しでの「仕事」を求めるというベクトルにおいて「労働者協同組合」とも同じ方向性だと理解している。
雇用という言説をめぐって
1989年12月
1987年国鉄分割民営化の過程における労働者をめぐる言説を分析すると、「私」「自己意識」「自由な主体」という主体様式こそが、「生」をめぐる「権力」作用、「支配」を現象させる枠組みであったことが分かる。闘争の高揚点では、それらの個人的な主体様式を越えた全く別の主体化である「我々」の作動が垣間見えた。

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